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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

FFXI <メリポ @赤魔道士/255exp カンスト!>

2007年04月22日 16時05分30秒 | GAME
 1月下旬に赤魔道士をカンストして以来、続けてきたメリポですが、とりあえず昨日カンストしました。メリポのカンストというのは、要するにもうポイントを振るべき項目(総合項目、戦士、ナイト、赤魔道士)がなくったということです。数えてみるとそうなるまでに249ポイント取得したことになり、1月下旬に赤魔道士がカンストした時点で90ポイントもなかった訳ですから、ひと月約50ポイントづつ稼いだ勘定になりますか。よく飽きずにやるもんだと、我ながら苦笑しつつやってましたが....。

 まぁ、私の場合、ストーリーやミッション、あとクエストとかをコンプリートしていくとかムービーを全部みるとか、そういうことに関してはほとんど執着がなく、実をいえばあちこち延々とお使いをさせられたり、余所様の手を煩わせてアイテムを入手するための気苦労なんてところは苦痛以外の何者でもないもので、そういうものはほとんど積極的にやる気がおこらないし、ついでにいえば、ゲームだと私はとにもかくにもモンスター殴って、力なり、魔力なりのレベルを上げていく....というところに醍醐味を感じる人間なので(なにしろ「ウィザードリー」出身ですから-笑)、他の人にとっては殺伐然とした苦行のようなメリポみたい場所は、けっこう自分にお似合いだったのかもしれません(笑)。

 ちなみに赤魔道士として、当初の目標だったコンバート時のMP1000オーバーは、先日達成しましたし、アトルガン・エリアならメリポの立ち回りもほぼマスターできたと思います(そういえは、回復が自分だけというパーティーもだいたいこなせるようになりました)。ただし、時給2万超えるような高効率なパーティーだと、たまにモタモタするところもありますが....。こればっかりはもともと下手くそなクセして、一番忙しい赤魔道士やってるんだから仕方ないと諦めてます。あと、チェーンが200もつながるような時だと意地になってやってますが(笑)、普通だとメリポ・パーティーって、2時間、いや2時間半が限界かな、それ過ぎると目に見えてテンション落ちてしまうんですね。このあたりは歳のせいかもしれませんが(笑)。

 という訳で、メリポに関していえば、総合項目でDEXに割り振った2段階分をSTRに振り直すのと、赤魔道士のカテゴリーの2の割り振りも少しいじくりたいところもあるので、もう20ポイントくらい稼ぎたいのですが、それが終われば本当にカンストです。2年ほどやってきたこのゲームですが、それが終わればワタシ的にはそろそろ終わりにしてもいいかな?とか思いはじめました。まぁ、他にやることが一杯あることは分かってますし、白魔道士とか忍者とか他のジョブを上げるとかいう展開もあるにはあるのだけれど....。はて、どうしよう?。


■■■ 総 合 ■■■
 ・STR 3段階(18) / DEX 2段階(09)
 ・MP 8段階(30) / 弱体&精霊 各4段階(18)
 ・クリティカルヒット率 4段階(10)
 ・詠唱中断率率     4段階(10)
 ・片手斧 8段階(21) /片手剣 4段階(09)__125
■■■ 戦 士 ■■■
 ・バーサク使用間隔&ウォークライ使用間隔 各2段階(06)
 ・アグレッサー使用間隔 1段階(01)
 ・ダブルアタック確率 5段階(15)
 ・ウォリアーチャージ 3段階(12)
 ・サベッジリ 2段階(07)
 ・トマホーク 1段階(03)__44
■■■ 赤魔道士 ■■■
 ・コンバート     5段階(15)
 ・氷属性魔法命中率  3段階(06) 
 ・風属性魔法命中率  2段階(03) 
 ・ディアIII&スロウII  各2段階(14)
 ・パライズII&ブラインII 各1段階(06)__44
■■■ ナイト ■■■
 ・カテゴリー1 各2段階(15) 
 ・シルバリー   3段階(12)
 ・ガーディアン、フィールティ、ガーディアン 各1段階(09)_36
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/オルフェウス室内管弦楽団

2007年04月22日 11時20分59秒 | マーラー+新ウィーン
 90年の録音。これまでアシュケナージ、シャイー、レヴィ、シノーポリと「浄夜」をムーディーで滑らかに演奏したものが続いた訳ですが、このオルフェウス室内管はいささか毛色が違います。もちろん、70年代以前の激しい表現主義的な演奏に逆行したものという訳ではなく、これもまた「今どきのさっぱりとした浄夜」には違いないのでしようが、オケが室内管による演奏ということで、そもそもオケの人数が少ないのか、時に弦楽六重奏版を聴いているような気になるくらいに引き締まったタイトでクリアな響きがするのが印象的で、演奏時間も20分代後半と、ある意味メカニカルといいたいくらいにキビキビと進めているのもそうした印象を倍加していると思います。

 また、全曲を通じて歌い回しがとてもあっさりしていて、時にデジタル的に割り切ったようなドライな感じになるのも特徴といえるでしょうか。女性的ななよなよしたところをフィーチャーしがちな第2部や、逆にブラームス的な男性美を感じさせる第4部なども、リリースの短いフレージングで、あまりムーディーなところにはこだわらず実にてきぱきと進めていきますし、逆に音響的におもしろい部分ではそのあたりをくまなく表現してますから、いきおいこの曲のロマン派的な香りは後退し、標題音楽というより抽象音楽として時にスポーティーな美しさすら感じさせたりします。このあたりは感触というのは、おそらくこの楽団が「浄夜」を現代音楽の視点から演奏しているせいもあるでしょうし、そもそもこの楽団の特色なのかもしれません(ロッシーニなんかでもそうでしたし)。
 ともあれ、そのあたりがこの演奏のおもしろさであり、また食い足りないところでもあります。ちなみに、このアルバムには二つの室内交響曲が収録されているのですが、この楽団の真骨頂は、どちらかといえばこういうハイブリッドな曲の方に発揮されるような気もします。

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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/シノーポリ&フィルハーモニアO

2007年04月21日 23時34分55秒 | マーラー+新ウィーン
 シノーポリがフィルハーモニア管を振った92年の演奏。シノーポリは新ウィーン楽派の作品をかなりの吹き込んでいますが、主たるソースはこの録音と同じ年に彼の手兵となったドレスデン・シュターツカペレに集中していて(ちなみにレーベルはワーナーレーベル、CD8枚組のボックスセットになっています)、グラムフォンでの録音はこれくらいかもしれません。相方がフィルハーモニアであるところからして、おそらくマーラー全集の延長線で企画されたんでしょう。おそらく、その他の曲もフィルハーモニアで録音するつもりだったのでしょうが、彼がドレスデンの首席に就任したことで、レーベルの異動などもあり、結局フィルハーモニアとはこれだけという結果になったんではないでしょうか。

 演奏の方はやはり80年代以降の同曲に演奏に共通する、あまり深刻にならないビューティフルな演奏といえますが、さすがにシャイーやレヴィと比べると、多少表現主義的な激しさが見え隠れしてます。シノーポリのマーラーはスタンダード演奏をベースにしつつ、ホットな部分とやや突き放したような客観性のようなものが妙な具合にバランスしたところユニークでしたが、この演奏でもそういうところが随所に感じられます。
 まず、昨夜のレヴィほどではありませんが、この演奏もかなり遅目です。悠々としたテンポで実にじっくりと歌っていて、多少突き放したような印象を与えるくらいですが、これが主人公たちの情念というか心の葛藤の表現したような音響的な部分になると、ここぞとばかりにドラマチックな表現に切り替えているようであり、シノーポリらしい手練手管を感じさせます。また、色彩感という点でもシャイーのような健康的なカラフルさというよりは、前半と後半の明暗をあまりくっきりと分けず、全体に割とほの暗い色調のサウンドで統一しているように感じさせるあたりも、ひょっとするとシノーポリの個性なのかもしれません。
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The BEATLES / Unsurpassed Masters vol.1

2007年04月21日 17時07分24秒 | Beatles
 ビートルズの海賊盤(現在ではブートという方が多いか-笑)というのは歴史が古く、多分70年代初頭の頃から存在していると思う。私がその存在を知ったのは72年頃に文化放送でオンエアしていた石立鉄男がDJを担当した「ビートルズ・ストーリー」という番組で、大森庸雄をゲストにその特集したのがきっかけだったと思う。そこでオンエアされたのその後、あまりにも有名になるシェア・スタジアムや日本公演のライブやBBCライブだったりしたのだが、当時中学1年だった私はそういうレコードが存在していることに驚愕して、しばらくした夏のある日、当時上野にあった蓄光堂というレコード屋に友達と一緒に赴いたのだった。

 よく覚えていないが、その時購入したのはシェア・スタジアム(実はハリウッド・ボウル)のライブ、「As Sweet As You Are」というBBCライブ(未発表曲ばかり集めたコンピレーション)、そして「Get Back To Toronto」あたりだったと思う。今にして思えばけっこう的確な選択だったと思うけれど(笑)、その後、私はディスク・ユニオンだとか新宿レコードなどにも通うようになり、けっこうビートルズ関係の海賊盤を漁ったものだった。ところが海賊盤というメディアは、そもそもジャケも音質も少数の例外を除けば劣悪だったのが私には気にくわなかったし、ビートルズの場合、ある程度聴いていくと結局のところ、ソースとなる音源がそもそも限定されていて、驚くようなアルバムというのはほんの少しかないことに気が付き、高校の頃になると、既成のソースなのに内容を偽った代物まで出回ったりして、私は海賊盤というメディアのうさん臭さにほとんど愛想を尽かして、ほぼ完全に手を切ったのだった(ビートルズ自体と縁遠くなったという事情もあるが)。

 さて、ここから話は約15年ほど飛ぶ。1980年代の終わり頃、私はこのアルバムが近所のCDショップのワゴン・セールのところに並んでいるを見つけた。裏のクレジットを見ると、どうやらEMIのスタジオ・セッションの流出物らしい、こんなクレジットはどうせ信用ならないし、音質も劣悪なものに違いないとは思ったが、思えば70年代からはずいぶん経っているのだし、CD時代になってひっょとすると新たなソースが出回っている可能性もあるかも....などと、ちょっとした気紛れでこれを購入してきたのだった。
 ところが、大した期待もせずに購入したこのアルバムを、自宅で一聴したところ、内容の凄さに腰を抜かしそうなほど驚いた。まさしく、それは1963年のビートルズがEMIの「プリーズ・プリーズ・ミー」や「ウィズ・ザ・ビートルズ」のスタジオ・セッションを記録したものなのであった。

 こんなリハーサルまがいのテイクまで残っていたこと自体驚きだったが、なにより驚いたのはその音質。マスターから直に落としたとしか思えないエッジの切り立った鮮明な音質は、当時出たばかりの正規盤CDを上回る生々しさがあり、よくいわれることだが、まるで自分がアビイ・ロード・スタジオをいるような錯覚を覚えるほどだった。当時の私はもう30歳近くになっていたけれど、興奮すると同時に、まるで大昔の亡霊が甦ったような気持ちに襲われたものであった。当然のことながら、その後の私はこのシリーズの続きはもちろんのこと、この種のブートのもう一方の雄である「ウルトラ・レア・トラックス」なども発見して、しばしビートルズの海賊盤に夢中になる時期を過ごしたのであった。
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John McLaughlin / Belo Horizonte

2007年04月21日 14時28分05秒 | JAZZ-Fusion
 前回レビュウした「Mahavishnu」と同年の作品ですが、こちらは主としてアコスティック・ギターをフィーチャーしたけっこう軽快でポップなタッチ、録音はフランスはパリ、バックを固めるミュージシャン達もフランス人というのも異色なら、青空をバックににこやかに笑うなんだか幸せ一杯で、しかもロングヘアーなマクラフリン(笑)が写ったジャケというのもかなり異色で、これまでのシリアスで求道的な作品ばかりつくってきた系譜からすると多少外れた異色作という感じがします。このあたりは当時のマクラフリンがカティア・ラベック(クラシックで一時アイドル的に人気のあったラベック姉妹の姉の方ね)と結婚したことが、色濃く影響しているんでしょうね。確かに恋は人を変える(笑)。

 アルバム1曲目タイトル・トラックは、このアルバムを象徴するような曲で、入り組んだテーマはアコギとラベックのシンセのユニゾン、途中かなりスピーディーなソロが展開されたりするところは、いかにもマクラフリンらしいのですが、あまりギクシャクしたところを全面に出さず、全体に流れるように演奏しているため、親しみやすい雰囲気がある仕上がりになっています。2曲目の「La Baleine」はボサノバ風なリズムにシャクティ的なエキゾチックな趣を合わせ持った作品で、一歩間違えばBGMフュージョンになってしまいそうな軽さが異色。3曲目の「Very Early」はもちろんビル・エヴァンスの作品で、マクラフリンが「ひとりスーパー・ギター・トリオ」したマルチ録音によるギター・ソロ。4曲目の「One Melody」はちょっとフリー・ジャム風な趣もある作品で、低回気味なムードが徐々にテンションを上げていく構成がマハビシュヌ風です。

 5曲目の「Stardust on Your Sleeve」もリゾート風な雰囲気のあるトロピカル・フュージョン風な作品でアコギとソプラノ・サックスの絡みで進行。6曲目の「Waltz for Katia」はスピーディーなジャズ・ワルツのリズムにのって、ヴァイオリン、ピアノ。そしてアコギが入り乱れるけっこうテクニカルな作品ですが、やはりあまりゴリゴリしたところはなく、全体はとてもスムースに流れていきます。後半でリズム・チェンジするあたりはなかなかカッコ良いですね。7曲目の「Zamfir」はベースをフィーチャーしたスペイシーな雰囲気のある作品。ラストの「Manitas d'Oro」はパリ録音という地の利を生かしたのか、パコ・デ・ルシアをゲストに呼んだギター・デュエットで、これはもろにスーパー・ギター・トリオ的な仕上がりになっています。もっともライブのような壮絶なインタープレイの再現ではなくて、スタジオ盤で聴けたようなエキゾチックな香りがちらほらするリラックスした音楽の再現なのですが....。

 という訳で、このアルバム、無理にこじつければマクラフリンマハビシュヌ路線とスーパー・ギター・トリオやシャクティなどのアコスティックな路線を統合した音楽といえないこともないかもしれません。非常に聴きやすく、しかもテンションも高い演奏になっているのはさすがマクラフリンというところでしょうが、ちと気になるのは、ここでバックを固めるフランス人ミュージシャンたちで、かなりうまい人達には違いないとは思うのですが、フランス風といっては身も蓋もないものの、どうも地に足がついていないというか、ベースにしろ、ドラムにしろなんだか手数だけで走り回っているみたいなところがあって、多少違和感を覚えます。もっとも、こういう人達がバックを陣取ったから、このアルバムの流麗さが出たともいえますけどね。

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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/レヴィ&アトランタSO

2007年04月20日 23時43分34秒 | マーラー+新ウィーン
ヨエル・レヴィはこのアルバム以外聴いたことがないのだが、ルーマニア出身のイスラエル系の指揮者である点、また、テラークでマーラーを連続して録音していた点などから、調度、デンオン・レーベルでのインバルを思い出させる。また、アトランタ交響楽団も他の演奏は聴いたことがないが、おそらくアメリカのメジャーの次くらいの位置にオーケストラだと思われるから、先の例えでいえばフランクフルト放送響と似たようなポジションだと思われる。ようするにマイナー・レーベルが見つけた知名度はいまいちだが、実力派中堅指揮者とオケによる、優秀録音アルバムといったところだろう。

 さて、演奏だが基本的には昨日のシャイーやその前のアシュケナージなどと共通する、表現主義的な激しさ、ものものしさを抑えた今風な滑らかさとさっぱりとした感触を持ったものといえる。ただ、シャイーやアシュケナージに比べると、全体に演奏が遅く、普通なら30分前後で終わるこの曲を35分以上かけて演奏しているのはなかなかユニークだ。フレージングなども悠々迫らぬ落ち着きと安定感があり、併せて対旋律がよく聴こえるバランスやある種の克明さなど、ちょっとクレンペラー思わせるものがあったりする。また、オーケストラの響きがけっこう大柄でシンフォニックなのもそれ的だ。もっとも、それでいながら音楽そのものがべたべたしたり、鈍重になったりしないのは、リズムがシャープに決まり、オケのアンサンブルもけっこうきっちりとしているからだろう。

 ちなみにこの演奏、1994年の録音でシャイーから更に5年後のパフォーマンスということになるが、もう何の疑問符も感じ得ない「普通のロマン派の曲」になっているのは、やはり驚いてしまう。同じ譜面を使って演奏しているのに、70年代の演奏との恐ろしく違うこのソフトで楚々とした感触はなんなのだろうか....。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/シャイー&ベルリン放送SO

2007年04月19日 23時55分54秒 | マーラー+新ウィーン
 シャイーはマーラーの交響曲全集をアムステルダム・コンセルトヘボウと共に完成しているが、それに先つ1987年にデリック・クック版のマーラー交響曲第10番をベルリン放送響と録音していて、「浄夜」はそのフィルアップとして収録されていたものである。シャイーのマーラーは表現主義特有の振幅の激しさやシリアスさをきれいさっぱりと拭い去った、ちょっと近未来的といいたいような、屈託がないあまりにさりげない解釈だったけれど、この「浄夜」もそういった解釈である。とにかくこの曲の肩を怒らせたような厳しい表情、壮絶なまでなドラマチックさといったところが、きれいさっぱりとなくなって、まるで深夜にラジオでながれるBGMみたいな、落ち着き払ったリラクゼーションが充満した演奏になっている。

 この演奏の随所に感じられる「さりげなさ」は、先日弦楽六重奏版でとりあげたシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏で受けたものに非常に近く、作曲から一世紀という長い演奏の歴史を経て、この曲がもう押しも押されもしない普遍的な名曲になったことを感じさせるに十分といったところだろうか。先日レビュウしたアシュケナージが振った演奏も全体の感触としては似たような「さりげなさ」があったけれど、あの演奏ではフレージングや起伏といった点で、やや大昔のウィーン情緒みたいなところに依存しているようなところがないでもなく、さすがにここまで吹っ切れた演奏にはなっていなかったように思う。
 第1部の心の葛藤を表現したと思われるうねるように激しい部分など、他の演奏では「エキセントリックな音響」として聴こえるオーケストレーションが、ここではなんとも音楽的に響くし、第2部の主人公の女性の独白のシーンでの官能性もことさら声を荒立てることもなく、ごくごく普通の美しい音楽として自然に流れていくし、浄化されるような第4部のブラームス風な旋律も同様だ。

 という訳で、カラヤンやブーレーズの激しい演奏が、大昔のいかめしい演奏に聴こえかねないくらいに、あっさりとした演奏。まぁ、時代様式とかいう以前に、シャイーの穏当な個性というものが大きいところもあるんだろうけど、それにしたって20年前の演奏でこうだとすると、90年代以降の「浄夜」といういったいどうなってしまうのだろうか(笑)。
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Wes Montgomery / Bumpin'

2007年04月18日 20時59分23秒 | JAZZ
 1965年に出たウェス・モンゴメリーのヴァーブ第2弾です。前作ではジョニー・ペイトのアレンジよるピック・バンドがバックに陣取っていましたが、本作ではドン・セベスキー指揮にストリングスとハープが配置され、前作のゴリゴリしたダイナミックでブルージーなサウンドとはかなり色合いに変化を出しています。どちらかといえば、ポップで華やいだ-強いていえばBGM的な-雰囲気が強く、後年のCTIサウンドにやや近い雰囲気も感じれもします。このあたりは、やはりドン・セベスキーの編曲によるところが大なのかもしれませんが、一方、1965年という時代を反映してか、ボサノバ系の作品が数曲収録され、このアルバムに独特の軽快さを与えているのもこのアルバムの特徴というべきかもしれません。では前回同様、ここでも収録曲を自分用にメモっておきます。

 アルバムは前作の流れを汲んだ、ブルージーで真夜中のムード一杯の「Bumpin'」からスタート。こうしたタイプの曲はこのアルバムではむしろ例外かもしれませんが、アルバム中最長の曲であり、ストリングスのバックに乗って徐々に熱くなる彼のギターはなかなかのものです。2曲目の「Tear It Down」はギター+ピアノ・トリオによるシンプルな編成による曲で、彼としてはリバー・サイド時代のフォーマットに戻ったようなサウンドともいえますが、全体にリズムの切れがよくシャープな展開で、彼のギターもスピード感とキャッチーなノリを感じさせます。3曲目「Tear It Down」はギター・ソロに始まるバラード風な作品。ハープのアルペジオとムーディーなストリングスが優雅なムードを演出してイージー・リスニング風な仕上がりになっています。4曲目の「Con Alma」はもちろんディジー・ガレスピーの曲ですが、アフロ・キューバン風なリズムとリゾート風なストリングのよくマッチして洒落たムードで進み、ギターもよく歌っています。

 私が大大、大好きなスタンダート作品のひとつである6曲目の「いそしぎ」は、ボサノバ風味、涼しげなストリングス、華麗なハープ、このアルパムを象徴するような仕上がりですが、こういうポップな場面でもウェス・モンゴメリーはテンションが落ちる訳でもなく、例の太い音色でもってドン・セベスキーの用意した額縁にぴったりと収まっているのはさすがです。7曲目の「Mi Cosa」はギター・ソロのバックにストリングスが薄くからむ映画音楽風な作品。8曲目「Here's That Rainy Day」もボサノバ風のリズムて決めたリゾート風な作品で、テーマはギターとピアノのユニゾンがセンスいいです。まさに1965年というボサノバの時代を感じさせる作品。オーラスの「Musty」は1曲目のムードにちょっと戻ってブルージーでアーシーな作品です。これって、ひょっとすると、最後でもって「いつものウェス・モンゴメリー」に戻ったという感じで構成したかったのかも....。
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FINAL FANTASY XII [2]

2007年04月17日 23時56分25秒 | GAME
 こちらも暇をみてはぼちぼちとやってます。10時間くらいはやったかな、冒頭からナルビナ城塞までがチャートリアルを兼ねたオープニングという感じで、そこから王都ラバナスタ→ギーザ草原→ガラムサイズ水路と進んで、主人公達がナルビナ城砦地下牢に閉じこめられてから、そこを脱出してダルマスカへの帰還するくらいまでパート1といったところでしょうかね。むしろ盗賊のバルフレアとうさ耳ねーちゃんのフランとか、FFXでいったらアーロン的ポジション?のバッシュとかはおもしろいのだけど、肝心の主人公ヴァンとその彼女パンネロはヤンキー度が高くて(笑)、今一歩感情移入できないのが、個人的には×ですかね。ちなみにヒロインとおぼしきアーシェは途中、ガラムサイズ水路でちらっと登場しますが、ほとんど顔見せ程度ですし、ヴェインとかラーサーとかが絡んで今後どうなるか予断を許さないですから、早計は禁物ですが....。

 ゲーム的には、前回も書いたとおり、オンゲーのFFXIのインターフェイスに近いでし、バトルもそれ的なので違和感なくできますが、登場人物に一種のプログラマブルAI機能を持たせるガンビットという仕組みがやり込み度高そうですね(全然やってませんが-笑)。また、ライセンスで使える武器や魔法のテリトリーを広げて行くというのは、FFXのスフィア盤みたいなものを複雑にしていて、うざったくて楽しいです。
 ちなみにこれをやっているとなまじFFXIに近いので、ついその流儀でスティック押してヒーリングとか、いろいろやってしまうのは、「オレって本当にFFXIに毒されているなぁ....」という感じで苦笑しちゃいます。もっとも、FFXIのようになんでもかんでも時間のかかるように出来ている意地悪なところはなくて、走り回ればMPは回復するし、死んでも衰弱時間はなし、宝箱の近くにくれば「!」マークでて、マップに次に行くべきところに「×」印つくし、そもそもカバンはが杯にならないしで(笑)、そのあたりはとても親切です。

 という訳で、先ほど空中都市ビュエルバで、ラーサーをまじえルース魔石鉱でのパンネロ探索をして、とんずらで逃げてきたところです。途中の骸骨相手に性懲りもなくレベル上げをしてしまい、メンバーのレベルが12~14くらいになってしまいましたが、ちょっと上げ過ぎたかな。とりあえず徐々にこちらも進めていく予定。
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リング(A.ヒッチコック監督作品)

2007年04月16日 23時53分38秒 | MOVIE
 「ふしだらな女」に続くヒッチコック作品、これも1927年制作だというから、この年ヒッチコックは「下り坂」「ふしだらな女」、そしてこれと計3本の作品を演出したことになる。新進気鋭、斬新で器用ということで、映画会社から重宝がられていたことがよくわかる。この作品はもちろんスリラーではなく、ひとことでいえば「ボクシングの興行の世界を舞台にした恋愛の三角関係のあつかったドラマ」ということになるのと思う。結婚間近だったボクサー(ジャック・ブリッソン)ともぎり嬢(リリアン・ホール・デイビス)のカップルに、チャンピオン(イアン・ハンター)であるボクサーが絡み、彼女は一端はチャンピオンの方に靡いてしまうが、最後にこのチャンピオンと試合で勝利し、よりがもどるというストーリーだが、これはヒッチコック自身の原案で、脚本にはアルマ・レヴィルが初参加ということで、より「ヒッチコックらしいヒッチコック作品」に近づいてきたような印象だ。

 そんな訳で、ヒッチコックらしいところは随所にある。試合に勝って、祝杯をあげようと泡立つシャンバンをついだはいいが、リリアン・ホール・デイビスが帰ってこなくて、がっくりとしてしまうシーンを、グラスの泡がすっかりなくなってしまうカットで象徴的に表現してみるところとか、ひとりホテルの残されたジャック・ブリッソンのカットなど、「裏窓」を思い出させたりもするし、冒頭の遊園地の賑わいはもちろん「見知らぬ乗客」を思わせずにはおこない。出演者はリリアン・ホール・デイビスはなかなかチャーミングな女優さんで、前半はすっぱな下町の女から後半リッチな服装をした女へと変身するあたりがみどころか。ジャック・ブリッソンはなんだか歌舞伎俳優みたな白面であんまりボクサーらしく見えないし、ちょっとオカマっぽい雰囲気あって奇妙な印象がつきまとった。
 それにしても、この作品での恋愛のドラマ模様っていうか、気持ちの推移というか、早い話、どうしてこんなに簡単な展開で女は他の男に靡いてしまうのか(これは「下宿人」でもそう感じた)、けっこう違和感あったなぁ。昔はそういう感情も素朴だったのかもしれないが、今の感覚で観ると、この女主人公、あまりに尻軽女っぽく映ってしょうがなかったなぁ。
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エリック・リード・トリオ/クレオパトラの夢

2007年04月16日 00時32分34秒 | JAZZ-Piano Trio
 このアルバムのライナー・ノーツはかの寺島靖国さんが書いているのですが、途中で出てくる「ジャズ・ポリス」というのがおもしろいです。いわく「ジャズの純血性を信ずるあまり、少しでもファンに迎合したようなジャズを見ると「商業主義」だ、「コマーシャル」だと決めつける一派」ということですが、笑っちゃいました。こういうのはジャズに限らず、クラシックでも、ロックでもいて、何かにつけて、アンチ・コマーシャリズムで、小難しいのが偉いみたいに思考パターンは、なんていうか「純文学」という形容がまかり通る日本では特に強いものなのかもしれせんね....いやぁ、他ならぬ自分もそうなんですが(笑)。

 で、このアルバムのライナーになぜ「ジャズ・ポリス」という言葉が出てくるのかというと、何しろあまりに絵に描いたような選曲だからなんですね。「ジャンゴ」、「ティー・フォー・トゥー」「ラッシュ・ライフ」「ワルツ・フォー・デビー 」「ラウンド・ミッドナイト 」「アイ・ラヴズ・ユー・ポギー」「クレオパトラの夢」....とくれば、私がよく形容する「日本発洋楽ジャズ」の匂いがぷんぷんしますから、まぁ無理もないですが....(笑)。ちなみに肝心の演奏ですが、エリック・リードのピアノはオーソドックスそのものですし、ベースはロン・カーター、ドラムスは私の大好きなアル・フォスターですから、全体としてはそつなくまとまってとても聴きやいものとなっています。ただ、エリック・リードにもう少し個性が欲しいかなとは思いました。そつがないのはいいのだけれど、彼のピアノはあまりに汎ジャズ的なイメージに埋没してしまい、これがエリック・リードだ....というところが見えてこないの感じなのです。どうしてそうなのか、それはエリック・リードが日本の営業サイドの意を組んだ演奏をしたからなのか、それともエリック・リード自身の個性の問題なのかは、よくわかりませんが....。うむ、私ってば、やっばり「ジャズ・ポリス」かな(笑)。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/アシュケナージ&イギリスCO

2007年04月15日 23時44分22秒 | マーラー+新ウィーン
 アシュケナージが指揮業に色目を使い始めた1981年にイギリス室内管とともに収録された演奏。先日のモーツァルトのところで書いたけれど、アシュケナージは指揮でもピアノでも、出来上がった音楽は割と角の丸い、柔和な表情になることが多いけれど、ご多分に漏れずこの演奏もそういう特色をもったものになっていて、ある意味で「浄夜」の女性的な叙情といったものを全面出した演奏といえるかもしれない。第1部で聴こえるウィーン風なソロ・ヴァイオリンもよく聞こえるし、この音楽の主人公である女性のキャラがよく伝わる演奏とでもいったいいか。もっともここでの主人公は、カラヤンやブーレーズのような官能を湛えた悲劇のヒロインという感じではなく、若気の至りで馬鹿なことをしてしまった、少しなよなよとしたそこらいる若い女性というイメージなのだが....。

 ちなみにシェーンベルクの音楽は後年のシリアスな作品の影響なのか、「浄夜」とか「ペレアス」といった純ロマン派風な作品も、非常に厳しい表情、壮絶なまでにドラマチックな音楽として演奏されるのが一般的で、先のカラヤンとブレーズの70年代の演奏などはその究極ともいえる姿を示していたと思うけれど(メータもそう)、この演奏は前述のアシュケナージの穏和な個性という点もさることながら、80年代に入ってこうした「容赦のない厳しさをもったシェーンベルクの音楽」といったイメージがそろそろ溶解し始めたことを、実は物語っている演奏なのかもしれない。先日のストコフスキーのところで、私は「古典化を焦りすぎている演奏」旨のことを書いたけれど、その時のストコフスキーはまさにこういう風に「普通のロマン派の曲」として「浄夜」を聴かせたくて、あの演奏したのではないだろうか....などと、このアシュケナージの演奏を聴きながらふと思った。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/カラヤン&ベルリンPO

2007年04月15日 17時23分08秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらはカラヤンとベルリン・フィルによる演奏、奇しくも昨日のブーレーズとニューヨーク・フィルが組んだ演奏と同じ73年の収録だが、1974年がシェーンベルク生誕100年という時期だったせいか、マーラーなど併せて新ウィーン楽派の音楽も注目されていたようで(もっともマーラーほどには定着しなかったようだが)、ちょっとしたブームの如き様相を呈していたようで、この演奏もそうした流れでリリースされたのだろう。とはいえ、CBSはブーレーズ、デッカはアサートンといわば専門家にこれらの作品を振らせたのに比べ、グラムフォンはアバドとかマゼールでさえなく、カラヤンとベルリンがその企画に乗ったというは今考えてもなかなか凄いことではあった。

 演奏はもう「カラヤンらしいとしかいいようがない」といったらそれで話が終わりになってしまうが、ピアニッシモを絹がずれるのような感触で鳴す繊細きわまりない表現、絡み合う旋律が絶妙なバランスでまとめ、うねるように展開していく様の官能的な美しさ、どっしりとした低弦をベースにした劇的な場面の迫力等々、まさに文句のつけようのない完璧な演奏になっている。「浄夜」といえば、先日のシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏などからも推測できるように、近年の演奏はもはや完全な古典として、あっさりとしたさりげない演奏にシフトしているはずだから、この演奏など今となっては表現主義的な緊張感やドラマチックさが過剰の旧式な演奏なのかもしれないが、それにしたってひとつの究極ではあると思う。

 ちなみに弦楽合奏でのカラヤンは、先日取り上げたR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」もそうだったし、他に、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」などもそうだが、、レガートを多用した滑るような美しさと、ある種の厳格さを感じさせるアンサンブルの精緻さが高いレベルで融合して、良い意味でカラヤンらしさが満喫できるものが多い。私は「浄夜」でカラヤンのカラヤンとベルリン・フィルの弦楽合奏を初めて体験したクチなので、実をいうと「メタモルフォーゼン」や「弦楽セレナーデ」などを聴いても、「浄夜」の壮絶さを思い出してしまったりする(笑)。要はそれだけカラヤン的な個性を出せるフォーマットなのだろう。

 ちなみ、カラヤンは新ウィーン楽派をに音楽を最終的に、シェーンベルク2枚、ベルクとウェーンベルン1枚づつリリースして、それをまとめたボックス・セット「新ウィーン楽派の管弦楽曲集」として完結させるのだけど、カラヤンはこの企画にどの程度乗り気だったのだろうか?。よくこのアルバムだけをカラヤンの盤歴で異常に持ち上げる人がいるけれど、随所にみなぎる緊張感や壮絶さなどはむしろ音楽が音楽そのものがもっているだけで、ひよっとすると、カラヤンはこいつもペースでこれも料理しただけ....みたいなノリだったのでは?などと思ったりもする。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/ブーレーズ&ニューヨークPO

2007年04月14日 22時05分29秒 | マーラー+新ウィーン
 50年代、60年代と続いた弦楽合奏版の「浄夜」も、ここから70年代に入るが、まずはブーレーズがニューヨーク・フィルを振った73年の演奏から聴いてみた。ブーレーズの「浄夜」といえば、先日取り上げたアンサンブル・アンタルコンタンポランとの弦楽六重奏版の演奏は83年だったから、こちらはそれに遡ること10年前の演奏ということになる、更にいえばこのニューヨーク・フィルの数年前に、ドメーヌ・ミュージカル・アンサンブルと収録した弦楽六重奏版も出していたから、都合これはブレーズの2回目の「浄夜」ということになるんだと思う。この時期のブレーズはクリーブランドとの「春の祭典」あたりから、現代音楽的シャープな切り口によるユニークな演奏でもって、指揮者としても売れっ子といいような活躍をしていたようだけれど、この演奏などもまさにこの時期を象徴するユニークな名演だと思う。

 演奏は一聴して明るいオーケストラの音色に驚く。CBS流の録音ということもあるだろうが、とにかくオーケストラの隅々まで強力なサーチライトを照らされているかと思うようなサウンドで、先日聴いたメータとロス・フィルの重く鬱蒼とした音色とはあらん限り対照的な音なっている。音楽的な余韻や、音楽のわびさびといった曖昧な要素とは決別して、楽音のみで勝負しているという感じで、この音楽が持つブログラム性は今一歩伝わってこないし、ことに随所に登場するウィーン風な女性的叙情のようなものなど断固拒否しているようでもある。反面、前半の心の葛藤を表現したような部分での、容赦のない厳しい音楽的表情などはブーレーズ的であると同時にシェーンベルク的な世界でもあって、「浄夜」という音楽の一面をとても良く表現していると思う。つまりこの演奏はこの曲のロマン派的なところではなくて、現代音楽的な視点から振り返った演奏ということになるのだろう。

 先のアンサンブル・アンタルコンタンポランの演奏では、このあたりが大分ロマン派寄りのものになっていたし、現在のブーレーズのマーラーなどから推測するに、今後ウィーン・フィルあたりとこれの弦楽合奏版を演奏しても(その可能性は十分にあると思う)、おそらくはここまで厳しく壮絶なものにはならないだろうから、その意味でもこの演奏、ブーレーズが最もブーレーズらしかった時期の記録として、今後もワン・アンド・オンリーな演奏であり続けるのではないだろうか。
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マイク・マイニエリ/ワンダー・トラスト

2007年04月13日 23時31分00秒 | JAZZ-Fusion
 マイク・マイニエリはステップス(アヘッド)のリーダー兼ヴィブラフォン奏者として80年代から活躍している人だが、私は肝心のステップスの全盛期の作品をほとんど聴いたことがなく、この時期のマイニエリがメインに聴ける作品としては、私がもっている唯一の作品だ。私はマイク・マイニエリというと、渡辺香津美の「ToChiKa」や「Talk You All Tight」といった作品でプロデュースやゲスト参加で知ったクチなので、この作品もそれらの作品にあったニューヨーク的なソリッドなハードさとをフュージョンらしいスムースさの絶妙なバランス....といったところを期待したのが、購入して一聴した感想としては、大局的にはそういう作品ではあるとしても、いささか予想とは違ったなという印象ももった。

 1曲目の「クロスト・ワイアーズ」では、浮遊感のあるリズム的なモチーフがテーマ全編に渡って流れ、テーマも幻想的、ソロもインブロというより、空間的に配置されたオブジェクトのように聴こえ、のっけからNYフュージョンというは映画のサントラのように聴こえる音楽なのである。2曲目の「サラの感触」はテーマではマイケル・ブレッカーのサックスをフィーチャーされる、しっとりしたジェントルなバラード風な作品だが、中間部のマイニエリのソロの転調具合などかなりしつこく作り込まれたアレンジで、やや胃もたれする。3曲目「特急列車」はアルバム中、一番オーソドックスなNYフュージョン的な作品といえるかも...。軽快なサンバのリズムにのって、ブレッカー、マイニエリ等が奔放なソロをとっていくが、このリズムだったらもうすこしpopにまとめてもよかったとも思う。4曲目ブレッカーのソプラノ・サックスでテーマを奏でる70年代風な作品で、陰りある曲調からアグレッシブな展開となっていくが、マイニエリのソロはとても幻想的なムードをもっている。6曲目の「バンブー」は東洋風かつミステリアスな雰囲気を持った作品で、渡辺香津美がアコギでゲスト参加しているが、ちと散文的すぎた感もある。オーラスのタイトル・チューンは、マイニエリのちとアブストラクトなヴァイブをフィーチャーしたアコスティックな作品だ。

 という訳で、旧A面はエレクトリック、旧B面はアコスティックみたいなムードでまとめているようだが、全般的にスポーティーなフュージョンというにはポップさが足りず、ハードコア・フュージョンというには正統派な趣がありという具合に、スムース・ジャズ的な面で見るとアブストラクトと、どうも中途半端な作品という気がする。よくわからないけれど、ありきたりな音楽にしたくないという意欲が、ちと先走りしてしまい、いささか考えすぎな音楽になってしまっているのではないか。マイニエリといえば「ラヴ・プレイ」が有名だけど、あれなどどんな音楽をやっているのだろう?。
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