86年に発表されたWas(Not Was)の第3作。Was(Not Was)はデヴィッド・ウォズとドン・ウォズのコンビが核となり、ヴォーカリストとしてスウィートピー・アトキンソンとサー・ハリー・ボウエンズを加え、随時多彩なゲスト陣を向かえて作られた一種のブロジェクトだったが、ワールドワイドではこの作品あたりが出世作ということになると思う。当初はイギリスで受けていたことからも分かるとおり、このプロジェクトは基本的にソウルやファンクを白人流にモダンにリニューアルした音楽をベースにしつつも、時にアブストラクトでエキセントリックなサウンドを見せたり、ボーダレスなゲスト陣を連れてきたりと、けっこうマニアックに受けていたように思う。
これが出された当時はバブル最盛期で、日本でも洋楽はニューロマが過去のものとなり、シャーデーなんかに代表されるイギリスのジャジーなブルーアイド・ソウルが真っ盛りの頃で、実は私のその線で購入してきたのだった。ただし、実際聴いてみると、悪くはないと思ったものの、ソウルっぽい部分はより本物志向が強い「濃い音楽」になっていて(なにしろ半分はブルー・アイド・ソウルではなく本物なのだから....)、自分の波長とは微妙に合わなかった。また、マニアックに受けていた、途中何曲か入るエキセントリックなナンバーは、私には全く不要なものに思ったものだった。これだけサウンド・プロダクションが巧妙で、一頭地を抜けた音楽センスをもっているのなら、どうしてもっと洗練されたソウルやファンクばかりで、スタイリッシュな構成しないのだろうと思った訳だ。
さて、今久しぶりにこのアルバムを聴いているのだが、このアルバムの「濃さ」も「エキセントリックさ」も大分抵抗がなく聴けるのは、やはり20年という時代の流れなのだろう。この程度のクセではもはや驚かないどころか、もう当たり前になってしまい、その分、このアルバムの元々もっていたはずの「良質なポップ・アルバム」という地肌が私にも見えてというところなのかもしれない。バリー・ホワイト風な「愛はバッド・ラック」、AOR風な「夜の出来事」なんて、フランク・シナトラJrをフィーチャーした「愛の誓い」なんて、こんなにポップないい曲だったっけと感心した....とはいいつつ、やはりこのアルバムは、冒頭の「アメリカの何処かで」~「愛のスパイ」の2曲に尽きる。この2曲を聴くと、もう20年も前になってしまったバブル期のきらびやかな都会の風景がよみがえり、すこしばかり胸が痛くなってきたりするのである。
これが出された当時はバブル最盛期で、日本でも洋楽はニューロマが過去のものとなり、シャーデーなんかに代表されるイギリスのジャジーなブルーアイド・ソウルが真っ盛りの頃で、実は私のその線で購入してきたのだった。ただし、実際聴いてみると、悪くはないと思ったものの、ソウルっぽい部分はより本物志向が強い「濃い音楽」になっていて(なにしろ半分はブルー・アイド・ソウルではなく本物なのだから....)、自分の波長とは微妙に合わなかった。また、マニアックに受けていた、途中何曲か入るエキセントリックなナンバーは、私には全く不要なものに思ったものだった。これだけサウンド・プロダクションが巧妙で、一頭地を抜けた音楽センスをもっているのなら、どうしてもっと洗練されたソウルやファンクばかりで、スタイリッシュな構成しないのだろうと思った訳だ。
さて、今久しぶりにこのアルバムを聴いているのだが、このアルバムの「濃さ」も「エキセントリックさ」も大分抵抗がなく聴けるのは、やはり20年という時代の流れなのだろう。この程度のクセではもはや驚かないどころか、もう当たり前になってしまい、その分、このアルバムの元々もっていたはずの「良質なポップ・アルバム」という地肌が私にも見えてというところなのかもしれない。バリー・ホワイト風な「愛はバッド・ラック」、AOR風な「夜の出来事」なんて、フランク・シナトラJrをフィーチャーした「愛の誓い」なんて、こんなにポップないい曲だったっけと感心した....とはいいつつ、やはりこのアルバムは、冒頭の「アメリカの何処かで」~「愛のスパイ」の2曲に尽きる。この2曲を聴くと、もう20年も前になってしまったバブル期のきらびやかな都会の風景がよみがえり、すこしばかり胸が痛くなってきたりするのである。