アシュケナージが指揮業に色目を使い始めた1981年にイギリス室内管とともに収録された演奏。先日のモーツァルトのところで書いたけれど、アシュケナージは指揮でもピアノでも、出来上がった音楽は割と角の丸い、柔和な表情になることが多いけれど、ご多分に漏れずこの演奏もそういう特色をもったものになっていて、ある意味で「浄夜」の女性的な叙情といったものを全面出した演奏といえるかもしれない。第1部で聴こえるウィーン風なソロ・ヴァイオリンもよく聞こえるし、この音楽の主人公である女性のキャラがよく伝わる演奏とでもいったいいか。もっともここでの主人公は、カラヤンやブーレーズのような官能を湛えた悲劇のヒロインという感じではなく、若気の至りで馬鹿なことをしてしまった、少しなよなよとしたそこらいる若い女性というイメージなのだが....。
ちなみにシェーンベルクの音楽は後年のシリアスな作品の影響なのか、「浄夜」とか「ペレアス」といった純ロマン派風な作品も、非常に厳しい表情、壮絶なまでにドラマチックな音楽として演奏されるのが一般的で、先のカラヤンとブレーズの70年代の演奏などはその究極ともいえる姿を示していたと思うけれど(メータもそう)、この演奏は前述のアシュケナージの穏和な個性という点もさることながら、80年代に入ってこうした「容赦のない厳しさをもったシェーンベルクの音楽」といったイメージがそろそろ溶解し始めたことを、実は物語っている演奏なのかもしれない。先日のストコフスキーのところで、私は「古典化を焦りすぎている演奏」旨のことを書いたけれど、その時のストコフスキーはまさにこういう風に「普通のロマン派の曲」として「浄夜」を聴かせたくて、あの演奏したのではないだろうか....などと、このアシュケナージの演奏を聴きながらふと思った。
ちなみにシェーンベルクの音楽は後年のシリアスな作品の影響なのか、「浄夜」とか「ペレアス」といった純ロマン派風な作品も、非常に厳しい表情、壮絶なまでにドラマチックな音楽として演奏されるのが一般的で、先のカラヤンとブレーズの70年代の演奏などはその究極ともいえる姿を示していたと思うけれど(メータもそう)、この演奏は前述のアシュケナージの穏和な個性という点もさることながら、80年代に入ってこうした「容赦のない厳しさをもったシェーンベルクの音楽」といったイメージがそろそろ溶解し始めたことを、実は物語っている演奏なのかもしれない。先日のストコフスキーのところで、私は「古典化を焦りすぎている演奏」旨のことを書いたけれど、その時のストコフスキーはまさにこういう風に「普通のロマン派の曲」として「浄夜」を聴かせたくて、あの演奏したのではないだろうか....などと、このアシュケナージの演奏を聴きながらふと思った。
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