50年代、60年代と続いた弦楽合奏版の「浄夜」も、ここから70年代に入るが、まずはブーレーズがニューヨーク・フィルを振った73年の演奏から聴いてみた。ブーレーズの「浄夜」といえば、先日取り上げたアンサンブル・アンタルコンタンポランとの弦楽六重奏版の演奏は83年だったから、こちらはそれに遡ること10年前の演奏ということになる、更にいえばこのニューヨーク・フィルの数年前に、ドメーヌ・ミュージカル・アンサンブルと収録した弦楽六重奏版も出していたから、都合これはブレーズの2回目の「浄夜」ということになるんだと思う。この時期のブレーズはクリーブランドとの「春の祭典」あたりから、現代音楽的シャープな切り口によるユニークな演奏でもって、指揮者としても売れっ子といいような活躍をしていたようだけれど、この演奏などもまさにこの時期を象徴するユニークな名演だと思う。
演奏は一聴して明るいオーケストラの音色に驚く。CBS流の録音ということもあるだろうが、とにかくオーケストラの隅々まで強力なサーチライトを照らされているかと思うようなサウンドで、先日聴いたメータとロス・フィルの重く鬱蒼とした音色とはあらん限り対照的な音なっている。音楽的な余韻や、音楽のわびさびといった曖昧な要素とは決別して、楽音のみで勝負しているという感じで、この音楽が持つブログラム性は今一歩伝わってこないし、ことに随所に登場するウィーン風な女性的叙情のようなものなど断固拒否しているようでもある。反面、前半の心の葛藤を表現したような部分での、容赦のない厳しい音楽的表情などはブーレーズ的であると同時にシェーンベルク的な世界でもあって、「浄夜」という音楽の一面をとても良く表現していると思う。つまりこの演奏はこの曲のロマン派的なところではなくて、現代音楽的な視点から振り返った演奏ということになるのだろう。
先のアンサンブル・アンタルコンタンポランの演奏では、このあたりが大分ロマン派寄りのものになっていたし、現在のブーレーズのマーラーなどから推測するに、今後ウィーン・フィルあたりとこれの弦楽合奏版を演奏しても(その可能性は十分にあると思う)、おそらくはここまで厳しく壮絶なものにはならないだろうから、その意味でもこの演奏、ブーレーズが最もブーレーズらしかった時期の記録として、今後もワン・アンド・オンリーな演奏であり続けるのではないだろうか。
演奏は一聴して明るいオーケストラの音色に驚く。CBS流の録音ということもあるだろうが、とにかくオーケストラの隅々まで強力なサーチライトを照らされているかと思うようなサウンドで、先日聴いたメータとロス・フィルの重く鬱蒼とした音色とはあらん限り対照的な音なっている。音楽的な余韻や、音楽のわびさびといった曖昧な要素とは決別して、楽音のみで勝負しているという感じで、この音楽が持つブログラム性は今一歩伝わってこないし、ことに随所に登場するウィーン風な女性的叙情のようなものなど断固拒否しているようでもある。反面、前半の心の葛藤を表現したような部分での、容赦のない厳しい音楽的表情などはブーレーズ的であると同時にシェーンベルク的な世界でもあって、「浄夜」という音楽の一面をとても良く表現していると思う。つまりこの演奏はこの曲のロマン派的なところではなくて、現代音楽的な視点から振り返った演奏ということになるのだろう。
先のアンサンブル・アンタルコンタンポランの演奏では、このあたりが大分ロマン派寄りのものになっていたし、現在のブーレーズのマーラーなどから推測するに、今後ウィーン・フィルあたりとこれの弦楽合奏版を演奏しても(その可能性は十分にあると思う)、おそらくはここまで厳しく壮絶なものにはならないだろうから、その意味でもこの演奏、ブーレーズが最もブーレーズらしかった時期の記録として、今後もワン・アンド・オンリーな演奏であり続けるのではないだろうか。
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