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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/シャイー&ベルリン放送SO

2007年04月19日 23時55分54秒 | マーラー+新ウィーン
 シャイーはマーラーの交響曲全集をアムステルダム・コンセルトヘボウと共に完成しているが、それに先つ1987年にデリック・クック版のマーラー交響曲第10番をベルリン放送響と録音していて、「浄夜」はそのフィルアップとして収録されていたものである。シャイーのマーラーは表現主義特有の振幅の激しさやシリアスさをきれいさっぱりと拭い去った、ちょっと近未来的といいたいような、屈託がないあまりにさりげない解釈だったけれど、この「浄夜」もそういった解釈である。とにかくこの曲の肩を怒らせたような厳しい表情、壮絶なまでなドラマチックさといったところが、きれいさっぱりとなくなって、まるで深夜にラジオでながれるBGMみたいな、落ち着き払ったリラクゼーションが充満した演奏になっている。

 この演奏の随所に感じられる「さりげなさ」は、先日弦楽六重奏版でとりあげたシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏で受けたものに非常に近く、作曲から一世紀という長い演奏の歴史を経て、この曲がもう押しも押されもしない普遍的な名曲になったことを感じさせるに十分といったところだろうか。先日レビュウしたアシュケナージが振った演奏も全体の感触としては似たような「さりげなさ」があったけれど、あの演奏ではフレージングや起伏といった点で、やや大昔のウィーン情緒みたいなところに依存しているようなところがないでもなく、さすがにここまで吹っ切れた演奏にはなっていなかったように思う。
 第1部の心の葛藤を表現したと思われるうねるように激しい部分など、他の演奏では「エキセントリックな音響」として聴こえるオーケストレーションが、ここではなんとも音楽的に響くし、第2部の主人公の女性の独白のシーンでの官能性もことさら声を荒立てることもなく、ごくごく普通の美しい音楽として自然に流れていくし、浄化されるような第4部のブラームス風な旋律も同様だ。

 という訳で、カラヤンやブーレーズの激しい演奏が、大昔のいかめしい演奏に聴こえかねないくらいに、あっさりとした演奏。まぁ、時代様式とかいう以前に、シャイーの穏当な個性というものが大きいところもあるんだろうけど、それにしたって20年前の演奏でこうだとすると、90年代以降の「浄夜」といういったいどうなってしまうのだろうか(笑)。
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