(童話)万華響の日々

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「人は成熟するにつれて若くなる」 ヘルマン・ヘッセから学ぶ

2012-04-09 17:29:48 | 生と死を想う

読書「人は成熟するにつれて若くなる」ヘルマン・ヘッセ 原田朝雄訳 草思社文庫

 ヘルマン・ヘッセは1877ー1962、詩人で文学者 ノーベル文学賞受賞者

人生の老年期に入ったヘッセの老年を思う気持ちはあくまでも若く生気に満ちている。人生の夏の終わり、彼は自然の姿の移ろいから生を学ぶ。死ということを考えることを決して恐れず逃げない

 「五十歳の男」という詩はこの本のある意味で頂点である。

その全文はこうだ。
「揺藍から柩に入るまでは
五十年に過ぎない
そのときから死が始まる
人は耄碌し 張りがなくなり
だらしなくなり 粗野になる
いまいましいが髪も抜け
歯も抜けて息がもれる
若い乙女を恍惚として
抱きしめるかわりに
ゲーテの本を読むわけだ
しかし臨終の前にもう一度
ひとりの乙女をつかまえたい
眼の澄んだ 縮れた巻き毛の娘を
その娘を手にとって
口に胸に頬に口づけし
スカートを パンティーを脱がせる
そのあとは 神の名において
死よ 私を連れて行け アーメン」

 ヘッセは死を予感し深々と吸い込む
 以下に作品から珠玉の言葉を抜粋する

「若さを保つことや善をなすことはやさしい

だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと
それができる人は老いてはいない

成熟するにつれて人はますます若くなる

老人になることをいつも一種の喜劇と感じていたからである
六十年、七十年来もうこの世にはいない人々の姿と人々の顔が私たちの心に生きつづけ、私たちのものとなり、私たちの相手をし、生きた眼で私たちを見つめるのである

 私は、ある人生の段階の最後の時期が、枯れて死ぬことへの欲求の色調を内蔵すること、それがさ
らにひとつの新しい空間への転進へ、覚醒へ、新たな開始へとつながって行く、そういう段階と期間が存在することに気がついた

はるかにすばらしいことは、過ぎ去ってしまわないこと、存在したものが消滅しないこと、それがひそかに生きつづけること、そのひそかな永遠性、それを記憶によみがえらせることができること神の大きな庭の中で私たちはよろこんで花咲き、咲き終わろう

 私が、妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も多く、最も好んでつきあっているかを一度調べ
てみれば、それは死者だけである、あらゆる世紀の音楽家、画家、の死者である。彼らの本質はその作品の中に濃縮されて生き続けている。

それは私にとって、たいていの同時代人よりはるかに現
在的で現実的である。そして私が生前知っていた、愛した友人たちの場合も同様なのである。
 彼らは生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。私は彼らのことを思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部とみなす。このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。

 去ってしまった人たちは、彼
らがそれによって私たちに影響を与えた本質的なものをもって、私たち自身が生きている限り、私たちとともに生き続ける。多くの場合、私たちは生きている人とよりも、死者とのほうがずっとよく話をしたり相談したり助言を得たりすることができる。

 愛する人を失ったとき、死者に捧げる供物は、私たちの追憶によって、正確な記憶によって、愛する人を心の中によみがえらせることでなくてはならない。私たちがこれをなし得るならば、死者は私たちとともに生きつづけ、死者の心象は救われ、私たちの悲嘆が実り多いものになるように協力してくれる。」

兄弟である死

「私のところへもおまえはいつかやって来る
・・・・・・
来るがいい 愛する兄弟よ 私はここにいる
私を連れてゆけ 私はおまえのものだ」

本作品に載せられた詩と文章はヘッセが42才から84才までにわたっている。

本書の特徴はヘッセが迫り来る死と、愛する死者たちとの関係をどうとらえたかという点である。 ヘッセは老いと死を拒まず自然に受け止め、兄弟にたとえてさえいる。

 老いてから最も親密に付き合
っているのは死者であるという。なるほどと思わされる。この思想はすごく重要だと思う。愛する人を失った残された者は、その心をどう癒せばいいのであろうかという問いに対して、ヘッセは明確な答えを与えてくれた。

 死者を想い、偲び、明確な記憶によって心に呼び覚まし、ともに語り、
相談したり、おそらくは笑ったり悲しんだりもできるのだという。つまりは我々が生きて思いを巡らせることができる限り、愛する死者もまた共に生きている、というのである。

 認知症といわれる老人がもうずっと前に愛する亡くなった肉親を、まるで生きているかのように語るとき、それを病
気だと否定してはならない。彼らは死者と共に生きてこの世での暮らしを楽しんでいるのであるから。

 また、我々もまたヘッセにならって、親しかった肉親などの愛する死者を、心にいつも思い浮かべ、まるで本当に生きているのと同じように、我々がこの世で生を許される限り、共に生きていきたいと思うのである。


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