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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

安部公房の「壁」を読む

2024-05-29 | g 読書日記

420
 安部公房の『壁』(新潮文庫1969年発行1975年7月20日15刷)を読んだ。初読は高校生の時だったと思う。貼ってある水色のテープで10代、20代の時に読んだ本、ということが分かる。高校生の頃、同期生の間では安部公房と大江健三郎に人気が集中していたと記憶している。

『壁』には「S・カルマ氏の犯罪」「赤い繭」「洪水」「魔法のチョーク」「事業」「バベルの塔の狸」の6編が収められている。どれもシュールな作品で、読み解くのが難しい。

6編の中で一番長い作品「S・カルマ氏の犯罪」の主人公はある朝、自分の名前を喪失してしまう。わずか5頁の「赤い繭」では、主人公が自分の家を失い、せっかく家が出来ても今度は自分が消滅、いや透明人間になってしまう・・・。

また「洪水」では**不意に体の輪郭が不明瞭になり、足のほうからとろけ、へなへなとうずくまり、(中略)最後に完全な液体に変って平たく地面に拡がった。**(146頁) 世界のいたるところで始まった人間液化が様々な混乱を引き起こす。例えば**一村の農民全部の液化による小洪水などが、相ついで新聞紙上につたえられた。**(147頁)また**蒸気機関車の鑵は液体人間の混入で全く役に立たなかった。**(148頁)などということも。

「バベルの塔の狸」の主人公は自分の影をなくし、やがて自分の肉体も消えて透明人間になる・・・。

安部公房は人間が存在することの意味を問う。この本に収録されているのは初期の作品だが、その後も安部公房は人間の属性を喪失させている。『他人の顔』は顔の喪失、『砂の女』『箱男』は存在・帰属の消去・喪失・・・。

以下は既に書いたことだが、再掲する。名前、顔、帰属社会、そして故郷。属性を次々捨ててしまった人間の存在を根拠づけるのもは何か、人間は何を以って存在していると言うことができるのか・・・。人間の存在の条件とは? 安部公房はこの哲学的で根源的な問いについて思索し続けた作家だった。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

今年中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。5月25日現在10冊読了。残りは12冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして13冊。6月から12月まで、7カ月。2冊/月で読了できる。 5月は既に3冊読んで、ノルマクリア。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


*記事中の過誤を訂正しました。

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屋根のてっぺん

2024-05-28 | g 火の見櫓考〇

 
左(上):朝日村針尾               右(下):朝日村小野沢

 火の見櫓のある風景で取り上げた2基の火の見櫓。どちらも3柱1構面梯子33型(屋根と見張り台の平面が3角形)という同じタイプ。でも細部を観察すると両者の違いに気がつく。例えば屋根。

 
ともに反りのついた3角錘(平面は3角形)の屋根だが、右(針尾)の屋根には蕨手が無い。びっくりするのはてっぺん。尖がった先っちょまで一体にしている。これはすごいとしか、言いようがない。

火の見櫓のある風景を見て終りではなく、細部まで注意深く観察したい。


先端部 溶接してシームレス(材料の一体化)にしている。


 

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火の見櫓のある風景(朝日村針尾)

2024-05-27 | g 火の見櫓のある風景を撮る〇


(再)東筑摩郡朝日村針尾 3柱1構面梯子33型 2024.05.26


 長野県朝日村には火の見櫓が16基立っている。その内、既に13基のスケッチをした。その過半は複数回スケッチした。この火の見櫓はまだスケッチしていない。スケッチしたくなるような構図にはならないだろうと、なんとなく思っていたから。

昨日(26日)、荻野良樹写真展「山神3」に出かけたが、その帰路ここに立ち寄ってみた。道路山水的な構図、描きやすい構成要素。近々、また出かけてこの風景をスケッチしよう。


 

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火の見櫓のある新緑の風景を描く

2024-05-26 | g 火の見櫓のある風景を描く〇

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上伊那郡辰野町小野にて 描画日2024.05.24

 道路山水的な風景の遠近感を線描で表現するのは、遠近法の基本を押さえていればそれ程難しくはない。着色、即ち色の濃淡と彩度の高低によって遠近感を表現する方法(空気遠近法に近いと思う)は、私には難しい。着色のテクニックを身に付けないとなかなか思うような表現ができない。絵筆の使い分け、筆に含ませる水の加減、混色の可否の見極め・・・。

線描と着色の相乗効果を意識してもよいのではないか。そう思って、影の部分をハッチングしてみた(表示部分他)。学生の頃描いたスケッチを見ると、岩の影などをハッチングしている。

描いたスケッチを冷静な第三者的な眼で評することも必要だろう。ということで以下はその試み。

山の稜線を一本の線で表現することもないだろうと、一番奥の山は縦の破線で表現した。決定的な一本の線で表現すると(今まではこのことにこだわって描いていた)、遠くに霞む山の雰囲気が出せない。左側手前の立ち木の表現はあまり好くない。もっとはっきり線描しなくてはならないし、色もあまり美しくない。近景だからきちんと線描することも必要だろう

このスケッチで好いところを敢えて挙げるなら手前に向かって流れてくる小川の表現。ただし色に変化がなくてフラットな印象だ。川に覆いかぶさるように伸びている雑草の影が川面に写るだろうが、それが表現されていない。

秋までにはもう少し、好いスケッチ(上手いスケッチではない)を描けるようになりたい。



スケッチしたポイントと一致していないので道路の見え方、カーブがスケッチと違う。

過去ログ


 

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「都会の鳥の生態学」を読む

2024-05-26 | g 読書日記

360
『都会の鳥の生態学』唐沢孝一(中公新書2023年)

 4月に『カワセミ都市トーキョー』柳瀬博一(平凡社新書2024年)を読んだ。生息環境の変化により、青梅や奥多摩湖まで生息域を後退させていたカワセミが1980年代に徐々に都心に戻ってくる。この本は都心の環境に適応したカワセミたちの生態観察記、と括ることができるだろう。

環世界ということばをこの本で知った。柳瀬博一さんは『生物から見た世界』を参考文献として取り上げ、次のように書いている。**さらに人間の場合、生き物としての「環世界」だけじゃなく、自身の経験に基づく、ごく個人的な「環世界」の中でも暮らしている。この環世界はユクスキュルが定義した「感覚器で知覚できる世界」とは、ちょっと違う。個々人が後天的に獲得した言語と知識と経験と好みがつくり出す大脳皮質がつくった「文化的な環世界」である。**(265頁 赤字表記は私がした)

自分の環世界に存在しないものは認識できないということは、経験的に知っている。先日、上高地を散策した。ウグイスが盛んに鳴いていた。他の野鳥も鳴いていたが、名前は分からなかった。私の環世界には野鳥は存在していない。

上掲書の関連本である『都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰』で唐沢孝一さんは観察対象を広げ、都会で生息するスズメやツバメ、カラスなどの身近な鳥の生態を明らかにしている。サギなどの水鳥やハヤブサなどの猛禽類も取り上げられている。鳥たち相互の関係についても述べられていて興味深い。

**ツバメは、雌も雄も、若鳥も、別々に渡りをする。日本に戻ってきてから婚活を始める。雄ツバメには、早く日本に戻って営巣場所を確保し、婚活を有利に進めたい思惑がありそうだ。**(27頁)

ツバメは幼鳥だけで渡りをするとのことだが、**親鳥に教えてもらうことなく渡りのコースをどのように知ることができるのだろうか。**(51頁) 知らなかったなぁ・・・。知らないことは当然のことながら疑問にも思わない。

電柱の腕金(角型鋼管の水平部材)を単独ねぐらにしているスズメがいる、ということが紹介されている。つがいと思われる2羽のスズメが隣り合う電柱の腕金をねぐらにしていることも観察できたとのこと。既に書いたように、鳥の生態については何も知らないので、読み進めていて、鳥たちの興味深い生態に驚くことばかりだった。

新宿副都心の超高層ビル群を生息地にしているハヤブサのことも紹介されている。ハヤブサにとって、超高層ビルの壁面はそそり立つ岩場そのものだろう。六本木ヒルズの窓枠の外に止まっているハヤブサの写真が掲載されているが、他にも鳥たちの生態を捉えた何枚もの写真が掲載されている。


漫然と鳥を見ていても分からない生態が、観察を続けていると、徐々に分かってくるだろう。そうすれば私の環世界に野鳥が入り込んでくるかもしれない・・・。

知らない世界を覗いてみるのは楽しい。新書はそのガイドブック。



撮影日2023.01.16 みぞれが降る中、柿を啄ばむヒヨドリ


 

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晴れ男4人組 三たび上高地を散策する(22日)

2024-05-24 | g 旅行記〇

22日(水)

5時起床。露天風呂。和の朝食をいただく。8時半、白骨温泉を出発。さわんど(沢渡)のバスターミナルまで所用時間は15分。最寄りの駐車場に車を停める。9時発のバスで上高地へ。上高地バスターミナルの手前、大正池で下車(健脚の方はここで下車して河童橋まで歩くことをおすすめします。距離は約4kmです)。晴れ男4人の相乗効果で上高地は晴れ。2,3日前までの天気予報では曇りだったのに・・・。

大正池から河童橋へ 上高地の山に向かひて言ふことなし。ということで以下しばらく写真のみ。
















大正池から河童橋までは以上の通り。緑色と一言では括れない、多様な緑色。


12時前、河童橋右岸のホテルのテラス席、パラソルの下で贅沢な食事、食後のコーヒー。梓川右岸を上流へ。


ニリンソウ(二輪草)


この花の名前は? 調べて、ユリ科のシロバナエンレイソウだと分かった。漢字表記は白花延齢草。花の直下に大きな3枚の葉。

新緑の上高地を満喫。上高地バスターミナル午後2時15分発のバスでさわんどバスターミナルへ。所要時間約30分。車に乗り換えて松本へ。松本駅着4時10分。3人は4時台の列車で首都圏へ。


夜、3人から無事帰宅した旨、グループライン。何枚もの写真とともに。

歩数 21日:約4,600歩 22日:約12,500歩(歩行距離は8kmくらいか) 
車の走行距離:157km(2日間)


**焼岳火山群の火山活動により岐阜県側への流路が堰き止められ、巨大な堰き止め湖が誕生しますが、その時期については(中略)湖底に最初に積もった地層から採取した植物片の放射性炭素年代を測定すると、約1万2400年前と出たのです。**『槍・穂高・上高地地学ノート』竹下光士、原山 智(山と渓谷社2023年 163頁)

巨大な堰き止め湖である古上高地湖の湖底に厚く(約300m)堆積した土砂が、渓谷に平坦な上高地の原型を形成した。約6000年前、地震によって古上高地湖が決壊した。決壊場所は? 上掲書によると、釜トンネル付近。梓川は岐阜県側から長野県側へ流路を変えた。


 

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晴れ男4人組 安曇野をめぐり、白骨温泉へ(21日)

2024-05-23 | g 旅行記〇

21日(火)

11時前、首都圏から来松の友人3人を松本駅で迎える。今日は白骨温泉泊、明日は上高地。

・大王わさび農場

 


・安曇野高橋節郎記念美術館


美術館外観(庭園側)


高橋節郎の作品を紹介するリーフレット

現安曇野市出身で文化勲章受章者・高橋節郎の作品を展示する美術館(2003年)。鎗金(そうきん)という漆工芸の技法によって安曇野の自然などを幻想的に表現した作品には強く惹かれる。墨彩画にも魅せられる。 

この美術館の設計者・宮崎 浩さんは後に長野県立美術館(2021年)を設計している。安曇野では碌山美術館が有名だが、この美術館もおすすめ。大王わさび農場からは車で5,6分。旧高橋家住宅(国登録有形文化財)に隣接配置されている。

 
旧高橋家住宅の小屋組み見上げ 


障子戸


・穂高神社


穂高神社鳥居越しに神楽殿を望む。その後方は拝殿。

昨年の7月、上高地の明神池畔に鎮座する奥宮を参拝していることもあり、今回は穂高神社を参拝することにしていた。


白骨温泉

穂高の農産物販売所に立ち寄って買い物。白骨温泉へ向かう。白骨温泉は4人とも初めて。予定通り夕方5時ころ宿泊する宿に着く。一休みする間もなく露天風呂へ。白骨は白船(白濁した湯船)だった、と聞いたことがある。ゆっくり湯に浸かる。紅葉シーズンもいいだろうな・・・。


部屋の窓、あふれる緑 

KBさんの誕生月を祝う夕餉。ビールがうまい。食事好し。


 

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火の見櫓ある風景を再び描く

2024-05-21 | g 火の見櫓のある風景を描く〇


長野県朝日村針尾にて 描画日2024.05.20

 今月16日に描いた風景を昨日再び描いた。同じ位置から描いたので、構図に違いはないが、火の見櫓や奥の民家が前回より少し大きめだ。その民家の細部がどうなっているのか、近くまで行って確認した。こうなっているのか・・・。やはりきちんと理解して描くのと、そうでない場合とでは違う。

影を意識的に表現した。着色に濃淡をつけたい。まだまだ課題あり。

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「津田梅子」を読む

2024-05-19 | g 読書日記

360
朝カフェ読書@スタバ 2024.05.17

 津田梅子のことについては幼少の頃にアメリカに留学して、帰国後に津田塾大学を創設した女性、ということくらいしか知らなかった。津田梅子が新5000円札の顔になるということで、どんな人だったのか知りたいと思い(*1)、『津田梅子』大庭みな子(朝日文庫2019年7月30日第1刷発行、2024年2月20日第2刷発行)を読んだ。

著者は1968年に『三匹の蟹』で芥川賞を受賞した大庭みな子さん。大庭さんは津田塾大学出身。本書を書くきっかけは、津田梅子が1882年から1911年まで、30年にも亘る長い間、アデリン・ランマンという女性に宛てた数百通もの手紙が1984年に津田塾大学の物置で見つかったことだったとのこと。アデリン・ランマンは留学中の梅子を11年間(全期間)預っていた女性。ランマン夫妻には子どもがなく、梅子を我が子のように育てたという。

本書は発見された梅子の手紙を何通も取り上げて、それぞれの手紙について大場さんが解説するという形式を採っている。**これらの手紙には、梅子が育ての親とも言えるアデリン以外には決して言わなかった心の底からの叫びに似た痛切な訴えがある。**(21頁)と、大庭さんは書いている。

梅子が帰国して1年後(1883年、18歳の時 *2)に書いた手紙に**私自身が遠い将来、自分の学校を創ったときのためにも、(後略)**(95頁)とある。既存の学校で教えるということではなく、この時既に学校設立のことを考えていたことが分かる。梅子が私塾創設に踏み切ったのは35歳の時だったそうだ。明治という時代を考える時、この年齢に関係なく凄い人だったんだな、と思う。

**将来にわたっても絶対結婚しないとまでは言いませんが、独身だという理由で他人にへんな眼で見られずに、自分の道を進みたいと思います。**同年の別の手紙にはこのように書いている。強い意志の持ち主であることが窺える。

本書には津田塾大学の前身である私塾・女子英学塾の開校式の時の梅子の式辞が載っている。この長文の引用はしない。式辞について大庭さんは**梅子の真の目的は、その時点の世界の情勢から判断して、英語を手段に、日本女性の目を開かせ、女性に働く場を与え、社会での発言力を与え、男性と対等の立場に引き出すことにあった。**(218頁)と説いている。現在放送中の朝ドラ「虎に翼」より昔、明治時代のことだということを考え合わせると、いかに大志であったかが分かる。あのクラーク博士だって、「少女よ、大志を抱け」とは言わなかった。

梅子は多くの人たちから生涯に亘り支援を受けている。梅子には人を引き付ける魅力が備わっていたのだろう。**梅子は周囲のあらゆる星を引き寄せる巨星に似た吸引力を持っていた。**(203頁)と大庭さんは書いている。

津田梅子の気概、見識、すばらしい。なるほど、新5000円札の顔に相応しい女性だ。



*1 樋口一葉の時も同じことをしている。

*2 津田梅子は1864年12月31日生まれ


 

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緑まぶしい5月 火の見櫓のある風景

2024-05-18 | g 火の見櫓のある風景を描く〇


火の見櫓のある風景 長野県朝日村針尾にて 描画日2024.05.16

 手元にある『日本の傳統色』長崎盛輝(京都書院1997年第3刷)には日本の伝統色が225色収録されているが、およそ2割が緑色だ。緑豊かなこの国の人びとには多くの緑色の微妙な違いを見分ける能力が備わっていることの証であろう。海松色(みるいろ)、藍媚茶(あいこびちゃ)などの暗い緑から淡萌黄(うすもえぎ)、白緑(びゃくろく)などの明るい緑まで知らない名前の緑色も少なくない。

久しぶりに火の見櫓のある風景のスケッチをした。緑まぶしい5月、色んな緑が溢れているのに、それらを表現できないもどかしさ・・・。

線描も着色ももっと近景と遠景の違いを意識しないといけない。構図で遠近感は表現できていはいるが、それに頼るのではなく、線描で、着色で遠近感を表現しないと・・・。

短時間で描いているとは言え、線も色も単調に過ぎるし、肝心の緑があまり美しくない。それにもっと光と影を意識しないと・・・。この場所で近々リトライしたい。スケッチは難しい、でも楽しい。


 

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松本市島立永田の道祖神

2024-05-17 | g 道祖神〇




松本市島立永田の双体道祖神(彩色祝言跪座像)と文字書き道祖神(右)2024.05.17

 何に注目するかで写真の撮り方は違う。今回は道祖神に注目しているので右隣に立っている火の見櫓は一部しか写していない。




彩色祝言跪座像 黒く塗られた盃を持つ男神にやはり黒く塗られた酒器を手にした女神が跪いて寄りそっている。高さ約120cm、幅約80cm、像を納めた円の直径約70cm。男神と女神は内側の手をつないでいるのかな。双体道祖神は熱々カップルにしないと(過去ログ)。

『松本平の道祖神』今成隆良(柳沢書苑1975年)によると祝言跪座像は松本独自の造形で、祝言像の4割(19基/46基)を占めているという(171頁)。このタイプは北安曇郡や諏訪地方には全く見られないとのことだ(172頁)。


裏面 弘化二乙巳年二月吉日 帯代二十両 (1845年)

上掲の『松本平の道祖神』に松本の道祖神11基の帯代が表で示されている。30両が一番高く、5両が一番安い。平均値を求めると約15両となった。20両はやや高め、ということになるだろうか。同書には永田の道祖神は2度嫁入り(過去ログ)させられたため、帯代を20両と刻んだとある。尚、帯代については**天保年間から流行した「帯代」を刻むことも明治初期頃は、単なる装飾文字としての意味程度に考えられてしまったのであろう**(同書259頁)という記述がある。


側面 永田村


文字書き道祖神(造立年不明)高さ約60cm、幅約60cm。

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「タンポポの綿毛」を読む

2024-05-16 | g 読書日記

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 藤森照信さんの『タンポポの綿毛』(朝日新聞社2000年 図書館本)を読んだ。藤森さんがテルボと呼ばれていた少年時代を綴ったエッセイ集。カバーのイラストがこのエッセイ集の雰囲気を上手く表現している。テルボのイラストは南 伸坊さん、背景の地図は藤森さん。

藤森さんは諏訪湖の近く、茅野市宮川で生まれ育った。野山を駆け巡て遊んでいた少年時代の出来事あれこれが、魅力的な文章で活き活きと描かれている。

たとえば友だちの家で山羊の乳でつくったチーズを初めて口にした時のことは次のように。**まずチーズは、安国寺のミツカズんちに遊びいったとき、カアチャンが、つくりたてというのをおてしょう皿に載せておやつがわりに出してくれた。よほど印象深かったらしく、茅葺き屋根の軒下で立って食べたシーンまで覚えている。**(64頁)

また、初めてグローブを見た時のことは次のように。**グローブというものをはじめて目にしたのは、小学二、三年のとき、村のお堂の縁側だった。広い軒下で遊んでいるとき、お堂の隣りのユキちゃん(男)が、使い古しをもってきて見せてくれた。**(128頁)

藤森さんの文章の魅力を何に喩えよう・・・。定規で引いた線ではなくて、フリーハンドの線のようだ、と書いても伝わらないだろうし、藤森さんの建築の魅力は文章の魅力に通じると書いてもますます伝わらないだろう、と思う。でも、他に浮かばない・・・。

このエッセイ集には火の見櫓も出てくる。 **江戸時代のこと、表具師の幸吉は鳥のように空を飛ぼうと夢見、工夫を重ねてついに成功したという物語**(146頁)が書かれた『鳥人幸吉』という本を読んだテルボ。自分も試してみようと、翼の製作にとりかかった。**(前略)うまくいったらつぎは公民館の脇に立つ木の三本柱の火の見櫓から(後略)**(147頁)飛んでみようと決めていたそうだ。ちなみにこの公民館は藤森さんの設計で新しくなっている。


長野県茅野市宮川 高部公民館 

また、次のような記述も。**火事のときの半鐘の鳴らし方にはルールがあり、村内の火事の場合はスリバンといってジャンジャン連打するはずだが、鳴らないところをみると、大したことではなかったらしい。**(52頁) 文中に村内とあるが、藤森さんがテルボと呼ばれていた少年時代の宮川村高部を指していて、それ程広域ではなかったのだろう。

ぼくも近所の友だち、ターちゃんやマメさ、コーちゃたちとビー玉やめんこをしたり、トンボやチョウを捕まえたり、池でフナを釣ったり、軒下のハチの巣を竹竿でつついてハチに刺されたり(ただしテルボたちとは違って、**刺されたヤツの刺された個所に、あわててみんなでションベンをかける**(103頁)なんてことはしなかったが)、遊んだ思い出があるから、読んでいて懐かしい思いがした。

藤森さんの本はこれまでに何冊か読んだが、この本のことは知らなかった。


 

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「源氏物語はいかに創られたか」を読んで

2024-05-14 | g 読書日記

 柴井博四郎さんの『紫式部考』(信濃毎日新聞社2016年 図書館本)を昨年(2023年)2月に読んだが、やはり柴井さんの『源氏物語はいかに創られたか』(信濃毎日新聞社2024年 図書館本)を読んであれこれ考えた。

『紫式部考』に関連した記事を2023年2月16日に書いている(過去ログ)。その記事の最後は次の通り(一部書き改めた)。

**『紫式部考』は「なぜ紫式部は『源氏物語』を書いたのか」という自問に大きなヒントを与えてくれた。紫式部は光源氏亡き後、浮舟に彼の役を引き継がせる。「雲隠」の内容は浮舟の死から再生への道に暗示されている。紫式部は愛しい我が子、光源氏の再生という願いを浮舟に託した。浮舟は入水を決意して、実行する。だが、僧都に発見されて命を救われる。その後、浮舟は出家して仏に救われる。このことは紫式部が光源氏に向けた願いでもあった。光源氏を退廃した貴族社会の象徴、とまで読むかどうか・・・。読むなら退廃した貴族社会の再生ということになるが。**(注:拙ブログでは引用範囲を**で示している)


朝カフェ読書@スタバ 2024.05.13

『源氏物語はいかに創られたか』で著者の柴井さんは『源氏物語』の作者紫式部の想いを読み解く。柴井さんはこの長大な物語が、細部まできっちり頭に入っているのだな。読んでいてそう感じた。

本書で柴井さんはズバリ、次のように説いている。**『源氏物語』の主人公は浮舟であり、紫式部が意図するテーマは、浮舟の「死と再生」であり、それは、源氏、さらには平安貴族社会の「死と再生」を意味していると考えられる。**(84頁)

このくだりを読んで、やはり紫式部は貴族社会の退廃を嘆き、その再生の願いをこの長大な物語に託したのだな、と思った。柴井さんは浮舟について、本書全体のおよそ半分の頁を割いて論考している。

以前、NHKの100分de名著「源氏物語」4回分の再放送(4月7日午前0時40分~)を録画で見たことを思い出す。番組では**国文学者で平安文学、中でも「源氏物語」と「枕草子」が専門だという三田村雅子さんが解説していた。三田村さんは物語最後のヒロイン浮舟が好きだと言っていた。浮舟には紫式部の願いが投影されているとも。**(2024年4月9日の記事の一部を転載した)

『源氏物語』全五十四帖のうち、最後の十帖が「宇治十帖」で、ここに最後のヒロイン・浮舟が登場する。柴井さんの見解によれば、浮舟はこの長大な物語の主人公、三田村さんは浮舟に紫式部の願いが投影されていると指摘している。

この「宇治十帖」については紫式部ではなく別人が書いたのではないか、という説が昔からあるという。ぼくもこの説を唱える本を読んだ(*1)。

だが、ぼくはただ単に願望として、紫式部がしがらみを解き、書きたいことを書きたいように書いた結果だと解したい。

紫式部にも出家したいという願望があったのだろう。横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家した浮舟は紫式部が理想とする姿。浮舟は薫が俗世に引き戻そうとするのを、毅然とした態度で拒否する。このラストに紫式部は思いの丈を込めたのだ。こう考えると、唐突な終わり方だという印象も変わる。実に効果的な結末ではないか。

柴井さんが『源氏物語はいかに創られたか』で示した、浮舟が主人公だという見解を知り、浮舟は紫式部が理想とする姿だという三田村さんの指摘を考えあわせると『源氏物語』のこのラストが説得力をもって迫ってくる。

『源氏物語』を再読する気力は無いが、「宇治十帖」を再読しようかな、と思っている(などと書くと読まなくてはならないことになるが・・・)。


*1『データサイエンスが解く邪馬台国 北部九州説はゆるがない』安本美典(朝日新書2021年)
本書で、安本さんは単なる印象論ではなく、直喩、色彩語、助詞など文体に関するいくつかの項目について計量分析を行い、「宇治十帖」には他の四十四帖と偶然とはいえない違いがあることを示している。


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八ヶ岳美術館 16年ぶりの再訪

2024-05-13 | g 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える〇


 八ヶ岳美術館は地元原村出身の彫刻家・清水多嘉示の作品の寄贈を受けて計画された村立の美術館で、村野藤吾88歳の時の作品(1979年竣工)。

現在、八ヶ岳美術館で特別企画展「建築家  村野藤吾と八ヶ岳美術館」が開催されている(会期:4月1日~6月2日)。この特別企画展を見ることと、同美術館で開催された松隈 洋さんの講演を聴くために昨日(11日)出かけた。

八ヶ岳美術館は何年ぶりだろう・・・。そう思って、ブログの過去ログを検索した。2008年6月8日、同美術館で開催された建築評論家・長谷川尭さんの講演「村野藤吾の八ヶ岳美術館  ―  偉大な建築家が残した晩年の傑作  ―」とレースのカーテンの吊天井の施工を担当した保科功さんの「八ヶ岳美術館のレースのカーテン」を聴くために出かけて以来、実に16年ぶりということが分かった。

樹林の中に丸いドーム状の屋根、それを支える円弧上の壁面がいくつもリズミカルに連なっている。美術館で配布された資料に村野藤吾は出来るだけ自然を壊さないように計画したということが記されている。美術館を小さなボリュームに分節する計画にしたところに、その意図が窺える。

2008年6月9日のブログ(過去ログ)に、次のように書いている。

**工事の途中で村野さんは「自然の木や草を建築がこわしてはいけない、これは岩だよ」と保科さんに美術館について説明したそうだ。ドーム状の屋根の連なりは「岩」だったのか・・・。**


なるほど、自然と対峙する姿ではない。周辺の環境と連続的に繋がっている。


駐車場から林間の小道を5分程歩いて、エントランスに到る。エントランスの位置を曲面の白い壁で控えめにさりげなく示している。訪れる者を招き入れるフォルム。村野藤吾の優しさがここにも表出してる。


松隈 洋さんの講演「建築と思想――建築をヒューマナイズすること」について、内容は記さないが、「へ~ 知らなかった」ということがいくつかあったので、メモした。一部転記しておく。

・村野藤吾は今 和次郎に私淑し、大きな影響を受けた。
・宇部市民館(宇部市渡辺翁記念会館 1937年)はル・コルビュジェの国際連盟本部コンペ案(1927年)を意識し、参照しながら設計した。講演で示された両案の平面計画はよく似ていた。換骨奪胎
・大阪パンション(1932年)はモダニズムの「白い箱」! 
・船の造形からの引用 



講演会終了後、売店で買い求めた『村野藤吾  建築案内』(TOTO出版)。あれ、没後25年? 今年は没後40年のはずだけど・・・。奥付を見ると2009年11月26日  初版第1刷発行となっていた。そう、これは15年前に発行された本。帯には**本書ほど包括的に村野作品をとりあげたものはない。**という菊竹清訓のことばが載っている。この本で村野藤吾の建築を勉強、勉強。




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火の見櫓のある風景

2024-05-12 | g 火の見櫓のある風景を撮る〇


(再)諏訪郡原村 4柱44型トラス脚 貫通やぐら 2024.05.11


(再)諏訪郡富士見町 4柱44型トラスもどき 2024.05.11


(再)諏訪郡富士見町 高榮寺の近く 4柱44型トラスもどき 2024.05.11

 八ヶ岳美術館へ向かう途中で再会した火の見櫓たち。元気そうで何より。


 

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