■ 先日、カフェバロのテラス席でヒマワリを眺めていて、なぜ上を向いて咲かないのだろう、と思ったことは既に書いた。
ヒマワリが東を向く理由の説明、これはなぜ上を向かないのかという疑問にも答えることにもなる。そのような記述がないかさがしてみた。
**まず、花が上を向いていると日光がまともにあたるため、花の温度が、横を向いているときよりも三~八度も高くなる。このように温度が高くなることは、受精や結実にたいへん不都合だという。**
ならば、北を向くのがいいのではないか。なぜ東を向くのか・・・。**東を向いていると朝日があたり、夜露が早く乾燥するので、病原菌のまんえんを防ぐことができる**なるほど。
説明はさらに続く。**花が横を向いていることは、雨を避け、花の湿度を下げることにも役立っているという。高湿度は病原菌のまんえんを招きやすく、このこともヒマワリにとって有利な条件なのであろう。**なるほど、なるほど。
著者の瀧本 敦さんは続けて**この説明に納得するかしないかは読者の自由である。**と書いているが、私は十分納得できた。
これで、バロでFさんやKさんに説明ができる。
メモ) このような説を唱えているのはオーストラリアのラング、ベッグ両氏。
052 大町の郊外、木崎湖の近くの見櫓
■ すっと伸びた三角錐。これなら屋根がなくても全く違和感はない。この櫓は屋根が無い方がいい。下から二段目のところにちゃんと半鐘が吊るしてある。てっぺんのデザインがなかなかいい!
053 池田町(安曇野ちひろ美術館のある松川村の隣町)の火の見櫓(追記 現存しない)
■ この火の見櫓は屋上に立っている。これまた今まで目にしたことのないフォルムだが、バランスよくまとまっている。
火の見櫓は千差万別、みんなちがってみんないい。


安曇野市堀金の道祖神
■ 酒器を手にし、お互い相手の肩に手をかけている。細かな線ははじめから省略してあったのか、摩耗したのか。このくらいの表現が好ましい。
野ざらしにしていない道祖神、地元の人たちがいかに大切にしているかが分かる。碑の裏に建立した年、文久二年と地元の石工の名前が彫ってあった。

■ 烏帽子型の自然石に彫られた道祖神。祝言跪座像は抱肩握手像と共に道祖神の代表的なタイプ。
松本市新村の狭い生活道路脇で見かけた。路駐して写真を数枚撮る。刻字の有無などは確認せず。
男神、女神とも腕が短くやや不自然な感じがする。見つめあうふたり、仲がよさそう。細かなところまで彫られている。石工の誠実な仕事。
メモ)
『道祖神』 降旗勝次編/鹿島出版会 昭和50年発行 にこの道祖神の写真が掲載されている。周りには全く家がない。
■ 安曇野市明科の火の見櫓に付けられている銘板。地元集落のシンボルをつくったという鉄工所の誇りがこの立派な銘板から感じられる。昭和38年、古き良き時代にできた火の見櫓。
*****
都市計画が専門の西村幸夫氏は『火の見櫓 地域を見つめる安全遺産』に「地域遺産としての火の見櫓」という論文を書いている。
この論文のなかで、西村氏は火の見櫓の新しい役割としてまちづくりのひとつの契機と考えることを提唱している。
火の見櫓の文化財としての価値を明らかにする作業を通して、**火の見櫓のある風景をたんなる当たり前の風景として見過ごすのではなく、日本の地域づくりの貴重な努力が生み出した文化的な風景だとして価値づけることがまずは必要であろう。**と指摘する。
更に火の見櫓を地域のまちづくり運動の業績を示す一里塚として見直すべきだとし、**火の見櫓を生みだしてきた地域の力を、防災だけでなく、地域づくり全般へ戦略的に拡げて、地域経営の道筋を語る必要がある。そのとき火の見櫓はそうしたエネルギーの象徴として、十分に役割を果たしうると思う。**としている。
西村氏が次に挙げているのは景観的な価値から火の見櫓のある風景を再評価すべき、という提言。火の見櫓は風景の中に在って全く違和感はない。日本の風景によくなじむランドマークだと思う。
たかが火の見櫓、されど火の見櫓。でもこんなに期待してしまって、細身の火の見櫓には荷が重すぎないか、と心配になる。
メモ)
1 本には全国の火の見櫓の写真が何基も載っていて興味深い。徳島県藍住町奥野というところにある火の見櫓はすごい。自然木そのままの立ち姿、そこに見張り台と半鐘が設置されている。高過庵の火の見櫓版と書けばその姿のイメージが伝わるかもしれない。
2 昭和38年といえば1963年、このブログ今回が1963稿、偶然。

■ やっと火の見櫓の呪縛から解放された!?
岩波新書、8月の新刊から手にしたのがこの本。顕微解剖学が専門の著者が電子顕微鏡で台所にある食べ物や庭先に咲く草花など身近にあるものを覗く。
まずは著者を苦しめた尿管結石のミクロな姿。鋭い刃物の寄せ集めのようだ。こんなものが尿管にあれば痛いはずだ・・・。ヤダヤダ。
ショウジョウバエの目。視細胞がドーム状の曲面に規則的にびっしり並んでいる。ミクロの世界の繰り返しの美学。
キンポウゲ花弁の表層構造。これは現代アート。こんな絵を描くアメリカの画家、名前が出てこない・・・。東京都現代美術館で展覧会が開催されたような気がするが。
サクラソウの花粉。三角おにぎりに三角模様というか・・・、この美しい形をどう表現したらいいのだろう。
やはり自然はすごいと思う。ミクロな世界も手を抜くことなくきちんとデザインしている・・・。
■ 安曇野市明科で見かけた火の見櫓。真っ先に屋根のてっぺんの矢羽根に目が行った。鉄工所のおじさんが楽しんでつくったにちがいない。
平面形が三角形の櫓に円形の見張り台と円形の屋根。3本の柱の上端を結ぶ梁にも柱と同じアングル材が使われている。梁にフラットバーを渡して避雷針を受け、半鐘を吊り下げている。見張り台の手すりは飾りっ気なし。私好みのシンプルなデザイン。
昨晩(27日の夜)読んだ『火の見櫓 地域を見つめる安全遺産』鹿島出版会 によると長野県内の火の見櫓の数は2300基くらいと推定されるという。松本在住の方が1870基確認したそうだ(2004~2005年)。
先日松本から明科経由で池田町(北安曇郡)までの間、20数キロの道路沿いに11基の火の見櫓を確認した。確かに数が多いと思う。今回取り上げたのはその内の1基。
**火の見櫓の個性豊かで細長いプロポーションを見ていると、まるで人が立っているように思えてくる。**
先の本に出てくるこのくだりを読んで、やはりそうか・・・、と思った。著者は人と書いてはいるが、若い女性に見えているに違いない。
■ 「U1さんのブログって、この頃火の見櫓ばっかりであまり本が出てきませんね」と言われてしまった。で、今回は久しぶりに本を取り上げる。今回、カテゴリーをどうしようか迷ったが、火の見櫓っておもしろいに入れておく。
先日ある方がこの本を松本市の図書館で借りて、私に見て欲しいとカフェ・バロにわざわざ持参、預けて下さっていた。感謝。早速注文して、入手した。
あとがきに**本書を編むにあたって、火の見櫓を知る決定版にしたいと思った。そこで、建築、都市計画、サウンドスケープ、防災の専門家に論究していただき、(後略)とある。7人の著者のうち、今川憲英氏は構造デザインの、西村幸夫氏は都市計画の専門家だ。
なかなか中身の濃い本と出合った。今夜はブログをこの辺で切り上げてこの本を読むことにしよう。読了後ふたたびこの本について何か書こう。
『火の見櫓 地域を見つめる安全遺産』火の見櫓からまちづくりを考える会編/鹿島出版会
051 諏訪郡原村八ッ手上
■ この火の見櫓も原村で見かけました。
半鐘と比べれば屋根が随分小さいことが分かります。半鐘がかろうじて櫓の中に収まっています。 ここまで櫓が絞り込まれた火の見櫓は初めてです。ファッションモデルのようなプロポーションの火の見櫓です。
■ 火の見櫓にはこの写真のような銘板が付けられていることがあります。すべての火の見櫓に付けられていると、製作された年などが分かっていいのですが・・・。
原村森山小路
茅野市泉野
原村北ノ辻
原村南辻
■ 前稿で取り上げた火の見櫓の全景を載せておきます。また火の見櫓か・・・、もう見ない! などと言わないでください。そんなに長くは続かないと思いますから。
①047
原村森山小路①
②048
茅野市泉野③049
原村北ノ辻
追記:撤去されたそうだ。④
原村南辻④050
④を横から見ると・・・
■ 八ヶ岳の麓に位置する原村。この村にはまだ板倉が残っているはず。そう思って今日もN君と出かけてみた(感謝)。
予想に反して、板倉はほとんど見つからず、土壁を塗ったままの土蔵も健全な状態のものを見ることはできなかった。やはり土壁は雨に弱く、傷みやすいのだ。かつては傷めば更新するという当たり前のシステムが成立していた(というかそれしかなかった)のだが、今はそのシステムが崩れてしまっている。大半は安価な金属サイディングなどで覆われてしまっていた。何とも残念だが仕方がない。
状態のいい倉(蔵)には出合えなかったが、火の見櫓には何基も出合った。
① 消防車庫と2階の詰所がものの見事に櫓のなかに収まっている。これは見事と言う他ない。こ の火の見櫓は昭和30年の作。鉄骨の火の見櫓が全国的に盛んに造られた頃だ。
② かなりの「がに股」状態でかろうじてクリア。
③ 収納庫の軒先を貫通する火の見櫓の脚部。出来たのは火の見櫓が先か、倉庫が先か・・・。
④ これはもう合体!
047~050
■ 路上観察 山形村下大池公民館の玄関
玄関両脇の柱のてっぺん(柱頭)の処理(実際には柱は桁まで伸びているが)、飾り破風、欄間の放射状の格子。「洋」を意識したこれらの意匠が丁寧に造られている。
水面から空中に飛び出す魚もいる。空から水中に潜る鳥もいる。境界領域を行き来する動物たち・・・。
「和」と「洋」の境界領域を行き来したかつての建築たち・・・。
この建物は役場庁舎だったと聞いた。
046 安曇野市
■ この火の見櫓も先日安曇野市内(たぶん三郷)で見かけた。脇には注連縄付きの道祖神。なぜか火の見櫓の近くに道祖神があることが多い。時系列的には逆か。なぜか道祖神のあるところに火の見櫓があることが多い、と書くべきかな。
この火の見櫓は随分短足だ。こんなプロポーションの男の子と母親が登場する漫画があったような気がする、タイトルが思い出せないが・・・。
火の見櫓のある場所を地図上にきちんとプロットすればいいのかもしれない。そしてしばらく前に書いた、チェック項目についてその都度きちんと調べて記録すればいいのかもしれない。でもそうすると火の見櫓観察が義務と化してしまい趣味として楽しむことができなくなってしまうだろう。
時には女性に見立てたり、好きに観察することにしておこう。
気楽に、気楽に。
■ この塩倉は千国街道(塩の道)の信州側の入口に位置する小谷村大網にあったものを移築したものだという。塩倉という名前の通り、階上に塩を保管し、階下(半地下)に牛を繋いだものだそうだ。塩の道にはこんな倉が多分いくつもあったのだろう。
建築当初は屋根は茅葺の寄棟、壁は土壁であったことが確認されているとのことだが、移築後はこのように切妻屋根、板壁になっている。なぜ建築当初の姿に復元しなかったのか、理由は分からない。
3尺ピッチで柱を建てその間に板を縦にはめて貫ではさみこんで固定している(という理解でいいのか、どうか・・・)。きちんと観察してこなかったが、貫の柱際に栓が写っているので、そうしてあるのではないか、と思う。貫は板を固定するだけでなく現在の木造軸組みの筋交いの役目も果たしている(はずだけど)。