透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ケータイ

2006-05-31 | A あれこれ
財布、テレビ、カメラ、ラジオ、時計。

従来の「携帯電話」は電話とメールの機能しかなかったが、最近では上記のような機能が付加された多機能ツールとなった。もはや携帯電話ではない。「ケータイ」は原義から離れてこの多機能ツールの名前として定着した、と思う。先日のNTTDoCoMoの新聞広告でもケータイと表現されていた。

『空を飛ぶ恋 ケータイがつなぐ28の物語』新潮文庫 には人気作家が描いたケータイにまつわる短編が収録されている。ところがなんとケータイという表記が出てくる作品は一編しかない。どうやら作家達はこの若者コトバのケータイを作品にあまり使いたくないようだ。

ケータイと書きそうな川上弘美や阿川佐和子は携帯電話、携帯と書き、金原ひとみは携帯、重松清は携帯電話としている。柳美里のケイタイは例外だろう。ではいったい誰がケータイという表現を使ったのか・・・。

意外なことに高村薫。

**上着のポケットのなかでごわごわしているお前は、携帯電話ではなく、ケータイなんだそうだ。**

「ケータイ元年」と題するこの短編で著者は、アメリカから帰国して七年ぶりに東京本社勤務となった大会社の部長が「えー?ケータイ持ってないの!」といわれてケータイを使い始めた頃をユーモラスに描いている。あの硬派の高村薫、いつもとは違う雰囲気の作品だ。

28のケータイ・ストリー。さすがプロの書き手、どの作品もいい。でも一番好きなのは、川上弘美の「不本意だけど」。

藤の花

2006-05-29 | A あれこれ


薄紫と若葉色のタペストリー 060528 

■ このブログには建築か本に関することについて書くと決めています。この藤をどちらかに結び付けないと・・・。

『木』幸田文/新潮文庫 をもう一度取り上げましょう。(0501既出)この本は著者と木々との交流を綴ったエッセイ集ですが「藤」も出てきます。

大正末期か昭和初期の頃のことでしょう。春にお寺の境内に植木市がたったそうで、父親の露伴が文に娘(青木玉さんのことでしょう)の好む木でも花でも買ってやれ、とガマ口を渡したことがあったそうです。娘さんが欲しがったのは、藤の鉢植えだったそうですが、とても高価だったために代りに山椒の木を買い与えたとのことでした。

そのことを知った父親に**おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差しにして、価値をきめているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか(中略)金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない**と真顔でおこられたと書いています。


やっぱり、幸田露伴は厳しかったんですね~。藤の花を眺めながら、ふとこのエッセイを思い出しました。


 


言葉の力

2006-05-28 | A 読書日記
『石に言葉を教える』柳田邦男/新潮社

著者の柳田さんは、NHK社会部の記者だった方。航空機墜落事故などを報ずる番組で実に冷静に的確に事故について説明していたことを記憶している。

昭和60年代の初期に出版された『マッハの恐怖』新潮文庫、『死角 巨大事故の現場』新潮文庫などでも、綿密な取材と豊富な知識によって大きな事故の原因を緻密に追求していた。このところ終末期の医療などにも関心をお持ちのようで『「死の医学」への日記』新潮文庫(平成11年)などの著書がある。

『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』文藝春秋に詳しいが息子さんの死が大きな転機となったようだ。 『石に言葉を教える』 先日書店で平積みにされているのを見て迷うことなく購入した。あとがきで著者は書いている。

**パソコンやケータイを介するネット社会は、物事を情報化し現実感を希薄にする性質がある上に、人々の心を自己中心的にする傾向がある。  **現代人の感覚麻痺が深刻化する中で、「言葉と心」「言葉といのち」をどう考えたらよいのか。**

この評論的なエッセイ集は「涙本」ではないけれど、つぎの話に涙がポロポロ・・・。 ある日本人夫婦がアメリカの病院で次男を出産する。不幸なことに染色体検査の結果、ダウン症候群とわかり、ふたりは大変なショックを受ける。担当医師は医学的な診断結果の説明に続けてこう述べる。「あなた方は障害をもった子どもを立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」と。 加齢と共にますます涙もろくなってしまったようだ。

民家 昔の記録

2006-05-27 | A あれこれ


諏訪の建てぐるみ(7905) 


塩山の突き上げ棟(7910)

■  民家 昔の記録 

先日民家のことを書きました。「すずめおどり」について両手でダメってサインを出して、などと書きましたが分かりにくかったでしょうね。昔撮った写真を、デジカメで接写してみました。

上の写真は諏訪の民家です。屋根の頂部を注意して見て下さい。「すずめおどり」です。蔵を包み込むようにして住宅が建っていますが、この地方に特有の「たてぐるみ」といわれるものです。この様子、文章だけで説明するのは難しいですね。

下の写真は山梨県塩山の突き上げ棟の民家です。棟の一部分を一段高くしてあります。養蚕のために、雨を防いで、採光と換気をきちんとする工夫です。 この2枚の写真の撮影は1979年、随分昔のことです。


 


ブックレビュー 0604、05

2006-05-27 | A ブックレビュー


○ブログで取り上げた本 

早いものです。ブログを始めてもう一ヶ月半。建築と、本に関することについて書いてきました。今までのブログに出てきた本をリストアップしてみました。意外に多いことに自分で驚いています。書棚のどこかに隠れてしまって見つからない本も何冊かありますが、ここで「ブックレビュー」。せっかくYさんに教えてもらった写真のアップの仕方、忘れないようにここで復習。 書名が分かりにくいですね、要工夫。


 


「涙小説」

2006-05-27 | A 読書日記

『鉄道員(ぽっぽや)』浅田次郎/集英社文庫

 確か「鉄道員」というイタリア映画があったと思う。 本のタイトルには「ぽっぽや」とルビが振られている。ルビ付きのタイトルはめずらしいのではないかな。作家のこだわりだろう。

もし「涙小説」という分類項目をつくるとすれば、この本は間違いなくそこに収められるだろう。映画化された表題作はじめ「涙小説」が8篇収められている。篇?、編? どっちかな・・・新潮文庫は編を、文春文庫は篇を使っているようだ。編は篇の代用字と国語辞典に出ていた。

本題。「ラブ・レター」の主人公高野吾郎は裏ビデオ屋の雇われ店長。偽装結婚していた中国人女性が亡くなったと知り合いの刑事に告げられる。

**「白蘭。いい名前だな。その、高野白蘭っていう女が病気で死んだから、仏さんを引き取りにこいってよ。まったく、なんでこんなことまで警察がやらにゃならねえんだ。以上、ちゃんと伝えたからな、すぐ行ってやれ」**

千葉の港町。総合病院の霊安室で吾郎は「はじめて」妻と対面する。

**美しい女だった。これが自分の妻だと思ったとき、吾郎はたまらず冷えきった頬を抱いて慟哭した。**

女性の持ち物を入れた紙袋の中身を検めると封筒がでてくる。女性が亡くなる直前に吾郎に宛てて書いた手紙、ラブ・レター。 私きっと死にます。から始まる手紙。

私が死んだら、吾郎さん会いにきてくれますか。もし会えたなら、お願いはひとつだけ。私を吾郎さんのお墓に入れてくれますか。吾郎さんのお嫁さんのまま死んでもいいですか。 

書いていて、また涙が・・・。 ベストセラーになった短編集。未読の方は、この手紙だけでも読んで欲しい、と思う。


すずめおどり

2006-05-24 | A あれこれ
友人のブログに反応。ただし夏祭りの話題ではありません。

松本地方の民家、本棟造りの緩勾配の切妻屋根の棟の両端の妻飾りを「すずめおどり」といいます。近くの郷原街道でもまだ散見できますし、松本の浅間温泉にも本棟造りの旅館があります。 

諏訪から茅野地方の民家は切妻の屋根を鉄平石で葺いていました(藤森照信さんは茅野の出身、地元産の鉄平石をよく使っていますね)。

切妻屋根の/\型の破風板の頂部を×状に交叉させて、そう両手でダメってサインを出してみてください、その上に更にへの字型の板をつけてひし形 ◇ にしていますが、(ちょっと説明が分かりにくいですね)この飾りも「すずめおどり」といいます。

現在ではあまり残っていませんが、電車の窓から注意深く見ていると今でも見つけることができます。松本地方の本棟造りの飾りと諏訪地方の民家の飾りは同じ名称ですが、全く異なるものです。両者を区別するために本棟造りの飾りを「からすおどし」という別名で紹介している民家の本もあります。私もそのように記憶しています。

私の推測ですが、すずめは身近で親しみやすい鳥ですから、屋根の上で遊ぶことを歓迎したのかも知れません。一方、からすは不吉な鳥といわれてますから、「からすおどし」をつけて追い払おうとしたのかも知れませんね。

建築用語には他にもよく動物が登場します。うま、とんぼ、ねこ、いぬ、あんこう、たこ、あり・・・ また、いつか書きましょう。

タペストリー

2006-05-22 | A あれこれ

緑鮮やかな季節。

いろいろな緑が里山を覆っている。緑のタペストリー。

その代表的な3色を日本の伝統色に探してみよう。

○海松藍(みるあい) 海松(みる)色と藍色の中間色相の暗い青みの緑。松や杉、檜などの常緑樹がこの色に近いと思う。

○青竹色 黄緑系の草木の緑と区別して、それより青みの緑。この季節の唐松の色。

○若葉色 萌えでた若葉の茂みが陽光を受けて、それを逆光から透かして見たときの色はことのほか、みずみずしい。雑木の広葉の若葉の色。

こんなに緑が豊かなのにその微妙な違いをうまく説明できないのでカラーチャートの説明からの引用・・・。

残雪の北アルプス、白と青みがかったグレーの2色のタペストリー。そのなかの雪形は自然が人に宛たメッセージ。

収穫前のレタス畑、大地に敷いた幾何学模様のタペストリー。

緑のストライプは、太陽への感謝のメッセージ。 人と自然との交流。


赤と黒

2006-05-21 | A あれこれ

赤と黒 スタンダールではありません。今回は文庫本の背表紙の色について。

私がよく購入する文庫は新潮文庫、次いで文春文庫です。その他の文庫ももちろん読みますが、購入する冊数はかなり少なくなると思います。以前新潮社に電話をして文庫の背表紙の色をどのように決めているのか問い合わせたことがあります。作家の希望で決めているとのことですが、書店の棚に並べて隣の作家とかぶらないように配慮しているとのことでした。

松本清張、新潮文庫は赤、文春文庫は黒です。 松本清張は好んでタイトルに黒を使いました。清張のイメージカラーはやはり文春文庫の「黒」でしょう。

藤沢周平、新潮文庫は赤みがかった茶色、文春文庫はピンクです。藤沢周平の作品のイメージとして、ピンクは違和感があります。この作家の色はやはり新潮文庫でしょう。

吉村昭もよく読みます。新潮文庫は黒ですが、文春文庫の色、この色をどう表現したらいいんでしょうか、手元にある日本の伝統色のカラーチャートによると柳茶あたりが近いと思います。中公文庫は青ですが、この色はあまり好きではないので手元には一冊もありません。この作家のイメージカラーは濃いグレーかな、と私は思います。

司馬遼太郎の文春文庫の色は黄色ですが、これは菜の花から採った色かもしれませんね。新潮文庫がうすい緑、どちらもこの作家のイメージではないような気がします。もっと濃い色のほうが相応しいように思いますね。

ところで文庫ではありませんが講談社現代新書の背表紙、これはいけません。以前の薄い黄色の背表紙のときにはよく購入しましたが、今のデザインになってからのものは、たったの一冊しか手元にありません。表紙のデザインは好きで、平積みの状態はいいのですが、書棚に並んだあの状態、色がバラバラで文字も読みにくくてとても手に取る気になりません。

「本は見た目が5割」いや6割くらいかもしれません。 新潮文庫で好きな色の背表紙の作家は青木玉さん、背表紙の色だけではなく中身の随筆も好きです。


「人はなぜ書くの」

2006-05-19 | A あれこれ

「カラス、なぜなくの」という幼い子の問いかけに対して「カラスは山に かわいい七ッの子があるからよ」という答えはいいな、と思います。なんだかほのぼのとした気持ちになりますよね。「カラスの勝手でしょ」では会話になりません。

ブログが大流行りだそうですが「人はなぜ書くの」という問いにはどう答えますか? 小川洋子さんは『アンネ・フランクの記憶』の中で「すぐに私はアンネの真似をして日記をつけ始めた。わけもなくただひたすらに書きたいという欲求が、自分の中にも隠れていることを発見した。あの時わたしは、生きるための唯一、最良の手段を手に入れたのだと思う。」と書いています。

同書で小川さんはアンネが「わたしは書きたいんです。いいえ、それだけじゃなく、心の底に埋もれているものを、洗いざらいさらけだしたいんです。」と日記に書いていることを紹介しています。

『ブログ進化論』で著者の岡部敬史さんは「人は誰かに自分の感情や考えを発信することを拠り所にして生きていくものだ。」と書いています。

ところで松本清張の『球形の荒野』文春文庫 のラストで野口雨情の「七ッの子」が実に効果的に使われています。 老紳士と若い娘さんが海岸でこの歌を歌います。この二人、実は父娘。お互いにそのことに気づきながら口外することもなく一緒に歌うのです。

ラストシーンの引用。

**野上顕一郎は自分でも低声(こごえ)で歌いながら、全身に娘の声を吸い取っていた。 カラス、なぜなくのカラスは山にかわいい七ッの子があるからよ・・・・・・・・・・ 合唱は波の音を消した。声が海の上を渡り、海の中に沈んだ。わけのわからない感動が、久美子の胸に急に溢れてきた。気づいてみると、これは自分が幼稚園のころに習い、母と一緒に声を合わせて、亡父に聞かせた歌だった。**

本題の「人はなぜ書くの」この問いにあなたはどう答えますか?


小川さんの作品も読もう

2006-05-18 | A 読書日記

**目の前に現れたのは、化粧気のない、清楚な大学院生のような人だった。**

藤原正彦さんは、取材のために研究室に現れた小川さんの印象をこう書いている。『博士の愛した数式』のカバーの折り返しの写真からもそんな雰囲気が伝わってくる。

『アンネの日記』、おそらく世界で一番読まれている日記だろう。小川さんが、『アンネの日記』と初めて出会ったのは中学一年の時だったという。そしてその出会いが、作家を志すきっかけとなったとのことだ。

『アンネ・フランクの記憶』角川文庫を読んだ。小川さんがアンネの足跡をフランクフルト、アムステルダムなどに訪ねた旅の記録。

アンネが日記を書いた隠れ家、強制収容所などを訪ねた時の心の動きを静かに丁寧に書いている。アンネの親友や彼女の家族を当時助けた人達との面会の様子などを読んで、涙ぐんでしまった。

作家としての原点を確認する旅。 川上弘美さんが「新刊が出たら必ず買う」という作家の一人が小川洋子さんだという。硬質な筆致で描かれている小川さんの小説は川上さんの小説とは随分雰囲気が違う。

私が新刊が出たら必ず買うのは川上さんだけ。小川さんの作品は文庫になったら必ず買うことにしている。


ふわふわゆるゆる

2006-05-17 | A あれこれ

**川上弘美さんのふわふわゆるゆる不思議ワールドが好きで彼女の文章を読んでいると幸せです。**

私が考えたブログのタイトルの案と同じタイトルで既にブログを書いておられたケロケロさんからいただいたコメントの一部です。「ふわふわゆるゆる不思議ワールド」そう、カワカミ・ワールドの魅力にピッタリ!な表現。 

実は今回は昨晩読み終えた小川洋子さんの『アンネ・フランクの記憶』角川文庫について書こうと思っていましたが、急遽予定を変更しました。

高校の同期生のメーリング・リストにもときどき投稿しています。川上弘美さんの作品についても何回か書いています。その一部をここに再掲してみます。

『ゆっくりさよならをとなえる』 川上弘美/新潮社このエッセイ集はなかなか面白かったです。春先の縁側で読むといいかもしれません。お茶でものみながら・・・「川上弘美の追っかけ状態」継続中です。ホンワカとした気分になれるのがすごくうれしいです。

『なんとなくな日々』 川上弘美/岩波書店きれいなオレンジ色の無地の表紙。の~~んびり、ゆ~~ったりとした心持ちになるエッセイ。

春、川上弘美を読むのにいい季節になってきた。新刊、出ないかな・・・。

私も川上作品の印象はケロケロさんと同じです。 新刊『夜の公園』中央公論新社 を先日読みました。浮気、離婚、妊娠・・・ 例によって川上さんの個性的な文体で描かれていますが、なんだか今回はやけに生々しい。帯には「恋愛の現実に分け入る川上弘美の新たな世界」とあります。確かに今までとは違う世界に入り込んだという印象。今から次回作が気になります。

『椰子・椰子』新潮文庫は私も好きな作品です。山口マオさんの絵も川上さんの作品にピッタリです。近作では『古道具 中野商店』新潮社 が好きです。装丁もなかなかいいと思います。

『椰子・椰子』の解説で南伸坊さんは**川上さんの小説には、奇妙な、トボけた、不気味なできごとが次々におこるけれども、全体にのんびり、たのしい心になるのはどうしてなのか、不思議です。**と書いています。

ほんと、そうですね。 書店で、新刊を手にしてみて下さい。 

「中央公論新社 営業部」


今夜は「景観」について考える

2006-05-15 | A あれこれ

なんだか、硬い話題になりそうですが・・・。

2004年の12月に「景観法」が施行されました。少しコピーします。

(目的)第一条 この法律は、我が国の都市、農山漁村等における良好な景観の形成を促進するため、景観計画の策定その他の施策を総合的に講ずることにより、美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現を図り、もって国民生活の向上並びに国民経済及び地域社会の健全な発展に寄与することを目的とする。ということだそうです。

第二条(基本理念)の第五項は次の通りです。良好な景観の形成は、現にある良好な景観を保全することのみならず、新たに良好な景観を創出することを含むものであることを旨として、行われなければならない。

白川郷や五箇山の合掌造りの民家の集落は有名ですが、この集落は「現にある良好な景観を保全している」ということになるでしょう。もともと日本の民家はそれほど耐久性のある材料で造られてはいません。 

合掌造りの民家の屋根は茅で葺いてありますが30年くらいで葺き替えなければなりません。「結」という地域住民の互助組織によって、葺き替えがなされています。世界遺産に登録されているこの美しい集落の景観を支えているのは、この「結」という地域社会のシステムですが、過疎化、高齢化に伴ってその維持が難しくなっていると聞きます。

昔は全国に、それぞれの地方に固有の美しい集落がありましたが、屋根などを更新することが前提の民家はそれを支える、先のシステムを失って次第に姿を消していきました。

先日書いた木曽地方のこけら板葺きの屋根も職人の減少や経済的な理由で次第に施工が容易で、安価なトタン葺きの屋根に変わってしまったのでしょう。 他の多くの職種の職人も減少し、建築文化を支える技術が消えていってしまう(消えてしまった)・・・。悲しいかな、日本の現状です。

私も学生の頃地方に民家を訪ねて出かけたことが何回かありますが、その頃が民家がきちんと残っていた最後の時代だったのかも知れません。 これからは景観法の基本理念の「新たに良好な景観を創出すること」を実践していかなくてはならないのでしょう。

(定義等)第七条 この法律において「景観行政団体」とは、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第二百五十二条の十九第一項の指定都市(以下この項において「指定都市」という。)の区域にあっては指定都市、同法第二百五十二条の二十二第一項の中核市(以下この項において「中核市」という。)の区域にあっては中核市、その他の区域にあっては都道府県をいう。ただし、指定都市及び中核市以外の市町村であって、都道府県に代わって第二章第一節から第四節まで、第四章及び第五章の規定に基づく事務を処理することにつきあらかじめその長が都道府県知事と協議し、その同意を得た市町村の区域にあっては、当該市町村をいう。

なんと分かりにくいことでしょうね、日本の法文は分かりにくく書かなければならないっていう規定がどこかにあるのかも知れません。 で、この第一項のただし書きの規定によって景観行政団体となっている市町村は全国で100以上あるそうですが、長野県では小布施町だけです。他県では日光市、津和野市、萩市、湯布院町などがなっています。

先日の新聞に  という記事がありました。記事によると、小布施でさえも近年プレハブ住宅が増えているとのことで、小布施の街並みに合ったプレハブ住宅の開発を依頼し、それに応じたメーカーのモデル住宅の展示場が今秋できるそうです。 

宮本忠長さんの主導で実現したそうですが、これからの美しいまちづくりの現実的な方法として、大いに注目すべきだと思います。 それぞれの市町村が、独自のデザイン・コード(デザインの基準、規範)を示すことができるかどうか、そのことが課題になりそうですが。

法文の引用もしたので今回は意に反して随分長くなっていしまいました。 この際ついでに

(住民の責務)第六条 住民は、基本理念にのっとり、良好な景観の形成に関する理解を深め、良好な景観の形成に積極的な役割を果たすよう努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する良好な景観の形成に関する施策に協力しなければならない。

のだそうです。


市町村章と楕円

2006-05-14 | D 新聞を読んで

以前、新聞(信濃毎日新聞を略記します)に合併後の長野県81市町村が地図と共に紹介されていました。そこに市町村章(シンボルマーク)も載っていました。伊那市だけは市章選定中となっていましたが、昨日の新聞に住民投票で1位になった案が載っていましたからまもなく決定するでしょう。

市町村章を見ていると気がつくのですが、大多数に真円(まん丸)やその一部が使われています。長野市、松本市、塩尻市などもそうです。円によって住民の和や協力などをおそらく表現したのでしょう。直線やその他の線だけでデザインされたものはごく少数です。

ところが今回の大合併で新しくできた市町村章には真円はあまり使われていません。新しい市町村が長野県に八つできましたが、そのうちの安曇野市、木曽町、千曲市、そして東御町の章に楕円が使われています。楕円は以前からある県内の市町村章には全く使われていません。おそらく他県でも事情は同じでしょう。

昔はデザインのツールとしてコンピューターがありませんでしたから当然、手描きです。デザイナーが仮に楕円をイメージしたとしてもそれをきちんと表現することができなかったのでしょう。手描きで数学的に規定できる図案は円と直線の組み合わせくらいに限られてしまう。そういう事情によるのだろうと私は思います。

新しい市町村章は当然コンピューターを使ってデザインされています。以前テレビでいくつかの市町村章に応募して当選したデザイナーが紹介されていました。もちろん手描きの案を応募した人もなかにはおられましたが。

建築のデザインのツールとしてもCADを使うことが当たり前になり、最近では平面形が楕円の建築も出来るようになりました。

コンピューターを使用することが当たり前になった現在の状況が市町村章に採用される楕円にも現れているんだ・・・。

新聞を眺めながら、そう思っていました。


雨がやんだ、本でも読もう

2006-05-13 | A 読書日記

『人は見た目が9割』は情報の多くは言葉以外の例えば顔の表情や態度、服装、相手との距離などによって伝わることを例示し、論じた本だった。

『ウルトラ・ダラー』の著者は前NHKワシントン支局長。情報を収集し伝えることを仕事としてこられた方だ。あの9.11では連日TVで事件の情報を伝えていたことを記憶している。

この本の中には、情報を秘密裏に集める場面がいくつか出てくる。引用ばかりで気が引けるが・・・「ジャカード織の分厚いカーテンのリールに超小型の赤外線暗視カメラが据え付けられていたことに、ふたりは気づかなかった。」「会議室の天井の一隅から、小型のビデオカメラが成島の指先をじっと見つめていた。」「スティーブンは成島のノート型パソコンの左横にあるUSBポートにフラッシュメモリを素早く差し込んだ。四ギガバイトの高速メモリだ。」

物語はBBCの特派員にしてイギリスの秘密諜報部員、スティーブン・ブラッドレーを中心人物として展開していく。著者の知識と経験を基に描かれた長編サスペンス。

本の帯には「これを小説だと言っているのは著者だけだ」などと書かれているが、国家的な陰謀はこんなに凄いのか・・・。

日本のハイテク企業の社員、成島はパソコンを操作する指先をソウルのホテルの会議室でビデオに撮られるし、機内ではトイレにたった空きにパソコンの中の情報を吸いとられる・・・ エピローグで、物語は一気に終局に向かうがもう少しじっくり描いて欲しかった。

この小説は予想に反して女性の読者が多いと聞く。読了して、その理由が分かったが敢えてそのことは記さない。このブログの読者の女性にも読んで欲しいから。