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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

火の見櫓が身にまとうドレスは

2021-08-31 | g 火の見櫓のある風景を撮る〇


撮影日2021.08.31 3無33型

火の見櫓が身にまとうドレスはいくつになってもハデハデ


 

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松本市新村の火の見櫓

2021-08-29 | g 火の見櫓観察記


(再)松本市新村 3脚〇〇型 撮影日2021.08.28



逆光、火の見櫓がシルエット状に写っている。屋根下に半鐘があるのか分かりにくい。設置してあるのは半鐘ではなく、モーターサイレン。踊り場のところに双盤(型の半鐘)がある。



この火の見櫓、避雷針の飾りが造形的になかなか好い。


 

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朝日村古見の火の見櫓

2021-08-28 | g 火の見櫓観察記


(再)東筑摩郡朝日村古見 3脚66型 撮影日2021.08.27





植物の生長力に驚き、火の見櫓が使われなくなっていることを悲しむ・・・。


 

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生坂村五社宮の狛犬

2021-08-27 | g 狛犬〇

 久しぶりの狛犬。東筑摩郡生坂村下生野の五社宮に古い狛犬がある、ということをしばらく前に地元紙・MGプレスの記事(8月11日付)で知った。先日、所用で近くまで出かけた際、五社宮に立ち寄って観賞した。



一般的には向かって右側が口を開けている阿形(あぎょう)の獅子、左側が角があって口を閉じている吽形(うんぎょう)の狛犬、という配置だけれど、ここの狛犬はこの特徴からすると、左右逆。設置するときに左右間違えた、ということでないことは狛犬の姿形から明らか。まあ、何事にも例外はあるもの、この場合も何らかの理由でこうなっているのだろう(と割り切ってしまおう)。以下、便宜的に左右とも狛犬と書くことにする。

▽右側の狛犬




石段を登ったところに鎮座している狛犬。狛犬の際まで階段が迫っているので、正面から写真が撮れなかったが、全体のバランスは良い。目が青い。MGプレスの取材記者も目が青いことに注目したようで、いつ頃から青かったのか、取材を試みたようだが分からなかったという。このくらいの彩色なら気にならない。なかなか顔つきも好い。


▽ 左側の狛犬



つるりんちょな体 



尾がつるりんちょ(平滑)な体に貼り付くように彫られている。参拝する時は正面か側面しか目に入らないが、後ろ姿にも注目したい。バックシャンな狛犬も少なくない。




嘉永六丑年という刻字がある。その上の二文字が読めない。下は時?上は分からない・・・。読めないのは知らない漢字だからではなく、知識がないから。左側の文字は惣代世話人と読める。嘉永六年は西暦で1853年、黒船来航の年。この年に建立された。今から270年近く前のことになる。


△ 拝殿


△ 神楽殿 


 

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消えゆく火の見櫓

2021-08-26 | g 消える火の見櫓 残る火の見櫓


086 松本市高宮北 4脚8〇型 撮影日2021.07.04


撮影日2021.08.21(火の見櫓はもう無い。上の写真とは逆方向から撮影した)

 国道19号沿いに立っていた火の見櫓が8月20日に解体撤去された。撤去されたのは戦前、1930年(昭和5年)に建設された火の見櫓で、松本市内では最も古い部類の1基だった。

列車のラストランには多くの鉄道ファンが駅のホームに押し寄せ、停車中の姿を撮影するなどして別れを惜しむ様子がテレビのニュース番組でも取り上げられる。だが、長年地域を見守り続けてきた火の見櫓が取り壊されるという日に、その様子を見守る人はまずいない。

寂しい・・・。


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「夜明け前」

2021-08-26 | g 読書日記

 信濃毎日新聞に毎年7月から8月にかけて連載されるインタビュー記事「山ろく清談」がいつ頃始まったのか分からないが、1966年8月19日、今から55年も前の「山ろく清談」に北 杜夫が出ていたことが『マンボウ思い出の昆虫記』(信濃毎日新聞社2013年)で分かる(過去ログ)。


『マンボウ思い出の昆虫記』112頁

今年最後の「山ろく清談」、作家の宮本 輝へのインタビューが24日に掲載された。**70歳を過ぎ再び読書の虫になりました。トルストイの「戦争と平和」、島崎藤村の「夜明け前」・・・。天文学とか遺伝子工学の本も読みます。**と記事の中のにある。

しばらく前に僕が再読を終えた「夜明け前」については、19日のMGプレスの読者投稿欄にも「今、読みたい「夜明け前」」という見出しの投稿が掲載されていた。

投稿者は**読破を試み、途中で心が折れかけたなら、全4巻のうちの最終巻から読むという“奥の手”を試してみるといい。**と書いておられる。僕も同感。最終巻を読めば、主人公の青山半蔵がどのような人生を送ってきたのか気になって、第1巻に戻って、初めから読みたくなるのではないか、と思う。



この長編小説を加賀乙彦は日本の近代小説の白眉、と評しているが、高島俊男は『お言葉ですが・・・』(文藝春秋1996年)で、**へたくそな小説で、あんなものを名作という人の気がしれないが(後略)**(68頁)と手厳しい評価をしている。まあ、評価は人それぞれ。

**木曽路はすべて山の中である。**という有名な書き出しで始まるこの長編は**一つの音の後には、また他の音が続いた。**と、終わる。

何の音なのか、この小説を読んだ人なら直ちに分かるかもしれませんね。ぼくはこんなふうに終わることを忘れていましたが・・・。


 

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C1 新型コロナワクチン本当の「真実」

2021-08-25 | g 読書日記

C1『新型コロナワクチン本当の「真実」』宮坂昌之(講談社現代新書2021年)

480

 新型コロナワクチン接種をためらっている人に一読をおすすめしたい本。**本書は、免疫学者である著者が、新型コロナウイルスとワクチンに関する最新の科学的知見を分析して、一般の方々にぜひ知っていただきたい情報をまとめたものです。**と「はじめに」に紹介文がある。

カバーと言った方がよいと思うような幅広の帯に**数年後に悪影響や副作用は出ない?**とある。まさにこのことが心配で接種を控えている人も少なくないと思われるが、本書の中で著者の宮坂昌之氏(*1)はこのことについても、分かりやすく解説している。

本書の構成は以下の通り。

はじめに
プロローグ 新型コロナウイルス感染症はただの風邪ではない
第1章 新型コロナワクチンは本当に効くのか?
第2章 新型コロナワクチンは本当に安全か?
第3章 ワクチンはそもそもなぜ効くのか?
第4章 ワクチン接種で将来「不利益」を被ることはないのか?
第5章 ワクチン接種で平穏な日常は戻るのか?
第6章 新型コロナウイルスの情報リテラシー
第7章 「嫌ワクチン本」を検証する
第8章 新型コロナウイルス感染症の新しい治療法、そして未来
エピローグ

数年後の悪影響について、宮坂氏は
**万が一、新型コロナウイルスの一部が私たちのDNAに組み込まれて、これが子どもや孫まで遺伝するのではないか・・・** 
**数年後、ウイルスの遺伝子が動き出して、思わぬ影響をもたらすのではないか**(ともに148頁)
といったことを具体的に挙げ、このような不安に対して、
**mRNAワクチンによって、ウイルスのmRNAが細胞に入っても、そこからDNAが合成されることはないため、私たちのDNAにウイルスが組み込まれることはないのです。**(149頁)とセントラルドグマ(情報の流れの一方向性で、逆行することはない。すなわちDNA→mRNAという流れ、この逆のmRNA→DNAという流れはない)という基本原則により説明している。

さらに、**mRNAワクチンの中にある遺伝子はスパイクタンパク質を作る設計図しかありません。特定のパーツしか作ることができない単純な遺伝子が、複雑極まりないヒト遺伝子の転写制御システムを組み換えることなどできません。**(149、150頁)と説明している。

**そもそもウイルス遺伝子がゲノムに入り込むことを恐れるのであれば、ワクチン接種よりも、生きた新型コロナウイルスそのものが細胞内に入り込む「感染」を恐れるべきです。**(161頁)確かに。

**専門家がマスコミを介して発する情報のなかにも科学的なエビデンスが著しく不足しているものも少なくありません。**とも指摘している。

まあ、様々な情報の中から信ずるに足る情報だけを取り出して、それらをきちんと吟味・判断して接種する、しないを判断するしかないだろう。


*1 大阪大学免疫学フロンティア研究センター招へい教授(カバー折り返しに掲載されている著者のプロフィールより)

本書をまだ読了しておらず、しかも内容を咀嚼できていないので、本文の引用が多くなっていますが、ご容赦願います。

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プルアパートベイズン

2021-08-23 | g あれこれ考える〇



 先週の土曜日(8月21日)、ブラタモリで長野県の諏訪が取り上げられた。題して「なぜ人々は諏訪を目指すのか」。

番組の中で諏訪湖は横ずれ断層でできたということが紹介された。番組を見ていて、この横ずれ断層のことを詳しく紹介した新聞記事があったこと、そして、その記事を保管していることを思い出した。昔のことはよく覚えているものだ。

1996年(平成8年)、信濃毎日新聞に「活断層を歩く」というタイトルの記事(写真上)が連載されていて、同年の12月10日付朝刊では松本市街地の軟弱地盤のことが取り上げられていた。この記事にプルアパートベイズンの模式図(写真下)が載っている。この用語はブラタモリには出てこなかったけれど、諏訪湖の形についてこの模式図によく似た図により説明がなされた。



新聞記事には**なぜ、松本駅を中心に沈降し、南北の方向に軟弱地盤が細長く延びているのだろうか。(中略)プルアパートベイズンのモデルで説明できるかもしれないという。牛伏寺断層と松本盆地東縁断層は、真っすぐにはつながらない。二つは、ずれていて、松本市街地で左ステップしている。そう考えた場合、その間が左横ずれ断層の動きから、底抜けになり、くぼ地になる可能性がある。諏訪湖なども、そうだと言われている。** とある。関連サイト→こちら

諏訪では地盤が大きく陥没して諏訪湖ができたが、松本は諏訪程陥没せず、沼地のような状態になったということだろう。諏訪と松本の地形の成因は同じということ。松本の沼地は深瀬と呼ばれていたが、それが深志と変化したと聞いたことがある(ような気がする)。松本がもっと深く陥没していたら、松本にも湖ができていたかもしれない。

ところでブラタモリ、次回(9月11日)は松本、また見なくちゃ。


 

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本が好き

2021-08-19 | g 読書日記



 物として実体を伴う本は、想い出をストックすることができる。本が好きな理由(わけ)にはこんなこともある。

倉田百三の『出家とその弟子』(新潮文庫)には760728という日付とカフェの名前、5pm~7pmという時間、それから760801~というこの文庫を読み始めた日付が記されている。このようなメモが無くても、なぜこの文庫を買い求めて読んだのか、思い出すことができる(過去ログ)。45年も前のことなのに・・・。

今流行りの電子書籍ではこのように記憶を留めるなどということは無理だろう。それは単なる文字情報に過ぎない。スマホやパソコンの画面の文字を見つめて、想い出がよみがえるなどということはまずないだろう。



数日前から漱石の『門』(新潮文庫)の再読を始めた。この文庫には『出家とその弟子』とは違い、想い出は無い。ただ、なんとなく藤村の次は漱石を読もうと、自室の書棚を見ていて、取り出した。既に書いたことだが、今後再読するとしたら、夏目漱石、北 杜夫、安部公房の小説だろう、と残した。『門』は何年か前に読んでいる(過去ログ)が、ストーリーについてはよく覚えていない・・・。

この頃、書店に並ぶ文庫はカバーがやけに目立つが、読んでみたいと思うようなものがあまりない。内容にそぐわないカバーデザインで、通俗的な作品ではないかと思ってしまうものもある。

小さな活字、変色した紙、いいなぁ。


 

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安曇野市三郷の火の見櫓

2021-08-16 | g 火の見櫓観察記


(再)安曇野市三郷明盛 3脚66型 撮影日2021.08.15



消火ホースを掛けてあるので、火の見櫓の高さは14、5メートル、と見当がつく。



この火の見櫓にはまだ半鐘が吊り下げてあり、スピーカーもサイレンも設置されていない。見張り台まわり、すっきり。見張り台の床には平鋼を1方向にのみ、すのこ状に設置してある。

手すりや避雷針に機能的には必要ではない飾りがあるし、屋根はわざわざ手間がかかるような形状にしている。なぜだろう・・・。経済性と工期短縮が最優先の現代では考えられないことだ。



ワイヤーに取り付けたフックに消火ホースを掛けてある。フックを地上に降ろして、消火ホースを引掛ける。ワイヤーを引き、フックを所定の高さまで引き上げる。滑車は大した発明だと思う。



 

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テレオリンピック構想

2021-08-12 | g あれこれ考える〇

■ はじめに 

東京オリンピックのために新たに建設された国立競技場の当初の計画案には多くの異論・反論が出た。建設費が予定額を大幅にオーバーすることや、未来的というか、SF的というか、異様と評してもよいとぼくは思うが、デザインが周辺の環境にまったくそぐわないことなどがその理由で、白紙撤回されるという事態になった。東京オリンピックはこの躓きをはじめ、準備期間中にいくつもの問題が起き、その都度、海外も含む多くのメディアが大きく報じた。3兆円とも言われるオリンピック費用をどうするのか、信濃毎日新聞は今日(12日)の朝刊で「都と国 赤字巡り泥仕合」という見出しでこの問題を報じている。**国と都は経費を巡って何度も衝突してきた経緯がある。異例ずくめの大会が幕を閉じた後に、祝典の華やかさとはかけ離れた泥仕合が始まることになる。**記事はこのような一文で結ばれている。

■ 東京だけではなかった競技会場―東京オリンピック

真夏の開催ということで、選手にとって過酷な天候も懸念され、マラソンは北海道で行われた。当日の気温は東京とあまり差はなかったが。東京オリンピックは東京都だけでなく、例えば自転車競技は静岡、バスケット・ゴルフは埼玉、サーフィンは千葉というように複数県の会場でも競技が行われた。

一国一都市開催から一国複数都市開催へ。次回2024年のオリンピックはパリで開催されることになっているが、東京オリンピックと同様、パリだけでなく、北部のリール、南部のマルセイユなどでも競技が行われる。

■ 複数国開催の「テレオリンピック」という構想

パリオリンピックのサーフィン競技は南太平洋のタヒチで行われるという。タヒチはパリから見れば地球の反対側ではないか。こうなると複数国開催を構想するのは容易だ。一国開催にこだわる必要性があるのだろうか。開催のルールとしてこのような規定があるのなら、ルールを変えればよい。既に2002年FIFAワールドカップの日韓共同開催という事例もある。テレオリンピックはその応用、発展形だ。

例えば、柔道は日本(東京)、サッカーはブラジル、体操はロシア、陸上アメリカ、卓球中国などというように複数国で開催するテレオリンピック。別にある競技をその競技の強豪国で開催することもないが。

選手村は不要、人数的に会場近くのホテルを充てることで足りる。財政的な負担も分散される。世界各国で同時開催となればいろんなことで各国が協調することが必要になるだろうから、国と国の間(国家間ということばはあまり使いたくない)の良好な関係保持にも効果があるだろう。

■ 開会式はサイバー空間で

開会式や閉会式も一つの会場で行うこともないだろう。サイバー空間を構築して行えばよい。先日の東京オリンピックの閉会式ではバーチャルな演出も行われている。国立競技場の空間に浮かぶ無数の発光点が次第に集まって五輪になるという演出はCG表現だったようだ。北京オリンピックでもCG表現があったことが知られている。

選手たちがひとつの会場に集まることに意義があるという主張は、コロナ禍で広まったテレワークを経験してみれば、説得力が弱くなることも予想される。

■ テレオリンピックの実現 30年、40年後には

このようなテレオリンピックの開催はハードの面でもソフトの面でも現時点で実行に移せると思う。仮に問題というか課題があるとしても、競技会場の設計、施工より短期間で、ローコストで十分解決できるだろう。

もしかしたら30年、40年後くらい先にこのようなテレオリンピックが開催されるかも知れない。その時、そう言えば昔、テレオリンピックを構想していた日本人がいたなあ、となったりして。 

こんなことを夢想することは楽しい、でしょ? 

1964年に開催された東京オリンピック、その時、星 新一がおもしろいことを構想している(過去ログ)。





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午後カフェで「夜明け前」を読む

2021-08-08 | g 読書日記

320

 島崎藤村の長編小説『夜明け前』の第4巻(第二部下)後半まで読み進んだ。江戸末期から明治へ、主人公の青山半蔵は大きな時代の流れに巻き込まれ流されてしまった、と言ってもいいのかもしれない。大政奉還から王政復古への流れはまぼろし、時代は単なる西欧化へと流れていく。半蔵の落胆、いや失望・・・。

この小説は日本の近代小説の白眉とも評されるが(過去ログ)、読み通すことがしんどい。だから読んだというだけで満足感が得られる。

今日は朝から庭の雑草と格闘、そう、8時から始めて11時半ころまで「真夏の格闘」。

午後、スタバに出かけた。「いつもと違う時間ですね」馴染みの店員から声をかけられた。いつもと違う窓際の席で『夜明け前』を読んだ。

長編も残すところ90頁。これから半蔵の晩年の悲劇的な人生が描かれる。


 

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