透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「情報列島日本の将来」黒川紀章

2020-11-20 | H ぼくはこんな本を読んできた



 再開した「ぼくはこんな本を読んできた」の2回目は理系本を並べてある書棚(*)からで、『情報列島日本の将来』黒川紀章(第三文明社1972年初版発行)。

『情報列島日本の将来』は黒川紀章が30代のときに書いた本だが、既にこの本の第一章「二元論からの脱出」で「共生」という概念について触れている。

日本の伝統的な住宅にみられる縁側、内でも外でもない空間。建築と自然とを繋ぐ役割を果たす「縁」。建築と自然、あるいは都市との共生はこの「縁」空間、「中間領域」を設けることで可能となる。「共生」という概念の肝は要するにこういう考え方だと私は理解している。

この考え方を最も明快に具体化したのが福岡銀行本店だと、私は思う。アーバンルーフという屋根のついた「中間領域」を都市に開放している。学生時代に見学に出かけてこの空間に設えてある黒御影石のベンチに座ったことを今でも憶えている。

黒川紀章は建築のみならず中国やロシアの地方都市の計画なども手掛けて国際的に活躍した建築家だがその実績に相応しい評価を必ずしも得ていないように思う。何故だろう。

過去ログ1 
過去ログ2
過去ログ3


2007.10.13の記事再掲

* 小説やエッセイなど文系本を納めた書棚を「書棚1」、理系本を納めた書棚を「書棚2」とする。


「利休にたずねよ」山本兼一

2020-11-17 | H ぼくはこんな本を読んできた

 「ぼくはこんな本を読んできた」というカテゴリーではちょうど100稿になるまで文庫本を取り上げた。

自室の書棚を整理したくて今年の5月に1700冊の本を松本市内の古書店に引き取ってもらったが、その大半(1140冊)が文庫本だった。文庫本は単行本に比べて小さいからカバンやポケットに入れて持ち歩くことができ、隙間時間にも読める。それに安価。このような理由で小説は文庫で読むことが多かったが、もちろん単行本で読んだものもある。

「ぼくははこんな本を読んできた」というカテゴリーを再開して、単行本を取り上げていこうと思う。ジャンルは小説に限らず、広く、広く・・・。

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最初に取り上げるのは『利休にたずねよ』山本兼一(PHP研究所2009年第1版第4刷)。なぜ、この小説を真っ先に取り上げるのか、その理由(わけ)は書かない。

利休の美を追求する情熱は一体何によるものだったのか。それを求めて時を遡って進む物語。切腹の日の朝から50年も前の出来事にまで何篇もの短篇を連ねて遡っていくというミステリアスな構成。そしてたどり着いたのはひとりの美しい女性だった・・・。


 


北 杜夫の作品

2020-09-28 | H ぼくはこんな本を読んできた

 「ぼくはこんな本を読んできた」 このカテゴリーの最終、100稿目は北 杜夫の作品。

北 杜夫の作品は文庫本で38冊、単行本他でも同じくらい書棚にあるが、次の4作品を取り上げたい。

『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫1973年6版)
『幽霊』(新潮文庫1981年29刷)
『木精』(新潮文庫1979年4刷)
『楡家の人びと 上下』(上:1978年16刷 下:1978年14刷)





『どくとるマンボウ青春記』過去ログ

**そうしたつまらない、そのくせ貴重なように思える数々の追憶も今は幻(まぼろし)となって、闇に溶けこんでいる。私は卒業生で、たとえ松本にいるにせよ、もはや松高生ではないのであった。たしかに、あれこれの変ちくりんな友人たちの姿は私のかたわらにすでになく、自分は借着のように身につかぬ大学生とやらになって、ただ一人、懐しさのこびりついた町を単なる外来者として蹌踉(そうろう)と歩いているのだな、と私は思った。**(173、4頁)

北杜夫はこういう表現が上手い作家だなあ、と改めて思う。私が惹かれるのは作品に漂うこの寂寥感。


『幽霊』過去ログ


『木精』過去ログ

**ぼくは椅子にかけた女に近づき、その腕を調べようとして、なにげなくその顔立ちを見た。すると、幼いころから思春期を通じて、ぼくが訳もなく惹きつけられていった幾人かの少女や少年の記憶が、たちまちのうちに、幻想のごとく立ちのぼってきた。あの切抜いた少女歌劇の少女の顔にしても、たしか片側は愉しげで、もう一方の片側は、生真面目な、憂鬱そうな顔をしてはいなかったか。その女性―まだ少女っぽさが残っている彼女の顔は、あの写真の片面同様、沈んで、気がふさいで、もの悲しげだった。**(33頁)

ぼくはブログにこの件を何回も載せた。


『楡家の人びと』過去ログ 

下巻のカバー折り返しに三島由紀夫の書評が掲載されている。その一部を抜粋する。
**戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つである。
これほど巨大で、しかも不健全な観念性をみごとに脱却した小説を、今までわれわれは夢想することもできなかった。
これは北氏の小説におけるみごとな勝利である。これこそ小説なのだ!** 三島、激賞。


本稿を以って「ぼくはこんな本を読んできた」を終了するが、総括的な一文を別稿で書きたいと思う。 


安部公房、夏目漱石、北 杜夫、この3人で文庫本80冊。   131


夏目漱石の作品

2020-09-27 | H ぼくはこんな本を読んできた

 夏目漱石の作品は手元に文庫で23冊ある。その中から1冊を挙げるなら、私は『吾輩は猫である』だ。


『吾輩は猫である』夏目漱石(角川文庫 左:1966年18版 右:2016年改版121版)

猫という第三の眼を設定して漱石自身をほかの友人たちと同列に置き、客観的に自己観察している点がこの小説、漱石のすごいところ。

この作品は漱石38歳の時のデビュー作。ストーリーらしいストーリーがあるわけではなく、苦沙弥先生の自宅を訪ねてくる友人たち(迷亭、寒月、東風、独仙ら)を猫が観察し、彼らが交わすさまざまな会話を論評するという趣向。彼らの会話にはユーモアがあるし、単なる与太話ではもちろんない。この作品の魅力は彼ら知識人の会話そのもの。


 


安部公房の作品

2020-09-27 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 「ぼくはこんな本を読んできた」 最後の3稿は安部公房、夏目漱石、北 杜夫、この三人の作家の作品にしようと少し前から決めていた。手元にある文庫本の少ない作家から順番に掲載したい。

安部公房の作品は単行本で何冊か、文庫本では19冊あるが、その中からあえて3冊、3作品選ぶとすれば、次の作品だ。
『砂の女』(新潮文庫1981年発行)
『方舟さくら丸』(1990年発行)
『箱男』(新潮文庫1998年31刷)

更にこの中の1作品となるとやはり『砂の女』かな。例によってこの文庫のカバー裏面の紹介文から引く。**(前略)ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のなかに人間存在の象徴的姿を追求した書下ろし長編。20数カ国語に翻訳された名作。**

何作も文庫化されていて、よく読んだ作家は他に大江健三郎や川端康成、三島由紀夫、松本清張、司馬遼太郎、藤沢周平、吉村 昭、南木佳士、村上春樹・・・、と少なくないが、この先再読するとすれば誰だろうと考えた結果、先の三人を残したという次第。


『方舟さくら丸』:核時代の方舟に乗ることができる者は、誰と誰なのか? 現代文学の金字塔。
『箱男』:読者を幻惑する幾つものトリックを仕掛けながら記述されてゆく、実験的精神溢れる書下ろし長編。

カバー裏面の作品紹介文より。

 


「文学と私・戦後と私」江藤 淳

2020-09-26 | H ぼくはこんな本を読んできた

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「ぼくはこんな本を読んできた」 このカテゴリーに載せる記事は本稿を含め、あと4稿。最後に取り上げる作品をあれこれ迷った。で、本稿は『文学と私・戦後と私』江藤 淳(新潮文庫2007年10刷改版)にした。


江藤 淳の随筆集のカバーデザインはもっと落ち着いた感じのものが合っているのではないかと思うが、このデザインには何か意図するものがあったのだろう。

あとがきには次のような件がある。**この戦後の二十八年という歳月のあいだに、私も人並の苦労はして来たような気がする。そういう私が、今までどうやら生きて来られたのは、文学というもののおかげであり、とりわけていえば、文章を書くという行為のなかに、喜びを見出して来たためだったような気がする。
そして、どんな文章を書くのが愉しいといって、随筆を書く喜びにまさるものはない。(後略)** 

江藤 淳の作品では既に「夏目漱石」を取り上げているが(過去ログ)、このような論考は気楽に書けるものではないということは容易に分かる。比して筆に任せて書くことは、楽しいだろうなぁ、と思う。

**自身の文学への目覚め、戦後の悲哀を喪失感。海外生活について、夜の紅茶が与える安息、そして飼い犬への溺愛――。個人の感情を語ることが文学であるという信念と、その人生が率直に綴られた、名文光る随筆集。**(カバー裏面の本書紹介文からの引用)


本書の初版:1974年


「華氏451度」レイ・ブラッドベリ

2020-09-24 | H ぼくはこんな本を読んできた



「読まずに死ねるか本」の1冊、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』ハヤカワ文庫

■ 思考実験は何も理系的な課題・内容ばかりではない。小説もまた思考実験の所産、ということができるだろう。

『華氏451度』を読んだのは2019年の7月。このSF小説のことを知ったのはたぶん大学生の頃。あるいはその時にざっと読んだのかもしれないが、記憶に無い。

本を所持することも読むことも禁じられた社会。主人公はファイアマン(消防士ではなく、昇火士)。隠匿されている本を昇火器で焼き尽くすのが仕事。こんなディストピアで人はどうなるのか、生きていくことができるのか・・・。

読書離れが指摘されて久しい。最も多読な4年間を過ごすはずの大学生ですら本を読まなくなって、部屋に書架も無ければ蔵書もないという現実。現代社会はブラッドベリが風刺した社会になりつつあるのではないか・・・。


2019年7月15日「本が好き」の記事 再掲。 96稿目、あと4稿・・・。
 


「君たちはどう生きるか」吉野源三郎

2020-09-21 | H ぼくはこんな本を読んできた

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『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫2018年第83刷発行)

 およそ1,400冊あった文庫本、今年5月の減冊で250冊になった。残った文庫本は20代、30代のころ読んだものが多いが、この本を読んだのは一昨年、2018年の5月のことだ。

巻末に著者が書いた「作品について」という文章が収録されているが、それによると「君たちはどう生きるか」は1937年に出版されたという。岩波文庫に加えられたのが1982年。以降、版を重ねて手元にあるのは第83刷。何回も同じことを書くが、名著は読み継がれる。

**著者がコペル君の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。それは、人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問が社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問われねばならぬ、というメッセージであった。(後略)**(カバーにある本書紹介文からの引用)


「ぼくはこんな本を読んできた」 本稿が95稿目。このカテゴリーは100稿で終わりにすると決めているので残すところあと5稿。


「神と自然の景観論」野本寛一

2020-09-19 | H ぼくはこんな本を読んできた

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『神と自然の景観論』野本寛一(講談社学術文庫2015年第7刷発行)

**日本人はどんなものに神聖感を感じ、いかなる景観のなかに神を見てきたのだろうか。(中略)古代人は神霊に対して鋭敏であり、聖なるものに対する反応は鋭かった。「神の風景」「神々の座」は、常にそうした古代的な心性によって直感的に選ばれ、守り続けられてきたのである。**(6頁)

**日本人は何に神域感を抱きいかなる景観の中に神を見たのか。(中略)全国各地の聖地の条件を探り、それにまつわる民俗を紹介する。**(カバー裏面の本書紹介文より)

風景をどのような視点で観察し、どのように読み解くのか。視点が違えば見えてくる風景も違う。興味深い風景、景観論。






「春宵十話」岡 潔

2020-09-18 | H ぼくはこんな本を読んできた



『春宵十話』岡 潔(光文社文庫2006年初版1刷発行)

 著者の岡 潔って誰?という方のためにカバー折り返しにあるプロフィ―ルを載せる。**1901年、大阪市生まれ。京都帝国大学卒業。その後フランスに留学し、生涯の研究課題となる「多変数解析函数論」に出会う。後年、その分野における難題「三大問題」に解決を与えた。‘49年、奈良女子大学教授に就任。‘60年、文化勲章受章。‘63年に毎日出版文化賞を受賞した本書「春宵十話」をはじめ、多くの随筆を著した。‘78年没。**

この本には「春宵十話」の他にも随筆が何編か収録されているが、この中の「好きな芸術家」には漱石を論じた次のようなくだりがある。**漱石の作品は縦一列に並んでいる。だから正しくいえば「吾輩は猫である」に始まって「明暗」の途中に終る一筋の創作が全体として一つの創作である。漱石は一作をすませることによってそれだけ境地が深まり、その深まった境地によってさらに書くといったことを終りまで続けた人である。**(174頁)

著者は更に次のように続ける。**人の生命が一筋にしか流れないものである以上、境地を深めていけば縦一列になるほかないわけで、(後略)** このロジカルな説明は数学者ならでは、とぼくは思う。

**数学は論理的な学問である、と私たちは感じている。然るに、岡 潔は、大切なのは情緒であると言う。人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学もわからないのだ、と。さらに、情操を深めるために、人の成熟は遅ければ遅いほどよい、とも。幼児からの受験勉強、学級崩壊など昨今の教育問題ににも本質的に応える普遍性。大数学者の人間論、待望の復刊!** カバー裏面の本書紹介文


 


「ものぐさ精神分析」岸田 秀

2020-09-17 | H ぼくはこんな本を読んできた



 「ぼくはこんな本を読んできた」、92稿目は『ものぐさ精神分析』『続 ものぐさ精神分析』岸田 秀(中公文庫1982年発行)。 ぼくが決めていたルールだとテープの色は緑色ではなく水色のはずだが、間違えたのかな・・・。

いつも通りカバー裏面に載っている本書紹介文を引く。

**人間は本能のこわれた動物である――。人間存在の幻想性にするどく迫り、性から歴史まで文化の諸相を縦横に論じる、注目の岸田心理学の精髄**「ものぐさ精神分析」

**人間の精神の仕組みを「性的唯幻論」という独自の視点からとらえ、具体的な生の諸相を鮮やかに論じる岸田心理学の実践的応用篇。待望の続篇**「続 ものぐさ精神分析」

この2冊は同時に買い求めてはいない。「ものぐさ精神分析」を1982年6月12日に、「続 ものぐさ精神分析」を同年7月19日に買い求めている。「ものぐさ精神分析」を1カ月かかって読んだようだ。この本の解説は伊丹十三、続の解説は日高敏隆。再読することはおそらくないと思うが、解説を読み比べるくらいのことはしたい。


 


「進化とはなにか」今西錦司

2020-09-11 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 既に何回も書いたが今年の5月に本をかなり処分した。文庫は約1,140冊処分し、その結果、残ったのは約250冊。残った文庫をここで取り上げようと思ったのと、昨今の外出自粛によるネタ不足を補うために「ぼくはこんな本を読んできた」というカテゴリーを設けた。だが残した文庫を全てここに載せることもあるまいと、このカテゴリーは100稿の記事で終わりにする、としばらく前に決めた。既に90稿、残りは本稿を含めて10稿となった。

残りを自覚すると、各稿おろそかにできないと思い、どの本を取り上げようかとあれこれ考える。おそらく人生も同じだろう。「一寸の光陰軽んずべからず」と朱熹の偶成にあるが、この頃、ようやくこの人生訓を意識するようになった。


床の間に掛けた人生訓、朱熹の偶成 

横道にそれた、本題に戻そう。

『進化とは何か』今西錦司(講談社学術文庫1978年第6刷発行)、この本も20代の時に読んだ。

**突然変異と自然淘汰説により理論武装された正統派進化論に対し、著者は名著『生物の世界』以来、生物の進化とは種社会を単位とした生物の世界の歴史的発展であるとの立場から、一貫して疑義を提起している。豊富な踏査探検と試練の上にはじめて構築された今西進化論は正統派進化論を凌駕する今世紀最大の理論の一つである。進化論はあらゆる問題にまたがる本質的認識であるがゆえに、本書に要約された今西進化論こそ必読の文献である。** 以上カバー裏面の本書紹介文から引用した(下線は私が引いた)。


 


「茶の本」岡倉覚三

2020-09-09 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 「ぼくはこんな本を読んできた」。今回は『茶の本』岡倉覚三(岩波文庫1992年第81刷発行)。岡倉は本名の覚三より天心の名で知られる。

この本の購入動機は分からない。茶道にそれほど関心あるわけでな無いが、茶室には興味があるので、読んだのかもしれない。7章から成るが、第4章は茶室について論じているし、続く第5章では芸術鑑賞について論じている。

例によってカバーにある内容紹介文から引く。**茶の湯によって精神を修養し、交際の礼法をきわめるのが茶道である。その理想は、禅でいうところの「自性了解」の悟りの境に至ることにある。この本は、そうした「茶」を西洋人に理解させるために著者(1862―1913)が英文で書いたもので、単なる茶道の概説書ではなく、日本に関する独自の文明論ともいうべき名著。**

奥付によると、この本の初版は1929年。ぼくが持っているのは1992年発行で、なんと81刷。

名著は読み継がれる。





「近代科学の誕生」H・バターフィールド

2020-09-06 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 今は講談社学術文庫を読むことは稀だが、20代のころはよく読んでいた。この『近代科学の誕生(上)(下)』も20代で読んでいる。

この本にはしおりを挿む代わりに隅を三角に折り曲げたページがある。これはドッグイヤー(犬の耳)と呼ばれ、どこまで読んだのか分かるようにするもの。いまではしなくなったが、当時はよくしていた。ところどころに書き込みもしてある。

例によってカバー裏面の本書紹介文(下巻)から引く。

**本書は、今日における名著のひとつに数えられてしかるべきものであろう。一般歴史における科学史の意義を明らかにし、科学史の中での「科学革命」の本質を解明した点で、この著者が果たした役割はきわめて大きい。人類史上、近代科学の誕生こそはすべての社会的・政治的変革にもまして「革命」的な重大事件であり、この「科学革命」こそは科学史的考察の原点であるという認識は主として本書に由来するのである。**


 


「恋愛論」亀井勝一郎

2020-09-06 | H ぼくはこんな本を読んできた

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 『恋愛論』亀井勝一郎(角川文庫1973年改版12版)。ぼくはこの本を1973年の12月に読んでいる。亀井勝一郎は代表作の『愛の無常について』(過去ログ)で知られる文芸評論家。

**恋愛は言葉の機能を、はじめてわれわれに教えてくれるであろう。という意味は、言葉がどれほど微妙で神秘的なものであるかを、恋愛によって自覚せしめられるからである。愛することによって、人はまず言葉を失う。(中略)言いあらわされた言葉は、心の中で思っていることの何十分の一にすぎないことを知らされる。言葉は不自由なものだということを。**「言葉の微妙について」(21頁)

このようなことを自覚する恋愛、なんだか観念的なような気がするけれど・・・。

亀井勝一郎の文庫ではこの他に『大和古寺風物詩』(新潮文庫2002年76刷)が書棚にある。



**いざ大和へ行って古仏に接すると、美術の対象として詳に観察しようという慾など消えてしまって、ただ黙ってその前に礼拝してしまう。**(59頁)

**かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、更にまた苦しんで行く。仏さまの数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。一軀の像、一基の塔、その礎にはすべて人間の悲痛が白骨と化して埋れているのであろう。久しい歳月を経た後、大和古寺を巡り、結構な美術品であるなどと見物して歩いているのは実に呑気なことである。**(70頁)

このような文章から亀井勝一郎が仏像が美術品ではなく信仰の対象だと信じていたことが分かる。 


『大和古寺風物詩』は2020.03.10の記事。