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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「本所おけら長屋(十六)」

2021-06-29 | g 読書日記


第1巻からずーっと読み続けてきたから、最後まで読む。

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■ 『本所おけら長屋』畑山健二(PHP文芸文庫2021年)の最新第16巻に収録されているのは「くらやみ」「ねんりん」「せいひん」「あいぞめ」の4編。例によってひらがな4文字のタイトル。第1巻からずっとひらがな4文字だが、これは作者の単なることばあそびだと僕は思っていた。ブログ友だちのtamiさんはこのことについて**おけら長屋のみんなの為?**と書いている。なるほど、江戸時代、市井の人たちがみんな漢字まで読めたわけではなく、ひらがなしか読めなかった人たちも少なくなかったということを思い合わせると、これは納得できる推測だ。

「せいひん」は、そう「清貧の思想」の清貧(過去ログ)。ストーリーの紹介は省略するけれど、見世物小屋で「貧乏神のご開帳」という興行を打って、飲み代を稼いだおけら長屋の万造と松吉、万松コンビが次に打ったのは「大黒天ご開帳」。大黒天に扮したのはやはりおけら長屋の住人、金太。**「ば、馬鹿野郎。そんなとこをご開帳してどうすんでえ。隠せ。早く隠せ。(後略)」早朝のスタバで、キンタ、いや金太のご開帳に声を出して笑ってしまった。

「あいぞめ」はこのブログを書く前に読んだが、万造の次のせりふが好い。**「(前略)人は追いつめられたときに真価が問われるんでえ。人としての値打ちがよ。つまり、ここから本当の勝負が始まるってこった」** 

このストーリーの紹介も省略するけれど、お満さんを絶体絶命の大ピンチから救った万造。その万造に向かってお満さんが言う。
**「必ず、助けに来てくれるって信じてた・・・・・・」** 
**「ああ。どこまでだって走ってやらあって言ったじゃねえか」**と返す万造。このふたりの会話を読んで涙が出た。一昨日は寅さんで泣き、今日は「本所おけら長屋」で泣き・・・。

さて、『夜明け前』の第3巻、第二部(上)を読み始めるか。


 

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路上観察学会も取り上げる「火の見櫓」

2021-06-27 | g 火の見櫓考〇

  路上観察学会って何? 詳しい説明はウィキペディアに委ねるが、街歩きをして「ヘンなもの(*1)」を蒐集して、仲間どうしで見せ合って、あれこれ合評して楽しむ会、とすればその中身についてのおおよその説明にはなると思う。そのルーツをたどれば今 和次郎の「考現学」に至る。ただしこの考現学の対象は路上のヘンなものだけではない。



街歩きをして目にする変なものには「火の見櫓」も入る。目立つし確かにヘンなものだから当然と言えば当然。で、『考現学入門』今 和次郎(ちくま文庫1987年)にも取り上げられていて、昭和初期の木製のもの、鋼製のものが今 和次郎の実に上手いスケッチと共に紹介されている。

*1 藤森照信さんがよく使うことば


 

また、『路上探検隊 奧の細道をゆく』路上学会 編(JICC出版局1991年)でも、藤森照信さんが山形県の火の見櫓を取り上げている(過去ログ)。「なぜ山形の火の見櫓はコンクリート製なのか」というタイトルの文章の結びは次の通り。**山形の消防関係者は、木や鉄への不信を覚えるような痛い目にあったことがあるんだろうか。それとも、コンクリート好きの指導者でもいたんだろうか。**

余談だが、この本の表紙のポストと狸について、蒐集した赤瀬川原平さんは次のような文章を書いている。
**狸本人はポストに化けたつもりだろうか、私たちには明らかに狸に見える。まだ未熟な狸なのだ。誰も自分に手紙を入れてくれないのでがっかりしている。そんな狸が可愛くて、みんな同情の視線を投げかけながらも、手紙はやはり右のポストに入れる。しかし、となると、右側のポストだって怪しいものだ。じつは狸のお母さんではないだろうか。** すばらしい想像力、創造力に拍手。すばらしい!こんな風に観察することができたらどんなに楽しいだろう。

表紙の左上にこの学会のメンバーが載っている。また著者プロフィールの頁を見ると、「山形路上観察倶楽部」のメンバーも載っている。


     



注文していた『岡山おもしろウオッチング』岡山路上観察学会 編(岡山文庫 日本文教出版2002年)が届いた。この文庫も岡山県在住の方に紹介していただいた。感謝。 この文庫本にももちろん火の見櫓が取り上げられている。「現代火の見櫓論」と題した総論に続けて各論で10基の火の見櫓を取り上げて特徴などを紹介している。

1冊丸ごと火の見櫓を扱った本は少ないけれど、本稿で取り上げたような本はまだまだあると思う。


「求む!情報」

注:拙ブログでは引用文の前後に**を付けています。


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「約束」

2021-06-25 | g 読書日記

360

 地方紙の信濃毎日新聞に連載中の「岐路あの時 切り開く未来」に藤沢周平の娘さんでエッセイストの遠藤展子さんが紹介されていた(6月21日付朝刊19面)。



記事に**「藤沢文学」は武家もの、市井もの、歴史小説、随筆と幅広い。抑制的で透明感のある文章と心の機微に巧みに触れる内容は熱烈なファンを獲得。**と、藤沢作品が紹介されている。

私も藤沢作品が好きで何作も読んだが、昨年の5月に全て松本市内の古書店に引き取ってもらった。でもどうしても残しておきたい作品をまた買い求めた。その作品というのが『橋ものがたり』に収録されている短編「約束」だ。記事を読むと遠藤さんも最も好きな作品が「約束」だという。このことを知って嬉しかった。

幼なじみどうしの淡い恋物語を描いたこの作品は信頼することの尊さがテーマ、だと思う(過去ログ)。

近々、この作品を再読したいと思う。そしていつか、作品の舞台の橋、萬年橋を訪ねてみたい・・・。


記事には萬年橋に佇む遠藤さんの写真が載っている。


 

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知的好奇心

2021-06-24 | g 読書日記



 昨日(23日)の早朝、ラジオで立花 隆さんの訃報を聞いた。

「知の巨人」と評されていた立花さんは知的好奇心がとても旺盛な方で、分からないことを徹底的に追及する姿勢を貫かれた、と思う。立花さんの著作は多分野に亘るが、文章は論理的で読みやすい。自室の書棚にある立花 隆さんの単行本を1カ所に集めてみた。

大きな足跡を残された人生、立花さんご自身はどのように総括されたのだろう・・・。

ここに哀悼の意を表します。


ぼくは2006年4月にブログを始めたが、最初の記事で立花さんの事務所「猫ビル」のことを書いている(過去ログ)。

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朝カフェで紀要を読む

2021-06-23 | g 火の見櫓考〇



 岡山市教育委員会発行の『岡山市埋蔵文化財センター研究紀要 第1号』(2009年3月発行)が届いた(*1)。埋蔵文化財に関する学術雑誌だから土器や古墳、古代寺院の瓦などを対象とする研究が収録されているが、火の見櫓についての論考も収録されている(写真下)。



「登録有形文化財・旧京橋火の見櫓 ―近代山形鋼製警鐘台に関する考古学的アプローチ―」では登録有形文化財の旧京橋火の見櫓の概要と登録有形文化財指定の経緯の説明。この火の見櫓をはじめ、12基の火の見櫓を寄附した坪田利吉の紹介、岡山市内の火の見櫓の分析的紹介がされている。

この研究について次のような総括的な説明がされている。**非常に単純な構造物であり、建築年や経緯を示す資料もほとんどないため、考古学的アプローチにより形態などの特徴の観察からその型式学的変化や属性の地域的分布などを明らかにすることを目指したものである。** 

要するに火の見櫓の形態・構造の制作年代による変遷、地域によるその違いを示そうとする研究だということ。

長野県内でも地域によって火の見櫓のプロポーションなどが違うことに私も気がついている。これは「サンデー毎日」な生活になったら取り組みたいと思っているテーマ。


*1 昨年(2020年)拙著『あ、火の見櫓!』を購入していただいた岡山県在住の方からこの研究紀要のことを教えていただいた。感謝。



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1292 辰野町伊那富の火の見櫓

2021-06-22 | g 火の見櫓観察記


1292 上伊那郡辰野町伊那富 3無66型 撮影日2021.06.20

 辰野町の山際にある伊那富の神戸という集落に入り込んでこの火の見櫓と出合った。蔵があることから古くからある集落だと分かる。古い集落では火の見櫓との遭遇確率が高い。スケッチしたくなるような風景だ。



スピーカーもサイレンも設置されておらず、スッキリしている。梯子に「火の用心」と書かれた板が設置されている。使われなくなって久しいのだろう。



外付け梯子を納めるために見張り台の床を欠き込んであり、手すりも返してある。このように控えを取らないと端部が固定できず揺れてしまうからだろう。



写真を見て気がついたが、後方の蔵には樹脂製波板の妻垂れが設置されている。


 

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1291 辰野町伊那富の火の見櫓

2021-06-21 | g 火の見櫓観察記


1291 上伊那郡辰野町伊那富 3無〇〇型 撮影日2021.06.20 

 箕輪町からの帰路、辰野町で出合った火の見櫓。天竜川の右岸、東向きの斜面に立っている。斜面であることは上の写真で分かる。





屋根と見張り台の様子。かなり老朽化している。3角形の櫓と円形(円錐)の屋根と見張り台の組み合わせは珍しくはないが、南信では少ない。円形の屋根に蕨手が付いているのを見るのはたぶん初めて。見張り台に消防信号板がこのように設置されているのは案外少ない。信号を見ながら叩くことができるのに。



脚部も錆が目立つ。スピーカーが設置されていないと、撤去されてしまうのではないかと心配になる。スピーカーの設置もせつないが・・・。


 

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1290 箕輪町中曽根の火の見櫓

2021-06-21 | g 火の見櫓観察記



1290 上伊那郡箕輪町中曽根 4無44型 撮影日2021.06.20

上下2枚の写真がうまくつながった。

 上伊那郡箕輪町は諏訪湖が源流の天竜川の両側に広がる町。面積が広く、まだ全域を巡ることができていない。

昨日(20日)箕輪町で初めて見たのは中曽根地区の火の見櫓。天竜川の右岸側(西側)の斜面を登っていき、古くからあると思われる集落にこの火の見櫓が立っていた。蔵があったり道祖神や庚申塔などが祀られているところは古くからある集落と判断できるが、そのような集落には火の見櫓が立っている可能性が高い。

正面側から全形を撮りたかったが、あいにく車が停まっていたことと、逆光で撮ることができなかった。撮影条件が整わないことはよくあることで、仕方ない。



見張り台の半鐘を取り囲むようにスピーカーが設置されている。後から付加されたものが何も無ければ見張り台周りはスッキリしていていいだろうなぁ、と思いながら見た。主役交代後も半鐘が遺されていることを喜ぶべきだろう。



正面だけアーチ形の部材を用いて櫓の中に入れるようにしてある。外付け梯子を架けてあるから、この開口に意味があるのかどうか。


 

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箕輪町の火の見櫓再訪2

2021-06-20 | g 火の見櫓観察記


再 箕輪町中箕輪 4脚44型(貫通型)撮影日2021.06.20




再 箕輪町三日町 4脚44型



 箕輪町三日町の火の見櫓を初めて見た時、脚部がなぜこのようになっているのか分からなかった。今日(20日)箕輪町まで出かけて改めてこの火の見櫓を見て、ここに倉庫があったのかも知れないと思い至った。他に柱を垂直にして、前後にブレースを設置しなかった理由があるだろうか・・・。


 

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箕輪町の火の見櫓再訪

2021-06-20 | g 火の見櫓観察記


(再) 上伊那郡箕輪町中箕輪 4脚44型(倉庫またぎ)撮影日2021.06.20



 上伊那郡箕輪町まで出かけてきた。国道153号沿いに「倉庫またぎ」と「貫通やぐら」が立っていて伊那・飯田方面に出かける時、必ず目にする。両者の違いは考え方の違いに因るのだろうが、一体どう違うのだろうか。いまだに明確な理由が分からないでいる。


再 上伊那郡箕輪町中箕輪 4脚44型(貫通やぐら)撮影日2021.06.20


 

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半鐘 太鼓 板木

2021-06-16 | g 火の見櫓考〇

 火曜日は朝カフェ読書。『夜明け前』の第2巻を読む。このくらいの長編になると、読んでいるということに満足感を覚える。

**(前略)非常時の合図として村々には半鐘、太鼓、板木が用意され、それに鉄砲、竹槍、袖がらみ、六尺棒、松明なぞを備え置くという。**(88頁) 江戸末期、治安の乱れは地方にも及び、このような対応も。

この件(くだり)から、火災時だけでなく、非常時の合図としても半鐘を叩いていたことが分かる。半鐘の他に太鼓や板木も叩いたということだが、集落の住民に伝える情報(内容)の違いによって使い分けていたのかもしれない。

東京消防庁のサイトの「消防雑学事典」に、大名火消や町火消の火の見櫓には半鐘や板木が設置されていたが使用制限があり、定火消の火の見櫓に設置されていた太鼓(*1)が叩かれるまで、叩くことが許されていなかった、という内容の説明があるが、半鐘や太鼓、板木の使い分けについては分からない。

これらの使い分けについて調べてみたいが分かるかなぁ・・・。史料(資料)が国立国会図書館にはあるかもしれない。


*1 定火消の火の見櫓にはもちろん半鐘も設置されていた。 

過去ログ


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解けない疑問

2021-06-13 | g 火の見櫓考〇





 前稿で取り上げた火の見櫓(1288 松本市和田)の双盤形の半鐘の取り付け高さに関する疑問   

踊り場の床面から40cmくらいの高さのところに双盤形の半鐘を取り付けてあるが、この位置でどうやって叩くのだろう。

この疑問についてS氏(*1)が見解を示してくれた。それは、スズランのような形の一般的な半鐘はピッチャーがオーバーハンドで投げるようなフォームの打ち方をするが、この双盤の場合、アンダーハンドで投げるような打ち方をするというもの。

なるほど、確かに太鼓でも両方の打ち方がある。

だが・・・、写真で分かるが、右手でアンダーハンドスローのような打ち方をしようとすると、梯子が邪魔になるだろうし、ちょうど立つことになりそうな位置に開口がある。S氏から説明されたときは、なるほど!と思ったけれど、どうも違うような気がする。

解けない疑問・・・。


*1 豊科のBWCLのオーナー


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1289 火の見櫓のある風景

2021-06-13 | g 火の見櫓観察記


(再、1289 欠番なので番号を付けた) 松本市和田 4脚84型 撮影日2021.06.12

 緑豊かな集落の生活道路沿いに立つ火の見櫓。道が右に曲がっていて先が見通せない。あの先はどうなっているんだろう、と先を見に行くという動機付けになる。



中信地区(松本平)には少ない4角形。櫓の逓減は直線的で見張り台の4隅に隅切りは無く、硬い印象の火の見櫓。見張り台の高さは13メートルくらい。見張り台に半鐘は無く、踊り場に双盤形の半鐘がある。なぜ床面に近いところに付けてあるのか分からない。この位置だと叩きにくいと思うが。消防信号板の写真は以前撮影したもの。


撮影日 この写真のみ2014.03.04 


 

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「夜明け前」

2021-06-11 | g 読書日記



 朝カフェで藤村の読み応えのある長編『夜明け前』を読む。山の中の木曽路を行き交う旅人は情報伝達人。江戸の出来事が馬籠宿にも伝わる。第一部上巻は江戸末期の歴史の復習でもしているかのよう。今月はこの長編をひたすら読む。


 

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道祖神の帯代って何?

2021-06-05 | g 道祖神〇



 長野県には道祖神が多い。とりわけ安曇野には多く、道祖神巡りをするために訪れる人も少なくないようだ。上掲の写真は安曇野市豊科に祀られている道祖神の背面(過去ログ)。帯代五両と刻まれている。

帯代について6月4日付のMGプレスに記事が載っていた。「松本まちなか遺産めぐり」という連載記事で紹介されているのは松本市のあがたの森近くに祀られている道祖神。天保十二辛丑年という建立年と共に刻まれた帯代は十五両とのこと。この年、西暦では1841年。ちなみに上掲の豊科の道祖神は天保十四年、記事に紹介されている道祖神の2年後、1843年の建立。

ところでこの帯代だが、昔は「嫁入り」という道祖神ぬすみの風習があって、夜中に道祖神を近隣の村人がぬすんでいく、と言うとよくないが、嫁に欲しくて持ち去ることがあったという。で、帯代というのは、まあ結納金のようなもの。「嫁入り」させるなら、五両の結納金をいただきます、という意味だ(過去ログ再掲)。帯代について同じ内容が新聞記事にも載っている。

帯代って今のお金にしてどのくらいの額になるのだろう、と前から思っていたが、MGプレスの記事には町会長だった方が**2009年、日銀松本支店に問い合わせるなどして天保のころと現代の米価の比較を行い、(中略)「70万円ほど」に相当すると試算した。**とあり、**世の中の仕組みや人々の暮らしが異なる上、貨幣価値も変動するため、こうした比較の当否は難しい面があるが、(後略)**と続く。用心深い記述だが、天保時代の十五両は70万ほどという目安がついた。

一両4万7千円くらいになるが、ざっくり一両5万円と押さえて、豊科の道祖神の帯代は五両だから25万円。同じ豊科には五拾両と、高額な帯代を刻んだものもある(下の写真)。今のお金で250万円。高額な帯代にすることで道祖神ぬすみを防いだのかもしれない。


安曇野市豊科の諏訪松尾神社の境内に祀られている道祖神 帯代五拾両

現在の結納金の額についてネットで調べて、50万~150万が半数という記事が見つかった。


 

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