透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

校名を刻んだ薬師寺東塔の瓦

2013-10-31 | D 新聞を読んで


信濃毎日新聞 13年10月31日付朝刊社会面より

 現在解体修理中の薬師寺東塔の屋根瓦に長野県内の小中高校名が多数刻まれていた、と過日報じられた。その時の新聞記事には校名が数校しか記されていなかった。

我が母校はどうだったのだろうと気になっていたが、今日の朝刊で信濃教育会がウェブサイト上に校名を公開したということを知った(写真)。早速 同ウェブサイト(←クリック)にアクセスして校名一覧表を確認してみた。

あった! 母校の名前が表に載っていた。

戦後間もない1950年から52年の東塔修理の際、寄付をした学校名等を刻んだ瓦の数が4815枚で、内345枚が長野県内の学校名だとのこと。全県的に寄付をしたのは全国でも長野県だけだったようだ。

新聞記事によると文化庁は文化財の物品について、再利用できなければ原則として処分を求めているそうだ。ただ、特定の者への利益を生む形でなければ保存は可能だという。信濃教育会は学校で瓦を保管することも想定していると記事にある。

是非、薬師寺から譲りうけて保管して欲しい。もちろん公開もして欲しい。もっとも傷んでいなければ再び東塔の屋根に戻されることになるだろうが。

母校に保管する、東塔の屋根に再び葺く、どっちがいいだろう・・・。 


 


「古寺巡礼」読了

2013-10-30 | A 読書日記

 **次の日はF氏も加わって朝から法隆寺へ出かけた。いい天気なので気持ちも晴れ晴れとしていた。法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福あの高まって行くような、愉快な心持ちであった。**(225頁)

和辻哲郎が友人とともに奈良の古寺を巡り歩いたのは大正7年(1918年)のことだった。今でも遠くから法隆寺の五重塔をみることができるだろう。私にこのような追体験ができるだろうか・・・。

法隆寺の印象について和辻が知人に宛てた手紙に次のように書いている箇所がある。   

**そうしてあの古い建物の、半ばははげてしまった古い朱の色が、そういう響きのようなものに感じられるのかとも考えてみました。しかしあとで熟考してみると、そのサアァッという透明な響きのようなものの記憶表象には、必ずあの建物の古びた朱の色と無数の櫺子(れんじ)との記憶表象が、非常に鮮明な姿で固く結びついているのです。金堂のまわりにも塔のまわりにもまた歩廊全体にも、古び黒ずんだ菱角(りょうかく)の櫺子は、整然とした平行直線の姿で、無数に並列しています。**(226頁)

そう、ここは櫺子の繰り返しに関する描写。

続けて和辻は**歩廊の櫺子窓からは、外の光や樹木の緑が、透かして見えています。この櫺子の並列した線と、全体の古びた朱の色とが、特に、そのサアァッという響きのようなものに関係しているのです。二度目に行った時には、この神々しい直線の並列をながめまわして、自分にショックを与えた美の真相を、十分味わおうとすることができました。**(226頁)と書く。

これって「繰り返しの美学」ではないのか・・・。いや、早計か?

和辻は続ける。**しかしその美しさは、櫺子だけが独立して持っているわけではありません。実をいうと櫺子はただ付属物に過ぎぬのです。**(226頁)

**あの金堂の屋根の美しい勾配、上層と下層との巧妙な釣り合い、軒まわりの大胆な力の調和。五重塔の各層を勾配と釣り合いとでただ一本の線にまとめ上げた微妙な諧調。そこに主としてわれわれに迫る力があるに相違ないでしょう。ところがその粛然とした全体の感じが奇妙にあの櫺子窓によって強調せられることになるのです。(226、8頁)**

櫺子窓に因って金堂と五重塔の姿の魅力が強調されるという指摘。

11月16日、じっくり時間をかけて法隆寺の姿を鑑賞しよう。


 


アンパンマンのマーチ

2013-10-29 | A あれこれ

 今朝(29日)、NHKのラジオ深夜便で先日亡くなった漫画家・やなせたかしさんを偲ぶアンコールインタビュー(前半)が放送された(再放送)。途中から聞いた。完全に目覚めてはいなかったから内容をはっきり覚えてはいないが・・・。

「何のために生まれて 何をして生きるのか」  

アンパンマンのマーチのこの歌詞は哲学の永遠のテーマだ。やなせさんはこの歌詞を子ども番組のテーマソングとして書いた。子どもだからといって平易な表現にすることはない、という趣旨のコメントをしていた。易しくしてはいけない、そのまま難しいものをぶつけるべきだというのだ。

大いに共感する。

いつ頃のことだったか、誰の発言だったか覚えていないが、子どもに漢字を教える順番をただ単につくりが簡単かどうかで判断してはいけないというコメントを聞いたことがあった(ような気がする)。

鳩と鳥、鯖と魚。子どもたちには鳥という抽象的な概念よりも実際に見ることができる鳩の方が分かりやすい。漢字も鳥より鳩の方が覚えやすい。同様に魚よりも鯖のほうが分かりやすい。このような内容を述べたものだった(と思う)。

なるほど、こうしていくつか具体的な鳥の名前、魚の名前の漢字を覚えてから、それらを束ねる鳥や魚という抽象的な概念を示す漢字を覚える方が、ものの名前を覚える順番と一致するから理解しやすく、従って覚えやすいのかもしれない。

でも学校で教える順番は鳥や魚が先で、鳩や鯖は後ではないだろうか。鯖は馴染みの魚だが、小学校でこの漢字を教えるのだろうか。

子どもの施設の色使いはいまだに原色が多いような気がする。誰がみても赤、青、黄、緑と分かるような色使い、これでは色に対する繊細な感性は育たないのでは。Aちゃんは緑といい、Bちゃんは青というような色使いこそ大切なのでは。

観念的に「小さな子どもだから」などと考えてしまいがちだが、それはやめた方がよいということだ。

明日(30日)の朝、たぶん4時過ぎからやなせたかしさんのアンコールインタビューの後半が放送される。もし目が覚めたら、枕元灯をつけてメモをとりながら聞くことにする。


 


法隆寺へ行こう

2013-10-29 | A あれこれ



 平成4年から5年にかけて月1回のペースで刊行された『日本名建築写真選集』 新潮社 全20巻。

各巻とも前半が建築や仏像などの様々なアングルの全景、近景、ディテール写真、後半が専門家による解説という構成になっている。どの巻も写真がすばらしいことは言うまでもない。『法隆寺』の写真は入江泰吉。古都奈良では私は他の写真家が浮かばない。遠景写真が特に好きだ。まもなく読み終える『古寺巡礼』の挿画の撮影も入江泰吉だ。

来月の京都・奈良旅行、奈良では法隆寺に行くことにした。『法隆寺』の解説文は約40頁のボリューム。伽藍配置図、金堂や五重塔、中門などの平面図や断面図も掲載されている。今週末にでも詳細な解説を読んでおこう。

関連書籍を読んでいると旅行がとても楽しみになってくる。


 


伽藍配置

2013-10-28 | A あれこれ


伽藍配置に見る日本人の美意識

今回は過去ログの再掲


飛鳥寺の伽藍配置(上)と法隆寺西院の伽藍配置(下) 「日本名建築写真選集4 法隆寺」新潮社より

 日本最古の本格寺院といわれる飛鳥寺。蘇我馬子の発願で建立が始まり、596年に落成したとされている。塔を中心に据え、三つの金堂が塔を囲む伽藍配置。

塔の中心を貫く心柱、その礎石に仏舎利を納めるというのが塔本来の姿。つまり心柱はブッダの遺骨を納める墓であって、塔はその心柱を保護する鞘堂だ、と文献は説く。この塔本来の意味からして飛鳥寺の配置は当然、と理解できる。



ところが法隆寺西院の伽藍配置では塔と金堂が横に並ぶ。西院伽藍は聖徳太子が建立した斑鳩寺の焼失(670年)後、敷地を少し西に移して造営された(という説が主流)。その後の寺院計画で塔は伽藍の隅へ、そして外に配置されたりするようにもなる。


東寺の伽藍配置 パンフレットの案内図の一部(白黒に処理した) 五重塔は伽藍の軸線から外れて隅へ(右下)。

『空海 塔のコスモロジー』春秋社で著者の武澤秀一氏はこの変化を塔の地位の低落の過程と捉えている。**塔は伽藍中枢から遠ざけられ、寺地の隅に追いやられる運命をたどった。伽藍において塔の地位は下落の一途をたどり、〝広告塔〟としての役割をになうようになった。**(63頁)

塔の地位の低下が塔が伽藍の中心から外れていった理由。明快な解釈だ。でも・・・。

理路・理屈が事の後から付けられることはよくある。建築のデザインがあたかも基本理念・コンセプトから導き出されたかのような文章を建築家は自作の説明によく書く。川の流れのような建築デザインのプロセス。でも実際は初めにイメージしたデザインに後から理屈をつける、河口から源流に向かって川をさかのぼるというプロセスではないのか。

寺院の伽藍配置における塔の位置の変化。塔が中心にあると伽藍全体の「バランス」が良くない、美しくない・・・。左右対称でかつ強い中心性を示す配置は日本人の美意識に合わなかった。浮かんできたのは非対称、塔を中心線から外した伽藍配置。そのイメージに合わせて塔の位置を変えた・・・。

平らな場所に造営された宮処、その中央に計画された寺院。この位置も日本人の心性に合わなかった。だから次第に宮処の端へ、さらに山の中へと移していった・・・。室生寺はこの一例。金堂と五重塔の位置関係、伽藍配置に幾何学的な秩序は全く見えない。


室生寺の伽藍配置 「日本名建築写真選集1 室生寺」新潮社より 

大陸から伝わった左右対称、強い中心性。この強く秩序づけられた伽藍配置は作為を隠して自然に見せるという日本人の美意識にも、中央よりも端を好むという日本人の心性にも合わなかった・・・。

寺院立地と塔の位置の変化、これを日本人の美意識、心性に次第に合わせていった過程と私は見る。


 過去ログ 


「古寺巡礼」を読む

2013-10-27 | A 読書日記

**このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らかの心情の変移するのを感じないであろうか。漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らかの気分の転換を惹起しないであろうか。**(62頁)

再読中の『古寺巡礼』にこのようなくだりがある。これは著者、和辻哲郎の聖林寺十一面観音を観ての洞察。

続けて和辻は**たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。**(62頁)と書く。

以前、ブログに次のように書いた。(過去ログ

**和辻哲郎は直観力に優れた人だったと思う。『風土』そして『古寺巡礼』を読んでそう思った。和辻は文化的事象を観察することでその背景にある抽象的で曖昧模糊とした風土を読み取った。それは論理的な思考ではなく、直観力によってのみ可能だったと思う。**

和辻は「直感的洞察力に優れた人」だったと改めて思う。 もっとも風土と芸術などの文化的な営みとの関係を明快な理路で結ぶなどということなど無理なこと。であればやはり直感ということになるのだろうが・・・。鋭い直観力には深い知識がベースにあることは言うまでもない。

本書に掲載されている寺院や仏像など24カットの写真は入江泰吉の撮影、さすがにどれもすばらしい。

増える一方の本、いずれかなり処分して1,000冊くらいにしたい。だが、このような名著は最後まで残しておきたい。


 


「茂雄」

2013-10-27 | A 読書日記

 「茂雄」という名前を聞いて誰を思い浮かべるか。

野球ファンならミスタープロ野球、長嶋茂雄だろう、たとえアンチ巨人でも。野球ファンでなくても千葉県民ならそうかもしれない。長野県民、いや、信州人とした方がいいか、なら岩波茂雄だろう。違うか、やはり長嶋茂雄か・・・。

まえふりはこのくらいにしてと・・・。



岩波茂雄が岩波書店を創業して今年で100年だという。岩波茂雄については「この国の出版文化の基礎を築いた信州人」ということしか知らない。

小田 実は『何でも見てやろう』で有名になった。別にこの書名を意識したわけではないが、「今年は何でも読んでやろう」と思っている。それなら、例えば丸善の地階の岩波文庫の書棚の上から2段目の右から5冊目の本を読む、と決めてもいいのだが、さすがにそれはできない(どんな本か気になる。今度見てみよう)。

それで、この本、『岩波茂雄 リベラル・ナショナリストの肖像』中島岳志/岩波書店を買い求めた、という次第。


 


対馬の民家

2013-10-26 | A あれこれ


民家 昔の記録  対馬の民家 撮影日19810928

 福岡で行われた学会に出席した後、対馬に飛んだのは1981年9月のことだった。台風が接近していて小型飛行機が大きく揺れ続け、シートベルトを外さなかったことを覚えている。

対馬は九州と朝鮮半島との中間に位置し、古くは海上交通の要所だった。集落内に石置き屋根の板倉が点在していたが、柱のモジュールなどが他の地方とは違っていた。朝鮮半島の影響を受けているのかもしれない。上の写真は米や麦の他に衣類なども保管する倉を写したもの。石を葺いた屋根は珍しくはないが、これほど大きな石板を載せた屋根を他所で見たことはない。棟には何層にも細長く加工した石板を重ね、周到に雨仕舞をしている。対馬は多雨の島だ。



これは民家の妻面を写したもの。 雨囲い(妻だれ)で妻壁を覆っている。よく見ると母屋や棟木の小口を板で塞いでいることがわかる。多雨地域の雨対策。民家は地産地消、その地方の材料を使い、その地方の気候に合わせた設えをしてあるから、地方によって姿・形は様々。これこそ民家巡りが楽しい理由。


 


岩波書店創業100年記念講演会

2013-10-26 | A あれこれ



■ 今朝(26日)の信濃毎日新聞にも案内が載っていますが、11月4日に松本のMウイングで岩波書店創業100年記念講演会が開催されます(長野県外の方には申し訳ありませんがローカルな話題です)。

中島岳志さん(北大大学院准教授)の講演を是非聴きたいと思いまして、過日聴講を申し込みました。昨日(25日)聴講券が届きました。

中島さんはNHKで放送されていた「週刊ブックレビュー」にゲスト出演したことがあります。司会者の質問に理路整然と答える中島さん。そのとき名前を覚えました。

その中島さんの講演会のことを先日知ったのです。演題は「信州が生んだ出版人 岩波茂雄のメッセージ」です。

講演の後、岩波書店社長・岡本 厚さんとの対談も予定されています。楽しみです。


 

中島さんの著書『中村屋のボース』白水社を以前読みました。過去ログ1過去ログ2

大仏次郎論壇賞とアジア太平洋賞を同時受賞した本書を小熊英二さんは**インドと日本をまたぐ「国際思想史」の研究書であると同時に、数奇な運命を歩んだ人物のヒューマン・ドキュメントとしても読める。これほど興味深い本にはめったに出会えるのもではない**と激賞しています。


 


「神も仏も大好きな日本人」

2013-10-25 | A 読書日記



■  『神も仏も大好きな日本人』島田裕巳/ちくま新書 を読み終えた。なるほど!な箇所に付箋を貼って読んだ。その数が多かった(写真)。

東京国立博物館平成館で開催された「大神社展」を6月に観たことはすでに書いた(過去ログ)。全国各地の神社のお宝が大集合したこの展覧会で多くの神像を観たが、仏像とよく似た姿の像が少なくなかった。本書を読んでそれが当然のことだと理解した。書名の通り、日本人にとって神と仏は不可分な存在なのだ。本書を神と仏、神道と仏教、神社と寺院の密接な関係に関する論考と括ってもいいだろう。

ところで本書に「伊勢神宮は古代のままか」という小見出しの論考がある。唯一神明造と呼ばれる正殿は20年に1度の式年遷宮で1300年前もから寸分違わぬ姿で更新されて来たと言われている。

著者はこのことに疑問を呈していて、正殿の特徴といえば白木造りと棟持柱だが、朱塗りの時代があったのではないか、棟持柱の無い時代があったのではないか、というのだ。こんな指摘を読んだのは初めてだ。若者なら「マジかよ!」となるだろう(こんな表現はもうしないのかなぁ)。このことに触れるのはタブーなのかもしれない。

「伊勢神宮参詣曼陀羅」と呼ばれる伊勢神宮境内を描いた絵図(室町時代末期から安土桃山時代に描かれたと考えられている)があるそうで、そこには右半分に外宮、左半分に内宮が描かれているという。で、この曼荼羅に描かれている正殿には棟持柱が無いのだそうだ。そして一般の社寺建築同様、朱に塗られているという。「伊勢両宮曼荼羅」という別の絵図の正殿にも棟持柱が無いそうだ。ただし朱塗りではなく白木造りだそうだが。

これらの絵図の正殿がはたして本当の姿に描かれているのかどうか。でも棟持柱を省略してしまうことはないだろうし、白木造りを朱塗りに描くこともないだろう。

**神明造の特徴とされる大きな棟持柱も、過去の絵図には描かれていない。その点で、古代からの伝統がそのまま受け継がれているという保証はない。伊勢神宮も神仏習合や密教の信仰の影響を受けてきたわけだから、単純に古代からの伝統がそのまま引き継がれていると考えるわけにはいかないのだ。**(177頁) このように著者は述べている。

なるほど確かに戦国時代には式年遷宮が120年以上も途絶えていたということが知られていて、この長いブランクで本当の姿が正確に伝わらなかったということは考えられる。

いやいや、何か目論見があって絵図ではそのように表現しているのではないか。意図的に事実とは違う姿に描いた、ということはないだろうか。棟持柱も白木造も外観上最も分かりやすい特徴だから、長い空白期間があってもきちんと伝わるだろうに・・・。

信じ難い指摘に、神も仏も大好きな日本人はこのように考えてしまうのでは。


さて、来月の「京都・奈良 大人の修学旅行」に備えて和辻哲郎の『古寺巡礼』!

 


「代々木体育館ができるまで」

2013-10-23 | A 読書日記



 丹下健三生誕100年の今年、6月に建築家会館ホールでシンポジウムが開催されて建築家の神谷宏治氏と構造家の川口 衛氏による対談「代々木体育館ができるまで」が行われたそうだ。JIAの機関誌の最新号(297号)にその時の様子が掲載されている。 JIAの機関誌 ←クリック

代々木体育館は1964年の東京オリンピックの競技会場として設計された建築で、神谷氏は丹下健三のもとで意匠設計を、川口氏は坪井善勝のもとで構造設計を担当している。ふたりによって代々木体育館の設計の時のエピソードが語られているのだが、これほど長い間、設計時の様子が語り継がれている建築を私は他に知らない。

当初の計画案では1本だったメインケーブルが設計途中で2本に変更された経緯が、聴講者の質問によって明らかにされている。このことは知らなかった・・・。

照明や換気設備などのレイアウトを検討する段階で、ケーブルが1本だと、分散配置になるが、管理上集中配置の方が効率がよいという理由で2本にする案が提案されて、実現したという。

1本のケーブルであれば電線のたわみと同じ、懸垂線(カテナリー曲線)で、数式で表現できる。だが2本のケーブルを横開きに架けるとなると・・・。コンピュータもない時代、構造解析は大変だっただろう。構造担当の川口氏は当時20代、意匠担当の神谷氏は30代だったそうだ。

建設用地の交渉に時間がかかって、設計施工期間は1年以上も縮まってしまったという。オリンピックに間に合わないと何の意味もない・・・。プレッシャーの中、よくやり遂げたものだと思う。


 


脇田 和の山荘

2013-10-21 | A あれこれ

■ 昨日(20日)、軽井沢の脇田美術館で行われた建築ワークショップに参加した。美術館の2階の広い展示室を会場に3人のゲストが語り合うという企画。建築史家の松隈 洋さんが進行役となって、吉村順三のもとで脇田山荘を設計した平尾 寛さんの想い出話を建築家の西沢大良さんとともに聞くという趣向だった。

会場には脇田山荘のスケルトン模型が展示されていて、平尾さんが模型を前に設計上工夫したことなどを説明してくださった(下の写真に平尾さんの腕が写っている)。

後方のアトリエを除き、山荘には平行の壁がない、すなわち部屋が矩形ではない。雲のような、日本列島のようなイメージスケッチを吉村順三から渡されて設計が始まったそうだ。棟の位置がなかなか決まらなかったとか。



その後、美術館の隣の脇田山荘の内部を見学した。吉村順三の作品と聞いてまず浮かぶのは軽井沢の山荘とこの脇田山荘。だから普段非公開の山荘内部が見学できたことは幸運だった。








リビングに設えてあるベンチに座り、心地よい空間を体感。簡素でありながら実に豊かな空間。吉村順三の右に出る住宅作家はいないという評価は続く・・・。

今日手元にある設計図集でこの山荘の図面を見たが、棟木の部分に驚きの工夫がしてあることに気がついた。難しい打球をいとも簡単に処理しているように見せるのが野球の「プロ」。吉村順三の設計も同様、数々の工夫をしていながらそれをさりげなく見せている・・・。



 


48 夜の酒場で

2013-10-21 | C 名刺 今日の1枚


48

 友人のT君から飲みに行きましょうと誘われ、先週の土曜日(19日)の夜に松本市内の沖縄料理の店へ。マスターのつくる料理は美味。泡盛は癖がなく飲みやすい。久しぶりに痛飲。

それから歩いてT君行きつけのスナックへ。年配のママとタレントの友近似の女性のふたりの店だった。壁にはマチスやロートレックの絵のポスターが掛けられていた。スナックで飲むのは一体何年ぶりだろう・・・。カウンターでグラスを傾ける。

カラオケで歌うのはそれ程好きではない。だが、そこは付き合い、数曲歌った。T君がU2の曲を歌ったところで、ボクはU1だとカウンターに立つ女性に話した。信じてもらおうとプライベートな名刺を壁に掛けた鞄から取り出して渡した。 メールアドレスの初めの2文字がu1だから分かってもらえた。

ということで48枚目の名刺はこの写真のHさんに・・・。


 


そぼ降る雨 秋の軽井沢

2013-10-20 | B 繰り返しの美学



 そぼ降る雨、秋の軽井沢、ショップやレストラン、カフェが入る9棟の木造建築をウッドデッキで繋いだハルニレテラス。今日(20日)ここのレストラン沢村でランチ。

共通のデザインコードで統一されたファサードの連なりが美しい。赤い旗が統一感を一層増している。この秩序づけられた空間の魅力、これこそ「繰り返しの美学」。



シンプルな妻面のデザイン、黒の外装に木製サッシの木造建築による群造形。


 


民家 昔の記録 

2013-10-20 | A あれこれ



民家 昔の記録 六十里越街道沿い(旧山形県東田川郡朝日村大網中村)の民家 撮影日 19800813

30年以上前の数年間、全国各地の民家巡りをしました。当時撮影した写真(サービスサイズ)は地方別に整理してあります。これは山形県内の茅葺きの民家で、「北海道・東北」にファイルしてあります。写真の右下に記してある整理NO.1523-8008は「1980年8月に撮影した15本目のネガフィルムの23コマ目の写真」であることを示しています。ネガも専用のファイルに整理してありますから、この写真のネガを探すのは容易です。

昔はこのように一枚一枚整理していたのです。信州弁で「昔はズクがありました」と言います。今は楽です。パソコンで簡単に整理できますから。もっともどのように整理するか、きちんと考えておく必要がありますが。

*****

多雪地域で屋根に窓を設けるのは大変です。はっぽうと呼ばれる開口部の障子をよく見ると前傾しています。前傾の理由として雨や雪が障子にかかりにくいこと、積雪しても障子との間に空隙ができやすく、雪の側圧がかかりにくいことなどを挙げることができるでしょう。

屋根の棟を押さえているぐしぐらも立派です。現地にこれほどきちんとした茅葺きの民家はほとんど残っていないのでは。