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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

『国道16号線 「日本」を創った道』を読む

2024-04-30 | g 読書日記

360
 『国道16号線  「日本」を創った道』柳瀬博一(新潮文庫2023年)を読んだ。『カワセミ都市トーキョー』(平凡社新書)を読んで、同じ著者のこの本を読んでみようと思い、今月(4月)20日に東京駅前の丸善で買い求めていた。

国道16号線についてはウィキペディアに詳しい。この国道は、神奈川、埼玉、千葉をつなぐ東京都を取り囲むようなルート。東京湾の入口で陸路では繋がっていないのに(*1)、法律上、起点・終点が横浜市になっていて環状道路として扱われているのか、国道に詳しくないので分からない。ウィキペディアによると、環状国道は16号線の他には302号線だけとのこと。

**日本の歴史の中心には、有史以来現代に到るまで、1本の道が走っている。「国道16号線」だ。**(3頁)著者の柳瀬さんはこのように書き出し、最終第6章の最後の方で**本書で、私は、一見まったく関係のないさまざままな時代のさまざまな人間の営みが1963年生まれの新しい環状道路である国道16号線沿いにミルフィーユのように積み重なっていることを描写してきた。**(263頁)と、まとめている。

第1章 なにしろ日本最強の郊外道路
第2章 16号線は地形である
第3章 戦後日本音楽のゆりかご
第4章 消された16号線 ― 日本史の教科書と家康の「罠」
第5章 カイコとモスラと皇后と16号線
第6章 未来の子供とポケモンが育つ道

各章の章題に、本書が論じている内容が広範囲に及んでいることが示されている。また、三浦しをんさんの解説からも、柳瀬さんがいろんなことに興味をお持ちだということが分かる。だから**風呂敷を広げまくって書いてみよう(後略)**(あとがき、270頁)と思った、というのも頷ける。本書はまさにそのような内容だ。

『カワセミ都市トーキョー』で著者の柳瀬さんは人間とカワセミが好む地形が同じだということを論じていた。その地形とは湧水起源の小流域源流。『国道16号線  「日本」を創った道』でも柳瀬さんはこの地形を論じている。そのポイントは次の通り。**私の仮説は、「山と谷と湿源と水辺」がワンセットになった小流域地形が人びとを呼び寄せた、というものだ。**(81頁)この小流域地形が東京湾を取り囲むように並び、それらをつなぐように通っているのが国道16号線、というわけだ。

人間が好み、求めるのが小流域地形ということは大昔から変わらない。だから、そこを次々つないでいる国道16号線沿いに、人間の営みの結果としての歴史、文化(旧石器時代、縄文時代の遺跡、中世の城も点在する)が重層している、という理路は分かる。なるほど。 柳瀬さんは人間の営みが積み重なる様をミルフィーユに喩えているが、このことにも柳瀬さんの興味対象の広さが出ているだろう。

柳瀬さんは、注意深く次のように書いている。**もちろん、文明の発達は、地理的な条件だけで決まるわけではない。その土地で発達した個々の文化・文明、土地に根差した権力者の力が、歴史の数々を左右する。**と、想定される指摘を踏まえ、**それでも舞台装置としての地理的条件が、時代ごとのそれぞれの地域の文明の発展に影響を及ぼしてきたことは間違いないはずだ。**と続けている。(267頁)これが、国道16号線が「日本」を創った道であることを論ずる、基本的なスタンスであろう。

なかなかおもしろい論考を読んだ。読書っていいなぁ。


*1 富津市富津岬 ~ 横須賀市観音崎は海路。『ふしぎな国道』佐藤健太郎(講談社現代新書2014年)には鹿児島市から種子島、奄美大島を伝って沖縄の那覇市へ達する国道58号の海路が紹介されている。(137頁) 国道に海路があるということがクイズ番組で出題されていた。

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桜と緑の共演

2024-04-29 | g サクラと火の見


長野県朝日村 2024.024.28


朝日村針尾、鎖川沿いに咲く八重桜は今が見ごろ。2007年に始まったプロジェクトで、現在およそ700本の桜が鎖川沿いにあるとのこと。

桜と緑の共演。緑色ってひと言で括ってしまうけれど、いろんな緑がある。緑が一番映える季節。


 

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「終りし道の標べに」を読む

2024-04-27 | g 読書日記


 安部公房の処女作『終りし道の標べに』(新潮文庫1975年)をようやく読み終えた。読み終えたとは言え、難解で内容を理解したとは言い難い。

奥付を見ると、1975年8月25日に発行されたことが分かる。ぼくがこの作品を読んだのはこの年の9月だった。文庫が書店に並んだ直後に買い求めて読んでいる。ちなみに定価180円。およそ49年ぶりの再読。本は好い。手元に有りさえすれば、いつでも読み直すことができるのだから。

ここで安部公房の『けものたちは故郷をめざす』を読み終えて書いたブログの記事(2024.04.10)から次の一文を引用する。

**「喪失」あるいは本人の意思による「消去」は安部公房の作品を読み解くキーワードだ。このことは次のように例示できる。『夢の逃亡』は名前の喪失、『他人の顔』は顔の喪失、『砂の女』『箱男』は存在・帰属の消去。異論もあろう。言うまでもなく、これは私見。** 

この様に書いたが、この指摘は『終りし道の標べに』にも当て嵌まる。では、この作品で主人公が喪失したもの、あるいは自ら捨てたものは何か・・・。それは故郷だ。自己の存在を根拠づける故郷。

**人間は生まれ故郷を去ることは出来る。しかし無関係になることはできない。存在の故郷についても同じことだ。だからこそ私は、逃げ水のように、無限に去りつづけようとしたのである。**(15頁)

名前、顔、帰属社会、そして故郷。属性を次々捨ててしまった人間の存在を根拠づけるのもは何か、人間は何を以って存在していると言うことができるのか・・・。人間の存在の条件とは? 安部公房はこの哲学的で根源的な問いについて思索し続けた作家だった。

戦中から敗戦直後にかけての満州。私は徴兵を逃れて、故郷日本を離れ、満州を歩き続ける。『終りし道の標べに』に描かれたストーリーそのものはシンプルだが、そこに書かれている内容は難しい・・・。

**ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なのだ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。(中略)いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。**(167頁、最終頁)

『終りし道の標べに』新潮文庫は現在絶版。この作品を難しいと思っている人が少なからずいて、あまり売れなかったのかな。**著者の作家としての出発をなす記念碑的な長編小説。**と、本のカバー裏面の紹介文にある。ならば、復刊してほしい。文学史上重要な作品を出版し続ける責務が出版社にはある、とぼくは思う。

『終りし道の標べに』を読み終えた時、スタンリー・キューブリックが映画化した『2001年  宇宙の旅』のラストシーン、宇宙空間に浮かぶスターチャイルドが浮かんだ。このことについて、うまく文章化できないけれど、ぼく自身は納得している。うん、このイメージ、分かる、と。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

今年中に読み終える、という計画でスタートした安部公房作品再読。4月26日現在7冊読了。残りは15冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして16冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月で読了できる。 


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


さて、次はどの作品を読もう。悩まず、このリストの順序に読んでいこうかな。

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駒止稲荷神社の狛犬(追記)

2024-04-26 | g 狛犬〇


 墨田区にある旧安田庭園内に祀られている駒止稲荷神社。この神社のことは知らなかった。刀剣博物館が閉館していたので、予定を変更してこの庭園を散策していて、この社殿とその前に鎮座している狛犬に気がついた。

この神社の近くに「駒止石」の説明板が設置されていた。その説明を要約すれば、三代将軍家光の時代、寛永8年(1631年)の秋に台風に見舞われ、隅田川が大洪水になった。家光は本所側(隅田川の対岸側、本所川と誤記していましたので訂正しました。説明板を確認願います。)の甚大な被害を憂慮、被害状況を調べさせようとした。濁流が激しく、誰もが尻込みする中、旗本の阿部豊後守忠秋は馬を繰って川を渡り、被害状況を調べて回った。その際、馬を止めて休憩したことろが駒止石。

当時の地元の住民が忠秋の徳を敬い、この地に駒止稲荷を祀ったという。

追記(2024.04.26): 歴史には疎い。だが、阿部忠秋という名前、目にしたことがあるような気がするなぁ、と思って調べてみた。ウキペディアに載っていた逸話に明暦の大火に関するものがあった。明暦の大火の出火元は本妙寺とされているが、実は寺の隣りにあった忠秋の屋敷だった、というもの。

火の見櫓の歴史は明暦の大火のあった1657年の翌年に始まった。定火消が組織されその屋敷に火の見櫓が建てられたのだ。明暦の大火に関することについて調べていて(調べてという程でもないが)、この説を目にしていたのだろう。なお、この旧安田公園から程近い両国橋も明暦の大火後に、避難路確保のために架けられた(*1)。

ウキペディアによると、忠秋の没年は1675年(延宝3年)。この駒止稲荷は忠秋没後に祀られたものと推察されよう。記事を書く際、あれこれ関連情報を調べれば、いろいろ分かっておもしろいのだろうが、あまりしていない。時間も無いし(とは言い訳)、反省。

 
社殿前の狛犬を見る。小ぶりだがなかなか迫力がある。社殿に向かって左側(写真も左側)、吽形の狛犬の顔の表情が厳しい。この狛犬の頭部には角か? 上部が欠損していて判然としないが、一般的には右の獅子は宝珠、左の狛犬は角だから。では獅子の頭部に宝珠が見えないけれと、そこの様子は? 確認しなかった。説明のための写真は無造作に撮ってはならぬ、これ教訓。説明したいことを的確に捉えるようなアングルを探して撮らなくては、と反省。

 
社殿を背に狛犬を見る(位置関係に注意)。後ろ姿は撮らなかった。


阿形の獅子の台座。刻字されていた奉納年は欠損していて確認できない状態。「昭和三・・・・日」 昭和の狛犬だということは分かる。

奉納年について、「好奇心いっぱい こころ旅」というブログには**昭和33年6月22日に安田学園が奉納した狛犬です。*+*と記されている。安田学園のHPを検索してみたが、この狛犬に関する記事は見つからなかった。


*1 架橋については防災目的というより開発目的だったとする指摘もある。**幕府は、この大火を契機に隅田川東岸の本所・深川の低湿地の開発に本格的に動き出す。隅田川の両岸地域の連絡を確保するために万治二年(一六五九)に両国橋を架橋する。**(『都市計画家  徳川家康』谷口 榮(MdN新書2021年)85頁)ものごとは見方・捉え方の相違で、結論も変わるということだ。

コメント (4)
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犬山城の近くの火の見柱

2024-04-25 | g 火の見櫓観察記


― 愛知県犬山市(大本町通り) 火の見柱梯子付き

 二八会(同い年の幼なじみの親睦会)の仲間、FM君からラインで火の見柱の写真が送られてきた。FM君は国宝犬山城の近くに立っているこの火の見柱が目に入り、写真を撮ってくれていた。すばらしい。 

コンクリート柱を茶色に塗装している。城下町ということで景観に配慮したのだろうか。左奥の電柱と比べると分かるが、茶色だと印象がかなり違う。


屋根が木造だと気がついた。コンクリート柱の上端を2本の梁で挟み、その上に小屋組みを井桁状に組んでいる。棟木はどうしているのか、写真では分からない。極短い束を設置しているという常識的なことしか浮かばない(追記:SVで束が確認できた)。垂木を架け、切妻屋根、瓦棒葺き。

ここまで書いて、見張り台はどうしているのだろう、と気になった。で、送られてきていた火の見柱上部の写真をトリミングして追加掲載した(下)。


2本の角型鋼管でコン柱を挟み込んで固定、その上に見張り台を載せている。屋根と同様の方法が採られている。見張り台の床の四隅を方杖で突いている。なるほど、こうやっているんだ。

火の見櫓は十基十色だ。


 

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旧弾正橋(八幡橋)を観る

2024-04-24 | g 歴史的建造物〇


※ タイトルの旧弾正橋が旧弾性橋となっていました。ある方にご指摘いただき、訂正しました。拙ブログには誤字が多くお恥ずかしい限りです。言葉の誤用もありそうです。本稿の構造的な解釈も私見につき、誤りがあるかもしれませんが、それは言うまでもなく、私の理解不足によるものです。

 富岡八幡宮から徒歩で数分のところに国の需要文化財に指定されている、この旧弾正橋(八幡橋)がある。この橋のことを、うさぎさんの「今日のころころこころ」というブログで知り、いつか見てみたいと思っていた。ようやく願いが叶った。


この橋のことは何も知らないので、橋のたもとに設置されていた案内板の写真を載せる。その説明文から一部引用したい。**アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋てありかつ独特な構造手法で施工してある。**


側面から橋の全形を見る。

この橋は写真に付けた番号順に1 アーチ、2 床版(人の歩く床面)、3 吊材、4 タイロッド、以上の要素で構成されている。3の吊材によって吊り上げた2の床版を1のアーチによって支えるという構造。これはブランコと基本的には同じ構造でブランコの支持フレームが1、人が座る座板が2、座板を支持フレームから吊り下げている鎖が3に相当する。更にこの橋は1のアーチが2の荷重で変形して下方に下がるのを防ぐために4を設置している。説明文によると、1に鋳鉄が使われ、引張材である3と4に錬鉄が使われているという。


写真③で示した3は吊り材1本、3は吊り材は吊元では1本だが、分岐して2本にしていることを示している。片面4カ所で吊っているが、内側の2カ所は2本、外側2カ所は1本。

この吊り材の他部材との接合部に注目した。以下、その様子を写した写真。


吊材上端の様子


格子状に補強部材を設置した床版(こういうのもワッフルスラブって言うのかな)を吊り上げている様子。吊材は2本。


吊棒1本の箇所の下端の様子。この橋の一番の見どころ。

床版を角型の梁材 6で受けて、棒鋼 1でアーチに吊っている。2と3はタイロッド、4本。前述したが、床版が自重と人の荷重で下方に下がろうとすると、引張材であるタイロッドが抵抗、アーチを助けて床版の位置を保持する。なお、写真⑦の4は橋の両側の構面の面内変形を防ぐブレース。5は橋の手すりの支持材(つっかい棒)。6の下に設置されている接合部品(鋳造品だと思われる)の両端に菊の紋章が施されている。


橋の端部の様子。タイロッドをボルト留めしている。上下2本のタイロッドを1本にまとめている、と推測されるが、確認しなかった(ダメじゃん)。

構造力学的な要求に素直に従って、必要部材をきちんと配置している。いいなぁ、こういうの。


現地で気がつかなかったこともあって、的確な写真があまりなかった。トリミングして、説明的な写真にしたが、どうも・・・、この橋はまた観たい。

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週末東京の記 2

2024-04-22 | g 旅行記〇

 21日 朝9時半、地下鉄門前仲町駅で友人と待ち合わせ。徒歩で富岡八幡宮へ向かう。この神社には狛犬を見るために2015年の9月に来たことがある(過去ログ)。


参拝して、すぐ近くの次の目的地へ。



旧弾正橋(八幡橋)国の重要文化財に指定されている建造物。この橋については別稿で。


門前仲町駅に戻り、大江戸線で両国に向かう。両国では東京都復興記念館と刀剣博物館を見る予定だった。




東京都慰霊堂  内観

東京都復興記念館は都立横網町(*2)公園にある施設で、この公園には東京都慰霊堂もある。どちらの施設も今まで知らなかった・・・。

東京都復興記念館の館内には関東大震災と先の大戦による東京の惨状を伝える写真や絵画などが数多く展示されていた。関東大震災の発生が1923年(大正12年)、この震災で東京は甚大な被害を受けた。それからわずか18年後、1941年(昭和16年)に第二次世界大戦が勃発する。東京は壊滅的な状況に。

復興記念館で受け取った資料には北は北海道から南は九州・沖縄まで、主要な戦災都市一覧が載っている。それから東京空襲一覧も。東京空襲というと、1945年(昭和20年)3月10日の大空襲がよく知られているが、資料によると、約9か月の間に100回以上もあったとのこと。知らなかった、と正直に書く。

戦後、この国は毎年のように自然災害による大きな被害を受け続けてきた。それでも災害列島で生きていくというこの国の人たちの意志。


展示品には火の見櫓のある風景を描いた絵もあった。


横網公園のすぐ近くの旧安田庭園内に刀剣博物館がある。刀剣博物館は槇 文彦の設計。歩きながら友人に槇 文彦の作品を紹介する。幕張メッセ、東京体育館、代官山のヒルサイドテラス、テレビ朝日の社屋、青山のスパイラル・・・。それから「新国立競技場を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」(*2)という論考。



刀剣博物館のエントランスに休館の表示が・・・。残念。展示品を見たかったわけではなく、ここのカフェで休憩したかった。


縁甲板の型枠を使ったコンクリート打ち放しの壁。槇さんの建築はとにかく美しい。


旧安田庭園を歩く。





10
庭園内の駒止稲荷神社。狛犬がいる! ここの狛犬については稿を改める。


次はマティス展。両国から大江戸線で六本木へ。大江戸線の両国駅まではかなり距離があることを昨年(2023年4月)回向院に行った時に知った(過去ログ)。追記(04.23):自宅で地図を見て、ずいぶん遠回りしていたことが分かった。
11
両国国技館前の太鼓櫓 用途違えど、櫓は櫓。

12
こんな蓋があった。 既に12時近くになっていた。美女と一緒だから、六本木のおしゃれな店で食事をしようとおじいさんは考えた。

13
2階のレストランに高級車。どうやって店内に入れた? 

例によって食レポは無し。


14
マティス展については別稿で。


マティス展鑑賞後、消防博物館へ向かう。少し雨がぱらついているが傘をさすほどでもない。消防博物館は2012年、2016年に来ているから、今回が3回目。

15

16
前からあったのかな、この火の見櫓の模型。記憶にないなぁ。展示してある消防信号板と同じものが自室にある(*3)。

展示品をざっと見て、消防博物館の近くのカフェへ。この時、午後4時ころだった。


友人は聞き上手。阿川佐和子さんの「さしすせそ」の「そうなんだ」をよく使う。「すごいね」も。そのせいなのだろうか、話が尽きない。前回もそうだった。気がつけば6時。あっという間に2時間経っていた。ぼくは夜8時発のあずさで帰ることにしている。

地下鉄を丸の内線、南北線と乗り継いで神楽坂へ。時間がない。タイム イズ モウネェ。ゆっくり食事、とはいかず、1時間も経たないうちにさようなら、お元気で。終日つき合ってくれた友人に感謝。

友人は飯田橋から地下鉄、ぼくは総武線で新宿へ。出発時刻の10分くらい前に新宿に着いて、あずさに乗り込んだ・・・。疲れたな。ビールでも飲んで眠りたいところだけど、車の運転があるからそれは出来ない。

**とても楽しく、刺激を受けて帰ってきました。ありがとうございました。(後略)** 友人からメッセ―ジが届いた。

夜11時近くに帰宅。スマホで歩数を確認するとおよそ14,800歩。二日間でおよそ24,000歩。東京するといつもよく歩く。

大変有意義な週末東京であった。


 

*1 両国には国技館がある。横網を間違えて横綱と表記するケースが案内表示板はじめ印刷物などにもよくあったという。今回も綱を網に訂正したと思われる案内表示を見かけた。

*2 正確に覚えていなかったので帰宅後に確認した。


自室の壁に立てかけてある消防信号板

*3 何年か前のこと、ある自治体で火の見櫓を解体するという情報を得た。担当課の課長にお願いして、火の見櫓に設置されていた消防信号板をいただくことができた。


 

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週末東京の記 1 

2024-04-22 | g 旅行記〇

 先週末、東京した。今回の上京目的は大学時代の恩師を囲む会に参加すること、国立新美術館で開催中のマティス展の鑑賞だった。

本稿と次稿に分けて週末東京、20日(土)と21日(日)の様子を時系列に沿って記録しておきたい。


20日、塩尻駅7時18分発の特急あずさ8号で東京に向かう。現在あずさは全席指定だ。進行方向右側の窓側の席を予約していた。左側の車窓からも火の見櫓は見えるけれど、右側の方がその数が多いと思われることと、後述することがその理由。


山梨県北杜市 特徴的な山容の甲斐駒ヶ岳(*1)の麓に立っている火の見櫓を撮った。たぶんこの辺りのはず、とスマホを構えてスタンバイしていた。スマホ写真のなんとなくパサついた感じがあまり好きではないが、記録写真だからと割り切って撮影する(4以降の写真は持参したカメラで撮影したもの)。


中央東線は甲府盆地を大きく東側に迂回して、塩山駅を過ぎてから、徐々に登っていく。この辺りの車窓の俯瞰的な風景が中央東線では一番好きだ。進行方向右側に席をとるのは、この風景を見たいからというのも理由。


山梨県上野原市 今までこの火の見櫓には気がついていなかった、と思う。少し後方を振り返るようにして見ていて、この火の見櫓に気がついた。あわててスマホを向けた。何とか火の見櫓を写すことができた。 やぐらセンサーの感度はこのところ極めて良好だ。


東京駅に9時59分、定刻に着いた。丸の内北口を出てオアゾの丸善に向かう。ここは上京すれば必ず立ち寄る書店。店内の上質で落ち着いた雰囲気が好ましい。




『生物から見た世界』ユクスキュル/クリサート(岩波文庫2023年第34刷)
『国道16号線 日本を創った道』山瀬博一(新潮文庫2023年)

「先生を囲む会」は目黒雅叙園で11時30分から。時間に余裕がないので、予め決めていた2冊を買い求めて、東京駅に戻る。



オリガミック アーキテクチャー 山手線の高輪ゲートウェイ駅で電車を降りて、隈 研吾設計の駅の様子を見て、次の電車に乗る。このくらいホームが明るいと好い。まだ乗降客はまばら。


目黒駅で他の参加者と合流、目黒雅叙園に徒歩で向かう。東京は坂の街、急な坂道を下る。5、6分ほどで雅叙園に着いた。






        

参加者は先生と奥さん、上高地仲間の3人、幹事のSTさん、私の7名。カノビアーノの個室で幹事のSTさんがオーダーしたイタリア赤ワインと共にコース料理を味わう。イタリア料理の味を表現する言葉を持たないので、省略。11時30分から2時間、楽しい時間はあっという間に過ぎて・・・。 

記念写真を何枚も撮影した。再会を約束して先生を囲む会はお開きに。先生は奥さん運転の車で帰宅された。STさんとも分かれた。


上高地仲間3人と庭園美術館(*2)辺りまで、酔い覚ましの散歩。

10
以前、満席で入店できなかったレストラン・・・。

その後、目黒駅近くの居酒屋で2次会。私の予定に合わせてもらい、4時半過ぎにお開き。


地下鉄を乗り継いで某所へ向かった。

11
6時半ころ、Mが予約していた焼き肉屋さんへ。店員さんが提示したQRコードをスマホで読み取って、表示された画面で飲み物などを注文するシステム。おじ(い)さんには、ハードルが少し、そう少しだけ高め。

焼肉は久しぶり。どの肉もなかなか美味かった。支払いはMがしてくれた。ごちそう様でした。

東京ではいつもよく歩く。20日も地下鉄の乗り換えや駅から目的地までの移動でよく歩いた。歩数は約9,300歩だった。


*1 甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)南アルプス(赤石山脈)の北端に位置する山、標高2,967m。
*2 庭園美術館には何回も行ったことがある。(過去ログ


 

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春うらら

2024-04-18 | g 火の見櫓のある風景を描く〇

560
春うららな雰囲気が表現できたから良しとしておこう。

なんとも描きにくい風景・・・。スケッチだから時間をかけない。線描は現場で30分、着色は自宅で45分。

新緑の5月になったら描こう。


 

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「カワセミ都市トーキョー」を読む

2024-04-18 | g 読書日記


朝カフェ読書@スタバ 2024.04.15

『カワセミ都市トーキョー』柳瀬博一(平凡社新書2024年)を読んだ。

「カワセミを知れば、東京の地理と歴史が見える」は本書の第3章の副題。東京に暮らすカワセミたちの観察から見えてくる東京という都市の姿。そう、本書は東京の姿を論じた都市論。

著者の柳瀬さんは**人間、意識していないものは、目に前にいてもまったく見えない。**(94頁)と書いているが、私も同じことを拙著の「はじめに」で次のように書いた。**知識がないとものは見えないのです。火の見櫓に興味を持ち始めて知識を得るようになって、風景の中に立っている火の見櫓に気がつくようになりました。**

柳瀬さんは**観察を続けるうちに、見え方が変わる。つまり「他人事」じゃなくなる。観察対象が三人称ではなく、二人称になる。「お前」や「君」になる。**(295頁)と書いている。

なるほど。柳瀬さんは個体識別したカワセミ夫婦、親子の観察記を例えば次のように書いている。

**「ほら、まだ躊躇がある! だから狩りに失敗するんだ!」
「はいっ」
「じゃ、もう一度」
「だめだめ、フォームがなってない。もっと、こう流線形に」
「はいっ」
「じゃ、もう一度」
指導に飽きたのか、父さんはさらに上流に飛び去った。
残された2羽は素直に練習を繰り返す。**(155頁)

こんな風にカワセミたちの言葉を解するように観察すれば、いろんなことが分かってくるだろうな。

本書の副題は「「幻」の鳥はなぜ高級住宅街で暮らすのか」。

答えは東京に数多く存在する、湧水がつくり出した小流域源流の谷地形が人もカワセミも好きだから。なんだか、「チコちゃんに叱られる!」の答えのようにあっさりしているが、番組と同様に、本書には詳細な解説が書かれている。本稿ではその内容の紹介は省略するが、簡潔に記された箇所だけ引用する。**小流域は、生き物としての人間がサバイバルするために必要不可欠なものがまとめてパッケージされている地形だからである。**(234頁)人間に限らず、動物、もちろん鳥とっても。

そして**東京の地形は、小さな流域 = 小流域がフラクタルに並んだ流域地形の集合体である。**(25頁)と柳瀬さんは指摘する。このことを示す、国土地理院のウェブサイトから引用したカラーの図が掲載されている。

都内各地(例えば皇居、赤坂御所、白金自然教育園)にカワセミがもともと生息していた、あまり人の手の入っていない「古い野生」が残っている。「古い野生」と「新しい野生」である都市河川とが接続して、カワセミたちが次第に「新しい野生」に適応して生息するようになっていった、という流れ。

河川の汚染でいったん奥多摩辺りまで生息域を後退させていたカワセミが河川の浄化が進んだ都内に戻ってきて、東京の「新しい野生」にも適応した。そこでのカワセミの餌は外来生物と汽水魚、巣は河川のコンクリート護岸の水抜き穴。


本書で環世界という言葉、概念を知った。意味内容を本書から引く。**あらゆる生物に客観的世界は存在しない。それぞれの生物固有のセンサー  =  感覚器がとらえる空間と時間のみが、それぞれの生物の主観的な世界である。ユクスキュルはそう定義した(*1)。そんな個々の生物の主観的な世界を「環世界」と名づけた。**(263頁)

私たちも、個々人が後天的に獲得した言語と知識と経験と好みがつくりだす文化的な環世界にいる。同じ時間に同じ空間にいても見えているものはそれぞれ違う。別の世界にいる、ということを私も経験的に知っている。他者とは違う自分だけの環世界

柳瀬さんはコロナ禍で行動が制限されていた期間に偶々近所の川でカワセミに出会ったとのこと。それからカワセミの観察を続けて本書の出版につなげた。すばらしい。 漫然とカワセミを観察していたのであれば、カワセミは柳瀬さんの環世界には入り込まず、その生態は明らかにはならなかっただろう。

やはり何事にも一所懸命取り組まなくては・・・。


*1 『生物から見た世界』ユクスキュル/クリサート(岩波文庫)を読んでみたい。


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桜花爛漫 火の見櫓と桜 in 松本市寿南

2024-04-15 | g 火の見櫓のある風景を撮る〇


(再)松本市寿南(寿小池公民館)2024.04.15








 

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「カーブの向う・ユープケッチャ」を読む

2024-04-14 | g 読書日記

360
 安部公房の『カーブの向う・ユープケッチャ』(新潮文庫1988年12月5日発行、1993年2月15日4刷)を読んだ。

収録作品の『カーブの向う』は『燃えつきた地図』の原型、『ユープケッチャ』は『方舟さくら丸』の原型、『チチンデラ  ヤパナ』は『砂の女』の原型となった短編。このように収録されている9編中3編が安部公房の代表作の原型作品であるのにもかかわらず、この文庫は現在絶版。なんとも残念。

『砂の女』の原型となった短編のタイトルのチチンデラ  ヤパナって一体何? ネットで調べるとニワハンミョウという昆虫のことで、体長10~13mm。河川敷や海岸、畑地などの砂地に生息しているということが分かった。なるほど砂地か・・・。

『砂の女』には火の見櫓が出てくる。『チチンデラ  ヤパナ』にも出てくるかもしれないな、と思いながら読み始めた。**とつぜん視界が開いて、小さな集落があらわれた。高い火の見櫓を中心に、小石でおさえた板ぶきの屋根が不規則にかたまった、貧しいありふれた村落である。**(126頁)やはり出てきた。

『手段』は駅の改札口の近くに設置されている「簡易交通障害保険自動販売機」にまつわる物語。主人公の男がこの自販機が扱う保険に詳しいという老人に声をかけられる。で、男は娘の修学旅行の費用が必要だと、老人に話すことに。保険の約款には怪我の部位、程度によって支払われる保険金が異なること、そして、それぞれの保険金額が示されている。

駅のホームに電車が進入してきて、男は・・・。星 新一も扱いそうなテーマだけど、だいぶテイストが違う。

『完全映画』この作品が「SFマガジン」に発表載されたのは1960年(昭和35年)のこと。予見的な作品。

『子供部屋』 **壁のコンクリートに這わせてあった水道管から、水もれがしはじめたんですよ。しだいに地下室が水びたしになりはじめる。やむなく、子供たちを隅の箱にかくして、水道屋を呼ばざるを得ませんでした。ところが子供たちが、箱の隙間から、工事人夫が作業をしている所を見てしまったんですね。**(212頁)

なんだか、『箱男』を思わせるこの描写。この作品が「新潮」に発表されたのは1968年(昭和43年)のことだった。で、『箱男』の発表が1973年(昭和48年)。この頃から『箱男』をイメージしていたのかもしれない・・・。

密度の高い作品集。繰り返す、絶版は残念。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

年内に読み終える、という計画でスタートした安部公房作品再読。4月14日現在6冊読了。残りは16冊。3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして17冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月でほぼ読了できる。少しペースダウンして他の作家の作品も読もう。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


 

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「けものたちは故郷をめざす」を読む

2024-04-10 | g 読書日記



■ 安部公房の『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫1970年5月25日発行、2021年5月10日26刷)を読んだ。3月から始めた安部公房作品再読の5作品目。

ドナルド・キーンは、安部公房の代表作『砂の女』(新潮文庫)の解説文の書き出しで前衛作家、安部公房という紹介をしている。そう、安部公房は前衛的な作風で知られている、シュールレアリスムの作家。それで、「え、これ安部公房?」、『けものたちは故郷をめざす』を読み始めると、まずこんな感想を抱く。リアルな描写で読みやすい。

主人公の少年・久木久三の父親は久三が生まれた直後に死に、母親は戦争の犠牲になった。先の大戦、敗戦前夜、天涯孤独の身となった彼は極寒の中国大陸を南進する、帰国を目指して。同行の男は正体不明、国籍さえ定かではない。

極寒の荒野を飢えと疲労の身を引きずるように彷徨うふたり。心理描写と身体感覚の描写は読む者を一緒に彷徨うような気持ちにする。私は暗い気持ちで読み進んだ。

この小説を読んでいてやはり日本への引き揚げの様子を描いた藤原ていの『流れる星は生きている』(過去ログ)を思い出した。

中国国内の地名が出てくるとネット上の地図でその場所を確認してもみた。まだ、こんな所か。生きて故郷日本にたどり着くことができるのだろうか・・・。

先が気になって、昨日(9日)はおよそ300頁の本作の後半、半分を一気に読んだ。『砂の女』もそんな読み方をしたことがあったかと思うが、安部公房の作品では珍しいことだ。

この長編小説の最後、久三は日本船の中の狭い間隙に監禁されてしまうという絶望的な状況に陥る。なんという悲劇。

最終場面の描写を引用する。**・・・・・ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな・・・・・いくら行っても、一歩も荒野から抜け出せない・・・・・もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな・・・・・(後略)**(302頁)

そして最後の一文。**だが突然、彼はこぶしを振りかざし、そのベンガラ色の鉄肌を打ちはじめる・・・・・けものになって、吠えながら、手の皮がむけて血がにじむのもかまわずに、根かぎり打ちすえる。**(303頁)

この一文をどう解するか。絶望的な状況の更なる強調か。絶望的な状況を打破しようという久三の強い意志の表現か・・・。私は後者だと解したい。

*****

「喪失」あるいは本人の意思による「消去」は安部公房の作品を読み解くキーワードだ。このことは次のように例示できる。『夢の逃亡』は名前の喪失、『他人の顔』は顔の喪失、『砂の女』『箱男』は存在・帰属の消去。異論もあろう。言うまでもなく、これは私見。

そして『けものたちは故郷をめざす』は故郷の喪失。故郷とは何か、そしてその喪失とは・・・。安部公房は自身の戦争体験をベースに書いたと言われるこの作品で、読者に何を訴えたのか。

根なし草の寂しさか。否、久三の最後の窮地を日本の敗戦直後の状況の暗喩的な表現だと捉えて、上掲した最後の場面もやはり暗喩的な表現と捉えれば、その答えを知ることができるだろう。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない 2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月

次にどの作品を読もうかな、と迷ったが『カーブの向う・ユープケッチャ』を読むことにした。


 

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「源氏愛憎」を読む

2024-04-09 | g 読書日記

360
『源氏愛憎 源氏物語論アンソロジー』編・解説 田村 隆(角川ソフィア文庫2023年)を読んだ。

古典や近現代作家他の源氏評の一部を抜粋して集めた評論集。しばらく前、松本駅近くの丸善で偶々この本を目にして迷うことなく買い求めた。『源氏物語』関連本は出来るだけ読もうと思っているので、やぐらセンサー、もとい源氏センサーが作動したのかもしれない。1000年も前、平安時代に書かれた『源氏物語』は名作という評価ばかりではない。様々な評価があることも名作の証なのかもしれない。

本書はⅠの古典篇とⅡの近代篇から成り、古典篇には現代語訳はないものの、解説文があるので分かりやすい。

平安末期に編まれたという「宝物(ほうぶつ)集」は仏教説話集。本書に次のようなことが掲載されている。
**ちかくは、紫式部が虚言(そらごと)をもつて源氏物語をつくりたる罪によりて、地獄におちて苦患(くげん)しのびがたきよし、人の夢にみえたりけりとて(後略)**(35頁) 紫式部が地獄に落ちた、なんて! ひえ~、びっくり。

『源氏物語』を三度現代語訳した谷崎潤一郎は次のように光源氏を評している。
**源氏物語の作者は光源氏をこの上もなく贔屓にして、理想的の男性に仕立て上げているつもりらしいが、どうも源氏という男にはこういう変に如才のないところのあるのが私には気に喰わない。**(143頁)

まあ、一部を切り取るだけではいけないので、他の人の評論の部分的な引用は控えよう。

近現代篇には15人の源氏評が収録されている。その中では円地文子の「源氏物語の構造」と題した評がもっとも教科書的というか、読んで納得できるものだった。

*****

「源氏物語」は通俗的でドロドロな恋愛小説ではないか、などという評がもしあるとすれば、それはこの物語の表面的な部分しか、読んでいない、とぼくは分かったような指摘をしておきたい。そんな小説であれば1000年も読み継がれるはずがない。

円地文子は「宇治十帖」を**たいへんよくできた中篇小説で、構成としては正篇よりもまとまっているだろうと思います。**(171頁)と評している。しかしその直後に**正篇がなかったならば、宇治十帖の光彩というものは、極端に薄れるでしょう。**(172頁)と指摘している。

NHKの100分de名著「源氏物語」4回分の再放送(4月7日午前0時40分~)を録画で見た。国文学者で平安文学、中でも「源氏物語」と「枕草子」が専門だという三田村雅子さんが解説していた。三田村さんは物語最後のヒロイン浮舟が好きだと言っていた。浮舟には紫式部の願いが投影されているとも。

『源氏物語』(もちろん現代語訳)をもう一度読む気力は無い。だが、「宇治十帖」は再読してもいいかなと思い始めている。


 

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20 佐久市根岸の火の見櫓

2024-04-08 | g 火の見櫓観察記

490
1509 佐久市根岸 平井公民館 4柱4〇型ロングアーチ脚 2024.04.02

 今月(4月)2日、久しぶりのヤグ活(火の見櫓めぐり)を佐久市内でして、20基観察した。この日の走行距離は193km、歩数はおよそ8,000歩だった。ヤグ活は思いの外歩く。本稿はその最後、20基目の火の見櫓の紹介。



下の3カットはほぼ同じ範囲を写している。(※ 私のパソコンの画面では3カット横並び表示)

・左はほぼ真横から撮った。坂道の脇に立つ火の見櫓だったので坂を登って少し遠くから撮った。立地的に撮影可能であれば撮るアングル。立面的な形状が分かりやすい。
・中は屋根と見張り台を1カットで撮る時、よく使うアングル。ほぼ毎回このアングルは撮る。立体的な形状が分かりやすい。
・右は火の見櫓のごく近くから見上げて撮った。見張り台や屋根の平面形が分かりやすいが、あまり撮らない。

火の見櫓の見え方は当然のことながら、アングルによってかなり違う。何を伝えたいのか、そのことを伝えるのにはどんなアングルが良いか。情報伝達の手段としての写真を考えて撮りたい。自省。

   


踊り場。折り返し梯子を掛けるのに必要なスペースをバルコニー型の踊り場(カンガルーポケットと呼んでいる)によって確保している。このタイプは東信・北信地域に多い。見張り台と同様に下膨れの手すりが設置されている。


脚は典型的なロングアーチ。これなら判断に迷うことはない。逆さU形。好きなカーブ。


 

コメント (4)
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