goo blog サービス終了のお知らせ 

透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ありがとうございました。 

2025-06-26 | g あれこれ考える〇

gooブログ 最後の投稿

 2006年4月16日。この日にブログ「透明タペストリー」を始めました。
それから19年と2か月、ずいぶん長い間継続してきました。

これまで拙ブログを閲覧していただいた皆さん ありがとうございました。
運営に携わったスタッフの皆さんにもお礼を申し上げなくてはなりません。ありがとうございました。

gooブログのサービス終了は残念ですが、仕方ないですね。本稿を以ってgooブログへの投稿を終了します。

はてなブログに「透明タペストリー2」を開設して、これまでの記事を移行し、新たな記事も書き始めました。
今までと変わらず閲覧いただければ幸いです。 透明タペストリー2


透明タペストリー工房 U1

2025.06.25

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はてなブログへ画像データを移行する

2025-06-19 | g あれこれ考える〇

 gooブログからはてなブログへテキストデータの移行は2時間足らずで完了。

続いて画像データの移行実施。15日(日)の17時半ころ開始して、18日(水)の朝、5時半ころに終了した。2日半くらいかかったことになる。

移行対象の画像は14183枚と表示されて、移行できた画像は14154枚(29枚が移行できなかった)。ただし、画面表示は18枚移行失敗となっていて、枚数が相違している。また、はてなのアルバム「はてなフォトライフ」を見ると、表示枚数は14463枚となっていて、移行対象の枚数より多い。

記事に使われている画像だけが移行される、ということから、先にインポートされている記事を参照(という表現が正しいのか、分からないが)して、そこで
使われている画像のURL(住所にたとえられる)を探しても画像が見つからないケースがあるだろう。このような場合には移行失敗と表示される。それが18枚(29枚)と表示されているのだろう。

では、アルバムに貼り付けられた画像の枚数が多いのはなぜ? インポートされた画像数にはてなブログの記事に使った新たな画像が加算されているのかな?

推測するに、同じ画像が複数の記事に使われているケース。この時は記事と画像を1対1に対応づけるために、同じ画像データを複数移行する、ということではないだろうか・・・。事情に疎いので、事実とは全く違うのかもしれないが。同じ画像(松本清張の本の画像)が2枚、アルバムに貼られていることに気がついた。他にもあった。このようなことがいくつも起きているのでは・・・。

だが、松本清張の本を除き、他の写真は2度使いするようなものではない。 上記の推測ま間違っているなぁ。では、なぜ?


 




引っ越しとか、移行ということばから、データをgooブログのサーバーからはてなブログのサーバーへ移すというイメージが浮かぶ。住まいの引っ越しの際の荷物の移動のようなイメージ。でも、データの移行とはこのようなものの移動とは違い、データのコピーをはてなに持ってくるということなのでは・・・。

文章を移行させた段階ではてなブログの記事を見ると、ちゃんと画像もあることから、画像も引っ越しできたと勘違いする人も中にはいるようだ。この段階では、gooブログのサーバーに画像を読み取りにいって、それを表示しているだけだろう。だから、gooブログが閉鎖され、データが消去されると、記事の画像は表示されなくなってしまう。

画像データの移行に時間がかかるのは、文章くんと画像ちゃんがはぐれないような対策をしているからなのでは。ふたりを赤い糸(かどうか分からないが)で、きっちりむすばれた状態にしておかないと、いけないから。そうしないとgooブログのデータのままで、いずれ消えてしまうから。だから、画像がgoo村の住所のままではないですか、ちゃんとはてな村に来ているかどうか画像の住所を確認してみて、と注意書きされている。

この辺りの理屈というか、どうなっているのかが、正しく説明されていると、原理的なレベルで理解できるのだが・・・。

でも丁寧な引っ越しマニュアルのおかげで、引っ越しすることができた。感謝。


 

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はてなブログへデータ引っ越し

2025-06-16 | g あれこれ考える〇



 2006年4月16日に始めたgooブログ。昨日(6月15日)は開始日から7,000日目という節目の日。
ということで、データをはてなブログへ移す作業をした。

15日 

午後3時20分過ぎ 作業開始 約5分後 テキストデータ(要するに記事の文章データ)のエクスポート完了通知が届いた。自分のパソコンに届いた圧縮ファイルに名前を付けて、解凍。解凍は瞬時にできる。



午後3時30分 はてなブログへ解凍した文章データを移す(インポート)作業開始。8520件あった記事を減らして、移す記事は5283件。

インポート用の画面には進行状態を示す棒グラフが表示されている。

午後5時30分少し前、75%(画面のグラフにスケールをあてて、長さを測った)くらい進んだところで、グラフが止まって伸びないことに気がついた。
おかしいなぁ・・・。で、はてなブログの画面で移動できた記事の件数を数えた。合計5283件 あれ、全て移動できてる。グラフが上のような状態なのに・・・。


午後5時30分頃 引っ越し作業画面に画像引っ越しの表示が出たので、画像移動作業開始。移動する画像は14,183枚。(記事に使っていない画像は引っ越しの対象外で、カウントされない。ちなみに全画像数は21,383枚)

午後9時30分頃 1,221/14183(枚)

16日

午前5時30分頃 4499枚/14183(枚)

開始から12時間で約4500枚移動できたので、同じペースで移動作業が進むとすると、約26時間後に完了するという計算(間違っていないと思う)。画像データはgooブログのサーバーからはてなブログのサーバーへどうも直接移すらしい(確かではないので、らしいとしておこう)。従って、パソコンで他の作業をしたり、電源を落としても移動は進む。

明日の朝、今ごろには終わっているだろう。(はてなではこのような絵文字が使えない)






 

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飯碗の形について考える の巻

2025-06-15 | g あれこれ考える〇

透明タペストリー2

 gooブログサービス終了予定を受け、はてなブログにブログを開設しました。閲覧いただければ幸いです。近々引っ越す予定です。

 最近飯碗を①から②に変えた。




①と②の容量はほぼ同じ

今まで使っていた①の飯碗と、使い始めた②の飯碗とどこが違うのか。

まず全体の形が違う。具体的には底から口縁までのカーブが違う。②のカーブの方が勾配がなだらかで縁に向かって徐々に急勾配になっている。①は勾配が途中で急激に変化している。それから口縁の形が違う。①は口縁が外側に反っている。このようなことは『空想の補助線』の著者・前川 淳さんなら数理的にスマートに説明するだろうな。

口縁が外側に反っていると、お茶漬けが食べにくい。お茶漬けを食べる時は飯碗の縁に口を付けて、箸でご飯を飯碗の内側の面を滑らせるように上げて口に運ぶ。この時、口縁が外側に反っているとスムーズに口の中に流れ込まないのだ。汁物を飲んでみれば、両者の違いがはっきりすると思う。口縁が反っていると、飯碗を傾け過ぎると口の両側から汁がこぼれそうになり、飲みにくい。

私は毎朝納豆をご飯にかけて食べるが、残りわずかになった時はお茶漬けと同じ食べ方をする。飯碗の縁に口を付けて箸でごく少量になったご飯と納豆を一緒に飯碗の面を滑らせるように(って、ネバネバで上手くいかないが)上げてきて、口に入れるが、やはり食べにくい。

そうかなぁ、違いがあるのかなぁ、と思われる方は①と②の形の飯碗で試してみていただきたい。

今日の昼間はひとりだったので、昼食をたまごかけご飯にして①と②の飯碗で食べ比べてみた。上述したことが改めて確認できたし、他にも気がついたことがあった。それは②は箸を自由に傾けて使うことができるが、①だと箸をある程度傾けると飯碗の縁に当たってしまうということだ。箸の使い方が制限されてしまうので食べにくい。

結論。以上のことから縁に口を付けて食べることがあるような場合には②のような形の飯碗の方が食べやすい。たまごかけご飯だって、残りわずかになったらお茶漬けと同じように食べた方が美味いと思う。常に上品な食べ方をしている人には分からないだろうなぁ・・・。

*****

飯碗の選び方をネットで調べたが、持ちやすさ、持ち心地については書かれているが、食べやすいかどうかについて触れているものは見つからなかった。確かに持った時の感じも大事だとは思う。でも一番大事なのは食べやすいかどうかだと思うが、どうだろう・・・。


 

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PVの数字

2025-06-05 | g あれこれ考える〇

透明タペストリー2

 gooブログサービス終了予定を受け、はてなブログにブログを開設しました。閲覧いただければ幸いです。近々引っ越す予定です。



 閲覧回数をしめすPV(ページビュー)の数字。 たとえば3日は1177PV。この数字を素直に受け取ると、気分は良いけれど、このうちの何割かは、インターネット上を巡回して情報収集するGooglebotと呼ばれる巡回ロボット(と呼んでいいのかどうか、わからないが)によるもの、ということのようだ。

一体、ブログの閲覧回数ってどのくらいなんだろう・・・。ネット上の載っていた記事によると、1日の閲覧回数が0~10回が6割とのこと。10~50回までが約2割。つまり、1日の閲覧回数が50回までが8割。そう、これが実態と認識した方がよさそうだ。この数字は2008年と2013年の調査結果のようだから、今はもっと少ないだろう。

はてなブログの閲覧回数は私の場合、1日に20~40回。gooブログの時と比べて、ずいぶん少ないな、と思ったけれど、これが「人」が閲覧する実際の数字だろう。そう思っていた方が良い。

まあ、今まで通り、書きたいことを書きたいときに書くだけだ。数字を気にすることなく・・・。





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ようやく分かった、はてなブログの使い方の疑問

2025-06-04 | g あれこれ考える〇

透明タペストリー2

 はてなブログにブログを開設しました。閲覧いただければ幸いです




 はてなブログで、書いた記事の投稿日時ってどうすれば変えることができるんだろう・・・。はてなブログで記事を書き始めて1か月経った。



記事の編集画面の右側のサイドバーの歯車マークを開くと、記事の日時を変更するところがあることが分かった。なるほど。投稿日時を指定することも簡単にできる。(←このようなマークははてなブログにはないらしい)。

画像データ容量も月毎に上限があるけれど、容量をオーバーすることもなさそうだ。


↑ このような仕切り線も入れることができるけれど、ちょっと面倒。

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再度食料自給率の回復について考えるの巻

2025-04-25 | g あれこれ考える〇

 先日紹介した法政大学教授(記事投稿当時)の田中優子さんの論説にも取り上げられていますが、日本のフードマイレージ(食料輸入量(重量)× 輸出国から日本までの輸送距離の総和)が世界一になったそうです。確かにスーパーで食品を手にとって表示を確認すると肉や魚をはじめとしてはるか遠くの国からの輸入品が少なくありません。

ネットで調べて2000年の1人当たりのフードマイレージが日本は4,000tkm、アメリカは500tkmだということが分かりました。この値が大きければ大きい程地球環境に負荷を与えているということです。

田中さんはこのことについて**日本人が他のどの国民より、毎日の食事で環境をを汚染しているという意味である。**とストレートに書いています。

地球環境汚染防止という観点からあるいは食の安全という観点からも「食料自給率の回復」を図らなければならないというわけですね。そうして輸送に伴うエネルギー消費、環境汚染を少しでも減らそうというわけなんです。

のためには主食のコメの消費を増やすことを考えるのが自然でしょう。1965年に一人当り約9.3kg/月だったコメの消費量が2006年には約4.9kg/月まで減っています。この40年間で消費量が半分になったんですね。

主食の大半がコメだった40年前に戻せば、そうコメと魚というかつての食生活へUターンすれば自給率はかなり(一説には70%くらいに)回復するというのですが・・・。朝はご飯に味噌汁、おっと大豆は100%近くが輸入品ですね。

食料を輸入に頼っている日本はかなり危うい・・・。この際、軍事費を農業につぎ込もう!? などという珍提案(いやいや30年もすれば至極真っ当な提案になるかも)をして今回はオシマイ。

2025.04.24 軍事費を農業につぎ込もうという提案は至極真っ当だと思う。「欠陥機」とまで呼ばれるオスプレイを受け入れないで、その分、農業につぎ込むことの方が国防になる。食料を輸入に頼るこの国をつぶすのに兵器など不要、農産物を断てばよい。


2008年3月18日の記事再掲

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食料供給について考える の巻

2025-04-24 | g あれこれ考える〇



 一斉休漁で港に停泊している漁船、今朝(2008年7月16日)の新聞がこの写真と共に燃料高の窮状を訴えて全国で20万隻が一斉休漁した昨日の出来事を報じている。

この写真をみて、お!漁船、繰り返しの美学だ、などとのんきなことを言ってはいけない。

**燃料高は漁業者の自助努力の限界を超え、廃業の瀬戸際だ。**将来のある若い漁業者が見切りを付けて転廃業している。**などと記事には書かれている。

今の原油価格の高騰は投機マネーの流入が主な理由とのことだが、石油は埋蔵資源だから当然有限、やがて枯渇することになる。それはもう数十年後に迫っているともいわれている。

やがて、投機的な理由と共に、残量わずかという理由で原油価格が高騰するだろう。そんな事態になる前にガソリンに替わる燃料で動く車が主流になるのかもしれない。漁船も然り、ということなのかもしれない。

でもここで、少し私たちは心配性になってもいいのではないかと思う。昨日の漁船の一斉休漁は、「将来起こりうる事態の予兆」、「決して一過性の出来事ではない」と捉えるべきではないのか。一日漁を休んだくらいでは魚の供給には影響が出ることはないだろう。でもこのような事態が続くことになったら・・・。

魚に限らない、やがて深刻な食料不足に陥る、という危機意識を一体どのくらいの国民が抱いているだろう・・・。既に飢餓に苦しむ人々の数は世界で億の単位だという。

「食料の自給率の向上」に関して長期的なビジョンをたてて確実に実践に移さないと危ない・・・。

自国に優先して日本を養ってくれる国などあるはずがない。

既に時遅しか・・・、今回は暗い。


2008年7月16日の記事再掲

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農業について考える

2025-04-24 | g あれこれ考える〇

■ このところ多忙な日が続き、ブログの更新が滞っています。睡眠時間を削って仕事に充てる、というほどでもありませんがとにかく忙しいです。

今日は午前中時間が少しありますから何か書きます。で、今回は「農業、食料供給」について考えるというか憂えるの巻。

原油高に伴ってガソリンが値上がりしています。これは即輸送コストにはね返りますから今後物価が上昇すると指摘されています。食料品や日用品の値上げのニュースを耳にするようになりました。

輸送コスト増による物価の上昇。生産効率の向上などによるコストダウンという企業努力では吸収出来なくなりつつあると言えそうです。ならば、輸送コストがあまりかからない「地産地消」(農産物に限らない)という過去の生産システムに戻す、ということを考えることが必要なのでしょう。こう書いてはみたもののこの国でそんなことが可能だろうか・・・、と思ってしまいます。

「地産地消」と主張する前にそもそも自給率のアップが可能かどうか・・・。資源はともかく食料の自給率をアップすることは不可能なことではありませんが、農業従事者の減少と高齢化の進行、それに農地の他用途への転用や荒廃という現実からすると自給率のアップなどまず無理でしょう。農業も機械化することで従事者減に対応してきたのですがそれももはや限界。



1995年発行のこの本『だれが中国を養うのか?』で著者のレスター・R・ブラウン氏は中国が食料の輸入大国になることを前提に穀物価格の急騰、世界経済の混乱を予測しています。

2030年に中国では1994年の全世界を合わせた穀物輸出量にほぼ等しい2億700万トンの穀物が不足すると具体的なデータに基づいて指摘しています。北京オリンピックや穀物の燃料化などは確か考慮されていませんでしたから、実際はこの予測よりもっと深刻な事態なのでしょう。

書名を『だれが日本を養うのか?』としても本が書けそうなこの国の現状。


2007年11月4日の記事 再掲



 

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諏訪は深い

2025-01-30 | g あれこれ考える〇

 
 今から30年近く前の信濃毎日新聞の特集記事「活断層を歩く」を保管している(*1)。

この記事にプルアパートベイズンの模式図が載っている。プルアパートベイズンって何? 記事に**横ずれ断層に付随して出来る盆地。横ずれ断層が一本の直線でなく、ステップしている場合、その間で伸張応力が生まれ、地盤が陥没して、盆地ができる(後略)。**と説明されている。これが諏訪盆地、諏訪湖の成因かもしれないとされているメカニズム。松本駅周辺の軟弱地盤域も同様、とのこと。


手元に「フォッサマグナ付近の地質図」があるが、それを見ると諏訪盆地で糸魚川―静岡構造線に中央構造線がぶつかっていることがよく分かる(赤く太い線)。日本列島を縦横に走る大断層がクロスしているところが諏訪、ということになる。中央構造線は諏訪から東へどのように走っているのかははっきり分からない。幅広のフォッサマグナに隠されてしまったのだろう。フォッサマグナの東の縁から先、関東では分かるようだが。この大きなふたつの断層の挙動が成したところが諏訪。

諏訪の特異な地形がこの地の古代からの人の営みに影響しているんじゃないかな、と思う。なんとなく。いや、諏訪湖に向かう大きな窪みの地に生きる人びとに心的な影響を与えたに違いない(*2)。

諏訪湖に向かう求心的な俯瞰的風景はこの地、諏訪湖を囲む斜面に生きる人びとに共通する。このことが諏訪の人びとの気持ちを束ね、それがこの地で連綿と続けられている神事、御柱のような大祭をはじめ、下記の学問も含めていろんなことを成す力になっているのではないか。

この説(眉唾な説か? 同様の説を唱えている人がいるかもしれないし、風景論で語られているかもしれない)がこの記事の結論でもある。

このことに関係するが、1月29日付信濃毎日新聞に次の見出しの記事が掲載されていた。諏訪湖の「御神渡り」の観察や記録が583年間も続けられているということを伝える記事だ。



「諏訪学」ということばがある。その定義をわたしは知らないが、諏訪で連綿と続く歴史や文化、民俗、宗教など(古代からの人の営みの諸相と括ってもよいのではないかと、わたしは思う)を扱う学問だろう。諏訪を研究する在野の研究者は少なくなく、諏訪を専門分野だけでなくいくつもの分野を縦横に論じている。

先日観た映画『鹿の国』では、諏訪の底知れない深さ、神秘さが映像化されていた。中でも御室で、古代から600年前まで行われていたという神事芸能の再現は白眉だろう。神事に登場していたのは諏訪の人たちだったという。


国道20号の標識(塩尻峠 岡谷地籍)グーグルSVより

映画で時々映し出された鹿の群れ。なぜ祭礼に鹿が欠かせないのか・・・・。ここにも深い意味があるのかもしれないが、わたしは、ただ単に諏訪に鹿が多いだけじゃないのかな、と思う。だから贄にもしたんじゃないのかな、って身も蓋もないか。

『日本文化の多重構造』で著者の佐々木高明氏は**狩りの獲物の血や肉や内臓の中に豊作をもたらす呪力が存在するという信仰**(196頁)が背景にあり、**古代の習俗は、少なくとも弥生時代初期にまで遡ることが可能であり、その基層には、稲作以前の狩猟民たちによる豊猟を祈願する狩祭りの伝統があったことは間違いないと考えられるのである。**(196頁)と指摘している。

毎年4月15日に行われる諏訪大社の御頭祭と呼ばれる神事で鹿の首(現在ははく製)が供えられる。その起源は一万年も前、縄文時代ということになるのだろう。

諏訪は深い。



写真提供:Beer&Cafe大麦小麦のFさん

 茅野にあるBeer&Cafe大麦小麦に映画『鹿の国』関連の書籍・資料コーナーが設けられていることをSNSで知った。映画のガイドブックはじめ読みたいものがある。映画でリフレインされたミシャグジとは・・・。

週末のカフェは忙しいだろうと、27日(月)に出かけた。まず手にしたのは『鹿の国』のガイドブック。充実の内容にびっくり。食事を済ませてガイドブックを読み始め、何とか読み終えたが、『中世の諏訪を見つめる』などを読む時間はなかった。次回読むことにしよう。

大麦小麦は居心地がよく、いつも長居をしてしまう。この日も開店時刻の12時過ぎから夕方4時まで過ごした。

『諏訪学』山本ひろ子(国書刊行会2018年)も読みたいが、版元で品切れのようだ。入手できるかな。

ガイドブックを読んで思った。やはり諏訪は深い。底がないほど深い。


*1 連載記事だが、保管しているのはこの日の記事のみ。
*2 『透層する建築』(青土社2000年)伊東豊雄さんはこの分厚い本に収録されている「諏訪湖博物館・赤彦記念館」についての小論「湖に捧ぐ」で次のように書いている。
**冬の訪れを告げる朝もやが湖面に立ち込めるころ、早朝の湖面すれすれに水平の虹を見た記憶がある。地の人びとはこの虹のことを「水平虹」と呼んでいた。年に一度か二度、それも朝の一瞬にしか見られないこの自然現象は神々しくさえ思われたが、この建築の設計で敷地を訪れ、湖を眺めるたびに、いつもふと思い出されるのは湖面に長く尾をひくこの虹のことであった。あれほどに淡い現象的形態に建築を到達させたいという想いは、容易に消え去ることはないだろう。(281頁)** (下線はわたしが引いた)
伊東さんはこの小論で**すべての視線は湖にいつも向けられていた。(中略)背後の山を振り返ることは滅多になかった。**(280頁)と書いている。


 

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映画「鹿の国」を観た

2025-01-23 | g あれこれ考える〇


『諏訪の神さまが気になるの』北沢房子(信濃毎日新聞社2020年1月20日初版発行、2021年11月30日第6刷発行)

**ミシャグジが集中的に力を発揮する神事は、厳冬期に行われます。大祝(おおほうり)や神長(じんちょう)は旧暦12月から翌年の3月まで、前宮の下方にあった神殿(ごうどの)(大祝の屋敷)近くの御室(みむろ)と呼ばれる建物にこもって、神事を行いました。御室とは、冬ごもりのために大穴を掘ってその中に柱を立て、棟を高くして萱を葺いた、半地下の竪穴住居に似た建物です。**という記述が『諏訪の神さまが気になるの』にある(同書200頁)。

昨日(22日)岡谷市のスカラ座まで出かけて、ドキュメンタリー映画「鹿の国」を観た。

諏訪盆地と諏訪の湖(うみ)。廻る諏訪の四季。雪降る冬、春の桜、鹿の群れ。諏訪信仰。自然崇拝する諏訪の人びとの暮らし。豊穣の願い。稲作という人の営み。これらのシーンが静かに映し出される。


諏訪大明神本地仏 騎象普賢菩薩像(佛法紹隆寺にて 2022.11.24)

諏訪神仏プロジェクト(2022年)の一環として行われた、佛仏法紹隆寺の住職による神前読経のための経文「諏訪講之式」の復元作業も取り上げられていた。

この映画の見どころは上掲文中、太文字化した御室の中で行われていたという神事の再現。600年も前に途絶えたという神事を断片的な史料を読み解いて再現している。厳かなというイメージからは遠い、笑いの神事。

*****


同じ座席のチケットが2枚。なぜ? どういうこと?

買い求めたチケットをどこかにしまい忘れてしまい、再発行してもらったから。開映時刻が迫っていたので焦って、しっかり探さなかった・・・。

家に帰って、リックサックのポケットをキチンと探したら出てきた・・・。映画館でも探したけど。こんなことは初めて。数分前に買い求めたチケットをどこにしまったのか覚えていないなんて・・・。


 

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付け焼刃ではだめなのか

2024-10-18 | g あれこれ考える〇

 手元の広辞苑で付け焼刃の意味を知らべると、**一時その場を間に合わせるために俄かに習い覚えること。また、その覚えた知識。**とある(第二版補訂版(1979年))。

「付け焼刃」即ち「短期間で俄かに得た知識や対応」は好ましくないという考え方は、時に今の時代に合わない見方にもなるのではないだろうか。

俄かに得た知識は確かに軽視されがちだが、今やインターネットを適切に使えば、すぐに様々な質の良い知識を得ることも可能な時代だ。むしろ、現代の目まぐるしい情報社会では効率的に知識を得ることが重要視され、またそのような必要に迫られることも少なくない。昔のように、例えば図書館に通い詰めて、苦労していろんな文献をじっくり調べ、時間をかけてようやく必要な知識に辿り着くことが必ずしも優れた方法ではなくなってきている。

冷凍食品を使ったお弁当のおかずを例に挙げよう。かつては手間隙かけた例えば手作りハンバーグに比べて、冷凍食品のハンバーグを使ったお弁当は愛情不足などと、否定的な考え方が間々あった。しかし今ではその手軽さが多くの家庭に受け入れられ、重宝されている。同様に知識の入手方法についても今は効率が重視され、短期間で有用な情報を収集することが求められるケースが多い。医師から聞いたこともないような病名を告げられ、インターネットでその病気について調べて、次の診察の際、医師に訊く。小説を読んでいて、行ったことのない地方の町が出てきたので、その町についてネットで調べて情報を得る。このように俄か勉強で知識を得ることは日常生活でもよくする。

加えて、俄か勉強で情報を得て対応する他ない、というケースも時に起こる。もう何年も前のことだが、ある設計プロポーザルに取り組んでいた時のこと。プレゼンテーション当日の朝、説明にパワーポイントを使っても構わないという情報が急にもたらされた。午前中の短時間でそれこそ付け焼刃でなんとか準備したパワーポイント、資料を用いて、私たちはぶっつけ本番で午後のプレゼンに挑んだ。練習する時間は無かった。じっくり時間をかけて資料を集めて、パワーポイントをつくることなど、とてもできる状況ではなかった。だが、むしろその場に応じた迅速かつ柔軟な対応が功を奏したと思われる。私たちの提案が採用された。

このように、短時間で得た情報・知識を用いての対応がどのようなケースでも好ましくないということはないのだ。

付け焼刃はとにかくダメ、という一面的な考え方には異を唱えなければならない。残念ながら付け焼刃にはネガティブな、そう否定的なイメージがある。ものは言いようだ。なにか別の呼び名はないものだろうか。

「所詮は付け焼刃」などと否定的な見解を示す前に、前述した迅速かつ効率的な情報収集や状況への柔軟な対応が求められるケースにおいて、その価値、その有用性を改めて考えるべきではないか。


拙ブログでは引用箇所を**で示している。

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木曽義仲 木曽成長説と松本成長説

2024-08-10 | g あれこれ考える〇

 「木曽義仲 松本成長説」改稿

木曽義仲、幼名・駒王丸。出生地は武蔵国、現在の埼玉県と伝えられる。義仲の父の義賢は義朝との兄弟対立で、義朝の息子・義平(義賢の甥、義仲のいとこ)に討たれる。まだ2歳(もしくは3歳)の駒王丸にも義平から殺害の命が出されたため、義賢に旧恩のあった斎藤実盛の手引きで信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃れ、木曽で育ったとされる。

さて、ここから義仲が通説通り木曽で育ったのかどうかについて書いてみたい。

 
前稿で長野県立歴史館で開催中の夏季企画展「疾風怒涛  木曽義仲」について書いたが、館内で入手した「長野県立歴史館たより」(写真)も上記のことに触れている。記述によく分からないところがあったので、今日(9日)県立歴史館に電話して記事の担当者に伺った。

木曽義仲 「木曽成長説」と 「 松本成長説」

木曽義仲は信濃国のどこで育ったのか。通説の「木曽義仲 木曽成長説」と歴史学者(*1)が唱えた「木曽義仲  松本成長説」があるわけだが、木曽歴史館でも松本歴史館(仮にこのような歴史館があるとして)でもなく、長野県立歴史館であれば、決定的な証拠がない限り、どちらかに組するような記事は書けない。従って具体的な記述を避けた曖昧な記述になっている。担当者の話の内容を私はこのように理解した。

**義賢のもとにいた駒王丸は(中略)信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃がされました。当時の信濃国府は筑摩郡にありました。国府から近い木曽周辺に拠点があったと考えられます。** 

「長野県立歴史館たより」のこのような記述について、信濃国府が筑摩郡のどこにあったのかについて触れていないことと、拠点が何を指しているのか分からないので文意が理解できないと書き、続けて国府は松本の惣社あたりにあったという説が有力だという(*2)。惣社という地名もそのことを暗示しているように思われる。そうだとすると、引用文にある国府から近い木曽周辺ということは理解できない。木曽は鳥居トンネルがある現在でも松本から遠いからと書いた。

*2 『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)は次のように記述し、国府は松本にあったとしている。**古代に信濃国の国府が筑摩郡下に置かれた。国の政庁がおかれた地域は府中といわれたので、松本は単に「府中」とか信濃国の府中という意味で「信府」とも呼ばれた。** 

だが、記事の担当者の話を伺った今は引用文のような表現も仕方がないのかな、とも思う。木曽がどこを指すのか、現在の木曽とは違う地域を指すのかもしれないし(*3)、仮に今の木曽と同じ地域だとしても、その周辺という曖昧な表現だと、松本地域も近いという捉え方もありかな、と思わないでもない。加えて近いとか遠いというのは相対的な概念ということでもあるし・・・。

*3 ウィキペディアの「木曽義仲」には**現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある。**と書かれている。このことについて朝日村のHPには次のような記事が掲載されている。また同HPの別のところには下の地図が掲載され、桂入堤と加筆されている。


木曽部桂入とは現在の朝日村西洗馬三ヶ組辺りを指す。地図に三ヶ組と表記されている(光輪寺 卍 の右下)。桂入は現在もある。



*3 また、明治初期まで松本を流れる奈良井川も木曽川と呼ばれていたという。このことから松本平南部も木曽と呼ばれていたのかもしれない。木曽部桂入という古い地名もこのことに因るのかもしれない。この奈良井川沿いにある長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。


コトバンクによる。

兼遠の庇護のもとで育った義仲


先に書いたように信濃国府は松本の惣社辺りにあったとする説が有力のようだ。そう、東山道が通る松本にあったとするのが妥当な判断ではないか。だから中原兼遠は木曽(今の木曽)ではなく、松本にいて政務を執っていた。中原兼遠が木曽(今の木曽)にいて、そこから松本まで通ったとは到底思えないから。

そもそも当時、木曽(今の木曽)は信濃国ではなく、美濃国の領地ではなかったのか(このことについてはネット検索すると記事がいくつも見つかる。木曽がいつ信濃国に組み込まれたのかを示す決定的な史料はないようだが、鎌倉時代もしくは室町時代に美濃国から分離され、信濃国筑摩郡に編入されたとウィキペディアにはある)。

義仲は兼遠の庇護のもとで育っているわけだから、やはりその地は上述した理由から木曽(今の木曽)ではなく、松本だとする方が無理がなく妥当ではないかと思う。

「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者・重野安繹

記事の冒頭に書いたように、通説「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者がいた。このことについては2022年4月20日の記事に書いた(過去ログ)。

以下その記事から抜粋して再掲する。


*1 その歴史学者の名は重野安繹(しげの やすつぐ)。このことについて調べて、重野博士が明治27年9月30日に旧制松本中学で「木曽義仲の松本成長及佐久挙兵説」を講演していること、そしてその抄録が「松本市史」に収録されていることが分かった。松本中央図書館で「松本市史」を閲覧した(2022.04.19)。

「松本市史」上巻103頁
重野博士は木曽山中を義仲の成長地とする説について**余は其必ず誤謬なるを思ふ者なり。**と強く否定している。(上掲写真)
抄録を読み進むと、**兼遠は當時信濃國の權守なりしが故に信濃に來りしなり。**と信濃国に逃れた理由を説明している。で、当時の木曽について**兼遠の時代には中々人を成長せしむべき處に非りき。**としている。

**中原兼遠は名こそ權守なれど其實は國守なりしなり。**だから、**若し義平が攻め來るとも四方の嶮崕を鎖して之を防がば、毫も恐るべきに非ず、何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや。**(104頁)と説き、**義仲は決して木曾山中に成長せし者に非ずして、必ず此松本に成長せし者なるべしと思うなり。**と結ぶ。(太文字化したのはわたし)重野博士は義平は義仲をさほど厳重に捜索しなかったとも述べている。


義仲が育ったとされる木曽は距離的に離れすぎている

義仲は兼遠の息子の樋口兼光、今井兼平と共に遊んだとされている。このことについて重野博士は**義仲四天王中の樋口兼光、今井兼平は共に中原兼遠の子なり。**と紹介、続けて**兼光の居住したる樋口村は鹽尻村の彼方に今も尚残り、兼平の居住したる今井村は現に東筑摩郡中に在り、義仲は實に松本今井樋口の間に成長し、兼光兼平と共に遊びたりし人なり。**としている(104頁)。

抄録中の鹽尻村(現塩尻市)の先にあるという樋口村は現辰野町樋口、東筑摩郡今井村は現松本市今井(今井には今井兼平が中興の開基といわれる宝輪寺がある)。義仲、兼光、兼平の3人が子どものころ一緒に遊んで育ったということになると、義仲が木曽(今の木曽)で育ったとする説にはやはり無理があると思う。義仲が通ったとするには木曽(今の木曽)は距離的に離れすぎている。

文中の下線部、松本今井樋口の間とはどこなのか・・・。それが、朝日村木曽部桂入周辺、即ち朝日村西洗馬三ヶ組というわけ。「木曽義仲  松本成長説」を支持し、義仲は松本の隣・朝日村で育ったのだという説を紹介したくて、本稿を書いた次第。


 

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松本市立博物館で思ったこと

2024-06-24 | g あれこれ考える〇


蒸気ポンプ 
大正2年(1913)
明治45年(1912)に発生した被害家屋1,341軒、死者5人の大火の後に、市民の期待を背負い松本市の中心部に配備されました。
それまでの手押しポンプを圧倒する、蒸気による力強い放水は人々を驚かせました。活躍した期間は長くはありませんが、人々の暮らしを守った消防ポンプとして大切に保管され、博物館に寄贈されました。

以上、説明文。


 昨日(23日)の午後、松本市立博物館へ。午前中にカフェトークしたAさんから誘われたので。

同博物館は昨年(2023年)10月以来2回目(過去ログ)。昨年10月も常設展示を見たが、その時、首都圏在住の友人の感想は「薄いね」。展示品を美しく見せようとするあまり、情報が少ないというのだ。

同感だ。昨日もそう思った。


この様子が上記のことを端的に示している。上掲写真に対応する書籍がそれぞれ「展示」されているけれど、閲覧できるように配慮されてはいない。ぼくは青い表紙の大きな本を開いてみようとしたが、あきらめた。そうこれは閲覧を意図したのではなく、雰囲気の演出なのだろう。

展示品に関する通り一遍ではない詳細な説明が欲しいと思う。街中が博物館であって、この博物館はその入り口、情報のターミナルという位置付けだというのであれば、それに対応する情報が欲しい。スマホに現地までの案内地図が取り込めるというような。時間的に余裕がないという人もいるだろうから、展示してあるものに関する詳細な情報も取り込めるというような・・・。


松本市内にはこの道祖神のような木彫りのものが何体もあるようだが、その全貌が分かるようになっていればうれしいのだが。そう、全ての木彫道祖神の写真展示。木彫りに限らず道祖神マップがスマホに取り込めて、興味のある人がその場所まで見に行くことができるようになっているとか(*1)。

でも、圧倒的な情報量に感動するというのが博物館に対するイメージなんだけど。これって古いのかな。


*1 木彫道祖神は石造の祠に祀られているなどして、普段は拝観できないと思われる(過去ログ)。

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利便性より安全性

2023-05-29 | g あれこれ考える〇

 マイナンバーカードのトラブルが相次いでいる。コンビニで別人の住民票の写しが交付されたり、マイナ保険証に別人の医療情報がひも付けられていたり、他人名義の公金受取口座がひも付けられていたり・・・。

人はかならずミスをする、ということを前提にしたシステムになっていないんじゃ・・・。人がミスをしてもトラブルの発生を防ぐことができるシステム設計は難しいということは容易に想像できる。でも、そのようなフェイルセーフなシステムになっていないと、これからもトラブルは発生すると思うなぁ。繰り返す、人はかならずミスをする。

政府は2024年の秋に健康保険証を廃止してマイナンバーカードに一本化し、24年度末までに運転免許証の機能も持たせる方針だという。仮に運転免許証も廃止されれば毎日個人情報ぎっしりのカードを持ち歩くことが必要になるわけだ。やだな~っ、て思う人が大勢でるだろうなぁ。

持ち歩いていて紛失したら、他人の手に渡ったら・・・。今日(29日)の新聞に載っている週刊誌の広告には**「マイナ保険証を持つ奴はカモ」って出ているじゃないか・・・。**マイナ「トラブル不安」70%**という見出しの記事も載っている(*1)。世論調査で60歳以上の高年層では77.4%の人が不安を感じていると回答し、40~50代の中年層でも73.0%に上ったと同記事にある。

預金通帳と印鑑は一緒にしないで別の場所に保管するように、と言われているけれど、マイナンバーカードって全くその逆だもんなぁ。リスク分散じゃなくてリスク集中。なんだか大きなトラブルが起きるような気がするなぁ。でも自己責任で済まされちゃうんだろうなぁ。

「利便性より安全性」。そもそもマイナンバーカードの利便性って? 何か便利になるのかな・・・。住民票の写しって、数年に1度くらいしか必要にはならないんじゃ・・・。違うのかな。住民票の写しや印鑑証明が必要なら役場に行けば済む話。コンビニで申請しようにも操作のしかたが分からない・・・、なんて人は役場に行く方が便利だし、安心。

保険証も運転免許証もそれぞれ別のカードで不自由なんて全く感じないんだけど。「プレバト」なら現状維持だと出演者はガッカリするけど、マイナンバーカードは健康保険証も公金受取口座も運転免許証もひもづけなくてOK、現状維持がうれしい。

マイナンバーって、国が国民を管理するためのユアナンバーなんだよね。


*1 5月29日付 信濃毎日新聞朝刊総合面(2面)

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