透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

安部公房の「密会」を読む

2024-10-31 | A 読書日記

① 
 安部公房の代表作は? と問われれば、私は『砂の女』『箱男』『密会』の3作品を挙げる。

自室の書棚に『箱男』と『密会』の単行本はあるが、残念ながら『砂の女』は無い。ネットで調べて、同じ仕様の単行本があることが分かった。欲しいな。


『密会』安部公房(新潮文庫1983年5月25日発行、1999年5月20日20刷)を読んだ。

『密会』の単行本は箱入だが、その箱に安部公房の文章が載っている(写真②)。**地獄への旅行案内を書いてみた。**が、その書き出し。

ある日の未明に突然やって来た救急車によって妻を連れ去られた男。男が妻を捜してたどり着いたのは病院だった。その病院は迷路のような空間で、構造がどうなっているのか、把握できない。そこで男が目にしたのは性的な快楽を求める男、女。変態的な光景・・・。安部公房的色情地獄。

低俗なポルノ小説と純文学との間に張り渡されたロープを安部公房は見事に渡り切った。

手元にある新潮文庫の安部公房作品を月2冊読むというノルマを達成するために、読み急いだ。23冊読み終えたら『砂の女』『箱男』『密会』をまた読み直したい。


『箱男』は**救急車のサイレンが聞こえてきた。** という一文で終わる。『密会』はある男の妻が救急車で連れ去られるところから始まるが、解説によるとそれは『箱男』の救急車らしい。


新潮文庫23冊 (戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印の5作品は絶版)

今年(2024年)中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。10月31日現在18冊読了。

新潮文庫に収録されている安部公房作品( 発行順)

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月 ※1 

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月

黒文字表記の作品は5冊。次はどれを読もうかな・・・。


※1 『死に急ぐ鯨たち』は「もぐら日記」を加えて2024年8月に復刊された。


「日ソ戦争 帝国日本最後の戦い」を読む

2024-10-30 | A 読書日記


 私の読まずに死ねるか本『源氏物語(現代語訳)』を2022年に読むことができた。 他にこのような本は特にないので、これからは現代史それも第二次世界大戦の関連本を読もうと思っている。第二次世界大戦について学ぶことの意義は大きいと思うから。

先日『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』麻田雅文(中公新書2024年)を読んだ。奥付に2024年4月25日初版、2024年8月10日6版とあるから、よく読まれているのだろう。

日露戦争ではなくて、日ソ戦争? 

日ソ戦争の説明が本書のカバー折り返しにある。**日ソ戦争とは、1945年8月8日から9月上旬まで満州・朝鮮半島・南樺太・千島列島で行われた第2次世界大戦最後の全面戦争である。**(第二次世界大戦と表記することが一般的ではないかと思われるが、この文章では第2次世界大戦になっている)

千島列島が戦場だったということすら知らなかった・・・。

**一九四五年八月八日、ソ連は日本へ戦線布告した。
なぜ、ソ連は第二次世界大戦の終りになって参戦したのか。
日本はなぜこの直前まで、ソ連に期待して外交を続けていたのか。
玉音放送が流れた八月一五日以降も、なぜ日ソ両軍は戦い続けたのか。**(ⅰ)

著者の麻田雅文さんは「はじめに」でこのように本書で論ずるテーマを示し、続けて**一九四五年夏にソ連と繰り広げた戦争について、日本ではいまだに正式な名称すらない。**と指摘、本書では「日ソ戦争」としたいと書いている。

短期間だったのに、日ソ戦争の両軍兵士は、ソ連軍がおよそ185万人、日本軍も100万人を超えたという。

本書の帯から引く。**本書は新史料を駆使し、米国のソ連への参戦要請から各地での戦闘の実態、終戦までの全貌を描く。** 新史料。なるほど、巻末の参考文献リストにはロシア語の公刊史料が2ページに亘って掲載されている。

「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」 2022年の暮れに「徹子の部屋」に出演したタモリは徹子さんの「2023年はどんな年になるでしょう」という問いに、このように答えた。ぼくは偶々この番組を見ていた。「新しい戦前」ということばは的確に日本の現在の状況を表現している。

敵基地攻撃能力(反撃能力)保有。戦争ができない国、戦争をしない国だった日本は、今や戦争ができる国、戦争をする国に変わってしまった・・・。 


 


初代「なぎさTRAIN」

2024-10-30 | A あれこれ


なぎさちゃん、もとい 初代「なぎさTRAIN」アルピコ交通3000形(3005-3006号車) に昨日に続き、今日30日も会いました。

時刻は9時47分。上りのなぎさTRAINが奈良井川橋梁を渡っていきます。

二日続けて会うことができたのですから、週末に出かける東京で何か予期しない楽しいこと、嬉しいことがあるでしょう。

「奪還」を読む

2024-10-29 | A 読書日記

 歴史には疎いと何回も書いた。高校時代の同級生IT君はここ何年も日本史に関する本を読んでいて、古代史から近現代史まで実に詳しい。彼のように日本の通史を詳しく学ぶのは無理だとしても、せめて昭和史、その中でも第二次世界大戦の関連本を読もうとしばらく前から思っている。そのように思い始めると新聞の書評欄でも、新刊本の広告でも第二次世界大戦の関連本が目に入るようになるから不思議だ。


『奪還 日本人難民6万人を救った男』城内康伸(新潮社2024年)を読んだ。本書のことを知ったのは朝日新聞の読書面だった。

本書の「はじめに」によると、終戦時、北朝鮮地域に約25万人の日本人が住んでおり、終戦前後に満州から約7万人の避難民がなだれ込んだという。

終戦直後、進駐したソ連軍によって北緯38度線が封鎖され、北朝鮮に閉じ込められた「避難民」たちの生活が次のように描かれている。

**栄養失調と劣悪な環境下での集団生活。冬が近づくにつれて発疹チフスなどの感染症が猖獗(しょうけつ)を極めた。咸興(かんこう)では同年(*1)八月から翌年春にかけ約六千三百人が死亡した。**(4頁) *1 1945年(私が付けた注)

このような状況下、北朝鮮から集団帰国を実現させた人物がいた。松村義士男という一民間人だ。松村はソ連軍、北朝鮮当局などを相手に、個人(協力者はいたが)で交渉し、38度線以南に避難民を送りこむ工作を続けた。その周到にして大胆な行動に驚かされた。

終戦直後に北朝鮮に取り残された日本人を身を賭して帰還させた人物がいたことを本書で知った。どの時代にも凄い人はいるものだな、と改めて思う。本書の著者・城内康伸さんは多くの資料を基にその一部始終を描いている。

難局を打開し、自らも帰国した松村義士男。その後の人生の詳細は全く不明・・・。


 


「41人の嵐」を読む

2024-10-27 | A 読書日記

  
 宇宙で、高山で、海で、我が身が命に係わる危機的な状況に陥った時、何が生死を分けるのか・・・。

同類本(*1)を並べた自室の書棚の写真を載せたが、それらを読んで知ったことは生死を分かつのは、運と備わっている生命力であることは言うまでもないが、強靭な精神力を以ってなされる冷静な判断と行動だということ。

『41人の嵐 台風10号と両俣小屋全登山者生還の記録』桂木 優(ヤマケイ文庫2024年)を読んだ。

カバー裏面の本書紹介文から引く。

**南アルプス・北岳にある両俣小屋。その小屋番による大型台風襲来からの生還記。1982(昭和57)年、全国に95人もの死者・行方不明者という被害をもたらした大型台風10号。台風は若き登山者たちが集まった両俣小屋にも襲いかかり、小屋は土石による崩壊の危機に直面する。(後略)**

小屋番の星美和子(著者の桂木  優)さんのリーダシップ、偶々小屋で一緒になった大学生らの各パーティの共助と書くと、なんだかあたり前のことが当たり前になされたという印象を与えてしまいそうだ。しかし危機的な状況下で、冷静に判断し、冷静に行動するということは難しいと思う。

『41人の嵐』には、容赦なく降り続く雨、鉄砲水の襲来、押し寄せてきた土石で1階が埋まる両俣小屋の様子、小屋をあきらめて北沢峠の長衛荘を目指して、横川岳(2478m),仙丈ケ岳(3033m!)を越えていく登山者たちの様子が描かれる。

**最後の急登で三重短大の女の子が倒れてしまった。顔は青ざめているが唇はまだ赤い。仲間たちが衣服を緩め手足をマッサージする。(中略)彼女は、申し訳ないという風に気丈にも立ち上がろうとするが、すぐ倒れ込んでしまう。**(177頁)
**愛知学院大の平子君が、彼女が背負っていたザックを背負った。**(177頁)
**みんなはよろよろしながらも一歩一歩稜線を登ってゆく。靴下だけで歩いている松岡さんも必死で足場を求めている。よつんばいになって登っている人もいる。風は衰えをみせず吹きまくる。**(189頁)
**「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ」**(191頁)

書いていて涙が出る・・・。

最後の一文の引用は控えたい。

一読をおすすめします。


*1 右側に並ぶのは書名から分かる通り、旅行記。


旧友との再会

2024-10-26 | A あれこれ

 高校の2,3年の時に同級だったSN君との付き合いは長い。SN君は現在首都圏在住だが、中学の同級会に出席するために昨日(25日)来松していた。今日、松本駅のスタバで待ち合わせ、久しぶりに再会した。

SN君は私のブログを読んでくれている。「とある小学校の6年1組のホームルーム」という記事(過去ログ)がたとえ話ということに気がついていて、内容について訊かれた。私が説明すると、あんなことが今の自治体で起きていることに大変驚いていた。当然だと思う。女性に参政権がなかった戦前のようなこと(*1)が今現在行われたのだから。このブログには政治的なことについては書かないことにしているから、これ以上書かない。

昼食は蕎麦。

午後2時過ぎの高速バスで帰る予定とのこと。バスターミナルのすぐ近くの丸善書店で私もSN君も新書を買い求め、同店内のカフェで、再びあれこれ話した。気心の知れた友人との語らいは楽しい。

次回はを約束してバスターミナルで別れた。SN君、有意義な時間をありがとう。


*1 1945年(昭和20年)11月 女性に参政権が認められた。


「野球の神様」と呼ばれている青面金剛像

2024-10-26 | B 石神・石仏


心念堂 撮影日2024.10.25

 塩尻市洗馬芦ノ田にある心念堂に行ってきた。目的は境内に祀られている青面金剛庚申像を見るため。この像のことは洗馬区の文化祭で知った。


左から3基目の背が低い石仏が目的の青面金剛庚申像。高さは約80cm、幅は一番下の正面で約30cm。




説明文によると、かなり有名な青面金剛庚申像のようだ。本尊についての説明も興味深い。


洗馬区の文化祭ではこの陰刻像の写真と拓本が展示されていた。

添付されていた説明文によると、手に持っている宝剣と宝輪をバットとボールに見立てて、野球の神様と呼んでいたとのこと。

なるほど、人(ヒトと表記するのがよいのかもしれない)は見慣れないものを目にすると、既に知っているものに帰着させようとするから、バットとボールに見立てたというのもよく分かる。大正の頃から野球の神様と呼んでいたという。

この石仏の側面に刻まれている文字を読み取ることは出来なかったが、展示されていたこの像の写真に、像の右側面には一千時元禄十一戊寅六月吉日と刻字されているという説明文がついていた。元禄11年の干支を確認すると確かに戊寅(つちのえとら)だ。西暦で1698年の建立だ。芦ノ田で最も古い庚申塔とのこと。

青面金剛像には三猿が彫られていることが多いと思うが、この像は二猿だ。猿の下に酉(ニワトリ)が二羽彫られている。素朴な像だ。


 


信濃町の火の見櫓

2024-10-25 | A 火の見櫓っておもしろい


(―)上水内郡信濃町野尻 444型トラス脚 2024.10.**(撮影日不明)

 上掲したのは松本市内にお住まいのKさんから送られてきた火の見櫓の写真。Kさんの姪御さんが撮った写真とのこと。豊科のカフェで昨年の10月に開いた「火の見櫓のある風景 スケッチ展」で姪御さんにもお会いしているかもしれない。

さて、火の見櫓。

一見して珍しい姿かたちだと分かる。脚元から直線的に逓減している櫓のてっぺんにちょこんと屋根と見張り台を載せているかのように見える。
見張り台は櫓から外側に張り出すことなくぴったりに合せている。

姿かたちの印象が昨年(2023年)2月に見た北杜市長坂町の火の見櫓(写真② 森林の監視用だろうか。では監視目的は?)とよく似ている。

屋根形状は判然としないが方形(ピラミッド型)だろうか。櫓の部材構成が送電鉄塔を思わせる。櫓の中間と屋根下に半鐘を吊り下げてある。

隣りの防災行政無線に役目をバトンタッチして、泰然としている様子にも見えるが、所在なさそうにも見える。どちらかといえば後者かな。



(再)山梨県北杜市長坂町 2023.02.05





見ていて飽きない朝の空

2024-10-23 | E 朝焼けの詩


2024.10.22  06:03AM


2024.10.22  05:53AM

朝は空の表情の違いが際立つ。
毎朝、リビングの窓から東の空を見るが、刻々と表情が変わる。
その様を見ていて飽きることはない。

昨日(22日)はさわやかな初秋を思わせる朝の空だったが、今日は不気味な表情の朝の空だった。


 


洗馬の牧

2024-10-21 | A あれこれ



 10月19、20日の二日間開催された「洗馬地区ふるさと文化祭」に行ってきました。洗馬の歴史関係の展示パネルに**洗馬の牧は藤原実資(さねすけ)の荘園でした**と紹介されていました。
 
大河ドラマ「光る君へ」で実資をお笑いタレントの秋山竜次(ロバート秋山)さんが演じています。そうか、あの実資の荘園だったのか・・・。
 
現在の広大な朝日村のレタス畑のあたりでしょうか、平安時代には洗馬の牧と呼ばれて軍馬を育てていたところのようです。1000年前が今につながっているということが妙にリアルに感じられました。

洗馬という地名の由来については、木曽義仲が馬を洗ったところだからという説を耳にしますが、義仲が活躍した平安末期よりずいぶん前(*1)からあったんですね。

*1 およそ200年前
※展示についてSNSで紹介することを洗馬公民館から了解していただいています。

「笑う月」安部公房

2024-10-20 | A 読書日記

360
 『笑う月』(新潮文庫1984年7月25日発行、1993年2月15日15刷)を読み終えた。

このところ、あれこれすることがあり、「読書日記」に読んだ本のことをポストできずにいた。しばらくこの状況は変わらないと思う。安部公房の作品については、読了本のリスト化だけはしておきたい。10月に読んだ本は月末のブックレビューで取り上げることにする。


新潮文庫23冊 (戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印の5作品は絶版)

今年(2024年)中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。10月20日現在17冊読了。残り6冊。

新潮文庫に収録されている安部公房作品( 発行順)

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月


 


戦前の手曳き型消防ポンプ

2024-10-20 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)塩尻市洗馬 48○型ブレース囲い 2024.10.19


 手すり付きの本格的な踊り場が3つも設置されていて、下から2段目と3段目の踊り場には半鐘が吊り下げられている。がっちりした火の見櫓。




この火の見櫓は今までに何回も見ているが、今回注目したのは櫓の下に置かれている「ガソリン消防喞筒機(?)」。喞筒はポンプのことで、しょくとう、またはそくとうと読む。取り付けられているプレートにガソリン消防喞筒機(機とは違うのでは?)とある。手曳き型消防ポンプだ。製作昭和12年4月と刻字されている。

いつ頃からここに置いてあるのか分からないが、雨ざらしにならない場所に保存していただきたいな、と思う。

手回しのサイレンをで囲った。T形のハンドル(?)を倒し、ふたりで曳いたのだろう。関心があるのは火の見櫓で、このようなものにはそれほど関心があるわけではないが、覗いてみた。こんなサイトも見つかった。 →こちら


ハロウィンなキーマカレー!

2024-10-19 | A あれこれ


 私が暮らす村のカレー大作戦。今年度は10回予定されていて、7月20日の初回を担当したのは二八会でした(過去ログ)。今日10月19日は第6回、担当したのは商工会女性部の皆さん。

ハロウィンなキーマカレー! 色が赤っぽいのはビーツという赤い根菜を使っているから。食レポ資格無きゆえ、なかなか美味いカレーでした、とだけ。


大人1食300円、子ども(18歳以下)無料 次回は11月9日(土)