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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「ブータンに魅せられて」を読む

2008-03-31 | g 読書日記


■『ブータンに魅せられて』今枝由郎/岩波新書

週末東京、移動の電車のなかで読了。インドと中国に挿まれたブータン、この国のことは仏教国ということくらいしか知らない。先日書店でこの本を手にして読んでみようと思った。

著者の専門はチベット文化、鎖国状態に近かったブータンへの入国を何年もかかって果たす。新しい国立図書館の建設やチベット文字で処理できるコンピュータシステムの構築に尽力することになった著者が綴ったエッセイ。

日本は明治維新で千年以上もの長い年月をかけて培ってきた伝統文化を捨ててしまった。比してブータンは伝統文化を守りながら近代化を進めている。日本の常識はこの国の非常識、国に道路の建設を要望しながら熟考の末その要望を取り下げた地方の話題ひとつとってもそのことが分かる。

豊かな暮らしとは・・・、人生の充足とは・・・ これらのことを読む者に考えさせる良書。
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週末東京4 路上観察@神田

2008-03-31 | g 旅行記〇







■ 神田教会 「繰り返しの美学」な外壁の意匠







生まれたものはいつか消えて無くなる。変わりなく在り続けるものなど無い。街の記憶を留める建築が次々と姿を消していくことを許容するのはこのような日本人の無常観に拠るのだろうか・・・。

過去の歴史を物語る建築の喪失。過去の記憶に符合する街並みが消えていくのは寂しい。が、時の流れのなかで辛うじて昔の姿を今に留める小さな建築たちに出会うこともある。





中は安らぎの空間だった。「ミロンガ」@神田神保町

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週末東京3 三渓園に聴秋閣を訪ねる

2008-03-30 | g 旅行記〇





■ 聴秋閣に対面するために三渓園(横浜市中区本牧)に出かけた。広い園内、池の辺りの満開の桜を楽しみながら歩を進めると奥まった山の斜面に佇むこの建築が姿を現した。小堀遠州の優れた造形力、これだけ多くのデザイン要素を取り込みながら実に端整な印象を受けるのはその証左であろう。

この建築の背面に至る山道が残念ながら閉鎖されていたが、おそらくこのアングルがベスト。

デザインの要素を出来るだけ少なくしてすっきりと仕上げる「レス イズ モア」な建築が私の好みではあるが、これだけの要素を破綻無く統合して見せられるとその姿に魅了される。

雑誌「住宅建築」の1979年頃のバックナンバーにこの建築の内部の様子が紹介されている。内部もまた外部と同様多様な要素を上手くまとめている。今回は内部の見学はできなかった。機会があれば見学したいものだ。

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週末東京2 春爛漫の街にて

2008-03-30 | g 旅行記〇




 葛飾区立石のさくら通り、桜が春を託されたことを誇るかのように堂々と咲いていた。この通りから程近い住宅街の一角に既存の住宅の一部を改築したカフェがこの日オープンした。友人の案内で訪れた。

幅広のフローリング、高さを抑えた木巾木、ペンキ仕上げの壁と天井。シンプルな空間構成。天井から吊り下げられた照明はカウンターやテーブルと同色のフレームのキューブ。そのやや和風なデザインがモダンな空間の雰囲気を和らげている。壁際に設えたダウンライトに照らされた壁はウォームホワイトに。道路側の窓外には満開の桜。エントランス正面のドアのスリット状の開口に嵌め込まれたステンドグラスがアイストップとして効いている。

既存の改築には様々な制約が伴う。構造上取り外せない柱、予算上できれば変更しないで計画したい給排水管や開口部の位置等々。計画段階や、現場監理での苦労話を聞いた。手を加えたい課題が無いわけではない。友人はそのことを随分気にしている様子だった。解決案は既に挙がっている。しばらく様子を見てから必要なら実行すればいい。

建築には設計者の知性と感性が反映する。友人の芸術全般にわたる深い知識にはいつも感心するが、この空間に漂う知的な雰囲気はその反映だろう。

次回は夜、ここでワインでも飲みながら文学を語るか・・・。

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週末東京1 「建築の記憶」

2008-03-30 | g 旅行記〇







 旧朝香宮邸(現東京都庭園美術館)、このアール・デコ様式の建築自体を鑑賞するもの楽しい。今秋この建築内部の写真撮影が出来る企画があるという。藤森、増田コンビによる優れた写真集があるがやはり自分の感性によってこの建築の美を切り取ってみたい。会期中に出かけたい。

この美術館で1月26日から開催されている「建築の記憶 写真と建築の近現代」を観る機会をようやく得た。「建築と写真との出会い」「写真がとらえたモダンの相貌」「写真家の目、建築家の仕事」など7つのセクションから構成された建築写真展。

明治44年7月に撮影された中央停車場(東京駅)の工事途中の針金細工のような骨組みの写真、昭和25年(?)に撮影された都心の瓦の家並み、丹下さんの建築を象徴的に捉えた村井修さんの作品などが印象に残った。

前回東京した際に鑑賞することができなかったこの建築写真展、会期末にようやく観ることができた。

一昨年に村井さんの「都市の記憶」と題する写真展(06年の初冬に竹中工務店本店で開催された)も観る機会があった。気さくな方で会場内でいくつかの質問に答えていただいた。自身の作品に対する謙虚な姿勢が印象的だった。

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「松本清張への招集令状」を読む

2008-03-27 | g 読書日記

 

「ははあ、それでやられたな」

文春新書3月の新刊5冊はどれも面白そうだが、まずこの本を読んだ。

『松本清張の残像』*1 を著した藤井康栄さんは編集者で、清張担当を30年にわたって務めた方だが、『松本清張への招集令状』の著者の森さんも清張の担当編集者を務めた方、但しその期間は短くて3年間(読み違えていなければ)。

『松本清張への招集令状』を読んで清張の作家としての原点が「ははあ、それでやられたな」というひと言にあるように思えてきた。

家長として一家を支えていた清張のところに教育召集令状が届いたのは33歳の時だった。指定された検査場に集まっている者は皆若者で清張のような中年の招集者はほとんどいない。何故自分のような歳の者に。やられた、とはどういう意味なのか。あまり熱心に教練に出ていなかったことへのこれは報復ではないのか・・・。

一体召集令状発行の裏側に何があるのか。やがて作家となった松本清張はその裏事情に迫っていく。次第に明らかになっていく召集令状の裏事情、カラクリ。

この作品は清張論として優れていると思う。それと同時に召集令状の裏事情を追ったルポとして読むことも出来よう。そう読んでも興味深い。

*1『松本清張の残像』では主として清張の代表作の一つ「昭和史発掘」にまつわるエピソードが綴られている。こちらも興味深い内容だった。



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「地球温暖化を考える」 

2008-03-23 | g 読書日記
『地球温暖化を考える』宇沢弘文/岩波新書 
経済学が専門の著者は1928年(昭和3年)生まれ



地球温暖化、この問題についてもはや無関心ではいられない。先日書店でこの本を見つけて購入、読了。1995年発行、版を重ねて2006年に19刷になっている。『地球温暖化の経済学』という専門書をベースに私のような一般読者のために書かれた本。

「地球温暖化は化石燃料の大量消費と熱帯雨林の伐採によってひきおこされている」著者は繰り返し端的に指摘する。

都市化と工業化の20世紀、その負の側面である地球温暖化のリカバリーは可能なのか・・・。著者は経済学、社会学の視点から地球温暖化の原因を詳細に論じその対策として炭素税の導入、農業のあり方などについて提言をする。特に炭素税については国際的に公正に導入するためにはどうすればよいのか1章割いて論述している。

第4章「矛盾にみちた現代文明」ではル・コルビュジェの「輝ける都市」に代表される近代都市の考え方ついても触れ、その問題点を鋭く指摘したアメリカのジェーン・ジェイコブスの新しい人間的な都市のあり方に関する提言も紹介されていて興味深く読んだ。

本書ではジェーン・ジェイコブスをアメリカの生んだ偉大な建築家と紹介しているがこの名前を私は初めて目にした。無知を恥じる。調べてみるとこんな本を著しているジャーナリスト、今でも入手できるなら読んでみたい。


このような連鎖的な読書も楽しい。


■ 今回でちょうど900稿となりました。
  拙稿を読んで下さっている皆さんに感謝します。

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実物尺度による数量化について考えるの巻

2008-03-22 | g あれこれ考える〇

■「誰が風を見たでしょう」と始まる詩がある。タイトルは何だっけ? とネットで検索してみた。「風」という詩でイギリスの詩人クリスティナ ロゼッティの作、西条八十が和訳したものだと分かった。この詩は「僕もあなたも見やしない けれど木(こ)の葉を顫(ふる)わせて風は通りぬけてゆく」と続く。

鯉のぼりは見ることが出来ない風を可視化する装置だ、と建築家の文章で読んだ記憶があるが、誰の文章だったかは思い出せない(このことは前にも書いた)。

ところでビールの消費量や施設の大きさは東京ドーム何個分と発表されることがある。この夏のビールの消費量は東京ドーム○杯分、この施設の面積は東京ドームの○倍というように。人にもよると思うがこのように表現されるとなんとなくその量が視覚的にイメージできる。

この東京ドームの例のように実物の尺度によって視覚的に捉えることができるようにすることは物事を把握しやすくする、理解しやすくするという点において有効だ。

実物尺度による数量化は分かりやすい。

『アイドルのウエストはなぜ58センチなのか』小学館新書で著者の飯田朝子さんは温室効果ガスの削減について触れ**チーム・マイナス6%のキャンペーンは、二酸化炭素という目に見えない、手に取れないものの排出量を減らすことを掲げているので、生活の中の小さな心がけを触発することはできても、なかなか一人一人の生活行動の中の達成感を刺激するのが難しいようです。**と指摘し、続けて**食べたもののカロリー消費のように、例えば「このドーナッツを食べたら、そのカロリーを消費するのためにはテニスを60分しなければならない」といったような、手に取るような消費・削減関係も見いだせません。**と述べている。

ここでも「テニス60分」「ドーナッツ1個分のカロリー」といった実物尺度による数量化が物事を理解するのに有効なことが示されている。

建設廃棄物の発生量が1年間で7,700万トン(2005年度)だったと先日新聞に載っていた。7,700万トン・・・。重さというのは視覚的には把握できないからこの場合も一体どの位なのかピンと来ない。建設廃棄物といってもコンクリートガラ、木材、タイルや陶器類、石膏ボードなどのボード類、プラスチック類など、様々なものがあるがこれらの総量を体積によって示されるとビールの消費量のように分かりやすくなるのだが。では一体この国の建設廃棄物は東京ドーム何杯分だろう・・・。分かりにくく表現するのはこの国の役人の得意技だ。

しばらく前にミシュランが示した東京の★★★レストランが話題になった。料理の美味しさを★の数などという単純な指標で表すことなどできないと思うのだが。

同様に「幸福」ということなどは単純な指標で捉えることなどできないと誰でも思っている。が、この国では例えば年収など「お金」という尺度によって捉えている。世の中の事件の多くはこのことに起因している。これは不幸なことだ。

少し長くなった本稿の結論。実物尺度による数量化はものごとを把握しやすくする。でも、世の中にはそうすべきこととそうすべきでないことがある。


 

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モノリスとはいったい何か?

2008-03-21 | g 読書日記



 先日SF作家のアーサー・C・クラーク氏が亡くなった。そのことを報じた新聞記事によると氏は約100点の作品を発表しているそうだ。その中でとりわけ有名なのが映画界の鬼才スタンリー・キューブリックによって映画化された「2001年宇宙の旅」であろう。この映画はテレビでも何回も放送されている。



この映画には印象的なシーンが何ヶ所もあるがその最初がサル(既にヒトか)が空中に放り投げた骨が一瞬にして白い宇宙船に変わるシーンだ。

人類が飛躍的に技術を進歩させるときに必ず登場するモノリス(石板)は地球外知性体?、神?の存在の暗示か・・・。

コンピュータHAL(IBMのそれぞれ一つ前のアルファベットを並べたともいわれる)9000が反乱を起こしたのは何故? 

宇宙船ディスカバリー号の唯一の生存者ボーマンは一体どこにいったのか?そして何を見たのか・・・。映像ではボーマンは未来をイメージさせる幾何学的なパターンをものすごいスピードで進んでいってやがて地球の始まりのような有機的なパターンへと進んでいき、最後は静かなロココ調の部屋へ・・・。

未来の先にあるのは遥か遠い過去? 仏教の輪廻思想にも通ずる思弁的世界の映像化・・・。実に美しくそして多くの謎に満ちているこの映画は何回観ても飽きることがない。公開は1968年。

ところでアーサー・C・クラークの代表作といえばこの「2001年宇宙の旅」、それと「地球幼年期の終わり」であろう。どちらの作品も読んでから既に20年以上経っている。そろそろ再読すべき時なのかも知れない。

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路上観察 諏訪の民家

2008-03-16 | g 蔵観察・蔵考〇



■ 久しぶりの路上観察(20080315)。

昨日所用で諏訪に出かけた。諏訪地方にはこのように一つ屋根の下に蔵と住宅を一体に造った「建てぐるみ」が今でも残っている。残念ながら蔵の外壁が傷んでいて妻側は波トタンを張ってしまっているが平側(写真の左側の面、暗くて分かりにくいが)は板張りのままだ。

若かりし頃は民家を訪ねて全国あちこち出かけたものだ。最近はその機会がなくなってしまったが民家を見かけると反応する。破風板を×状に交叉させるのもこの地方の民家の特徴。以前も書いたが板の小口は腐りやすい。そこで小口を塞ぐために別の板を付けて下のように「すずめおどり」とよばれる菱形の妻飾りとしたものもある。

屋根を地元で採れる鉄平石で葺くのもこの地方の民家の特徴。「地産地消」が民家の基本だ(地元産の材料を生かすという意味で「地産地生」という表現を見たこともある)。



この写真は1979年の撮影、当時はまだこのような立派な民家が数多く残っていたが最近ではあまり見かけなくなってしまった・・・。

「建てぐるみ」「すずめおどり」「鉄平石一文字葺き」「妻だれ」 

諏訪地方の民家の特徴はこの4点。

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「乳と卵」 少し改稿

2008-03-16 | g 読書日記



 『乳と卵』川上未映子/文藝春秋 

カバーデザインが女性の体のラインを描いていることはなんとなく分かったけれど、左の写真のように見ているとそれが具体的にどの部位を描いたものなのかは判然としない。カバーを本体から外して逆さにしてみて初めて(右)痩せた女性の後ろ姿であることが分かった(違うかな)。

タイトルの『乳と卵』は女性に特有、固有(この場合どちらが適切だろう)なふたつのことばを表している。豊胸手術を受けるるために大阪から妹を訪ねて上京してきた母親巻子の「乳」。初潮をこれから迎える娘緑子の「卵」。

川上未映子さんの「わたくし率イン歯ー、または世界」も前回の芥川賞候補になったのだが『アサッテの人』に受賞作が決まった。石原慎太郎さんは前回作について**自分が苦労?して書いた作品を表象する題名も付けられぬ者にどんな文章が書けるものかと思わざるをえない。**と酷評していた。

で、今回の受賞作の『乳と卵』というタイトルは前述したように内容を表象している。だから石原さんがどのような書評をしたのだろうと、文藝春秋を手にしてみると今回もこの受賞作を酷評していた。評価は選考委員それぞれ違って当然だが・・・。

この小説は大阪弁を交えたライブなはなし言葉で書かれていて、ひとつの文章が随分長く読点で繋がっている。最初は読みにくいが慣れるとリアルにイメージが立ち上がってくる。この作家の個性なのであろう。

小説のラスト、母娘は冷蔵庫から玉子を取り出して次々に頭で割っていく。そのシーンは圧巻、秀逸。この場面を読んで母親思いの緑子(そう、緑は豊胸しようとしている母親のことを実は心配している)がなぜかがかわいそうで仕方なかった。なぜかわいそうと思ったのだろう・・・、どうも私には小説を暗く読む癖があるようだ。

この作家のこれからの作品にも注目。ふたりの川上か・・・。

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「コメを選んだ日本の歴史」

2008-03-12 | g 読書日記

■ 食の海外依存からの脱却の鍵、それはコメを主食とする食生活に戻すことだ。

少しコメに関する本を読んでみようと書店にでかけて『コメを選んだ日本の歴史』原田信男/文春新書 を見つけた。著者はコメとの関わりから日本の古代から現代に至るまでの通史を概観している。

本書を読んでコメがその時代の政治や経済、文化と深く関わってきたことを再認識した。著者は長年の研究成果をベースに本書を書いており、とにかく内容が充実している。日本で栽培されているコメ(温帯ジャポニカ)は7000年前の中国長江下流域にまでルーツを遡ることが出来るという。連綿と続いている日本とコメとの関わりを膨大な資料を基に論考しているが、ひとりでその歴史をまとめるのは大変な作業だったに違いない。

今日では食の多様化が進みコメの消費が年々減少してムギの消費(パンやパスタとして)は逆に増加しているのだが、日本の気候はムギの栽培には不向きだという。ムギは現在90%以上を輸入に頼っているが、やはり湿潤な日本に適したコメ中心の食生活にシフトすることが食料の自給率の回復のポイントだろうと繰り返して書く。

ところで本書によると**鴎外は、コメに長く慣れ親しんできた日本人の食習慣を変更することの不合理性や、日本の食糧事情からする穀類や肉の輸入に対して、外国依存の危険性を指摘している。**そうだ。そうか、鴎外は既に明治時代に今日のような状況に対して警鐘を鳴らしていたのだ。

この40年間で1日5杯位食べていたご飯が2杯位までに減っている(極大雑把に捉えて)、3食ともご飯という食生活に戻ることができるだろうか、私は残念ながら無理だと思う。仮に将来そうなったとしてコメを国内生産だけで賄うことが出来る生産体制がそれまで持続しているだろうか・・・。

やはり日本の食生活の危うさは変わらない、と思う。

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予告のみ

2008-03-11 | g 読書日記


■ 予告。次回はこの本について書く予定です。実は今夜書いたのですがトラブルで消えてしまいました。再度書く気力も無く・・・。
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食料自給率の回復について考えるの巻

2008-03-08 | g あれこれ考える〇


 信濃毎日新聞の朝刊(2008.03.02付)に江戸学の専門家、法政大学教授の田中優子さんの「食料自給率の回復をめざせ」と題する提言が掲載されていた(写真)。

食料自給率を回復することは可能だろうか・・・。田中さんは**地方が小さな単位を形成し、食料や原材料の生産地というだけでなく加工、流通、広報、教育、そして石油以外の電力生成をはじめとする持続可能社会の構築の拠点になる、という方法があるはずだ。**と書いている。

要するに豊かな地方の再構築が食料の自給率回復の鍵ということなのだろう。それは理念、基本的な考え方としてはよく分かる。が、どのようにしたらそれが実現可能なのか、田中さんは方法論については触れていない。

優良農地は宅地や工業用地に転用されて面積が減少しているし、就農者の高齢化に歯どめがかかるとは思えない現実。地方と都市との福祉、教育、医療などの諸格差は広がるばかり。効果的な地方そして農業の再生プログラムなどこの国で本当に組めるのだろうか。

中国製冷凍餃子の中毒事件に端を発して、いやそれ以前の一連の食品偽装問題からか、買い物をする際きちんと表示内容を確認するようになったという購買者が増えたと聞く。

食の安全性を確保する最良の方法は自給自足。自分で栽培した米や野菜などを中心とする食生活へのシフトだと思うが、誰にでも可能というわけではない。そこで、国産の食料なら輸入品より安心・安全、ということで食料自給率を高めようという訳だ。そのためには地方が元気にならないと、という論理。

江戸時代は食料自給率100パーセント、農民人口が80パーセントだったという。この比率がこの40年位の間に急激に低下して、自給率は39パーセント、主要国のなかで最低レベルに。

穀物のエネルギーへの転用や気候の変動などで日本への輸出が遮断されたら・・・、その先の出来事を田中さんは**飢餓がやってくる。**と表現しているがそのくらいの危機意識を国民が皆持つべきだろう。

食料自給率の回復はまだ可能なのだろうか。田中さんは**今なら間に合う**と書いているが、私は悲観的にそれはもはや無理なことではないかと思っている。

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文化的記号としての数

2008-03-07 | g 読書日記



 本のネット注文に馴染めない私は、未だに電話で書店に注文しています。何日か経つと勤務先にカタログなどと共に本が届きます。『アイドルのウエストはなぜ58センチなのか』、「これから出る本」という冊子でこの書名を目にして注文しました。

なるほど、指摘されてみるとアイドルのウエストサイズとしてなんとなく記憶にあるのは58センチです。

数は計算や記録を行うためにだけ存在する単なる符合ではなく「文化的な記号」としても大きな役割を果たしていて、私たちは記号としての数の影響を受けながら生活しているのだと著者は指摘しています。

これを数のサブリミナル効果(略して数リミナル効果)と名付けた著者は数の形状から受ける視覚的なイメージによる数リミナル効果もあると指摘していて、「8」は0の中央を絞り、あるいは削った形に見えるため、アイドルのウエスト値に好んで採用されるのだと書いています。

8はウエストがくびれたナイスバディをイメージさせるの形なのだと著者は言うのですが・・・。

そうかな~、8から雪だるまを連想することはあっても私にはナイスバディは浮かんできません。著者は周りの男性陣に聞いて8が理想的な体形を表していると結論づけたそうですが、これって本当?

きちんと実証的に論じてはいませんが、軽く読むのにはこの手の本もいいかもしれません。

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