■ 漱石の『道草』新潮文庫をようやく読み終えた。それ程長い小説ではないが、いや、細かな活字で269ページは長いか・・・、さくさくと読める作品ではないので時間がかかった。読書時間も減っているし。
高田郁の「みおつくし料理帖」シリーズをある方から薦められているから入手して読んでみなくては・・・。その前にもう1冊漱石、晩年の随筆集『硝子戸の中』新潮文庫を読むことにした。で、今朝(31日)もスタバのお気に入りの席でおよそ40分間、読書に集中。
このカバーデザインは好き。
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■ 漱石の『道草』新潮文庫をようやく読み終えた。それ程長い小説ではないが、いや、細かな活字で269ページは長いか・・・、さくさくと読める作品ではないので時間がかかった。読書時間も減っているし。
高田郁の「みおつくし料理帖」シリーズをある方から薦められているから入手して読んでみなくては・・・。その前にもう1冊漱石、晩年の随筆集『硝子戸の中』新潮文庫を読むことにした。で、今朝(31日)もスタバのお気に入りの席でおよそ40分間、読書に集中。
このカバーデザインは好き。
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△表表紙 錦絵「松本中学校開校式繁栄之図」左半分
△裏表紙 享保十三年秋改 松本城城下絵図 部分(戸田氏時代)
■ 『松本城・城下町絵図集』が発行されたことを数日前の新聞記事で知り、さっそく松本市立博物館の売店で買い求めた(上の写真は表裏両表紙)。
松本市教育長のあいさつ文が巻頭に掲載されているが、その中に**松本市教育委員会では、平成二十二年度から松本城歴史資料保存事業として、主に絵図史料の修復・複製製作・デジタル化を進めてきました。この事業や従来からの研究活動によって、松本市が所蔵する絵図史料に加え、県内外の施設が保存する松本城及び松本城下町に関する史料も、一部収集することができました。本書は、それらの成果をまとめたものです。**と、この絵図集の説明がある。
収録されているのは、信濃国松本藩領大絵図、城下図、屋敷割図、城図、御殿図、城址・天守図面、筑摩県博覧会他の錦絵で計37枚。
巻末にそれぞれの絵図の所蔵先、寸法、伝来、解説文が収録されている。解説文をきちんと読めばそれぞれの絵図について理解が深まると思う。
松本城下絵図と都市計画図の重ね図も載っている(22、23頁)。享保13年の絵図と平成27年度の都市計画図を重ねたもので、絵図はかなり正確な測量をもとに描かれているとのこと。
この重ね図の絵図には本丸を囲む内堀、その外側の外堀、さらにその外側の総堀が描かれている。総堀の南側は女鳥羽川のすぐ北側の縄手通り辺りと重なっていること、その先は日銀や市役所のすぐ東側に続き、さらに北側は裁判所辺りを通り、西側は丸の内消防署辺りを通っていることが分かる。総堀の内側の渕に土塁を築いてあったことなども表現されている。総堀の内側に入るところは5か所に限定されていて(北側2か所、西側、南側、東側各1か所)、そこは今も5か所とも道路になっている。何かそこに江戸の痕跡が残っていないかな(って、ブラタモリ的になってきた)。
少し残念に思うのは、かなり大きな絵図を見開きA3サイズに縮小しているので細かな文字が読み取りにくいこと。だが、本であるからこれは仕方がない。絵図そのものを複製して販売する方法もあるだろうが、広く一般の人たちに入手してもらうのであれば、やはり本にするのが最良の方法だと思う。
絵図を読み解く能力があればいろんなことが分かるだろう。残念ながらその能力、私は皆無に近い。地図は好きだけど・・・。
A4判 128ページ 1620円(税込み)
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■ 一昨日の朝、スタバのいつもの席で漱石の『道草』を読んだ。ようやく半分以上まで進んだ。横浜の神奈川近代文学館で開催されていた漱石展に先週末出かけたが、会場でこの小説の自筆原稿(展示されていたのは偶々新宿に向かうあずさで読んだ節の原稿だった)や小説に出てくる資料などを見てきたばかり。『道草』を読んでいると、漱石展で見た展示品が目に浮かぶ。
『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に発表したのが1905年、そして『道草』を朝日新聞に連載したのが1915年。わずか10年ばかりの間にあれだけの作品を残した漱石はやはりすごい。
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626 木祖村小木曽
■ 木曽の藪原から旧奈川村に向けて県道26号を走っていて、前方右側の小高い丘の上にこの火の見櫓を見つけた。あんなところに火の見櫓がある! すれ違い不可な狭い道路を上ってこの場所に着いた。
上の写真の左側、青い小屋の横に県道が写っている。あの辺りからこの火の見櫓を撮れば、立っている場所の様子がよく分かったと思う。
丘の上にしてこの大きさはびっくり。見張り台からは下の集落が一望できるだろう。見張り台の大きさに比して屋根が小さい。
カンガルーポケット型の踊り場は東信方面によくある。火の見櫓周辺は草が生え放題、近くの集落の人たちは存在すら意識していないのかもしれない。
5月20日に出合った火の見櫓の紹介は以上
625 伊那市西箕輪
伊那から木曾への帰路でこの火の見櫓に遭遇した。櫓のカーブが実に美しい。 これぞ火の見櫓の理想形。これでスピーカーがついていなければ、脚元のデザインが正面だけでなく他の面にも施してあれば減点無し。
踊り場の半鐘には小屋根がかけられているが、その屋根が反っている。このこだわりがまた良い。しかもこの半鐘はつるりんちょではない。表面に乳が付いている。消防信号板も半鐘を叩く際に見ることができる位置に設置されている。
このプレートの右に寄付者名と製作した年月日、昭和35年3月10日を記したプレートが設置してあった。
624 伊那市西春近
20日、味噌川ダムカレーを食べに出かけたが、昼までの数時間、伊那で火の見櫓が2、3基見つかればいいなと思い、木曽谷から権兵衛トンネルを抜けて出かけた。下調べはしてないから、勘と運まかせ。
木裏原の火の見櫓と同じようなホース掛けが設えてある。こちらはたまたま消火ホースを掛けてあった。
脚元の消火ホースはいったんブレースに巻きつけてある。消火ホースの長さ、20メートルの半分で10メートルに対して火の見櫓の高さが低いのでこのようにしているのだろう。こうしないとホースの端部がコンクリートの床面についてしまう。でも・・・、こうするとホース内の水が抜けない。風対策も考えているのだろうか・・・。
623 伊那市東春近
やはりこの火の見櫓のようにくるりんちょな蕨手がついている屋根がいい。てっぺんの避雷針につけられたハートをひっくり返したような形の飾りとともに楽しい雰囲気を醸し出している。このくらいの遊びはあっていいと思う。
部材の接合部に注目。柱材のアングル(等辺山形鋼)はボルトでつないでいる。
ガセットプレートは柱にリベットで接合している。横架材はボルト留め。ブレースの丸鋼はリベット接合と同じ方法で端部を留めている。ボルトとリベットはどのように使い分けていたのだろう・・・。
621 伊那市西春近
梯子段のピッチと段数から見張り台の高さを9.3メートルと概算した。何回も繰り返すが脚部としてのデザインがされていないのは残念。細身の上部から幅広の下部まで、末広がりのカーブはベストではないにしろ美しい。
見張り台の手すりに輪っか付きブレースをモチーフにしたデザインが施されている。つるりんちょな半鐘の向こう側に木槌が掛けてある。
消火ホースを掛けるための仕掛けがなんとも物々しい。これで火の見櫓がかなり変わった形の印象になっている。手すりまでの高さは10メートルを超えるから、そこに長さ20メートルの消火ホースを掛けても地面に着くこともない。なぜこのような仕掛けにしたのだろう・・・。
620 伊那市ますみヶ丘
姿形が美しい火の見櫓 梯子段の間隔と段数から求めた見張り台の床の高さは約10メートル。総高は13.5メートルくらいだろう。櫓の横架材の間隔がやや狭い。
半鐘は偏心させることなく、屋根の中心に吊り下げてある。スピーカーも無くすっきりした見張り台。
踊り場の半鐘の小屋根。半鐘を大切にする気持のあらわれ。
■ 神奈川近代文学館のカフェで昼食を軽く済ませ、みなとみらい線の元町・中華街駅へ。中目黒駅で日比谷線に乗り換えて六本木駅で下車。サントリー美術館で「広重 ビビッド」を鑑賞。
「若冲は知的好奇心による絵、広重は美的感性による絵」とざっくりと括ってしまおう。
その広重の「六十余州名所図会」と「名所江戸百景」をみた。前者は五畿七道の68ヶ国の名所を題材にしている、とリーフレットにある。信濃は「更科田毎月 鏡台山」。 いずれの絵も近景から遠景までを巧みにデフォルメした構図に魅せられる。それから色にも。
原安三郎氏が蒐集した浮世絵は「初摺」のなかでもとくに早い時期のもので国内に数セットしかないそうだ。保存状態も極めてよいからビビッドな浮世絵ということなのだろう。
一通り鑑賞して、ミュージアム・ショップで火の見櫓が描かれているポストカードを買い求めた。
「日本橋 朝之景」今の日本橋からは想像もつかない江戸の日本橋の光景 屋根の上に火の見梯子
「びくにはし雪中」 京橋川に架かっていたびくに橋 遠くに火の見櫓 山くじらって何? ネット検索してイノシシの肉のことだと分かった。山くじらね~、面白い表現だな。
「市中繁栄七夕祭」 七夕の日の江戸の風景だがネットで調べても場所は分からなかった。右側の遠くに火の見櫓が見える。蔵の間に立っているのは火の見櫓かどうか分からない・・・。
サントリー美術館を出ると5時を過ぎていた。
この後、ギャラリー間に立ち寄り、大江戸線で新宿へ移動。
タカシマヤタイムズスクエアのレストランはどこも満席、インド料理の店にかろうじて空席があった。そこでアルコール摂取+食事をして21時発のあずさで新宿を後にした・・・。
■ 昨日(21日)日帰りで横浜、東京へ出かけてきた。目的は神奈川近代文学館で夏目漱石没後100年ということで開かれている特別展「100年目に出会う 夏目漱石」を観ることと、上野の東京都美術館で開かれている特別展「生誕300年記念 若冲」を鑑賞することだったのだが・・・。
いつも通り松本6時51分発のスーパーあずさで新宿に向かう。中央東線は山梨市駅あたりから甲府盆地の東側の縁をなぞるように通っていて、塩山駅あたりから勝沼ぶどう郷駅(平成5年に勝沼駅から改称されたそうだ、知らなかった)過ぎまで急なのぼり坂になる。この間、車窓から見える甲府盆地の俯瞰景は美しい。いつも上りのあずさでは進行方向右側の席に座ることにしているが、理由はこの風景を見るため。
新宿駅から湘南新宿ラインで横浜に向かう。横浜駅で根岸線に乗り換えて石川町駅で下車。徒歩で神奈川近代文学館へ。途中洋館が残る山手町を通る。
神奈川近代文学館はこの大佛次郎記念館の裏手にある。
最終日(会期は5月22日まで)前日ということもあってか、会場はかなりの人で混んでいた。
数多くの資料で振り返る漱石の生涯。展示されていたのは小説の原稿や漱石が友人や奥さんに宛てた手紙や多数の写真、漱石の書画、子規が赤字で添削した漱石の俳句、漱石が着た和服等々。
友人が漱石に宛てて描いた猫のイラスト付きはがきや漱石の死を悼む読者からのはがきなども展示されていた。会場入口には漱石最後の家「漱石山房」の書斎が美しく再現されていた。
今読んでいる『道草』は長年漱石の心の負担となっていた養父との問題をモチーフとして書かれている。4歳で塩原昌之助・やす夫妻の養子に出されるも、夫婦が離婚したために籍を残したまま、9歳の時に生家に帰ったという漱石。その後塩原は夏目家というか、漱石に金銭的援助を求め続けた。この復籍に関する書類を紐解く場面が『草枕』に出てくるが、その書類も展示されていた。
**「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ、色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」**(268頁)『道草』のラストで主人公の健三(漱石自身)は奥さんに向かって吐き出す様に言う。
漱石の心の奥底には暗い闇が広がっていたようだ。仲間と楽しく語っているときでも、ふと「孤独」が漱石の心を占める。あの「猫」にさえ孤独が見え隠れしているという。そうなのか・・・。
充実した展示で会場を回るのに2時間以上かかった。
さて、次は上野。東京都美術館の若冲の予定だったが、ライブなネット情報によると、「若冲」展はなんと3時間待ち! 残念だけどそんなに長時間待つならパス、ということで、予定を変更して六本木のサントリー美術館で開催中の広重展に行くことにした。