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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ブックレビュー 2025.02

2025-02-28 | g ブックレビュー〇

480
 「少年老い易く学成り難し」この言葉を実感している。

2月の読了本は9冊。うち、7冊が単行本で新書が1冊もない。珍しい。

「お静かに!」の文化史 ミュージアムの声と沈黙をめぐって』今村信隆(文学通信2024年)
ひとり静かに対峙したい作品もあれば、同行者とあれこれ感想などを語りながら鑑賞したい作品もあるということになんとなく気がついてはいた。本書を読んで私なりにそのことがはっきりした。

諏訪の神 封印された縄文の血祭り』戸谷 学(河出書房新社2014年12月30日初版発行、2023年1月30日6刷発行)
諏訪は深い。それはなぜ? ドキュメンタリー映画「鹿の国」を見たことにより、「諏訪学」を勉強したくなり読んだ。

古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会 編(人間社文庫 2017年9月15日初版1刷発行、2024年1月28日7刷発行)
同上。

狛犬学事始』ねず てつや(ナカニシヤ出版1994年1月20日初版第1刷発行、2012年6月10日初版第7刷発行)
狛犬と括られる一対の獅子と狛犬。両聖獣の違いは口の開閉、角の有無、体の色。それから設置位置の左右、そのどちらか。参道狛犬の大半は石造で体に色は付けられていない(例外はあるだろう。岡谷で見た参道狛犬は木造で着色されていた。過去ログ)。設置位置は両者の相対的な関係だ。像の固有の違いに注目するなら、それは口の開閉か角の有無。

このふたつの特徴の違いのどちらかで獅子か狛犬かを見分ける場合、著者は角の有無に着目し、角が有れば狛犬、無ければ獅子だと判断するとしている。角は制作時、設置時、設置後のそれぞれのフェーズで欠損してしまうことがあり得るのに、なぜ、角の有無なのか、その理由を本書から読み解くことはできなかった(読み落としてないないと思うが)。

言うまでもなく、前提が違えば、その後の論考から導き出される結論も違ってしまう。狛犬に角が必須であるなら、頭頂部にほぞ穴をあけ、別のパーツにした角を穴に差し込むという方法もある。この方法を採れば前述のようなトラブルに対処することができる。

ぼくは獅子と狛犬それぞれの顔の造形で、口の開閉が異なるから、それで判断する方が蓋然性が高いと思う。

イモと日本人 民俗文化論の課題』坪井洋文(未来社1979年12月25日第1刷発行、1983年1月31日第8刷発行)
稲を選んだ日本人』坪井洋文(未来社1982年11月25日第1刷発行、1983年2月15日第4刷発行)
弥生は稲作社会という単一的な捉え方ではなく、稲作と畑作は等価値であって両者が互いに影響を及ぼしあっているとみなければならないという主張。

Y字路はなぜ生まれるのか?』重永 瞬(晶文社2024年10月23日初版、2025年2月10日3刷)
Y字路に関することを、もれなく網羅的に、そして論理的に論じている。すばらしい!文章は硬くなく、楽しく読むことができた。

「戦後」を読み直す』有馬 学(中央公論新社 中公選書2024年)
内容をきちんと理解することができなかった・・・。専門用語が使われているわけでもないが。

青い壺』有吉佐和子(文春文庫2011年7月10日新装版第1刷、2025年2月15日第34刷)
帯に累計70万部突破!!とある。およそ50年前に発表された作品が今よく読まれている。人間模様の「あるある描写」故か・・・。
松本清張の短編推理小説にありそうなラスト。


積読解消に向けて、3月も読む。

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積読状態解消せず

2025-02-28 | g 読書日記


2025.02.28

 3減3増。なかなか積読状態から抜け出せない。左が2月の読了本。右が未読本。4冊まで減ったが、2月25日に4冊増えて8冊になった。

諏訪についてもう少し勉強しようと買い求めた『諏訪学』。版元で品切れ。希少本とかで、ずいぶん高かった。太平洋戦争関連本を読むことにしているので買い求めた『日本軍兵士』と『続・日本軍兵士』。

昨年(2024年)は安部公房を読んだ。今年も一人の作家の作品を集中的に読もうと思っていたが、一人に絞り込むことができなかった。で、作家を決めないで「読まなきゃ本」を読むことにした。まず浮かんだのが三島由紀夫の『金閣寺』。三島由紀夫の作品について、2021年1月2日のブログに、**ぼくは『金閣寺』(過去ログ)だけでいいなぁ。** と書いている。『金閣寺』を読む前に読んでみようと思ったのが『金閣を焼かなければならぬ』。著者の内海 健氏は精神科医。

積読状態が長いのは『鋳物』。高校の同級生IT君に薦められていた『日米戦争と戦後日本』五百旗頭  真(大阪書籍1989年)を読み、他の著書も読みたいと買い求めた『日本の近代6 戦争・占領・講和』。それからやはり太平洋戦争関連本の『主戦か講和か 帝国陸軍の秘密終戦工作』。もう1冊、上坂冬子氏の『生体解剖 九州大学医学部事件』。遠藤周作の『海と毒薬』でも取り上げられた事件。

当然だけど、早く読みたい本ばかり・・・。


 

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「青い壺」を読む

2025-02-27 | g 読書日記

 有吉佐和子の作品で、まず浮かぶのは『恍惚の人』と『複合汚染』。それから『華岡青洲の妻』。

280
毎日新聞(2025.02.22付)の書評面に載っていた文庫ベストセラーの3位は有吉佐和子の『青い壺』だった。先日、この作品を読んだ。有吉佐和子の作品を読むのは『非色』以来2年半ぶり。

ある陶芸家の焼いた青磁の壺が映し出す様々な人間模様を描く13編の連作短編集。売られ、盗まれ、スペインまで行った青い壺が再び日本に戻り、最後に作者の陶芸家が再び目にすることに・・・。

連作の最後は、巡り巡ってスペインに渡った壺を買い求め、日本に持ち帰った美術評論家の元を訪ねた陶芸家がその壺は十年余り前に自分が焼いたものであることに気がつく。しかし評論家は**「うむ。名品だよ。南宋浙江省の竜泉窯だね。十二世紀でも初頭の作品だろう。(後略)**(326頁)というストリー。 

松本清張が短編推理小説で書いていそうな展開だ。この陶芸家は骨董屋に請われるままに焼いた陶器に古色をつけ、江戸初期の骨董づくりに手を染めているというのだから、清張。

それにしても有吉佐和子は、人間模様を実にリアルに描くことができる作家だったと思う。この連作短編集然り。50年近く前に発表された作品だが、今また読まれているというのも、この辺りにその理由がありそうだ。

再読するなら『華岡青洲の妻』かな。


 

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「「戦後」を読み直す」を読む

2025-02-26 | g 読書日記


『「戦後」を読み直す』有馬 学(中央公論新社 中公選書2024年)

 この本の書評を日本経済新聞(2024年11月16日付)の書評面で読み、買い求めて読んだ。今年(2025年)は太平洋戦争の関連本を読もうと思っているので。

読み終えたが、書かれている内容が理解できなかった。特に難しいことが書かれているわけではなかったが、意味が分からないことば、表現・・・。ぼくに内容を理解する知識、能力がないということだ。ということは、あまり関心がないテーマだったともいえる。やはり本は書店で内容を確認してから買い求めるべきだ。だが、残念ながら、新聞の書評面で取り上げられている本が書店にないことも少なくない。

360
いつも本を読んでいて、なるほど、と思う箇所には付箋を貼る。

それが、この本では以下の2か所だけだった・・・。

**後世の研究者に、その時代の日本社会を描くのならこれがいい史料になると教えたくなるような、そんな本に出くわすことがある。そのような本を読み直すことを通して、「戦後」を再考してみたい。**(6頁) これが本書の方法と意図。

**本書の仕掛けは、かつて私が読んだ本をかなりの時間を距てて再読することで、その間の時間的距離の測定を試み、それを通して私自身が生きた時代を歴史としてとらえ直すという、かなり面倒でひねくれたものだ。そう考えたときに取り上げるべき本は、書かれた時代として「戦後」のある時期が濃密に、あるいは特徴的に反映されており、なおかつそれは私が同時代人として生きた時間に重なっており、さらに刊行された時代に私が読んでなんらかの影響を(正負いずれにしても)受けたものである。**(231頁 文中の下線は私がひいた)

この文章の後段の意味は分かる。よく分からないのは前段。時間的距離の測定って、具体的にはどうすることなんだろう・・・。時間的距離という表現ははじめて目にしたのではないかな。測定ということはその対象が「もの」として存在する場合には明快だけれど、この場合は? 

繰り返す。ぼくにはこのような表現、内容を理解する知識、能力がない・・・。

日経新聞に掲載されたこの本の書評からはじめの部分を引く。**敗戦の年に生まれた歴史家が、同時代の定説に抱いた違和感の原因を探る。人生の折々に影響を受けた本を再読し、振り返ることで、戦後昭和を読み替える意欲作である。**

この文章の意味もよく分からない。では、なぜ書評を読んで、この本を読んでみようと思ったのだろう。




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松本城太鼓門桝形

2025-02-25 | g 歴史的建造物〇


太鼓門二の門(*1)(高麗門)


太鼓門桝形



太鼓門一の門(櫓門) 


玄蕃石と呼ばれる巨石 重量は約22.5トンとのこと。松本市の郊外、山辺で採れた山辺石、と聞く。


図中③は鵜首(うのくび)と示されている。この名称、知らなかった・・・。土橋の幅を絞っていることに今まで気がついていなかった。

やはり、太鼓門桝形を通って、二の丸にアプローチするのが好い。


*1 松本城では内側から外側へ一の門、二の門と、名前が付けられている。城によっては逆のこともあるようだ。

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「Y字路はなぜ生まれるのか?」を読む C6

2025-02-20 | g 読書日記


 「ヤバ! Y字路に沼るかも・・・」という記事を1月20日に書いた(過去ログ)。

Y字路に興味を持ったきっかけは、昨年末だったかと思うが、書店で『Y字路はなぜ生まれるのか?』重永 瞬(晶文社)を目にして、掲載されていたY字路のカラー写真を何枚か見たことだった。それ以来、Y字路が気になるようになって・・・。先日、本書を買い求めて読んだ。


小説を読んでいても、登場人物の名前が覚えられない。それから、例えばブルーバックスのような自然科学系の本を読んでいても専門用語が頭に入らない。このように記憶力が低下して、メモを取りながら読むようにしている。速記に近いような書き方だから、後になると自分でも読めない文字がある(と断っておくことにしよう)。

著者の重永 瞬さんは、まずY字路の定義を示す。それは「Yのかたちをした交差点」というもの。このような純粋なY字路はそう多くはないとのことで、トやXのような鋭角な交差点も広義のY字路として取り上げる、としている。

次に重永さんが示すのはY字路鑑賞の3つの視点。それは路上の目、地図の目、表象の目。次のように視点ごとにそれぞれ章立てして、Y字路を鑑賞している。

一章  Y字路へのいざない
二章  Y字路のすがた  ――  路上の目 
三章  Y字路はなぜ生まれるのか  ――  地図の目
四章  Y字路が生むストーリー  ――  表象の目
五章  Y字路から都市を読む  ――  吉田・渋谷・宮崎
六章  Y字路とは何か  

実におもしろい内容。たとえば二章は、Y字路のすがたの路上観察について。本書のカバー写真のようなY字路の角地がどのように使われているのか、何か所も(*1)観察・分析している。この章の各節の見出しを挙げればその内容が分かるだろう。

1  Y字路の角には何がある?
2  表層 ―― 角はY字路の顔である
3  角オブジェ ―― 角地の役者たち
4  残余地利用 ―― 「余った」からこその空間利用
5  角地のマトリックス
6  Y字路の角度は何度が理想か?
7  角壁面の長さ
8  Y字路の調査票

三章の「 Y字路はなぜ生まれるのか」はY字路の形成要因に関する論考。重永さんは地理学を研究する京大の大学院生とのこと。本書は平易で柔らかな文章で書かれてはいるが、はじめにきちんとY字路の定義と本書の全体の構成が示されているし、論拠を示しながらなされる分析的な論考は論文のようだ。角地の使われ方は建築学を専攻する学生の研究テーマとしてもおもしろいだろう。


これからは、本書をテキストに、Y字路の角地、Yの上のVの部分がどのように使われているか、観察してみたい。


塩尻市大小屋 2025.02.18 
旧中山道(左)と国道153号(右)から成るY字路(五差路)

角はY字路の顔、ということで「角壁面」に看板が設置されている。「残余地」の「角オブジェ」は庚申塔や道祖神、蠶玉大神などの石仏・石神。


松本市城西 2025.02.16
木造の軸組構法(工法とは異なる概念)ではなかなか大変な仕事

**あくまで個人的感想だが、駐輪場や駐車場になっている角地は、あまりおもしろみを感じない。角地に建物がないと、Y字路特有のとんがり感は味わえない。私としては、建物が建て詰まったY字路のほうが嬉しい。**(67頁)と、重永さん。全く同感。このことについて、1月20日に次のような記事を書いた。

**単なる空地とか、花壇のような処理ではなくて、出来るだけ先っちょまで攻めて欲しいなあ。たい焼きだって、シッポの先まであんこが詰まっていたほうがうれしいじゃないか。これは、関係ないか。**


*1 何カ所、何箇所 何ヶ所 どれが一般的なんだろう。カとヶは、3カ所、3ヶ所のように算用数字に付ける時は使うかもしれないが、見た目が好きではないので、これからは「か」と「箇」を意識的に使いたい。


 

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「稲を選んだ日本人」を読む

2025-02-18 | g 読書日記


『稲を選んだ日本人 民俗的思考の世界』 坪井洋文(未来社1982年11月25日第1刷発行、1983年2月15日第4刷発行)を読んだ。本書には『イモと日本人』以降の論文が収録されている。どちらか1冊を読んで済ませるという訳にはいかない。

稲作民的農耕文化(イネ文化)と畑作民的農耕文化(イモ文化)。イネ文化を中心的文化、イモ文化を周縁的文化と位置付けられることが一般的だ。イモ文化が価値的劣位に置かれている。坪井氏は両文化を等価値なものとして位置付けなければならない、と一貫して主張している。

弥生時代は両文化で綯(な)われた縄のような複合的文化なのだろう。ぼくはそのようなイメージを抱いた。

**少なくとも日本の農耕を基盤とした民俗文化には、稲作民的農耕文化と畑作民的農耕文化があり、その両極を挟んで、無数といってよいほどの人々による長い歴史を通しての、主体的選択と支配的強制とがあったこと、その事実の存在そのものが農耕を基盤とした民俗というものであったことを主張しなくてはならない。**(223頁)

坪井氏は次のようにも書いている。実に手厳しい指摘だ。

**おそらく多くの民俗研究者は、筆者が指摘している点に関して、すでに疑問を抱き続け苦悩してきたと考える。しかし研究者が組織化され、組織によって認定された公式がいったん定着してしまうと、よほどの勇気がある者でない限り、公式に対する批判なり反仮説を提唱することはむつかしい。学問の停滞と形骸化、腐敗はそこから生まれてくるのである。**(223,4頁)

天孫の瓊瓊杵尊が降臨した時、稲作が地上にもたらされた、と記紀神話にあるから、そこを源流とする稲作単一文化論の流れが観念としてできていて、民俗学は、その流れに乗ったということもあるのかもしれない。


このところ読書は二減二増、二減三増で、積読状態が解消しない。『イモと日本人』と『稲を選んだ日本人』を読み終えたが『Y字路はなぜ生まれるのか?』と有吉佐和子の『青い壺』(文春文庫)が増えた。


 

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「イモと日本人」を読む

2025-02-15 | g 読書日記


 速読で事足りる流動食のような文章で書かれた本もある。よく噛まないと食べることができないような読み応えのある本もある。『イモと日本人 民俗文化論の課題』坪井洋文(未来社1979年12月25日第1刷発行、1983年1月第8刷発行)は後者。

本書は、松本市内の古書店・想雲堂で買い求めていた。しばらく積読状態だったが、ようやく読み終えた。本書の内容を帯の**単一文化論へのアンチテーゼ**というコピーが的確に表している。

「縄文時代と弥生時代はどんな時代だったか、簡潔に言うと?」 このような問いには、「狩猟採集の縄文、稲作の弥生」と答えるのでは。問うた人は「正解!」と発するだろう。著者の坪井氏はこの答えを否!として、そのことについて本書で論理的に、そして緻密に論考している。

稲作文化起源=日本文化起源論 再考

稲作文化を日本文化の起源と捉え、この単一文化が一元的に発展してきたという考え方に坪井氏は異を唱える。畑作農耕に注目し、水田稲作農耕と等価値があるものと捉えているのだ。

坪井氏は農耕の弥生時代起源論は『記紀』などを典拠とする神話を史実とする史観を肯定的に捉える側に力を与えてきたとし、それが学校教育によって補強されてきたことを指摘する。そして、更に次のように続ける。

**稲作を基盤とした単一文化の一元的発展という形で、単純に日本文化を稲作農耕文化と規定するばかりでなく、稲作にかかわる民俗諸現象の比較を通して、その原型をとらえるという志向を強め、変化の過程の追求に関する民俗的意味の認識が欠落しがちになり、文化の起源論や系統論といった、一義的目的と短絡する面を露呈することがあった。その結果、稲作農耕に先行する農耕技術の存在や文化要素の存在の可能性とか、複数の農耕文化を仮定する視点といった、文化の多様性を考える方向を、その方法自体のなかに持つことがなかったため、文化を構成する諸要素のなかに存在する、稲作農耕文化以外の要素は排除するか、最初から対象とはしなかったのである。**(204頁)

研究対象としてきちんと取り上げらて来なかった畑作文化、畑作儀礼。

坪井氏は稲の生産過程における多様な儀礼において、畑作儀礼的要素は特殊なもの、稲作儀礼の模倣、亜流として扱われた、と説く。「餅なし正月」、正月に餅を搗かなかったり、食べなかったりする行事に注目して、全国にこんなにもあると、数多くの事例を紹介する。餅が主役ではなく、主役はイモ。紹介されている事例やその理由(わけ)を読むと、なるほど、稲ではなく、イモもありなんだな、と納得する。

日本は稲の文化だけではない、イモの文化もある。それも稲と対等な文化として。稲作農耕文化と畑作農耕文化が相互に関係を持ちながら、日本文化を形成してきた、と。このような観点を持たないと日本の民俗文化の多様性を体系的に描き出すことはできない。

しばらく前に読んだ佐々木高明氏の『日本文化の多重構造』のテーマとも重なる論考。





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口の開閉か、角の有無か

2025-02-13 | g 狛犬〇

■ 左右対称を好まない日本人の心性。左右対称形で伝わった寺院の伽藍配置をいつの間にか左右非対称に変えてしまった。長安の都市計画も左右対称だったが、それを手本にした平安京の左右対称の構成も次第にくずしてしまった。




日本最古の本格寺院といわれる飛鳥寺の伽藍配置(①)と法隆寺西院の伽藍配置(②)
「日本名建築写真選集4 法隆寺」新潮社より

やはり、日本人は左右非対称を好むようだ。日本人は月も元々満月ではなく、すこし歪な十三夜を愛でていたという。

狛犬も中国から伝わったが(仏教とともに伝わったということだから、6世紀中ごろ、飛鳥時代)、両方とも同じ姿の獅子だったということだ。その後の経緯をよく知らないが、左右違う姿になり、獅子と狛犬、別々の名前になった。左右対称、左右同じを好まない日本人の心性だろう、シンメトリーの中国からアンシンメトリーの日本へ、狛犬の姿かたちも変化した・・・。

先日読んだ『狛犬学事始』に、下のような一次元的な表が載っていた。宇治市内の22対(44体)の狛犬(獅子と狛犬をまとめて狛犬と呼ぶ)を調査して、頭の角の有無にによって獅子と狛犬に分類した表だ。

①阿・吽が、狛犬・狛犬 1例
②阿・吽が、狛犬・獅子 0例
③阿・吽が、獅子・狛犬  10例 
④阿・吽が、獅子・獅子  11例

上の表を下のように2次元的なマトリックス表にしてみた。断るまでもないが、表で口開は阿、吽は口閉は吽。


口の開閉と角の有無を縦軸と横軸にしてできる4マスに44体を振り分けた。狛犬の設置位置の左右も入れると3次元になるので、省略した。これには2体の位置関係という相対的な特徴より、個体そのものの特徴で判断しようという意図もある。

このマトリックス表で、口開で角無の獅子は右上のピンク、口閉で角有の狛犬は左下のピンクのマスに入る。これは獅子・狛犬を分ける一般的な視点による分類。

『狛犬学事始』の扱いでは、角が無けれは緑色の縦2マスに入る。この場合、口の開閉を考慮しなければ44体のうち32体が獅子で、角有は狛犬で左側の縦2マスで12体。一方、口を開いていれば獅子と判断する場合は、水色の横2マスに入る。結果、44体のちょうど半分の22体が獅子で残り22体が狛犬。

さて、この結果をどう判断するか・・・。

先に、左右対称の長安をモデルにした平安京の都市計画が次第に左右非対称、アンシンメトリーに変化していったこと、寺院の伽藍配置も同様であったこと、更に月を愛でるのも中国は満月、日本は元々、歪んだ十三夜だったことを述べた。

左右対称を好まない日本人の心性は獅子・狛犬にも反映されていると考えたい。心性は個々人のものではなく、日本人の総体としてのものだから、時代とともに変わるというようなことはないだろう。

そうであれば、どの時代においても、狛犬は2体同じではなく、特徴を変えて、違う動物に造形されていると考えるのが妥当ではないだろうか。このことから、獅子・狛犬はほぼ同数になると推測される。

ほぼ同数になるような視点をこの結果から逆に探す、ということもできるのではないか。表③から、獅子か狛犬かを見極める、そのような視点は口の開閉ということになる。


茅野市宮川 酒室神社 2023.06.04
開口角有、向かって右側設置の「獅子」

補足として、前稿から次のくだりを引きたい(少し加筆した)。**参道狛犬の多くは石造だ。石造では角は折れやすい。制作時、あるいは運搬時、施工時と折れてしまう可能性はどのフェーズでもある。角が折れてしまった狛犬を発注者が受け取らないケースが結構あったのではないか。瑕疵だと指摘されれば、つくり直さざるを得ないのでは。それで、石工は角をつくらないことも少なくなかった、とは考えられないだろうか。** 
また、狛犬(獅子・狛犬一対、の狛犬)は想像上の動物であるため、姿かたちはきちんと定まらない。従って、角が必須ということでもなかったのではないか。狛犬の姿かたちが多様なのも、このことに由るだろう。

以上のことから、ぼくは、獅子か狛犬か判断する場合、角の有無ではなく、口の開閉に依拠したい。


※ 最後の一文の通り、本稿は自分自身の判断根拠を自省するために書いたものであることをお断りします。

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「狛犬学事始」を読む(改稿)

2025-02-13 | g 読書日記


『狛犬学事始』ねずてつや(ナカニシヤ出版)

広く浅く総論 狭く深く各論 
狛犬学事始』という書名から、ぼくは狛犬(獅子・狛犬2体まとめた呼称 以下同じ)の世界の入門書として、その世界を総論的に説いた本だろうと思って、内容を確認することなくネットで買い求めた。本書の奥付に1994年1月20日 初版第1刷発行、2012年6月10日 初版第7刷発行と記されていることから、よく読まれていることが分かる。

本書で扱われているのは主として宇治市の狛犬を中心に京都府南部の狛犬だった。エリアを限定して詳細に調べたものを全国的に統合することで、全体像を明らかにしようとする大きな構想があって、その事始ということと解するのがよさそうだ。著者、ねずさんは『京都狛犬巡り』『大阪狛犬の謎』という本も出しておられる(本書の帯による)。

本を読んでいて、「なるほど!」と思うことがよくある。書かれている内容について、知らなかったときや納得した時など。本書を読んでいて、なぜ、どうして? と思うことが何回かあった。やはり、マニアックな世界は他人(ひと)の理解の及ばないところにあるのだ。

研究対象は参道狛犬 
**「神社等の参道をはさみ、その両側に設置された一対の狛犬」を研究対象とする。**(10頁) 「え、どうして?」
研究対象を参道狛犬に限定し、神殿狛犬を取り上げないのは、なぜ? 

狛犬は仏教とともに仏の守護獣として大陸から日本に伝わったというから6世紀中ごろ、飛鳥時代のことだ。この頃は獅子一対、左右同じ姿だったようだ。それが獅子・狛犬という日本独自の組合せになっていくのは平安時代だという。獅子・狛犬のことは清少納言も『枕草子』に書いている。だが、紫式部は『源氏物語』に獅子・狛犬のことは書いていない。ぼくが読んだ現代語訳の記憶(もうかなり薄れてきているが)をトレースしても狛犬は登場してこない。

冗長になった。はじめ神社の狛犬は神殿内に置かれていた。それが時代が下るに従って、神殿の縁に置かれ、やがて神殿から完全に屋外に出て、参道に設置されるようになる。神殿狛犬から参道狛犬へ。

ねずさんは、なぜ、このプロセスの前半の狛犬を取り上げなかったのだろう・・・。先に書いたことを繰り返すが、マニアな世界は他人(ひと)の理解を越えたところにあるから、これは愚問とするしかない。

ねずさんは、神殿狛犬を研究対象としない理由を次のように書いている。**神殿の奥深くに眠っており、我々が簡単に接することができないのもその理由の一つだが、それ以上に「民衆の願い」を感じさせないのである。支配者か、それに近い人物の財力により、腕の立つ名人上手に造らせたものというイメージが強すぎるのである。**(17頁)

確かに神殿狛犬は簡単に接することはできない。近くで観察することもできない。ましてや寸法を測るなどということは到底無理。研究対象から外す一つの理由だと、ねずさん。

   
上の写真は、社殿の中をそっと覗いて、狛犬にズームインして撮った。これはマナー違反だろう。

角の有無 狛犬に角あり、獅子に角なし 
ねずさんは狛犬の角の有無について、**話を原点の戻し、単純化することにする。狛犬と獅子との違いを検討するから例外が出てくるのだ。**(102頁)ということで、**頭に角があるものを狛犬と言い、角がないものを獅子と言う(狭義)。**(103頁)としている。2体どちらにも角がなければ両方とも獅子ということだ。「でも、どうして?」


茅野市宮川の酒室神社 2023.06.04

角がどちらにも無くても、社殿に向かって右側に配置され、口を開けている阿形が獅子で、左側に配置され、閉じている吽形が狛犬だと一般的には言われている。でも、図③のように、そうでない場合があって、あれこれ考えるのが楽しいのに・・・。

図③の狛犬は向かって右側に設置され、阿形なのに、角がある。これを角があるから狛犬、とぼくは割り切れない。まあ、趣味の世界だから、人は人、自分は自分と割り切らなくてはいけないのだろう。人の世界をのぞき見て、自分との違いから、自省することはもちろん可。

角の有無だけで獅子か、狛犬かを判断するのなら、②は両方とも獅子なのだろうか。参道狛犬が対象であって、②のような神殿狛犬は対象外だから関係ないということなのだろうか? 

平安時代末期の成立と考えられている『類聚雑要抄』という書物がある。


国立国会図書館デジタルコレクションより

獅子・狛犬が図解され、簡潔に特徴が記されている。

左側(神殿に向かって右)獅子 色が黄色で口を開いている
右側(神殿に向かって左)狛犬 色が白く、口を閉じている 
図中には角について記されていない。


『諸職画鑑』北尾政美(鍬形蕙斎)1794年(寛政6年) 
 国立国会図書館デジタルコレクションより

江戸時代、寛政6年に刊行された『諸職画鑑』には③とは逆で、右の獅子に角があり、左の狛犬に角はない(代わりに宝珠がある)。このように判断するのは、獅子は向かって右で阿形、狛犬は左で吽形だということを前提にしているから。で、④の図では右の獅子に角あり、左の狛犬に角なし、となる。

角なしが獅子、角ありが狛犬と判断すると、右が狛犬、左が獅子で、阿形、吽形で判断するのとは逆になる。

ぼくは『類聚雑要抄』の図の獅子と狛犬の特徴の記述に注目したい。角の有無より、口の開閉で判断するのが妥当ではないか、と思う。

右か左かは混乱しやすい。社殿を背にして見るか、社殿に向かってみるかで左右逆になるので。だから、右か左かは必ず(社殿に)向かってというように注記する必要がある。本来は『類聚雑要抄』の図のように社殿から見た左右。 

参道狛犬の多くは石造だ。石造では角は折れやすい。制作時、あるいは運搬時、施工時と折れてしまう可能性はどのフェーズでもある。角が折れてしまった狛犬を発注者が受け取らないケースが結構あったのではないか。瑕疵だと指摘されれば、つくり直さざるをえないのでは。それで、石工は角をつくらなくなった、とは考えられないだろうか。だから、角の有無を獅子か狛犬かの判断根拠にするのは妥当ではないのではないか、とぼくは思う。このことについて、稿を改めて書きたい。

繰り返すが、右が獅子、いや獅子は左じゃないか、とあれこれ考えるのが楽しいのだ。

角の長さの計測 
ねずさんは狛犬の角の長さを測るという。『狛犬学事始』にそのベスト5を載せている。そう、この辺りがマニアなところ。ぼくは角の長さを測ろうとは思わない。そこまで関心が向かない。角の長さを把握してからの展開がイメージできない。第一、台座に登らないと角の長さが測れない場合が少なくない。これをするのは躊躇われる。脚立を持参されているのかも? さげ振りも持参されているとのことだから調査が本格的だ。他にも狛犬の全長とともに台座の寸法を測ったり、と、なんともマニアな調査。ぼくの場合は、まず、お参りして、狛犬をあちこち観察して写真を撮って、おしまい。

歯の観察から食生活を知る 
もっとマニアックなのは狛犬の歯を観察して、その形などから食生活を調べていること。これは凄いとしか言いようがない。

本書を読んで、さぼっていた狛犬めぐりを再開しようと思った。本書に詳述されていた尻尾をぼくもこれからはもっときちんと観察しよう。


 

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神殿狛犬 参道狛犬

2025-02-11 | g 狛犬〇


 ぼくが持っている『徒然草』(岩波文庫)の奥付を見ると、昭和44年(1969年)6月10日 第52刷発行 となっている。読んだのは随分昔、55,6年も前のことだ。今も忘れずに覚えているのは第109段の高名の木のぼりの「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」ということば(表記はこの文庫87頁による)。油断大敵という教訓だと理解している。それから、仁和寺にある法師の教訓も内容は覚えている(過去ログ)。

『徒然草』に狛犬が出てくることも、いつごろからか知っていた(第236段)。

ある年の秋、聖海上人が大勢の人を誘って丹波の出雲神社を参拝した。**御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子のたちやう、いとめづらし。ふかき故あらん」と涙ぐみて(後略)** (168頁)

獅子・狛犬がお互い背を向けて据えられている様を見た上人は、「大変珍しい。これには深いわけがあるのだろう」と感激して涙ぐむ。同行者たちにそのことを伝えると、「これは都へのみやげ話にしよう」などと言っている。で、上人がものをよく知っていそうな神官に、このような据え方には由緒があるのでしょう。そのことについて、お聞かせ願えませんか、とお願いしたところ、「いたずらっ子たちが向きを変えてしまったんですよ」と言って、元のように据え直して行ってしまった、という話し。

ねずてつやさんが『狛犬学事始』(ナカニシヤ出版1994年初版1刷、2012年初版7刷)でこの狛犬を取り上げていた。塩見一仁さんの『狛犬誕生』(澪標2014年)でも取り上げられている。

ねずさんはこの段を描いた学習マンガを2冊、江渡大輔・園田光慶著『古典まんが徒然草』と『赤塚不二夫のまんが古典入門⑦徒然草』を取り上げ、どちらも参道狛犬の扱いで、描かれているのは台座に据えた石造の狛犬であることを紹介している。ぼくも図書館でマンガ日本の古典17の『徒然草』バロン吉本(中央公論新社)を見たけれど、やはり石造の参道狛犬が描かれていた。


神殿狛犬 京都の河合神社の境内社・貴布禰神社社殿 2015.12

『徒然草』の獅子・狛犬は上の写真のように神殿の縁に据えられた神殿狛犬と解さないといけない。

聖海上人たちが見た時は、いたずらっ子たちが右の獅子を右を向いた状態に、左の狛犬を左を向いた状態に据え替えてしまっていたというわけ。この据え方に由緒があるわけでもなんでもなく、単なる子どものいたずら。あちゃー、このことが分かったとき、上人はどうしただろう。

3冊のマンガには参道狛犬が描かれているが、石造の狛犬は(簡単には)動かせない。参道狛犬は江戸時代になってから普及し始めているようだ。『徒然草』が書かれたのは鎌倉時代末期ころとされている。その頃はまだ、参道狛犬は無かった、ということではないか。

「御前なる獅子・狛犬」と文中にある。御前は社殿の直前であって、仮に参道に設置されていたとすれば、御前ではなく別の表現をするだろう。また、神殿内に設置されているのなら、子どもたちのいたずらの対象にはならないだろう。神殿狛犬は木で作られたものが多い。大きさにもよるが、軽くて子どもたちにも動かせるし、神官が持ち上げてくるっと向きを変えることもできる。

漫画家も編集者も狛犬と聞いて、参道に設置された石造の狛犬しか浮かばなかったのだろう。確かに神社に詣でても、参道狛犬しか気がつかない、ということが普通だろうから・・。『徒然草』でも聖海上人に言われるまで、同行者は狛犬に気づいていなかったように。


赤塚不二夫が学習マンガに描いた狛犬の画像がありますが、掲載は控えます。ネット検索すればすぐ見つかります。

さて、本を読まなきゃ。


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「古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」を読む C5

2025-02-08 | g 読書日記


『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会  編(人間社文庫 2017年9月15日初版1刷発行、2024年1月28日7刷発行)を読んだ。

巻末に古部族研究会について、次のように紹介されている。**学生時代からの知り合いで、ともに藤森栄一の著作などから諏訪に関心を抱いていた田中 基と北村皆雄が新宿の喫茶店プリンスで意気投合し、野本三吉と合流して立ち上げた研究会。1974年7月に在地の研究者・今井野菊を訪ね、1週間泊まり込んで教えを乞うた伝説の糸萱合宿で本格的に始動。**(後略) 北村皆雄さんは話題のドキュメンタリー映画『鹿の国』のプロデューサー。

本書には古部族研究会の野本三吉、田中 基、北村皆雄、それから諏訪大社と関連する信仰の研究に邁進した今井野菊、藤森栄一に師事した考古学者の宮坂光昭、以上の5名が執筆した論考が収録されている。

以下、読んでいて付箋を貼った箇所からの引用。

**諏訪神社の文化というのは、洩矢民族を中心とした、いわば原始狩猟文化と、出雲系の建御名方命を中心とした、原始農耕文化の混合であり、その重層といえるのだが、そうであってもなお、山岳民族としての洩矢族の狩猟文化は、かなり色濃く、そして特異な形で現在まで続いているといっても過言ではないのである。**(「地母神信仰の村・序説」野本三吉 47頁)異文化の重層と混合。

**古代の諏訪の信仰も、〈石〉と〈木〉の崇拝でいろどられている。**(「「ミシャグジ祭政体」考」北村皆雄 72頁)
**〈木〉を伝って天降る精霊が〈石〉に宿り給うという古代観念は、山国諏訪も、海の彼方の南島においても共通しているようである。**(同上 78頁)
**人々は、大地にあらゆる力を凝集しようとしたのではないか。地面から直立する石棒、それに降りてきて宿る精霊、それによって大地が力を得て、新しい存在が生まれ出てくると信じていたのではないだろうか。**(同上 96頁)聖なる石棒と母なる大地との婚姻。

本書に収録されている宮坂光昭氏の「蛇体と石棒の信仰 ――諏訪御佐口神と原始信仰――」はなかなか興味深い論考だ。

この中で蛇が取り上げられ、日本原始信仰は、蛇の形から男根を、脱皮するその生態からは出産が連想されるために蛇を男女の祖先神(おやがみ)としたと思われるという説を紹介している。(138頁)そして、頭上にまむしを乗せた土偶の図を載せている。(139頁)

このくだりを読んで、縄文のビーナス(茅野市尖石縄文考古館)の頭部のうずまき(写真①)はとぐろを巻いた蛇ではないか、と思い至った。

縄文のビーナスを観た2015年6月27日に、このうずまきについて、次のように書いていた・・・。**頭の上部はなぜか平です。そこにうずまきがあります。このデザインの意図を作者に訊いてみたいです。なんとなく恣意的にこうしたのか、何か意味があるのか。意味があるとしたら、どんな? **




縄文中期(およそ5,000年前) 身長27cm 体重2.1kg 国宝(平成7年)


宮坂光昭氏は「蛇体と石棒の信仰」で次のように考察している。**蛇は生命力の強い、また繁殖力の旺盛な動物である。九月に穴に入り地中の暗い所で冬眠し、春には穴を出て活発に動きまわり、そして脱皮して成長してゆく。この姿を、古代の人々は、冬眠が理想的な物忌みの姿にみえ、春に穴から出た姿と見事な脱皮成長を、驚嘆すべき生命の更新現象とみたものに違いない。**(148頁)

宮坂氏は次のようにまとめている。**人間自身も蛇と同様な行為により、蛇と同じく物忌みと生命の更新ができると考えた、いわゆる類感呪術というものが諏訪神社の蛇体信仰になったものであろう。**(148頁)

映画『鹿の国』で再現された御室神事。なぜこの神事は冬に行わていたのか? 

御室神事はこの蛇の生態を模しているのか、それで冬なのか、なるほど!

出雲系の侵入神である建御名方神と八坂刀売神。その下の厚い古層の自然崇拝、自然信仰。蛇体信仰・石棒信仰・ミシャグジ。

諏訪は深い。


 

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一向に減らない積読本

2025-02-07 | g 読書日記


2025.02.07


2025.01.29

■ リビングにちょこっと設えてある書斎コーナー。
その端っこに積読状態になっている本。
1月29日は6冊だったが(写真下)、2月7日現在9冊(写真上)。
一向に減らない積読本。


『狛犬学事始』ねずてつや(ナカニシヤ出版)を早く読みた~い。
『大江健三郎前小説全解説』尾崎真理子(講談社2020年 図書館本)も読まなきゃ。
うれしい悲鳴ってこんな時にも使うことができるのかな。


 

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「諏訪の神」を読む C4

2025-02-07 | g 読書日記

360
『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』戸矢  学(河出書房新社2014年12月30日初版発行、2023年1月30日6刷発行)を読み終えた。

論より証拠。さらに、証拠を以って論ぜよ。つまり、確たる証拠を示して、論考を展開していくこと。このようなことが本書が扱うようなテーマで、できるものだろうか、やはり無理なのだろうか・・・。

松本清張に『火の路』(文春文庫 2021年上下巻とも新装版第3刷)という長編小説がある。松本清張が飛鳥時代の謎の遺跡に関する自説を主人公、ある大学の史学科助手(助教)の若い女性に語らせる。酒船石や益田岩船、猿石など飛鳥の謎の石造物がペルシャ(古代イラン)に始まったゾロアスター教と大いに関係があるとする論考だが、大変おもしろく読んだ(初読は1978年7月)。

ぼくは、『諏訪の神』も『火の路』と同じように、ものがたりとして読んだ。本書の性急な結論出しも、ものがたりであれば気にはならない。大変おもしろかった。

原始農耕文化の弥生のモレヤ神と狩猟文化の縄文のミシャグジ。これが混合・重層していた諏訪。そこに入り込んできた建御名方神と八坂刀売神。諏訪信仰は縄文の古層にまでつながっている・・・。

やはり諏訪は深い。**弥生時代以降に成立した神道と、それ以前に縄文時代から連綿と続く土俗信仰が共存併存、あるいは融合混合して、なんとも不可思議な状態にある。**(1頁 )と著者の戸矢氏は諏訪についてまえがきに書いている。戸矢氏はこのような状態にある諏訪の縄文の神・精霊に迫る。

縄文人の自然を畏怖する心、自然を崇拝する心がミシャグジをいう精霊を生み、それを巨石や巨木に託した。本書を読んでぼくはこのように理解した。

戸矢氏はミシャグジはミサクチだろうとし、その意味を「境目」、「割く地」と解して、諏訪湖が巨大断層の真ん中にできた臍であることから、ミシャグジを地震の神であろうとしている(171頁)。

第五章の「「縄文」とは何か」では、「巨大断層を封じる諏訪の神」「「まつり」の本質は「祟り鎮め」」「神が宿るもの」などについて論じられる。この中では「巨大断層を封じる諏訪の神」がおもしろかった。

**断層の中心に鎮座して大地を押さえ込む大いなる力、あるいは二度と大災害が起こらないよう祈りを込めてここにいざなわれた強力な神・建御名方神。**(185,6頁)
**諏訪を中心に、とりわけミシャグジ信仰が目立つのは、その大地震によって出現した奇岩巨石への畏敬があったからだろう。**(186頁)

戸矢氏も本書で触れているが、諏訪は大きな断層が交叉しているところだ(過去ログ)。大きな地震が縄文人も弥生人も、その前も後もいつの時代の人たちも驚かせただろう。もちろん現代人も。自然への畏怖、地震に対する恐怖感。

建築工事や土木工事に着手する時に行われる「地鎮祭」。この神事を執り行う現代人のこころは古代の人たちのこころと同じなのだろう・・・。


280
『神と自然の景観論』野本寛一(講談社学術文庫2015年第7刷発行)

この本が『諏訪の神』の第五章の参考資料として巻末のリストに掲載されている。ぼくはこの本を2020年9月に読んだが、興味深い内容だった。

**日本人はどんなものに神聖感を感じ、いかなる景観のなかに神を見てきたのだろうか。(中略)古代人は神霊に対して鋭敏であり、聖なるものに対する反応は鋭かった。「神の風景」「神々の座」は、常にそうした古代的な心性によって直感的に選ばれ、守り続けられてきたのである。**(6頁)



『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(人間社 2017年9月15日初版1刷発行、2024年1月28日7刷発行)
『諏訪の神』を読んだだけでは、深い諏訪を理解することは到底できない。この類書を読むことにした。それから更に「諏訪」に入り込むかは未定。


 

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松本城 本来の登城ルート

2025-02-06 | g 歴史的建造物〇

徒然草第52段の「仁和寺にある法師」の教訓は松本城にもあてはまる。


 現在、松本城の二の丸にある旧松本市立博物館の解体工事が行われている。工事に伴い、外堀南側の土橋を成型鋼板で仕切って資材搬入・解体材搬出などのための通路が確保され、松本城を訪れる観光客用の通路がかなり狭くなっている(写真①)。このため、この通路を通らず、本来のルートへ迂回することをすすめる案内板が設置されている(写真②)。


本来の登城ルート 太鼓門を通ってみませんか?

外堀南側の土橋は元々無く、大名小路(現在の大名町通り)から外堀東側の土橋へ。太鼓門桝形を抜けて二の丸へ入るのが本来の登城ルートだった(写真③)。

現在、ほとんどすべての観光客は大名町通りを北端の交差点まで進み、からそのまま真っ直ぐ土橋(明治24,5年に造られた*1)を通って二の丸へ行く(写真①)。だが、写真③に赤いラインで示されている本来のアプローチをしないと空間構成がよく理解できないし、配置の意図、演出(*2)も分からない。




太鼓門二の門(高麗門)


太鼓門一の門(櫓門)


太鼓門桝形

外堀東側の土橋を通り、太鼓門桝形を構成する太鼓門二の門を潜り、太鼓門一の門(櫓門)へ。


太鼓門を通って、二の丸庭園に至る。これが本来の登城ルートだが、もともと無かった外堀南側の土橋がこのルートをショートカットしてしまっている。


土橋から黒門二の門(高麗門)を見る。門の奥、左側が券売所。


黒門一の門(櫓門)


観光客は本来の登城ルートの魅力的なシークエンス(視点の連続的な移動に伴って変化するシーン。回遊式庭園はその実例)を味わうことなく、内堀の土橋を通り、黒門一の門(写真⑧)、券売所から黒門櫓門(写真⑨)を抜けて本丸の天守(写真⑩)へと移動する。全く以て、残念というほかない。


撮影日:2017.04.17 左下の太鼓門を通るのが本来の登城ルート 右側後方に常念岳他、北アルプスの峰々が見えている

さて、徒然草第52段の「仁和寺にある法師」。

仁和寺のある僧が年取るまで岩清水八幡宮を参拝したことがないことを残念に思っていた。ある日、徒歩で出かけた。だが、山の麓の付属の寺・極楽寺とその隣の社・高良を参拝しただけで、山の上にある肝心の岩清水八幡宮を参拝することなく帰ってきてしまった・・・。

松本城に行ったものの、太鼓門を通る本来の登城ルートの魅力的なシークエンスを味わうことなく、天守を観ただけで帰ってきてしまった・・・。

松本市では大正8年に埋め立てられた(*1)外堀の南・西側の復元事業を進めている。外堀を元の姿に戻すために。ならば、元々無かった土橋も撤去すべきではないか。そうすれば、皆、本来の登城ルートで天守に向かうことになるから、上記のようなことは起きようがない。それが、観光客に対する配慮、ということになるだろう。


*1『松本城のすべて』「松本城を世界遺産に」推進実行委員会  記念出版編集会議(信濃毎日新聞社)による。
*2『松本景観ルネッサンス』(2014年)で、著者の溝上哲朗さんは天守へのアプローチ動線の計画で、内堀の土橋まで来て、初めて常念岳、北アルプスの景観を目にすることができるという演出をしているということを説いている。実に説得力のある論だ。


**その光景は本丸御殿にあと一歩までまでたどり着いたものへの最後のサプライズだったのである。**(16頁 写真①) 過去ログ


 

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