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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

雨の休日

2007-09-30 | g 読書日記



■ 雨の日曜日、肌寒い朝。先日までの厳しい残暑がうそのよう。

「赤」でデビューした雑誌yomyom、今回は「紫」。写真の色の再現性がよくない、実際はもっと赤味がかった色。

川上弘美の短篇だけで680円払ってもいい。山本文緒、角田光代、阿川佐和子、恩田陸、金原ひとみ、島本理生、森まゆみ、松本侑子、三浦しをん・・・、敢えて女性作家だけ挙げたが豪華。この雑誌はお買い得だと思う。広告がほとんど無くてスッキリしているところもいい。

今日は雨降り、特に予定なし。ならば読むしかない。『彼岸過迄』とこの雑誌を持ってどこか落ち着くところに出かけよう。コーヒー飲みながら小さな幸せに浸ろう・・・。

ところで川上さん「濡れたおんなの慕情」って、今回は一体何を書いたの?

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生活雑記

2007-09-27 | g 読書日記



 プロ野球、ペナントレースも終盤。阪神タイガースは怒涛の10連勝の後まさかまさかの8連敗(9/27現在)。 優勝の可能性が無くなった。作家の小川洋子は大のタイガースファンだそうで、球場に足を運ぶこともあるらしい。

『博士の愛した数式』には江夏の背番号「28」のことが出てくる。球団から提示された1、13、28の中から江夏が選んだ28は完全数(連続した自然数の和で表すことができて、28は1+2+3+4+5+6+7だという説明が出てくる)だという。

北杜夫もタイガースファン。エッセイによくそのことを書いていた。今頃ガックリきているだろう。昨晩は巨人が対中日戦、優勝争いの天王山に勝利した。ま、別にどうでもいいことだが。

 一昨日は中秋の名月だった。この夜は満月だとずっと思っていたが、調べてみると1日か2日後が満月という年の方が多い。で、今夜が満月。江戸時代までは夜は真っ暗、月が今より明るく感じたに違いない。

そういえば先日打ち上げた月探査衛星「かぐや」はどうしただろう・・・。

 彼岸過から『彼岸過迄』を読み始める。何故だか漱石を読みたい!と思った。別に何でもよかったが、彼岸に因んでこれにした。

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「光抱く友よ」

2007-09-24 | g 読書日記


 芥川賞の選考委員を務める作家のうち、高樹のぶ子さんの作品は読んだことがなかった。20年以上も前に芥川賞を受賞した『光抱く友よ』新潮文庫をようやく読み終えた。

優等生の相馬涼子とアル中の母親と暮らす「不良」の松尾勝美、二人の女子高生の友情物語。

具体的な作品は浮かばないが、このような組み合わせは特にめずらしくはないように思う。でもいまどきの小説では取り上げないテーマのような気がする。

**屋根すれすれに飛んできた黒い小さな鳥が、見えない空気のかたまりをひょいと乗り越え、校舎の向こう側に落ち込んだ。**(途中省略)**ガリ刷りしたばかりの会計報告書のインクの匂いが、夕刻の冷たい大気に混じって鼻をついた。** 小説の書き出しを読んで、しばらく積読状態にしていた。こういう表現はどうも好きになれない。

そのまま書棚に納めてしまおうかとも思ったが、長編でもないので、何とか読み終えた。涼子が松尾の家に遊びに行って、母親との荒んだ生活を目の当たりにするあたりの描写は、この作家の凄さを感じさせた。

『アサッテの人』の選評で高樹さんは「細部のリアリティ、生理感覚」をこの作品の成功理由に挙げている。この評価は彼女自身の作品『光抱く友よ』にもあてはまる、読了後そう思った。 

やはり自身の文学観に合った作品を選ぶ、そういうことなのだろう。
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音楽を「考える」

2007-09-22 | g 読書日記



 私の乏しいクラシック体験。ストラヴィンスキーの「火の鳥」を新宿の厚生年金ホールで昔聴いて感動したことを覚えています。読売日響、指揮者は忘れました。 

早速レコードを買って聴いてみたのですが、さっぱりダメでした。やはり演奏は一期一会というか「一回性」ということなんでしょう。

『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 先週末東京に向かう電車の中で読みました。

脳科学者の茂木さんと作曲家の江村さん(この方は工学部出身、作曲は独学とのこと)の充実の対談が収録されています。残念ながら音楽には全く疎いので内容がきちんと理解できませんでしたが、音楽の世界は深い!ということだけは感じることができました。

音楽に関する本など、普段手にすることは全くありません。この本を何故買い求めたのか・・・。音楽の「美しさ」というミステリーなどという帯のコピーに惹かれたのかも知れません。



ストラヴィンスキーのCDがありました。今朝バレエ音楽「春の祭典」を聴いてみました。

やはりこの作曲家の曲は派手というかドラマチックというか、じっくり味わうという雰囲気ではありませんね、「激辛カレーな雰囲気」って変なたとえかもしれませんがそんな感じです。

秋の日の午後、モーツァルトが静かに流れる部屋で紅茶を飲みながら江國香織を読む・・・、いいですね。でも中年オジサンな私からは遠い世界、日本酒片手に八代亜紀、「週刊現代」辺りがいいところです。


 

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オリジナルな寸法体系

2007-09-21 | g 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える〇




「ル・コルビュジエ展」のショップでポストカードを2枚買い求めました。

下のカードにはコルビュジエが考案した有名な寸法体系「モデュロール」が表現されています。身長が183cm、長身の男がバルタン星人のような腕を上に伸ばしています。その高さが226cm、へその高さがちょうどその半分。

「モデュロール」は人体の寸法を基準にしているのですが、そこにはフィボナッチ数列(1、1、2、3、5、8、13、21、・・・ 項が前2項の和として定義される数列)も関係していることも知られています。

自然界にはこの数列に沿って成長する動植物(このような場合は成長?生長?)がありますが、このカードにも表現されている巻き貝もその例です。隣り合うフィボナッチ数の比は黄金比に収束することも知られています。

コルビュジエは自ら考案したこの寸法体系に基づいて建築の寸法を決めたそうです。ま、全てそうなっているわけではないでしょうが。

コルビュジエ展で観た休暇小屋の天井高も226cm、確かに低い天井でした。この小屋には他にも正方形の窓の寸法や家具の位置などにモデュロールが使われているそうです。

恣意的に決められているように思われるコルビュジエの建築の寸法がこのような知的な寸法体系に基づいて決められている、というのは驚きです。

コルビュジエの絵も自由に描かれているようにみえて、このような数学的なルールに基づいて形や配置が決められていると聞いたことがあります。上のリトグラフにもそのようなルールが隠されているかも知れません。

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心の深層を知る

2007-09-17 | g 読書日記



 アートな週末東京 2

東京の街を一望する超高層ビル上階のレストランで友人と食事を済ませたあと、東京オペラシティの1階で行なわれたトークサロンに参加した。テーマは「建築と心理学をつなぐ」。

建築家の連健夫さんは設計の際、発注者にコラージュ(切り貼り絵)をしてもらい心の深層、無意識の中の想い、願いを読み取って設計に反映させる手法を10年間実践してきた方。

心理療法の現場では「箱庭療法」が知られているが、クライアントの心の深層を知る方法として「コラージュ」も同類だろう。明快な方法だと思う。

コラージュのなかの特徴的なもの(例えば芝の斜面に作られた滑り台や十字架など)を直喩的に建築に採用することもしておられる。

コラージュを前にして会話を交わしながら心の奥底を読み解く作業、そしてそこに在る願いを建築に反映し具現化する・・・。

興味深い話を伺った。

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「忘却の河」

2007-09-13 | g 読書日記



 「私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去る言われているものだ。しかし私にとって、忘却の河とはこの掘割のように流れないもの、澱んだもの、腐って行くもの、あらゆるがらくたを浮かべているものの方が、よりふさわしいような気がする。」

「私は(中略)忘却の願いを籠めて大事に保存して来た小さな石を投げ捨てた。それが私の人生の一つの区切りであることを望んで、それからの一日一日を生きたいと願った。しかし石は沈んでも記憶はやはり意識の閾の上を、浮くともなく沈むともなく漂っているのだ。」

心の奥底に沈んでいる消そうにも消せない遠い昔の記憶、三途の河を渡るときまで消すことができない記憶。男の子供を身籠ったのを恥じて海に身を投げて死んだ娘の記憶・・・。

暗くて孤独な世界・・・。過去の罪を捨て去ることは出来るのだろうか、魂の安寧を得ることは出来るのだろうか。男が最後に行き着いた場所とは・・・。

26年前に読んだこの小説の再読を終えた。7章からなるこの長編小説の最終章をなんとなく覚えていた。 この最終章を明け方読んだが、涙がこぼれてしかたがなかった。 涙の理由(わけ)は敢えて書かないでおく。


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「大好きな本」

2007-09-11 | g 読書日記


『大好きな本』 ときどきチェックする川上弘美さんのファンサイトに新刊のこの本が紹介されていた。

朝日、読売両紙に掲載された書評をまとめた本。どんな本を取り上げているのか興味がある。早速書店で探してみよう。

今夜はこの辺で切り上げて『忘却の河』に集中することにする。
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「忘却の河」

2007-09-09 | g 読書日記


『日本の景観 ふるさとの原型』を読み終えて、新潮文庫で復刊された福永武彦の『忘却の河』を読み始めた。前にも書いたが、この本の帯には「人生で二度読む本」とある。この小説を写真左の文庫で読んだのが1981年の9月、あれからもう26年が過ぎた。

いつか再読したいと思っていた本、復刊がうれしい。どんな本でも読む度に感想は違うはず。今度はどんな感想を抱くのだろう・・・。復刊本には著者の息子、池澤夏樹のエッセイも収録された。

やはり少なからぬ読者がこの本の復刊を願っていたということなのだろう。今月は他に江藤淳の『文学と私・戦後と私』が復刊されている。帯には「不朽の名作が続々登場!」とある。柴田翔の『贈る言葉』もこのシリーズで復刊された。これからも楽しみにしたい。

昔の作家は作品を創ることに人生の全てを費やした。人生の全てを負うた作品こそ秋の読書に相応しい。
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風の盆

2007-09-08 | g 読書日記



『風の盆恋歌』高橋治/新潮文庫を探していて、村上春樹していたとき(って、変な表現)に見つからなかった『ノルウェイの森』が見つかりました。書棚が既に満杯で全ての背表紙を見ることができる状態ではないので、手前の本に隠れた奥の本を探すのは困難なのです。書棚を増設するスペースと資金の余裕も無く・・・。

この『ノルウェイの森』のカバーデザインは赤と緑のクリスマスカラー(確か著者自らデザインした)で知られていますが、手元にある文庫のカバーデザインは違います。最初からクリスマスカラーではなかったんですね。

なんだか通俗的な小説だな、というのが当時の感想だったように思います。一通り村上春樹の長編小説を読み終えたいま、この小説を再読したら印象は違うでしょうが。

 東京の友人が、富山県八尾の「風の盆」を見てきたとブログに書いていました。小説『風の盆恋歌』によって「風の盆」はすっかり有名になって、9月のはじめには全国から見物客が押し寄せるんですね。先日テレビでちらっとその様子を見ました。

小説の解説を歌手の加藤登紀子さんが書いています。**胡弓の甘く悲しい音色、ゆったりとした低い音でリズムを刻む三味の苦みばしった音、そして踊る人たちの軽くてしなやかな、洗練された身のこなし、そしてとりわけ美しい指先。** 

男と女の不倫の物語がこの「風の盆」の街を舞台に展開します。

**「風の盆」の静かな幽玄の世界をもし彼が見たら、何と思うだろう。静かさに陶酔するというこの境地、これはやっぱり、日本人の独特の美意識なのだろうか。八尾に残された神々しい程のこの幽玄の世界、いつまでも古めかしいままに、残ってほしいと思う。** 

おときさんは解説文をこう結んでいます。小説の解説というよりも「風の盆」の観察記です。

友人のブログによると、どうやら観客のマナーがあまりよくなかったらしいのです。想像はつきます。節度を弁えないカメラマン、声高に会話する観光客・・・。

でもアップされた踊り手の後ろ姿の写真を見ると、行って見たいという思いに駆られます。

 

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「日本の景観」を読んで

2007-09-08 | g 読書日記



『日本の景観 ふるさとの原型』樋口忠彦 

単行本(左)で読んだのが1981年、今回文庫本(ちくま文芸文庫)で26年ぶりに再読した。

**広がりのあるところでは背後によるところがないと落ち着かないものである。背後によるところがある場所は、人間に心理的な安心感・安定感を与えてくれる。** と著者は書き、続けて**日本の古くからある集落を見ても、それが盆地や谷や平野であろうとも、ほとんど山や丘陵を背後に負う山の辺に立地している。**と指摘している。

喫茶店のような空間でも地理的なスケールの空間でも心理的な条件は同じ。喫茶店で中央部分の席ではなくて壁際の席を探すのと同様に棲息地も古くは山の辺を求めた、というわけだ。 松本には山辺(やまべ)という地名があるが、地形的な条件にその由来があるのだろう。

著者は別の章で**日本の棲息地の景観、生きられる景観は、凹性、休息性、「隠れ場所」性の支配的な母性的雰囲気をもった景観と位置付けられるわけである。**と結論付けている。

住まいの原初は洞穴、さらに子宮に求めることができるといわれるが、著者も棲息地について同義の指摘をしていると理解できる。

**日本人は自然地形の特性を生活に巧みに組み込むことにより、自然地形と人間生活とがしっくりと調和した景観を生み出してきた、それは日本人の精神的創造物といってよい。**

しかしそれは既に過去のこと。凹性を備えた山の辺の棲息地を離れ平野部に進出して、都市を造った。都市にも山の辺のアナロジーとしての凹型の広場などが安息の場所として必要、ということなのだろう。

そのような観点で例えば「表参道ヒルズ」と「代官山ヒルサイドテラス」とを比較してみると両者の違い、都市環境への貢献度の違いが浮き彫りになる。

うーむ・・・、都市には「子宮」が必要なのだ。

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高山日帰りの記

2007-09-07 | g 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える〇



 昨日は台風9号の影響で断続的に雨が降り続いたが、高山まで車で出かけた。

市内でM邸を見学することができた(外観だけではあったが)。この「方形の家」は建築家吉島忠男さんの代表作。建築関係の雑誌で紹介され、図面は木構造のテキストに掲載されている。木造住宅の傑作だと思う。 

銅板一文字葺きの方形の屋根の軒先に樋は付けられていない。落雪でとれてしまうからだろう。玄関部分のみ樋をつけている例を見かけることがあるが、この住宅では下左の写真のように工夫されている。なるほど、こうすれば雨水を玄関の両側に落とすことが出来る。

また、車庫の部分の幕板を貫通する「ほぞ」は下右の写真のように金属板でカバーしてあり、雨水から保護している。但し小口の方が腐朽しやすいことを考えるとなぜ小口を覆わなかったのかという疑問が残る。高山では母屋や垂木の小口を白く塗って保護することが現在でもごく普通に行われていることを考えると尚更だ。

 

幸運なことに「吉島家住宅」の奥にあるアトリエにお邪魔してご本人にお目にかかる機会を得た。

その際、車庫の黒地のシャッターに描かれたマークは何を表現したものか伺った。クライアントの苗字の一文字をグラフィカルに表現したものだと教えていただいた。先の疑問、なぜほぞの小口をガードしなかったのかは質問しなかった。

吉島さんは、大変気さくな方で、初対面であるのにも関らず丹下健三の事務所で仕事をしていた頃のエピソードなどをいろいろお話いただいた。



「スコピエ計画」についても伺った。それにしても当時はすごい模型をつくったものだ。

短い時間ではあったが、大変有意義であった。

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「冬の水練」再読

2007-09-05 | g 読書日記



 南木佳士の作品では映画化された『阿弥陀堂だより』と芥川賞受賞作の『ダイヤモンドダスト』がよく知られていると思う。

この作家の作品は文庫になる度に買い求めて読んできた。先日書店の文春文庫のコーナーで『冬の水練』を手にした。この作家は身辺に題材を求めた小説やエッセイを繰り返し書いているので、既読作品なのかどうか、よく分からないことがある。この文庫はなんとなく未読のような気がして買い求めたが、自室の書棚に並んでいた。

『阿弥陀堂だより』はパニック障害になった女医が夫とともに信州の田舎に移り住んで、自然の中でゆったりとした日々を過ごすという物語だが、南木さん自身、38歳でパニック障害を発病しやがてうつ病に移行して今日に至っている。

「心身の平穏に勝る人生の目標はもうない」という作家のエッセイ集『冬の水練』を再読した。いくつかのエッセイが集められているが、それらを読み進むと、しだいにうつの症状が改善していく様子がうかがえる。

あるいは以前も書いたかもしれないが、この作家の作品は秋の夜読むのがいい。不安な気持ちの時に読むとこころが落ち着く。これは医者でもある作家が処方してくれる「抗不安剤」だ。

 

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擬態 その2

2007-09-04 | g 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える〇

 擬態 その2を書こうと思うが、考えがまとまっているわけではない。

「透明」とは存在を隠蔽する究極的な状態なわけだが、少しその概念を広義に捉えて、「周辺環境、自然と連続的に繋がる状態」としてもいいのかも知れない。

建築というリアルなモノに「透明」などという状態はあり得ないわけで、緑化による周辺の環境への同化という隠蔽的な擬態、あるいは自然への連続性が現実的な「透明」ということだろう。

この国では人々は自然と親和的な関係を保って暮らしてきた。その住まい、民家は自然素材だけで出来ていた。構造は木、基礎は石、屋根は草、壁は土、床は木または草(タタミ)。建具は木と和紙で出来ている。それで全てだ。


隠蔽的な建築の民家 透明な存在 高知県梼原町にて

自然素材だけで出来ている民家は自然と一体的な存在、連続的な存在だ。つまり透明な存在と見なしていい(写真参照)。

きのこは生育環境がきちんと整ったところでないと育たないという。民家もきのこのような存在だ。地元で採れる自然材料のみを使い、地元の人たちだけで造る。自然に完全に同化した存在、自然と連続的に繋がる透明な存在。

民家は自然の一部だ。私が民家に惹かれ続けてきたのは自然に全く違和感なく溶け込んだその姿、日本人の自然観が反映されたその姿の美しさなのだ、と思う。

繰り返し取り上げている藤森さんの建築も民家と同様に自然と連続的に繋がる「透明な建築」だと、訳のわからないこと(でもないと思うが・・・)を書いて今回は終わりにする。 

注:所謂「透明な建築」とは要するに壁面が透明、つまりガラスでできた建築のことだと、ちょっと乱暴だが、言い切ってしまう。しかしその存在は決して透明ではない。むしろよく目立つ。 今回のように周辺環境に溶け込むという意味で使う透明、透明な建築とは異なる。

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ブックレビュー 2007.08

2007-09-02 | g ブックレビュー〇



 8月にこのブログに登場した本たちのレビュー。1枚の写真をトリミングして2枚に分けて並べた。

9月。読書の秋、今月はどんな本と出合うのだろう・・・。

とりあえず、先日復刊された『忘却の河』福永武彦を再読しよう。この本の帯を先日アップしたが、「人生で二度読む本」とある。昔と読後感はたぶん違うだろう・・・。

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