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透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ブックレビュー 2024.06

2024-06-30 | g ブックレビュー〇


 早くも今年前半が終わる。読書は日常生活の一部、食事と同様毎日欠かせない。6月の読了本は図書館本2冊を含め9冊。

『川端康成 孤独を駆ける』十重田裕一(岩波新書2023年)
2歳で父、3歳で母を亡くした川端康成。川端文学の本質を著者の十重田さんは
**天涯孤独となった川端の、いわゆる孤児の感情は、彼の文学の特色を考えるうえで逸することのできないものである。**(8頁)
**他者とつながり、心を通わすことを強く求める思いが、川端の文学の基盤をかたちづくっていた。**(3頁)と説く。
このような視点を与えられると、川端文学の見通しがよくなる。

『マンボウ家族航海記』北 杜夫(実業之日本社文庫2011年)
『幽霊』『木精』『楡家の人びと』の北 杜夫が・・・。

『伊豆の踊子』川端康成(新潮文庫1950年8月20日発行、2021年7月20日第154刷、2022年7月1日新版発行)
**二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。**(38頁) 踊子が「いい人ね」と言うのが聞こえて、**私は言いようもなく有り難いのだった。**(38頁) **私はさっきの竹の杖を振り廻しながら秋草の頭を切った。**(38頁)
『川端康成 孤独を駆ける』を読んだ後だから補助線を引くことができ、上掲の引用箇所、この小説のポイントにきっちり気がつく。

『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』三砂ちづる(光文社新書2024年)
失われゆく文化の記録。

『飢餓同盟』安部公房(新潮文庫1970年発行、1994年25刷)
難しくて、私の読解力ではまったく歯が立たなかった・・・。

『箱男』(新潮文庫1982年10月25日発行、1998年5月15日31刷)
自己の存在を規定するものは何か、それを手放すとどうなる・・・。安部公房が読者に問うているこのテーマは今日的。

『絶景鉄道  地図の旅』今尾恵介(集英社新書2014年)
地図好き、鉄道好きにはたまらない1冊だと思う。

『恋ははかない、あるいは、プール底のステーキ』川上弘美(講談社2023年 図書館本)
川上弘美が描く世界は、あわあわ、ゆるゆる、ふわふわ。輪郭が曖昧でこのように形容される。それはこの小説でも同じ。

『研ぎ師太吉』山本一力(新潮社2007年12月20日発行、2008年1月25日2刷 図書館本)
ミステリーも恋も中途半端。


**私はゆっくり読書を続けていきたいと思います。** ある方から初めて届いた年賀状に書かれていたメッセージ。ぼくもそうしたいと思う。本の無い生活は考えられない。


『華氏451度』(ハヤカワ文庫)
レイ・ブラッドベリが描いた本が禁制品となった社会はディストピアだ。


 

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「絶景鉄道 地図の旅」を読む

2024-06-29 | g 読書日記


 上高地線の下新駅の駅舎で開かれる古書店『本の駅・下新文庫』で買い求めていた『絶景鉄道  地図の旅』今尾恵介(集英社新書2014年)を読んだ。

この本の著者・今尾恵介さんは地図研究家で地図を眺めていると風景がかなり現実に近く想像できるという。例えば次のように。**たとえば和歌山県の地形図なら、狭い等高線間隔の中に果樹園の記号が規則正しく配置されていれば、急斜面をびっしり埋め尽くしたミカン山であり、そこを二センチおきに等高線を跨いでいく鉄道の記号があれば、二〇パーミルの急勾配を走る列車の姿も思い浮かぶ。いや、和歌山県だと場所によっては梅干しの梅と採るための梅林(同じ果樹園の記号)かもしれないが。**(8頁)

そんな今尾さんが25,000分の1の地形図でイメージする鉄道のある風景。ただ地図が好き、鉄道が好きというだけの私は本書のマニアックな世界にはなかなか入り込めなかったが、興味深い記述もあった。


立場川橋梁(撤去することが決まっている) 2012年9月撮影 

本書は富士見町にある立場川橋梁についても触れている。この橋梁はボルチモア・トラス(平行弦分格トラス)だという説明がある。平行弦トラスは、上の写真で分かる通り、上下の弦(横方向の部材)が直線で平行のトラスのこと。ここまでは知っていた。

で、分格トラスって何? 調べてみた。格点とは部材と部材の結合点のことで、節点とも言う。なるほど、分格って格点をいくつかに分けたトラスという意味なのか。

ボルチモア・トラスは載荷弦(立場川橋梁では上弦で、ここに列車の荷重がかかる)側に副材を配置して斜材の歪みを防ぐという説明がある。なるほど。 記載されている内容を正しく理解すればまた新たな興味が湧く。

また、本書は余部橋梁についても触れている。**この余部橋梁は長さ310.6メートル、高さは最大で41メートルに及ぶ大きな橋で、日本では珍しいトレッスル橋の最大の橋として知られていた。トレッスル橋とは複数の高い櫓(トレッスル)の間に橋桁を渡す形式で、幅広く深い谷に架けられることが多かった。**(142頁)

この橋梁(鉄橋)は『途中下車の味』宮脇俊三(新潮文庫)にも出てくる。** 道が右に急カーブすると、山間(やまあい)にわずかな平地が広がり、前方に余部鉄橋が全容を現した。火の見櫓のような橋脚が11基、ずらりと並んでいる。**(23頁) 


旧余部鉄橋 ウィキペディアより

宮脇さんはこの橋脚を火の見櫓に喩えた。今尾さんも高い櫓(トレッスル)と書いている。ウィキペディアにtrestleとは末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)と出ている。なるほど。ここで注意すべきは末広がりという条件。

本書の構成は次の通り。
第一章 地形図で探す「鉄道の絶景」
第二章 過酷な道程を進む鉄道
第三章 時代に左右された鉄道
第四章 不思議な鉄道、その理由
第五章 鉄道が語る日本の歴史

私は地図がもっと大きければよかったなとか、車窓の風景写真がもっと掲載されていればよかったなと思ったが、マニアな人たちにはこれで充分というか、これでなければいけないと思うのだろう。


 

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「箱男」を読む

2024-06-29 | g 読書日記

 安部公房の代表作の一つ『箱男』が映画化され、8月に公開されるという。是非観たい。どのような映像表現がされているのだろう・・・。映画を観る前に読んでおこうと、残りの他の作品に先んじて『箱男』(新潮文庫1982年10月25日発行、1998年5月15日31刷)を読んだ。


『箱男』を箱本(などという言葉はないと思うが)、箱入りの単行本で読んだのは1977年だった。その後、文庫本で1998年、2009年に読み、2021年にも読んでいる。

やはり安部公房の代表作である『砂の女』は要するに人間が存在すること、とはどういうことなのかという問いかけだった。既に書いたけれど、これは安部公房がずっと問い続けたテーマだった。『箱男』のテーマも『砂の女』とそう差異はないのではないか、と思う。箱をかぶることで自己を消し去るという、実験的行為。他者との違いは何に因るのか、他者と入れ替わるということは可能なのか・・・。

読んでいて、贋箱男なのか本物の箱男なのか混乱してくる。注意深く読み進めればそんなこともないのだろうが、どうもいけない。注意力も記憶力も読解力も低下している。いや、安部公房はテーマに沿って意図的に読者を混乱させようとしていたのかもしれない。

今のSNS上の人間って、ダンボール箱をかぶって、のぞき窓から人を観察する箱男と同じではないか。自分が誰であるかを明らかにしないで、即ち自己を消し去って、SNS上に情報を発信し、SNS上の情報を受信する人間と箱男は重なる。

『箱男』は表向きエロティックな小説である。このことを示す箇所の引用はさける。2021年2月に読んだ時の感想を次のように書いている。**単なる覗き趣味のおっさんの物語じゃないか、などという感想を持ってしまった。いや、そんなはずはない・・・。やはり僕の脳ミソはかなり劣化している。**

自己の存在を規定するものは何か、それを手放すとどうなる・・・。安部公房が読者に問うているテーマは今日的だ。そして難しい・・・。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫23冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印の5作品は絶版)

今年(2024年)中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。6月28日現在12冊読了。残り11冊。7月以降、月に2冊のペースで読了できる。 

※『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』を買い求めたのでリストに追加した(2024.06.29)。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月


 

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火の見櫓が出てくる小説、エッセイなど

2024-06-26 | g 火の見櫓考〇

 私が読んでいて気がついた火の見櫓が出てくる小説、エッセイなど(とりあえずブログの過去ログから分かった作品)を挙げる。火の見櫓の関心を持ち始めたのは2010年の5月。それ以前に読んだ小説などにも火の見櫓がでてくるものがあっただろうが、気がつかなかっただろう。

時代小説はあまり読まないが、江戸が舞台の小説には火の見櫓が出てくることが少なからずあると思う。江戸では火災が頻発していた。だから火災が発生して登場人物が日々の暮らしの中で半鐘の音を聞くことがあっただろう。作者がそのような日常を描けば出てくることもあり得る。

火の見櫓が江戸の街に出現したのは江戸時代前期のことだった。それ以前の時代を扱う小説などには寺の鐘は出てきても火の見櫓や半鐘は出てこない。存在しなかったのだから当然のことだ。

『研ぎ師太吉』山本一力
『髪結い伊三次捕物余話』宇江佐真理
『羽州ぼろ鳶組シリーズ』今村翔吾
『北斎まんだら』梶よう子(火の見櫓があだ名として出てくる)

*****

以下の作品には火の見櫓が出てくる。火の見櫓が現役で活躍していたころのことが描かれているので。これらの作品の中には『夜明け前』『どくとるマンボウ青春記』『砂の器』『砂の女』など2010年5月以降に再読して、火の見櫓に気がついたものもある。

『夜明け前』島崎藤村
『どくとるマンボウ青春記』北 杜夫
『硝子戸の中』夏目漱石
『砂の器』松本清張
『左の腕』松本清張
『砂の女』安部公房
『チチンデラヤパナ』安部公房
『旅の終りは個室寝台車』宮脇俊三
『途中下車の味』宮脇俊三
『関東大震災』吉村 昭
『バーナード・リーチ日本絵日記』バーナード・リーチ 柳 宗悦  訳(リーチが描いた火の見櫓のスケッチが掲載されている)

これからも小説などを読んでいて火の見櫓が出てくればこのリストに加えていきたい。


※ 今後発表される現代小説に火の見櫓が出てくることはまずないと思われる。既に火の見櫓は現役を引退している。だから作者も読者も関心が薄いだろう。

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「研ぎ師太吉」を読む

2024-06-25 | g 読書日記


『研ぎ師太吉』山本一力(新潮社2007年12月20日発行、2008年1月25日2刷 図書館本)を読んだ。読後の感想としてプレバトの「がっかり」は厳しすぎるかもしれない。さりとて「お見事」というわけにもいかない。それはなぜか・・・。

長屋暮らしの腕利きの研ぎ師太吉のところに持ち込まれた出刃庖丁(小説では包丁ではなく庖丁と表記されている)。持ち込んだ若い女性はかおりと名乗り、出刃庖丁は料理人だった父親が使っていた形見だと言う。

**「おとっつあん・・・・・喧嘩相手に、小名木川の暗がりで殺されたんです」**(17頁)本所の料亭で板長に就いたかおりの父親が同じ調理場の料理人を厳しく叱ったために、その料理人から殺されたのだとかおりは言う。

ここからものがたりは、事件の真相を明かすべく動き出す・・・。

主人公の太吉が料理人の使う庖丁を研ぐ仕事をしているだけに、ものがたりには老舗料亭の板長や太吉が通う一膳飯屋のあるじといった庖丁遣いの職人が登場する。他に庖丁をつくる鍛冶屋の職人。それからかおりの他にも飯屋七福の娘・おすみ、太吉の奉公先で働いていた香織という若い女性たち。もちろん事件を解決する同心、目明し、下っ引きも。

ぼくがこの小説を「お見事」というわけにはいかない、厳しすぎるかもしれないけれど「がっかり」としたのは、別件逮捕した男に拷問を加えて自白させ、事件を解決するという終盤の流れに因る。これが読後感を悪くしている。太吉自らの名推理、活躍によって見事に事件が解決されると期待していたので、がっかり。

太吉と登場する娘たちの誰かとの関係が恋に発展するのかと思いきや、淡雪のごとく消えてしまうし・・・。太吉が殺人容疑をかけられたかおりの容疑を晴らして、ふたりは結ばれると予想していたが、それはなかった。香織が離縁されそうだと知り、かおりではなく、香織と結ばれるのか、とも思ったが、そうもならなかった。

**「わけえということは、あれこれ選り好みができるということだが、そろそろ、てめえの気持ちに正直になって落ち着いたほうがいいぜ」
あれはいい娘だ・・・・
代吉は、だれとは言わずに太吉を見詰めた。(後略)**(285頁)ラストがこれでは物足りない。で、がっかり。

このふたつのがっかりがなかったら、かなり甘いけれど「お見事」としたかも。ミステリーも恋も中途半端なのだ。もちろんこれは私見。読後に「お見事」とした読者も少なからずいただろう。


**両国橋のたもとの火の見やぐらが、擂半(近所の出火や異変を報せるために、半鐘を続けざまに叩くこと)を鳴らした。**(44頁)
**仲町の辻には高さ六丈(約十八メートル)の江戸で一番高い火の見やぐらが立っていた。櫓の側面は、黒塗りである。**(185頁)

火の見櫓が出てくる小説として記録しておかなくては。


 

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松本の火ノ見場

2024-06-25 | g 火の見櫓考〇

 
 松本市立博物館で「明治十三年六月 御巡幸松本御通図」を見た。明治天皇の松本行幸の様子が描かれている。写真はその一部分で右上に女鳥羽川左岸にあった開智学校が描かれている。

私が注目したのは火ノ見場。その部分を切り取った写真を下に載せる。開智学校との位置関係から本町通りと判断できる。高さ10m超と思われる火の見櫓(火ノ見場)が描かれている(絵図中に火ノ見場という表記あり)。

 
錦絵には1880年(明治13年)6月に行われた行幸の様子が描かれているのだから、この火の見櫓はそれ以前に建設されたことになる。木造で黒い壁は押縁下見板張りであろう。江戸時代の火の見櫓の仕様と変わらないだろうという推測から。火の見櫓の脚元には柱が何本か描かれているように見える。この錦絵にどのような説明文が付けられていたのか、確認しなかった。機会をみつけてもう一度出かけて確認したい。

360
国立国会図書館デジタルコレクションより


常設展示室の松本城下のジオラマ(この写真に限り2023.10.25に撮影した)には火の見櫓はない。1657年の明暦の大火の翌年、江戸城下に初めて火の見櫓が建てられ、火の見櫓の歴史が始まったのだが、江戸時代後期(ジオラマは1835年(天保6年)の絵図などを基にしている)の松本にはまだ火の見櫓は無かったのだろうか・・・。


 

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松本市立博物館で思ったこと

2024-06-24 | g あれこれ考える〇


蒸気ポンプ 
大正2年(1913)
明治45年(1912)に発生した被害家屋1,341軒、死者5人の大火の後に、市民の期待を背負い松本市の中心部に配備されました。
それまでの手押しポンプを圧倒する、蒸気による力強い放水は人々を驚かせました。活躍した期間は長くはありませんが、人々の暮らしを守った消防ポンプとして大切に保管され、博物館に寄贈されました。

以上、説明文。


 昨日(23日)の午後、松本市立博物館へ。午前中にカフェトークしたAさんから誘われたので。

同博物館は昨年(2023年)10月以来2回目(過去ログ)。昨年10月も常設展示を見たが、その時、首都圏在住の友人の感想は「薄いね」。展示品を美しく見せようとするあまり、情報が少ないというのだ。

同感だ。昨日もそう思った。


この様子が上記のことを端的に示している。上掲写真に対応する書籍がそれぞれ「展示」されているけれど、閲覧できるように配慮されてはいない。ぼくは青い表紙の大きな本を開いてみようとしたが、あきらめた。そうこれは閲覧を意図したのではなく、雰囲気の演出なのだろう。

展示品に関する通り一遍ではない詳細な説明が欲しいと思う。街中が博物館であって、この博物館はその入り口、情報のターミナルという位置付けだというのであれば、それに対応する情報が欲しい。スマホに現地までの案内地図が取り込めるというような。時間的に余裕がないという人もいるだろうから、展示してあるものに関する詳細な情報も取り込めるというような・・・。


松本市内にはこの道祖神のような木彫りのものが何体もあるようだが、その全貌が分かるようになっていればうれしいのだが。そう、全ての木彫道祖神の写真展示。木彫りに限らず道祖神マップがスマホに取り込めて、興味のある人がその場所まで見に行くことができるようになっているとか(*1)。

でも、圧倒的な情報量に感動するというのが博物館に対するイメージなんだけど。これって古いのかな。


*1 木彫道祖神は石造の祠に祀られているなどして、普段は拝観できないと思われる(過去ログ)。

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「飢餓同盟」を読む

2024-06-23 | g 読書日記


 安部公房の『飢餓同盟』(新潮文庫1970年発行、1994年25刷)を読んだ。いや、読んだとは言えないか。前衛的な作品というわけでもないけれど、読みこなすことができなくて、ただ字面を追っただけだったから・・・。初期の作品は難しい、いや、脳の劣化著しく、読解力、記憶力がかなり低下していることが主因であろう。

カバーの裏面の紹介文を転載する。**眠った魚のように山あいに沈む町花園。この雪にとざされた小地方都市で、疎外されたよそ者たちは、革命にための秘密結社〝飢餓同盟〟のもとに団結し、権力への夢を地熱発電の開発に託すが、彼らの計画は町長やボスたちにすっかり横取りされてしまう。それ自体一つの巨大な病棟のような町で、渦巻き、もろくも崩壊していった彼らの野望を追いながら滑稽なまでの生の狂気を描く。**

ストーリーを要約すれば確かにこんな感じではあるが、滑稽なまでの生の狂気? そうなのか・・・。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版)

今年中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。6月22日現在11冊読了。残りは11冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして12冊。7月以降、2冊/月で読了できる。 


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月

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「頭上運搬を追って」を読む

2024-06-19 | g 読書日記

420
『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』三砂ちづる(光文社新書2024年)を読んだ。

頭に物を載せて運ぶ頭上運搬はアフリカや東南アジアなどで今も行われているが、かつては日本でも各地で行われていた。沖縄、伊豆諸島、瀬戸内海・・・。全国各地に頭上運搬を経験した高齢の女性を訪ねて行ったヒアリング等をまとめたルポルタージュ。

帯の写真は沖永良部島の住吉暗川から水を頭上運搬する女性たちを撮影したもの。雑誌などでこのように頭上運搬する女性の写真を見た記憶がある。

沖縄。糸満から那覇まで12kmの距離を、30Kgもの魚を入れたたらいを頭に載せて、小走りで運んだ女性たち。一日に3往復する女性もいた、ということが書かれている(64頁)。ということは・・・、総距離72kmにもなる。びっくり。

神津島。**一人前の女子であればだいたい16貫目程度の運搬能力を持っているという。1貫目が約3.75キロだから、16貫目とはおよそ60キロほどの重さではないか。体より重い荷物を頭にのせていたというのである。**(112頁)びっくり。

本書にはこのような事例がいくつも紹介されている。

本書に見開きで掲載されている日本の頭上運搬の分布図(『民俗學辭典』東京堂出版1951年、136,7頁)を私は興味深く見た。35カ所の地域が日本地図上にプロットされているが、琵琶湖近くの地域を除き、全て海沿いの地域だ。なぜだろう・・・。

著者の三砂ちづるさんは、**多くは海寄りで、魚を売ることに関わっていたであろうことがわかる。**(140頁)と書く。また、**女川町誌にあるように、江島は急勾配の続く島で、住宅も高い所に建っている。井戸は低いところにあるため、結果として頭上運搬が便利だったのだと思われる。江島の周囲の島は、もっと平らで道路もよかったので、頭上運搬する必要がなかったのだろう、(後略)**(142頁)という現地の方のコメントも載せている。

**もともと頭上運搬は、どこか特別なところで行われていたというものではなく、ほとんどの地方で、ほとんどの人が、日常的な運搬方法として行っていたことではないのか、それがだんだん廃れてきて、(中略)ある特殊な条件下にあるところでは、その風習が残った、ということではないか、という仮説である。**(152,3頁)と、民俗学者・瀬川清子の説も紹介している。

特殊な条件って一体どんな条件なんだろう・・・。どんな理由で残ったのだろう・・・。坂が多くて頭上運搬に代わる他の運搬方法が使えなかったところということか。

三砂さんは頭上運搬を追う理由について、**本当のところは、それが、女性の姿として美しいから、というのが一番大きな理由であり、きっかけであるように思う。**(101,2頁)と書いている。

**センターの通った、真っ直ぐな、軸の通った身体でなければ、頭上に何かものをのせて運ぶことはできない。**(189頁)と三砂さんは指摘しているが、これは身体に鉛直荷重しかかからないようにしないといけないということだ。頭上にものを載せても身体が真っ直ぐでなかったり、真っ直ぐであっても軸から外してものを背負うと身体に曲げモーメントがかかってしまう。頭上運搬は力学的に理にかなっている。だから見た目にもその姿は美しいということだろう、と私は思う。

三砂さんもこのことについて、**重力に逆らって持ち上げるような姿勢は、自ずと不自然なものになるであろう。**(189頁)と書いている。これは水を入れたバケツを片手で持って運ぶ場合を考えれば分かりやすい。

三砂さんは更に**よくととのった、すっきりとした身体を持ち、その頭の上に「もの」がのっている様子は、「敬意を込めて運ぶ」、つまりは供え物をする時の運び方として、まことにふさわしいやり方であったに違いない。**(189,190頁)と、人文学的と言っていいのか、そんな解釈もしている。**天に近いものがより尊く、高いところにあるものがよりよい**(188頁)というのだ。

**この本で取り上げている「頭上運搬」は、生活に必要な身体所作だったのであり、それを続けることでセンターが強化され、ゆるんだ体が結果として保たれる。実用性もあり、生活を支えていた運動でもあり、身体意識の強化にもつながっていた。労働の過酷さ、のみではない、身体づかいの妙味が提示されていたことに気づくのである。**(186頁)

頭上に載せたものに働く力(重力)の方向、そう地球の中心に向かう方向にきちんと身体の軸を一致させることができる身体意識、身体感覚をかつてはごく普通の女性たちが備えていたという指摘が本書の論旨、と解した。


 

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「恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ」を読む

2024-06-15 | g 読書日記

480
 川上弘美の本とさよならしたのは2014年12月のことだった。あれからもう10年近くなる・・・。

『恋ははかない、あるいは、プール底のステーキ』(講談社2023年 図書館本) 

久しぶりに川上弘美の作品を読んだ。きっぱりと別れたつもりでもやはり忘れられないのだ。


昨日(14日)いつのもスタバでこの本を読んでいると、顔見知りの店員・Hさんに声をかけられた。
「私も読みました」
「会話がいいよね」
ぼくは感想を伝え、下線部分のことも話した。

川上弘美が描く世界は、あわあわ、ゆるゆる、ふわふわ。輪郭が曖昧でこのように形容される。『恋ははかない、あるいは、プール底のステーキ』も同じだ。ストーリーらしいストーリーはない。私とカズはお互い惹かれてはいるのだろうが、恋愛関係になるわけでもなく、曖昧な関係。
小説の中の会話を読んでいて、実際の会話ってこんなんじゃなよな、と思うことがある。整然としすぎていて無駄がないのだ。この小説の魅力はリアルな会話。読んでいて同じところに一緒に座って会話を聞いているような気分になること。

**「なるほど、それはありえるかも」
「でもさ、六歳の子供のすしに、たっぷりのわさびなんか、入れるものかな」
「それもそうか」**(84頁)

**「先月、ここでミナトと会った」
「そうなんだ」
「ご機嫌うかがいしたいって」
「ビール、飲んだ?」
「そりゃ、飲むさ。娘と二人なんて、酒でも飲まなきゃ所在なくて」**(113頁)

『恋ははかない、あるいは、プール底のステーキ』は表題作を含め、17編からなる連作短編小説。

ともにカルフォルニアで幼少時代を過ごした3人。主人公のわたしとカズとアンが半世紀ほど経って、東京で再会した。3人は60代になっていた。時々お酒を飲むような関係になる3人。で、上のような会話をする。

だいぶ前に川上弘美の作品について次のようなことを書いた(2011.05.28)。

**川上弘美はよく白も黒もごっちゃになった世界、境界のはっきりしない曖昧な世界を描く。長編の『真鶴』では失踪してしまった夫がまだこちらにいるのかあちらに行ってしまったのか、はっきりしない状況で物語が進むし、やはり長編の『風花』は夫と別れようか、どうしようか、とまるで風花のように気持ちが定まらない若い女性が主人公の物語だ。『真面目な二人』はふわふわ、ゆらゆらなカワカミワールドが上手く描かれた佳作。**

川上弘美が描く世界は、あわあわ、ゆるゆる、ふわふわ。輪郭が曖昧でこのように形容される。『恋ははかない、あるいは、プール底のステーキ』も同じだ。この小説にストーリーらしいストーリーはない。私とカズはお互い惹かれてはいるのだろうが、恋愛関係になるわけでもなく、曖昧な関係で次のような会話をする。

**「なんか、色っぽいね、どうしたの」
「色っぽい?」
「おれのこと、好きになった?」
「いや、べつに」
「即答かよ」
「もともとけっこう好きだし」
「そういう意味の好きじゃなく」
「ナポリタン、頼もうよ」**(115,6頁)

このようなたわいもない会話を地の文がきっちりしめている。その中に時々ハッとさせられるようなことばが出てくるのも、魅力だ。両者のバランスが実に好い。やはり川上弘美はうまい。


 

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追悼 槇文彦さん

2024-06-14 | g 建築を観察する 建築を学ぶ 建築を考える〇

 建築家・槇 文彦さんの訃報が12日の新聞に掲載された。私は槇さんの知的で端正な建築デザインに惹かれていて、拙ブログでも槇さんの作品などについて機会ある度に書いてきた。今回はそれらの中から主な記事をピックアップし、各記事の一部を抜粋、加筆するなどして改めて掲載する。記事のタイトルと掲載日も載せる(太字表示)。


東京余録 2023.04.18


テレビ朝日本社( 2003年竣工)の屋上を本木ヒルズ森タワー52階 東京シティビューから俯瞰する。撮影:2023.04.13

さんは屋上も美しく設計しなくてはならないと、雑誌の記事に書いていたかと思う。その言葉通り、テレビ朝日社屋の屋上は美しい。
豊田講堂の記事を読んで 2014.10.28


「LIXIL eye」は株式会社LIXILが発行する情報誌。無料だが、内容が充実している。NO.6号(2014.10)の特集記事に名古屋大学豊田講堂が取り上げられている。名古屋大学豊田講堂は槇さんのデビュー作にして日本建築学会賞受賞作。
成熟社会に相応しい施設 2014.02.23


『建築ジャーナル』という月刊誌があるが、2014年の1月号と2月号に「新国立競技場案を考える」という特集が組まれた。国際コンペの当選案、いや新国立競技場のプログラムそのものに問題ありと指摘する建築家・槇文彦氏の論考「新国立競技場を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」に多くの人が関心を持ち、一般紙にも取り上げられた。論考の中で槇氏はオリンピック後の維持管理や収支見通しなどについても、広く説明する責任があるという指摘もしている。

新国立競技場案 2013.10.03


日本スポーツ振興センターのウェブサイトより

**発表された新国立競技場案のパースが一葉、日本のメディアに公表された時、私の第一印象はその美醜、好悪を超えてスケールの巨大さであった。** と槇さんは上掲した論考に書いている。だが、本当のところは、当選したザハ・ハディドという建築家の案のあまりにも異様な外観が気になったのではないか。スケール感がつかめなかった私は、まずその異様な姿がとても気になった。

モダニストで美しい建築を創り続けてきた槇さんが、当選案を美しいと評価していたとは到底思えない。槇さんは理性的にそして注意深く論文を書いてはいる。だが、その異様な姿にこそ失望したのではないか、と私は勝手に推察する。その後、当選案は白紙撤回された。


まち並みを秩序づけるもの 2011.09.06


「代官山ヒルサイドテラス」はあの辺一体の地主だった朝倉家の「良質な生活環境の創出を」という願いを受けて槇さんが30年以上もかけてじっくり創ってきた街。ひとりの建築家がこれほど長い間、同じクライアントと関わりながらひとつの街を創り続けてきたということは極めて稀な事例だろう。






代官山ヒルサイドテラスの魅力、それは公的な(街に開かれた)空間と私的な空間のヒューマンなスケールとそれらの巧みな構成。建築相互を関係付ける「リンケージ」という概念によって創出されるまとまりのあるグループフォーム(群造形)。

混沌とした東京にあってこの街の秩序はまさに奇跡と言って良いだろう。変わらないこの街の上品で知的な雰囲気、それはやはり設計者の都会的でオシャレなセンスの反映だろう。槇さんの代表作。


『見えがくれする都市』槇 文彦他(SD選書 鹿島出版会1980年)
『記憶の形象 都市と建築との間で』槇 文彦(筑摩書房1992年8月20日初版第1刷発行、1993年4月20日初版第4刷発行)

『記憶の形象』は今から31年前に発行された本で定価5,974円(税込)は決して安くはないが、この頃は読みたい本は買い求めていた。

槇さんの作品はどれも実に知的で端正で美しい。今から40年以上も前のこと、1983の9月に富山県黒部市にあるYKKのゲストハウス「前沢ガーデンハウス」を見学したが、それが槇さんの作品をじっくり見た最初の機会だったように思う。その後、京都国立近代美術館も見学しているが、美しい階段が印象に残っている。


京都国立近代美術館 撮影日不明
今年の5月、東京は墨田区横網にある刀剣博物館に出かけた。この博物館も槇さんの設計。残念なことに休館していた。次回東京する時、ここのカフェでも良いし、青山のスパイラルのカフェでも良い、槇さんの空間で友人とカフェトークしようと思う。
デザインということばの原義は「整理すること」だとか。複雑な建築構成要素を整理して秩序だてることが、ものとしての建築のデザインだと解せば(その逆、意味もなく複雑な構成をしたとしか思えない、デザインの意図が分からない建築もあるが)、槇さんの建築は形が単純化され、各部の寸法が整えられ、材料や色、ディテールが限定されている。その洗練されたデザインが効果を充分発揮して実に上品な空間が創出されている。

だがそれだけではない。例えば基調となる水平・垂直線に敢えて斜めの線を加えたり、イレギュラーな形や色を採りこんだりと、建築を秩序だてるデザインルールから少し外した「遊び」も採り込んでいる。そしてこれが実に魅力的なのだ。

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高山市のマンホール蓋

2024-06-12 | g 地面の蓋っておもしろい〇


 高山市丹生川(旧丹生川村)のカラーマンホール蓋 2024.06.09

飛騨高山ウルトラマラソンの第3関門、丹生川支所の駐車場に設置されているカラー蓋。乗鞍岳を背景にライチョウと旧丹生川村の花・キバシャクナゲ、シラビソ、ハイマツが描かれている。「にゅうかわ」としか記されていない。




 高山市清見町(旧清見村)のマンホール蓋 2024.06.09

飛騨高山ウルトラマラソンの第5関門、高山市公文書館の近くの道路上に設置されていた。カワセミが描かれている。清らかな川に生息すると言われるカワセミは旧清見村の象徴。丹生川の蓋と同様に「きよみ」としか記されていない。


 

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飛騨高山ウルトラマラソン応援の顛末

2024-06-11 | g 記録するということ・想い出〇

 一昨日(6月9日)行われた飛騨高山ウルトラマラソンに友人のS君が参加した。標高差約500m、激坂ありの国内屈指の過酷なコースを100km走る。自宅から高山駅まで90km弱。それ以上の距離を走るのだから凄いとしか言いようがない。彼はここ何年かこのウルトラマラソンに参加している。今年も応援に出かけたが、昨年とは全く違う応援になった。以下その顛末記(推敲していないので冗長な文章です)。

飛騨高山ウルトラマラソンには100kmと71kmの2種目ある。100kmのスタート時刻は4時30分、4時50分。途中関門が5か所設けられていて、各関門を制限時刻までに通過できないと失格となる。制限時間は14時間。4時50分スタートのS君は制限時刻の18時50分までにフィニッシュしなくてはならない。


第3関門の丹生川支所

朝9時前に自宅を出発、第3関門の丹生川支所へ向かう。自宅からおよそ77kmで2時間とかからない。10時40分ころ到着した。この関門はスタート地点から57.2km。S君のペースチャートによると、ここを通過するのは12時18分頃だ。


11時50分頃から、関門の入口付近に設置されている時計(②)の横に立ってS君を待つ。昨年と同じごく薄い緑色のシャツを着て走ることもゼッケンもS君のSNSで確認している。見逃すはずはない。

12時15分になった。そろそろ来るはずだ。だが来ない・・・。12時30分、まだ来ない。制限時刻の12時50分になった。来ない・・・。S君は日々の練習をSNSにアップしている。入念な準備をして今日を迎えたはずなのに・・・。制限時刻に間に合わないランナーが何人も走って、歩いて関門に入って来る。あと30分待ってみよう。来ない。

僕は待つことをやめて、帰ることにした。どうしたS君? 何があった? 途中でアクシデント? 

K君が何か情報を掴んでいるかもしれないと電話してみたが、出ない・・・。しばらくしてもう一度電話したがダメ。自宅に向かって走行中にK君から電話があった。道路脇の空き地に停めて、事情を伝えた。更に走行。第3関門の丹生川支所から20km近く戻って来たところ、平湯トンネルまであとわずかというところでK君からメッセージがあった。運よく道路工事区間の直前だった。工事用信号が赤になった。待ち時間3分。

メッセージを確認した。「12時半くらいに60km通過して第4関門に向けて走っている可能性が高いです」

僕は引き返して第4関門に向かうことにした。途中、空地に車を停めてメモしてきた第4関門の電話番号をカーナビに入力した。案内に従って進む。丹生川支所支所通過。僕の記憶だとそのまま直進するはずだが、カーナビは左折指示。高山の中心市街地方面へ向かう。カーナビは距離優先にしないと遠回りのルートを指示することがあるからなぁ、と思いつつ走行。

観光客の姿が目に入り出す。道路上の案内標識に 高山駅の表示。おかしい・・・。渋滞気味で第4関門の通過予想時刻、3時前には到着できないと判断して、市街地を抜け出そうと迷走・・・。


ランナーの姿が目に入った。よかった。そのまましばらく走行するとフィニッシュまで残り4kmと表示されたコーンが道路脇に設置されてるではないか。え? ここはどこ・・・? さすがに私は誰?とはならなかったが、かなり焦って冷静さを失った。

コーンのすぐ近くに給水所があった。幸いその向かいが空地だったので車を停めて、訊ねた。第5関門の高山市公文書館がすぐ近くだと、教えてもらった。

僕は理解した。高山市にはB&G海洋センター体育館が2カ所、国府と清見にあって、僕がメモしたのは第4関門の国府ではなく、かなり離れた清見の電話番号だったということを。

だが、ラッキーなことに間違えた清見B&G海洋センター体育館は第5関門の高山市公文書館のすぐ近くだった。カーナビをセット。案内を頼りに3km程走行。第5関門に着いた。


第5関門の高山市公文書館

ここからフィニッシュ地点、飛騨高山ビッグアリーナまで6.7kmと表示されている。


通過制限時刻は17時50分。S君がここを通過するのは17時過ぎだろう。

かなり前に僕はS君に今年も応援に行くことを伝えていた。第3関門、第4関門で会うことが出来なかった。ここで会って約束を果たさなければ・・・。見逃してはならない。第3関門の失敗をまたしてはならない。関門入り口を注視し続けた。


来た! S君! ハイタッチ、握手! よかった会えた。

S君を見送って飛騨高山ビッグアリーナへ。途中力走するS君を追い抜く時スピードを落として手で合図すると、彼も手を挙げて、何やら叫んで応えてくれた。

第5関門でもそうだったが、飛騨高山ビッグアリーナでS君を待つ間、向かってくるランナーに拍手すると、頭を下げたり、ありがとうとお礼を口にしたり、目を合わせて頷く仕草をしたり・・・。いいなぁ、こういうの。


フィニッシュゲートを潜り抜けるS君


右後方に時計が写っている。まだ制限時刻の18時50分まで40分もある。ナイスラン!

100km 完走おめでとう! すばらしい!!


なぜ、第3関門で見逃してしまったんだろう・・・。想定時刻より30分も前、11時45分頃通過していたことが分かった。スタート地点から74.1kmの第4関門は14時18分頃通過していた。想定時刻は14時57分。40分も稼いでいる。カーナビのセットを間違えなかったとしても到底間に合わなかった。

S君はSNSに次のように綴っている。**完走だけ出来る走りをしたんじゃ成長は出来ないと思い攻めの走りをしようと思っていました。勇気ある走りです。** 

僕が祝意をメッセージで伝えると次のような返信があった。**そう言ってもらえて嬉しいです。出来るか出来ないかよりやるかやらないかが大事ですね。** 名言だ。


80km通過 90km通過しました。そろそろかと。第3関門で連絡してから、このような情報を何回も送ってくれたK君に感謝します。

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「伊豆の踊子」を読む

2024-06-10 | g 読書日記

360
 川端康成の(などと書く必要もないだろうが)『伊豆の踊子』(新潮文庫)を続けて2回読んだ。40頁に満たない短編だから読むのにそれ程時間はかからない。この小説を初めて読んだのはたぶん高校生の時。奥付に1950年8月20日発行、2021年7月20日第154刷、2022年7月1日新版発行とある。長年読み継がれてきていることが分かる。

カバーの画はきれいな櫛。踊子が挿していたのは桃色だったことが文中に出ている。だが、この絵は踊子の櫛ということだろう。なかなか好いカバ―デザインだ。

20歳の一高生の私と14歳の踊子の淡い恋と括られる短編だが、ポイントは以下のくだりだろう。

伊豆で旅芸人一行と数日一緒に旅をする私。**二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。**(38頁) 踊子が「いい人ね」と言うのが聞こえて、**私は言いようもなく有り難いのだった。**(38頁) **私はさっきの竹の杖を振り廻しながら秋草の頭を切った。**(38頁)心ウキウキな私。

**「あの芸人は今夜どこで泊るんでしょう」
「あんな者、どこで泊るやら分るものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊るんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか」**(12,13頁)

こんなことを聞かされて、私は心が乱れてしまう。料理屋のお座敷に呼ばれた芸人たち。**踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。**(19頁)となる。

小説の最後、私が東京へ帰る日。宿の外には女たちの姿が見えない。踊子もいない・・・。**昨夜遅く寝て起きられないので失礼させていただきました。**(41頁)と私に伝える一座の栄吉。

ところが乗船場の近くで踊子が待っていた。 

永吉が問う。
**「外(ほか)の者も来るのか」
踊子は頭を振った。
「皆まだ寝ているのか」
踊子はうなずいた。**(42頁)

いいなぁ、この場面。読んでいて涙が出た・・・。早朝なのに踊子が見送りに来てくれていた。これが淡い恋でなくて何であろう・・・。

読書はいい。この歳になってもこんな体験ができるのだから。


 

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火の見櫓建設費用の負担

2024-06-10 | g 火の見櫓考〇


 火の見櫓の建設費用はどうしていたんだろう・・・。

全額公費で、あるいは全額個人の寄付で賄うケース、全額地元住民が負担するケース、それからこれらの複合ケースがあっただろうと考えていた。一昨日(8日)火の見櫓建設の費用負担に関する資料が見つかった。

以下その報告。

上掲写真の火の見櫓は長野県朝日村西洗馬に立っていたが、隣りの消防団詰所と共に撤去された。見つかったのはこの火の見櫓の建設に関する資料。

この火の見櫓の建設工事契約書の写しと竣工記念写真は手元にある。契約書には請負金額  拾参萬圓也と記されている。記念写真には朝日村消防団第5分団 警鐘楼竣工記念 昭 30.8.12と文字入れされている(第5分団の第は略字)。

火の見櫓と消防団の詰所があった敷地には西洗馬公民館があるが、近々解体されることになっている。それで、一昨日の午前中にこの公民館2階の図書室に長年保存されていた書類等が一般公開されると知り、出かけた。この火の見櫓建設に関することが記載されている書類があるのではないか、と思ったので。


座卓に並べられた何点もの資料。


火の見櫓が建設された年、今から69年前の昭和30年(1955年)の記録簿を見つけた。火の見櫓の建設工事の契約日はこの年の6月21日、ということは契約書の写しで分かっている。予想していた通り、記録簿に建設費用支出に関する記録があった。

「警鐘楼建設補助金の件」 村費支辨(弁の旧字)以外不足金40,300円(記録簿には漢数字で書かれている、以下同じ)について各戸金100円平均負担として残り金13,000円を区にて負担するという内容が記されている(誤読はしていないと思う)。

この記録簿は上記の通り、自治体(村)と地元の区(西洗馬区)と地元住民が建設費用をそれぞれ負担したことを示す具体的な資料として貴重だ。

記録簿は今後も保管する予定、と聞いている。


記録簿には起工式が8月1日に、竣工式が8月12日に行われたことも記されている。これは契約書の工期(昭和30年6月21日~8月20日)より短い。

やはり記録するということは大事なことだと、改めて思った。


 

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