透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「無関係な死・時の崖」を読む

2024-08-25 | A 読書日記

 今年2024年は安部公房生誕100年。『芸術新潮』は3月号で安部公房の特集を組んだ。「わたしたちには安部公房が必要だ」と題して。今年は安部公房を読もう!と思い、3月から手元にある新潮文庫を読み始めた(現在手元にある新潮文庫は新たに買い求めたものを含めて23冊)。


『無関係な死・時の崖』(新潮文庫1974年)を読み終えた。今からちょうど50年前に読んだ文庫。

この文庫には短編10編が収録されているが、安部公房がいかに発想力・構想力が優れていたか、よく分かる。印象に残ったのは表題作の「無関係な死」、それから「人魚伝」と主人公が建築士の「賭」。

「無関係な死」
ある日、アパートの自分の部屋に死体が置かれていた男が、あれこれ考える。**犯人が、計画的に彼の部屋をねらったのか、それとも行き当たりばったりに、彼の部屋がえらばれたのか、その点はまだよく分からない。**(178頁)

男は死体を他の部屋に運ぶことにする。自分とは無関係な死とするために。

**そうだ、彼の部屋にこの死体を持ち込んで来たものだって、案外同じように誰かから押しつけられた組だったのではあるまいか。死体は、アパートの中を、ぐるぐるたらい廻しになっているのかもしれないのだ。**(182,3頁)

部屋には男の無罪を証明してくれるような証拠があった。男がそのことに気がついたのは、その証拠を消してしまった後だった・・・。推理小説として、おもしろい。


「人魚伝」
沈没船の中で出会った人魚に恋した男が、彼女を連れて帰り同棲生活を一年以上続けるという話。

**なにしろ彼女の下半身は魚なのだ。下腹部に、産卵用とおぼしき穴はあいていたが、そんな穴なら、耳にだって、鼻にだってあいている。**(234頁)**ぼくたちの性は、眼と唇の接触をつうじて、満たされていたようなものだった。**(234頁)

この辺りまでは大人のファンタジー(かな?)といった趣だが、この後はホラーな展開になる。


「賭」
**「しかしですねえ、この社長室は、三階にあるわけですな。そして十七号室は、二階なんですからね。」
「そうですか・・・・・二階と三階の部屋を隣りあわせにするのは、相当にむつかしい技術でしょうな。」**(101頁)

宣伝事業をしている社屋の設計を担当している主人公が、依頼主の仕事の実情を知るために、その会社を訪ねる。会社で見聞きした不思議なというか、風変わりなできごと・・・。

**こうした風変りな体験が、依頼主の注文を理解するうえで、すこぶる有意義な、みのり豊かなものであったことは、あらためて説明するまでもないだろう。おかげで私は、三階の部屋が、六階の部屋と壁を接していようと、また階段を降りて上階に達することになっていようと、すこしも意に介さないまでになっていた。仮に、天井と床とを逆さにしなければならないような羽目におかれたとしても、たぶん平然として応じていたに相違ない。**(136頁)

三次元的な空間では実現できない。そこで設計を担当する主人公が採った方法・・・。これはSF、それも50年も前の。

推理小説、ホラー小説、そしてSF小説。10編も収録されている傾向の異なる作品たちが、冒頭に書いたように安部公房が発想力・構想力に優れた作家であることの証左だろう。短編集の魅力はこういうところにもある。

この文庫のカバーには**未知の小説世界を構築せんとする著者が、長編「砂の女」「他人の顔」と並行して書き上げた野心作10編を収録する。**と書かれている。

やはり安部公房は凄い作家だったと思う。文庫本の大半を処分した時、再読するなら安部公房と思って、夏目漱石、北 杜夫の文庫と共に残しておいたが、正解だった。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫23冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印の5作品は絶版)

今年(2024年)中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。8月24日現在15冊読了。残り8冊、9月から月2冊。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月


 


気になること

2024-08-23 | D 新聞を読んで

  
「後遺症  今も悩む人多く 症状さまざま  特効薬なく」という見出しの記事が2024年5月8日付 信濃毎日新聞に掲載された。この記事から引用する。

**新型コロナウイルスの後遺症に悩む人は、5類以降から1年たつ今も多い。(中略)病原体から体を守る免疫の異常が関係するとの指摘もある。(中略)京都大の上野英樹教授(ヒト免疫学)は免疫細胞の一種「ヘルパーT細胞」(*1)に着目する。(中略)後遺症との関連を調べるため患者血液を分析すると、動悸や呼吸困難の症状がある女性グループは、(中略)ヘルパーT細胞が過剰にあり、(中略)ブレインフォグの症状がある男性グループはヘルパーT細胞が少なくなっていた。上野教授はこの現象を「免疫の乱れ」と指摘。** そして**発症メカニズムに謎は多く、特効薬もない状態が続いている。**

上掲の記事は新型コロナウイルスの後遺症について報じているが、新型コロナウイルスワクチンの後遺症について報じていると読み替えることも出来るのではないか、と思った。というのも2022年9月18日付同紙に次のような記事が掲載されたから。


「免疫機能 過剰反応か 新型コロナワクチン 接種後死亡の4人」

以下はこの記事からの引用。**(前略)ウイルスを攻撃する免疫調節機能が過剰反応(暴走)し、患者の身体を攻撃する「サイトカインストーム」が起きて死亡した可能性があるとみており(後略)**

ヒトは体内に入り込んだウイルスに感染した細胞を攻撃する自然免疫システムを備えている。その免疫システムがワクチン接種によって混乱してしまい、過剰に反応して本来攻撃対象ではないウイルスに感染していない細胞まで攻撃してしまう・・・。このことで、細胞の集合体である臓器にダメージを与えて機能不全を起こす「サイトカインストーム」。最悪死に至るワクチン接種の負の側面。

最近、流行している手足口病やエムポックスというウイルス感染症は免疫システムが必要な反応をしないことによるのではないか、そしてその一因として新型コロナワクチン接種があるのではないか・・・。そう、コロナワクチンによる免疫システムの混乱。

感染予防を謳ったコロナワクチン接種の効果はその後重症化リスク低減に変った。コロナワクチンの効果について検証が行われているのだろうが、メディアが報じないので分からない。厚労省にもその責務があるのでは。


*1 免疫反応を促して病原体を排除したり、反応を抑えて過剰な攻撃を防いだりする免疫の司令塔


『新型コロナ 7つの謎 最新免疫学からわかった病原体の正体』宮坂昌之(講談社ブルーバックス2020年)
『ルポ  副反応疑い死 ワクチン政策と薬害を問いなおす』山崎淳一郎(ちくま新書2022年)
『コロナワクチン  失敗の本質』宮沢孝幸・鳥集  徹(宝島社新書2022年)
『免疫「超」入門』吉村昭彦(講談社ブルーバックス2023年)


ひと夏の恋

2024-08-22 | E 朝焼けの詩


08.22 05:09AM


08.22 05:13AM

刻々と変わる朝の空

この日この時は二度と来ないんだなぁ・・・

激しく燃えた早朝の空、数分後には静かな空に変わった。


今日8月22日は藤村忌



なぎさちゃん

2024-08-22 | A あれこれ

 21日の朝、上高地線奈良井川橋梁西側の踏切で遮断機が下りて電車の通過待ちになった。通過していったのは、なぎさちゃん(*1)。などと書くと、いい歳してなどと言われそうだ。だから初代なぎさTRAIN(3005 - 3006号車)が通過していったと書こう。

前々からなぎさTRAINと出会った日は好いことがあると思うことにしている。サンデー毎日な生活ではなかった頃、通勤途中でなぎさちゃん、もといなぎさTRAINに会うのは数か月に1,2回くらいだったかと思う。

では昨日21日に何か好いことがあっただろうか・・・。特に無かったように思うが、無事一日過ごすことができたことかな。

しばらくサンデー毎日ではない生活をすることになった。その期間は定かではないが、期間中に2代目なぎさTRAINに会えないかなぁ・・・。もし会えたらすごく好いことがあると思うことにしよう。

*1 渕東(えんどう)なぎさ(上高地線の駅名からつけられた名前)19歳 2012年に登場した上高地線のイメージキャラクター

松本市洞の火の見梯子

2024-08-21 | A 火の見櫓っておもしろい


1515 松本市洞 火の見梯子控え柱付き 200024.08.21

 今や絶滅危惧種の火の見櫓はいつ解体撤去されてもおかしくない状況だ。この火の見梯子のことは1年くらい前に知ったが、どうやら解体が予定されているらしい。ようやく今日(21日)の午前中に見にいくことができた。鋼管で構成されている。高さはおよそ5m。


残念ながら半鐘が撤去されていた(2023年5月に撮影されたSVには半鐘が写っている)。




簡易な消防信号板だけが残されていた。


基礎は直径45cmのコンクリート製


 


二八会 カレー大作戦の慰労会

2024-08-20 | A あれこれ


 我が村で今年度10回予定されている「カレー大作戦」、7月20日の初回を担当した二八会。このことを地元紙「市民タイムス」が大きな見出しで報じた。

昨日(19日)の夕方5時半からカレー大作戦の慰労会があった。


参加したのは8人。写真に納まっているのは7人(遅れてきたTN君は写っていない。残念ながらNN君は体調不良で不参加)。


夕立が心配されたけれど屋外でジンギスカンをした。とても信じられないが、みんな日頃の行いが良いらしく、雨は降らなかった。

毎回買い出しなどの準備をしてくれるMS君と場所を提供してくれるFM君に感謝。新鮮野菜を提供してくれるMT君、TD君にも感謝。

MS君が作成したカレー大作戦の収支報告書が配布されて、みんなで確認した。いつもこのようなことはキッチリする。豚肉などの食材が昨年よりだいぶ高くなっている。


気の置けない仲間と食べて飲んで、語らうこと3時間。楽しい時を過した。火を囲むとなぜか心が和む。

先日暑気払いをした33会の仲間、そしてこの28会(正しくは漢字表記らしい)の仲間。それから24会の仲間・・・。

上掲写真(もちろんトリミングはしていない)をグループラインで送った。「好い仲間に恵まれて幸せです」というメッセージを添えて。


 


浅田次郎の「長く高い壁」を読む

2024-08-17 | A 読書日記

 浅田次郎の『長く高い壁』(角川書店2018年、図書館本)を読んだ。(以下、ミステリー小説のネタばらしにはならないように配慮したつもりですが・・・。)


昭和11年(1936年)2.26事件、昭和12年(1937年)盧溝橋事件、日中戦争勃発。

昭和13年秋、日中戦争下の張飛嶺(万里の長城)。大隊主力が前線に出た後、張飛嶺守備隊として残ったのは小隊30人、その第一分隊10人全員が死亡する。戦死か? 従軍作家の小柳逸馬が検閲班長の川津中尉と共に北京から現場に向かい、10人怪死の真相を解き明かす。

ミステリー仕立てのストーリーの大要はこの通りだが、この小説は単なる謎解きの娯楽作品ではない。作者・浅田次郎がこの小説で書きたかったことは、作品の中に見出せる。当然のことではあるが。

**探偵小説を好んで書くのは、そうした人間の本性を堂々と開陳できるからだ。読者にしたところで、何も人殺しを面白がっているわけではあるまい。他人を恨み、妬(ねた)み、嫉(そね)み、あげくには殺してしまう人間の怖ろしさ ―― むろんおのれのうちにも確実に存在する魔性を、小説の世界に垣間見ている。**(259頁)

**君は今、苦悩している。戦場に正義はあるのか、と。敵という名の人の命を奪い、またみずからもいつ殺されるかわからない戦場に、殺人を事件とするだけの正義がはたしてあるのか、と。**(267頁)

**どれほど腹が立とうと、当たりどころがない。だから得体の知れぬ泥のような怒りが、胸の中に澱り嵩んでゆく。(後略)**(270頁)

**正義感に燃えたのではない。義侠心でもない。我慢のならぬ理不尽がとうとう腹の中で膨らみ切って、反吐のようにせり上がってきたのだった。**(272頁)

従軍作家は事件の真相を明らかにする。だが「嗚呼忠烈 張飛嶺守備隊の最期」と題する報告レポートには真相とは異なることが書かれていた・・・。

浅田次郎は上手い。文中に織り込まれている中国語も難しい単語も効果的だ。こういうラストの構成は他に知らない。なかなか好い。

読了後、ふと松本清張なら終盤をどんな展開にしただろうなと思った。代表作の『砂の器』や『ゼロの焦点』のようにタイムスパンの長い小説にしたのではないか。事件後、何年も先のことが描かれる。

松本清張のようには構想できないけれど・・・。小柳逸馬には当時5歳のひとり娘がいた。時は流れ、太平洋戦争後、昭和32年。年頃になった娘にはフィアンセの新聞記者がいた(好きな作品の『球形の荒野』の主人公のフィアンセも新聞記者だった)。

病に伏せた父親が最期に二人に明かした手記の存在。葬儀を済ませ、二人が開封した手記には「張飛嶺守備隊最期の真相」という見出しが付けられていた・・・。


 


33会の暑気払い

2024-08-15 | A あれこれ


 昨夜(14日)33会の暑気払いをした。集まったのは7人。一時激しい夕立(*1)。雷鳴が轟き、停電して店内が真っ暗になるというハプニングも。店でロウソクを用意してくれたけれど使うことなく電力復旧。ロウソク宴会、楽しかったかも。

**老化に伴って生じる身体機能、精神機能、社会的機能の低下をフレイルという。**と『老化と寿命の謎』飯島裕一(講談社新書)にある(216頁)。フレイルの予防の柱は運動、栄養、社会参加だと同書。社会参加として就労やボランティア活動、友人との交流などが挙げられている。24会、28会、33会・・・。友人に恵まれていて、時々このような交流の機会があるのは幸せだと思う。

33会の仲間とは今年1月に松山旅行をした(過去ログ)。昨夜、早くも(あれこれ段取りを考えると早いこともないか)来年の旅行の話が出た。行先として九州が候補に挙がった。九州の指宿、別府、博多、小倉・・・。TN君の推薦で別府と小倉に絞られた。小倉でまず浮かぶのは松本清張記念館。松本清張は森鴎外の小倉日記を題材にした『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞している(過去ログ)。それから小倉城。

ネットで調べると旦過(たんが)市場がある。みんなで食事をするのに良いかもしれない。それから門司港ビール工房。個人的には神社仏閣にも行きたい。篠崎八幡神社に福聚寺・・・。

幹事として、昨夜参加できなかった仲間の希望も確認して行先を決めたいと思う。楽しみができた。


*1 松本市今井では午後6時45分までの1時間に90ミリと観測史上最大の雨を記録 と15日付信濃毎日新聞(27面)が報じた。暑気払いをした居酒屋から4,5キロの距離のところに松本空港がある。降雨量の計測は松本空港付近で行われているものと思われる。


「老化と寿命の謎」を読む

2024-08-14 | A 読書日記


■ 信濃毎日新聞の科学面に2023年1月から2024年4月まで連載された記事「老化と寿命の謎を探る」を基に書籍化された『老化と寿命の謎』飯島裕一(講談社現代新書2024年)を読んだ。ぼくはこの新聞連載記事を毎回読んでいて、本になればいいな、と思っていた。

この本は次の3章で構成されている。
第1章  寿命をめぐって
第2章  なぜ老いるのか
第3章  健康長寿への道  ―  加齢関連疾患とつきあう

第1章  寿命をめぐってでは寿命400年とされるニシオンデンザメや寿命30年のハダカデバネズミなどの長寿動物を取り上げて、寿命を左右する代謝量について解説している。

この中で、なぜ大人になると子どもの時より1日が短く感じるのか、という疑問にも答えている。
代謝量の変化で説明がつきそうだとして、**体温が共通しているヒト同士の代謝量の比較は、体重の違いだけで割り出される。渡辺教授(筆者注:渡辺佑基 総合研究大学院大学統合進化科学研究センター教授 32頁)は、「25キロの子どもと65キロの大人を比較すると、時間の濃度は子どものほうが1.3倍も濃い。大人の1日24時間に換算すれば、子どもの1日は31時間で、7時間も余分にあることになる」と説明した。**(35頁)

哺乳類では世代時間も寿命も、体重の4分の1乗に比例して増える(34頁)という説明から上記のことを計算してみると、時間濃度≒1.2697倍となった(計算違いをしていなければ)。

第2章  なぜ老いるのかでは老化のメカニズムに関する最先端の研究を紹介している。専門的で難しい内容だが、新聞連載中も興味深く読んでいた。残念なことに新聞記事ではカラーだった説明図が本ではモノクロ(白黒)になっている。

自然免疫:好中球 マクロファージ 樹状細胞 ナチュラルキラー細胞
獲得免疫:ヘルパーT細胞 キラーT細胞 制御性T細胞 B細胞
ミトコンドリア、サイトカイン、アポトーシス、オートファジー、ルビコン、エピゲノム・・・

例示したような専門用語は、例えば今年の1月に読んだ『免疫「超」入門』吉村昭彦(講談社ブルーバックス2023年)にも出てきたと思うが、その意味は既に忘れているが、ヒトの体の加齢に伴って自然免疫も獲得免疫も働きが低下するということ、いや免疫機能だけでなくあらゆる機能が低下するということはさすがに知っている。

実に用心深くできている免疫システムの解説を読んでいて、コロナワクチンって免疫システムを混乱させるんじゃないのかなと思った。必要な免疫反応をしなかったり、過剰に反応したり(サイトカインストーム)。『免疫「超」入門』を読んだ時も同じ様に思ったけれど。手足口病などのウイルス性疾患が流行しているのはそのせいじゃないのかな、などと考えてしまう・・・。

第3章  健康長寿への道  ―  加齢関連疾患とつきあうでは、加齢とともに老いる体に表れる様々な病状の解説と、それらと如何につき合うかが論じられている。




2024年1月22日付信濃毎日新聞科学面(9面)より

上掲した新聞記事には「睡眠時間  年齢とともに短く」「無理に寝なくてもいい」という見出しで睡眠時間やその質が加齢に伴って変化することについて書かれている。ぼくはこの記事を読んで、そうなんだと安心感を覚えた。それで記事を取っておいたが、この本でも第3章の17節「眠りをそれほど必要としていない高齢者」に掲載されている。新聞連載時と同じ構成ということが判る。

本書の最後(第3章  第24節)の見出しは「人生の実りの秋(とき)を豊かに過ごすために」。これは高齢の読者へのエールだろう。


 


「水中都市・デンドロカカリヤ」を読む

2024-08-13 | A 読書日記


 安部公房の短編集『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫1973年発行、1993年25刷)再読。1993年に読んだのであれば31年ぶりの再読ということになる。

表題作の『水中都市』についてカバー裏面の本書紹介文から引く。**ある日突然現れた父親と名のる男が、奇怪な魚に生れ変り、それまで何の変哲も無かった街が水中の世界に変ってゆく(後略)** 

安部公房の代表作『箱男』が映画化され、今月(8月)23日に公開される。もし、この『水中都市』も映画化されれば、描かれているあるシーンの映像は直視できないと思う。そのくらいホラー。

上の紹介文は次のように結ばれている。**人間存在の不安感を浮び上がらせた初期短編11編を収録。そう、既に書いたけれど、人間が存在することとはどういうことなのかという問いかけ、これは安部公房がずっと問い続けたテーマだった。

収録作品では『手』が印象に残った。主人公のおれはどんな人物なのか、と思って読み進めると、かつて伝書鳩だったということが判る。飼い主は鳩班の兵隊だった。戦争が終って、その鳩は見世物小屋でマジックに使われ、その後、はく製になる。そして「平和の鳩」というブロンズ像になり、それから秘密工場に運ばれて溶解され、別の工場に運ばれて様々なものに加工され、一部はピストルの弾になる。おれをつめ込んだピストルが狙ったのは・・・。展開の意外性。

『プルートーのわな』はブラックなイソップ、という感じ。ねことねずみの物語。あまり安部公房的ではないとおもうけれど、おもしろい。

『闖入者』はある日突然、一人暮らしの男の部屋に見知らぬ家族がやってきて、あたかも自分たちの部屋であるかのように居座り続ける。男を小国、家族を大国に、あるいは家族を日本に置き換えれば、侵略戦争の理不尽さを描いた作品とも取れるかもしれない。いや、暗喩的な表現だと解さない方が良いのかもしれない。ドナルド・キーンが解説で**説明できないところにこそ安部文学の魅力が籠っているのである。**(268頁)と書いているように。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫23冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印の5作品は絶版)

今年(2024年)中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。8月12日現在14冊読了。残り9冊。月2冊のペースで年内に読了できる。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月


木曽義仲の母の墓

2024-08-10 | A あれこれ

 木曽義仲の松本成長説を押したい気持ちは身びいき故か。いや、義仲を庇護した中原兼遠は信濃国権頭(権守)であり、国府で政務に就いていたこと。そして国府は松本にあったとする説が有力であること(当時の公道である東山道は木曽谷ではなく伊那谷を北上、松本を通っていたことも国府が松本にあったことの傍証となるだろう)。義仲が信濃国で育ったのは1155年ころから1180年ころまでの期間であり、このころ木曽は信濃国ではなく美濃国に属していたとされていることなどから(*1)、通説である木曽成長説より妥当性が高いと判断されることに因る。

長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。この寺は塩尻市洗馬、明治初期まで木曽川と呼ばれていた現奈良井川の左岸の段丘の上にある。今日(10日)出かけてお参りしてきた。


長興寺 山門 2024.08.10


本堂脇に設置されている「木曽義仲御母堂の墓」の説明板

説明文には次のように記されている。**二歳の時、父義賢が甥の悪源太義平(中略)に討たれたため、母小枝御前と共に畠山重能や斎藤別当実盛に助けられ、信濃権守である中原兼遠がいた信濃国府(松本市)に逃れてきました。** 








木曽義仲の母小枝御前の墓 左側の刻字は寛永十七年庚辰九月吉日と読める(初めの二文字(?)は読めない)。寛永十七年は1640年。

夫を殺害され、幼子と共に信濃国筑摩郡まで逃れてきた小枝御前はどんな気持ちだっただろう・・・。


*1 **鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と木祖村藪原を結ぶ峠で、国境に位置しているため、中世には戦いが何度も行われた信濃国と美濃国の境として歴史のある峠です。**

木曽風景街道推進協議会のHPより

この説明で平安末期には木曽地域が美濃国に属していたことが判る。 


木曽義仲 木曽成長説と松本成長説

2024-08-10 | A あれこれ

 「木曽義仲 松本成長説」改稿

木曽義仲、幼名・駒王丸。出生地は武蔵国、現在の埼玉県と伝えられる。義仲の父の義賢は義朝との兄弟対立で、義朝の息子・義平(義賢の甥、義仲のいとこ)に討たれる。まだ2歳(もしくは3歳)の駒王丸にも義平から殺害の命が出されたため、義賢に旧恩のあった斎藤実盛の手引きで信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃れ、木曽で育ったとされる。

さて、ここから義仲が通説通り木曽で育ったのかどうかについて書いてみたい。

 
前稿で長野県立歴史館で開催中の夏季企画展「疾風怒涛  木曽義仲」について書いたが、館内で入手した「長野県立歴史館たより」(写真)も上記のことに触れている。記述によく分からないところがあったので、今日(9日)県立歴史館に電話して記事の担当者に伺った。

木曽義仲 「木曽成長説」と 「 松本成長説」

木曽義仲は信濃国のどこで育ったのか。通説の「木曽義仲 木曽成長説」と歴史学者(*1)が唱えた「木曽義仲  松本成長説」があるわけだが、木曽歴史館でも松本歴史館(仮にこのような歴史館があるとして)でもなく、長野県立歴史館であれば、決定的な証拠がない限り、どちらかに組するような記事は書けない。従って具体的な記述を避けた曖昧な記述になっている。担当者の話の内容を私はこのように理解した。

**義賢のもとにいた駒王丸は(中略)信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃がされました。当時の信濃国府は筑摩郡にありました。国府から近い木曽周辺に拠点があったと考えられます。** 

「長野県立歴史館たより」のこのような記述について、信濃国府が筑摩郡のどこにあったのかについて触れていないことと、拠点が何を指しているのか分からないので文意が理解できないと書き、続けて国府は松本の惣社あたりにあったという説が有力だという(*2)。惣社という地名もそのことを暗示しているように思われる。そうだとすると、引用文にある国府から近い木曽周辺ということは理解できない。木曽は鳥居トンネルがある現在でも松本から遠いからと書いた。

*2 『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)は次のように記述し、国府は松本にあったとしている。**古代に信濃国の国府が筑摩郡下に置かれた。国の政庁がおかれた地域は府中といわれたので、松本は単に「府中」とか信濃国の府中という意味で「信府」とも呼ばれた。** 

だが、記事の担当者の話を伺った今は引用文のような表現も仕方がないのかな、とも思う。木曽がどこを指すのか、現在の木曽とは違う地域を指すのかもしれないし(*3)、仮に今の木曽と同じ地域だとしても、その周辺という曖昧な表現だと、松本地域も近いという捉え方もありかな、と思わないでもない。加えて近いとか遠いというのは相対的な概念ということでもあるし・・・。

*3 ウィキペディアの「木曽義仲」には**現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある。**と書かれている。このことについて朝日村のHPには次のような記事が掲載されている。また同HPの別のところには下の地図が掲載され、桂入堤と加筆されている。


木曽部桂入とは現在の朝日村西洗馬三ヶ組辺りを指す。地図に三ヶ組と表記されている(光輪寺 卍 の右下)。桂入は現在もある。



*3 また、明治初期まで松本を流れる奈良井川も木曽川と呼ばれていたという。このことから松本平南部も木曽と呼ばれていたのかもしれない。木曽部桂入という古い地名もこのことに因るのかもしれない。この奈良井川沿いにある長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。


コトバンクによる。

兼遠の庇護のもとで育った義仲


先に書いたように信濃国府は松本の惣社辺りにあったとする説が有力のようだ。そう、東山道が通る松本にあったとするのが妥当な判断ではないか。だから中原兼遠は木曽(今の木曽)ではなく、松本にいて政務を執っていた。中原兼遠が木曽(今の木曽)にいて、そこから松本まで通ったとは到底思えないから。

そもそも当時、木曽(今の木曽)は信濃国ではなく、美濃国の領地ではなかったのか(このことについてはネット検索すると記事がいくつも見つかる。木曽がいつ信濃国に組み込まれたのかを示す決定的な史料はないようだが、鎌倉時代もしくは室町時代に美濃国から分離され、信濃国筑摩郡に編入されたとウィキペディアにはある)。

義仲は兼遠の庇護のもとで育っているわけだから、やはりその地は上述した理由から木曽(今の木曽)ではなく、松本だとする方が無理がなく妥当ではないかと思う。

「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者・重野安繹

記事の冒頭に書いたように、通説「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者がいた。このことについては2022年4月20日の記事に書いた(過去ログ)。

以下その記事から抜粋して再掲する。


*1 その歴史学者の名は重野安繹(しげの やすつぐ)。このことについて調べて、重野博士が明治27年9月30日に旧制松本中学で「木曽義仲の松本成長及佐久挙兵説」を講演していること、そしてその抄録が「松本市史」に収録されていることが分かった。松本中央図書館で「松本市史」を閲覧した(2022.04.19)。

「松本市史」上巻103頁
重野博士は木曽山中を義仲の成長地とする説について**余は其必ず誤謬なるを思ふ者なり。**と強く否定している。(上掲写真)
抄録を読み進むと、**兼遠は當時信濃國の權守なりしが故に信濃に來りしなり。**と信濃国に逃れた理由を説明している。で、当時の木曽について**兼遠の時代には中々人を成長せしむべき處に非りき。**としている。

**中原兼遠は名こそ權守なれど其實は國守なりしなり。**だから、**若し義平が攻め來るとも四方の嶮崕を鎖して之を防がば、毫も恐るべきに非ず、何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや。**(104頁)と説き、**義仲は決して木曾山中に成長せし者に非ずして、必ず此松本に成長せし者なるべしと思うなり。**と結ぶ。(太文字化したのはわたし)重野博士は義平は義仲をさほど厳重に捜索しなかったとも述べている。


義仲が育ったとされる木曽は距離的に離れすぎている

義仲は兼遠の息子の樋口兼光、今井兼平と共に遊んだとされている。このことについて重野博士は**義仲四天王中の樋口兼光、今井兼平は共に中原兼遠の子なり。**と紹介、続けて**兼光の居住したる樋口村は鹽尻村の彼方に今も尚残り、兼平の居住したる今井村は現に東筑摩郡中に在り、義仲は實に松本今井樋口の間に成長し、兼光兼平と共に遊びたりし人なり。**としている(104頁)。

抄録中の鹽尻村(現塩尻市)の先にあるという樋口村は現辰野町樋口、東筑摩郡今井村は現松本市今井(今井には今井兼平が中興の開基といわれる宝輪寺がある)。義仲、兼光、兼平の3人が子どものころ一緒に遊んで育ったということになると、義仲が木曽(今の木曽)で育ったとする説にはやはり無理があると思う。義仲が通ったとするには木曽(今の木曽)は距離的に離れすぎている。

文中の下線部、松本今井樋口の間とはどこなのか・・・。それが、朝日村木曽部桂入周辺、即ち朝日村西洗馬三ヶ組というわけ。「木曽義仲  松本成長説」を支持し、義仲は松本の隣・朝日村で育ったのだという説を紹介したくて、本稿を書いた次第。


 


疾風怒涛 木曽義仲

2024-08-08 | A あれこれ

① 
 今年(2024年)は木曽義仲没後840年に当たるそうだ。長野県立歴史館(千曲市)で夏季企画展「疾風怒涛  木曽義仲」が開催されている(会期:8月25日まで)。

2日に出かけて展示品を観てきた。会場には義仲の生涯の主要なエピソードが描かれた屏風などが展示されていた(①)。




会場内の展示品は撮影が許可されていた(「木曽義仲木像」義仲寺像を除く ストロボ使用不可)。

③ 篠原の合戦(石川県加賀市) 斎藤実盛(さねもり)の最期

義仲の命の恩人斎藤実盛(⑤参照)は平家方として義仲軍と対峙。白髪を染めて名を秘して出陣していた老齢の斎藤実盛は義仲方の手塚別当光盛によって討ち取られた。その頸を洗うと黒髪が白髪に戻った。実盛であることが判り、目頭を押さえる兼光(右)と木曽義仲(左 立位)。(配布資料の説明を基にした)



木曽義仲最期図屏風 深田で討ち死にする義仲(1184年 義仲は近江国粟津で討ち取られた)



中原兼遠のもとで育った義仲。その場所は・・・。 次稿に続く





「帰郷」を読む

2024-08-06 | A 読書日記


 浅田次郎の『帰郷』(集英社2016年 図書館本)を読んだ。

太平洋戦争で激しい戦闘が繰り広げられた沖縄戦で生き残った指揮官と戦死した部下の遺族の往復書簡をめぐる実話『ずっと、ずっと帰りを待っていました』浜田哲二・浜田律子(新潮社2024年)を読んでいたので、図書館でこの本が目に入ったのかもしれない。

表題作の「帰郷」ほか5編を収める小説集。印象に残ったのは「帰郷」だった。終戦直後の新宿で復員したばかりの古越庄一は体を売って日々を食い凌ぐ女に声をかける。マリアという通り名のその女は綾子。

**「金ならこの通り持っているが、あんたを買うつもりはないんだ」
(中略)
「どこかで、俺の話を聞いてくれないか」**(11頁)

連れ込み旅館の一室で庄一は綾子に出兵から復員直後までの出来事を語る。庄一の出身地が信州松本ということ、そして綾子も信州だったことが、この物語にぼくを引き込んだ。

復員して神戸港から名古屋へ。そして中央線に乗り継ぎ、松本駅に着いた庄一は義兄(二番目の姉の亭主)の三郎に声をかけられる。

**「なあ、庄ちゃ。聞き分けてくれねえか」
ぴったりと俺に体を寄せ、うなだれた頭を合わせるようにして、三郎さんは言った。
「僕と出くわしたのは、偶然なんかじゃねえぞ。きっと、諏訪の大神様の思し召しだ。だでせ、庄ちゃ。ここは何も言わねえで始発の汽車に乗れってこっさ。どっかに落ち着いたら、松本高校の気付けで便りをほしい」
三郎さんは懐を探って、ありったけの金を俺の掌に握らせた。(後略)**(42頁)

庄一は西太平洋のテニアン島で戦死を遂げたと戦死広報が伝えた。庄一の家では葬式を出し、墓石も建てた。妻の糸子は庄一の弟の精二と再婚していた。庄一のふたりの娘・夏子と雪子は精二の子になり、**「あんなあ、庄ちゃ。糸子さんの腹の中には、精ちゃの子がいるずら」**(44頁)と三郎は庄一に伝える。

**「夏子も精ちゃをおとうさんと呼んでるずら。雪子ははなから、精ちゃを父親だと信じてるがね。糸子さんも了簡してる。な、庄ちゃ。僕は誰の肩を持ってるわけじゃねえでせ、庄ちゃも了簡しとくれや」**(44頁)

生きて帰ってきて、松本駅で義兄に説得される庄一。**(前略)糸子をねぎらい、夏子を膝に抱き、まだ見ぬ雪子に頬ずりをしたかった。**(44頁) 

ああ、これを戦争の悲劇と言わずして何と言う。三郎に説得され、新宿に出てきた庄一は綾子に声をかけたのだった。

宿の一室で綾子に一通り話をしてから、庄一は言う。

**「あんたに頼みがある」
(中略)
「俺と一緒に、生きてくれないか」**(48頁)

もうだいぶ前のことだが、浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』(集英社文庫)を読んで、涙小説だと書いた(過去ログ)。表題作の「帰郷」も涙小説、切なくて何回も涙があふれた。

この先、庄一と綾子はどう生きて行くのだろう。ふたりが歩む人生物語を読みたかった。短編なのは残念。





城も高さかせぎ

2024-08-04 | A あれこれ

『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)に掲載されている麓 和善・名古屋工業大学名誉教授の特別寄稿「日本城郭史上における松本城天守の価値」を読んだことを前稿に書いた。

ポイントは**松本城天守は、豊臣政権による徳川家康への牽制・威嚇という戦略的意味が込められ、いまだ技術的には望楼型の時代に、5重の天守としての威容を誇示するために、外観意匠のみ層塔型として作られた。**(260頁)というものだった。

このことに関連して、麓さんは犬山城天守と松本城天守の規模の違いについて次のように説いている。**天守台石垣が同規模であるのにもかかわらず、なぜ犬山城天守は3重とし、松本城天守は5重としたのであろうか。それは天守の立地、すなわち犬山城は平山城で、天守は小高い丘陵の上に立っているのに対して、松本城は平城で、天守は平地に立っていることに起因する。**(259頁)

**藩政を担う城主の権力の大きさと、城主によって守られた城下町の繫栄の象徴としての意義が天守にはあり、それが天守の高さに表れていると考えている**(243頁)という麓さんの見解だが、小高い丘陵の上であればそれ程の高さを要せず、それが可能という訳。

目的は違うけれど、火の見櫓の立地でも同様のことがいえる。小高い場所に立っている火の見櫓はそれ程高さを要せず低いことが多い。ぼくはこのことについて「高さかせぎ」ということばで説明している。天守の立地にも「高さかせぎ」が当てはまるということを、この寄稿で知った。


高さかせぎ 山梨県身延町古関 2022.12.11