透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

辻邦生の山荘

2013-11-29 | D 新聞を読んで




信濃毎日新聞131128付朝刊27面

 作家・辻邦生の軽井沢の山荘が来年から一般公開の予定 という記事が載った(写真)。記事に**木造2階建て延べ約110平方メートルの山荘は、夫妻同士で親交があった建築家磯崎新さんの設計で、1976(昭和51)年に建築。斜面を利用し、屋根から樹木が突き出ている。(後略)**とある。

外観写真をよく見ると確かに樹木が2本屋根から突き出ている。藤森照信さんなら分かるが、磯崎新さんが屋根から樹木を突き出すような設計をしていたなんて・・・。

既存樹木の伐採を制限する町の条例があるのかもしれない、辻さんが強く希望したのかもしれない。意外にも磯崎さんが提案したのかもしれない。

山荘は軽井沢高原文庫が遺族から寄贈を受けたという。補習工事をして来年から公開する予定だそうで、書斎には蔵書や書きかけの原稿がそのまま保存されているそうだ。

山荘そのものにも興味があるし、書斎の様子にも興味がある。公開されたら是非見学に行きたい。




 


杼(ひ)

2013-11-28 | D 新聞を読んで


信濃毎日新聞 131124付朝刊22面(全面広告)

 不思議なことに、あることに関心を持つようになると、急にそのことに関する情報が入ってくるようになります。ラジオの周波数をある放送局に合わせるようなものなのかもしれません。

鄙里に今春越してきたHさんは織物が趣味の方、織物の話しを聞くうちに無関心ではいられなくなりました。で、先日この新聞記事を読みました。

かつてここ信州は蚕糸王国と呼ばれるほど養蚕、製糸が栄えた、ということは知っています。でも信州紬って何?と問われても私は明快に答えることができません。ここに(汗)と付けるところでしょう。

新聞記事にその説明があります。**紬の歴史は江戸時代に遡ります。当時、絹織物は武士や貴族の着物。唯一庶民に許されたのが、出荷できない「くず繭」から紡いだ紬でした。(中略) 農家が自ら糸を紡ぎ、織ったのが信州紬の始まりです。もともと信州産生糸は品質が高く、素朴な風合いや手入れが楽なことで人気になりました。**  なるほど。

かつて信州のほぼ全域で織られていた信州紬も、今では生産地が松本、伊那、飯田、上田などに限定されるそうです。記事に紹介されている生産過程は糸ごしらえ、染色、整経、織り。

横糸の先につけるものの名前を知りませんでした。杼(ひ)というんですね。先日Hさんと話していて「横糸につける鰹節のような形をしたものは何て言うの?」と聞いて、教えてもらいました。

シャトルとも言うと聞きましたが、シャトルについては、スペースシャトル、バドミントンのシャトルと同じ意味だと分かりました。「行ったり来たりするもの」という意味ですね。このことをHさんに話しました。

上下に分けられた縦糸の間を横糸を左右に通して布を織ることくらいは知っていました。テレビの旅番組で出演者が織りを体験する様子を見たこともあります。

横糸を通した後の打ち込みが弱いと生地も弱いものになってしまうそうですが、このあたりに織る人の性格というか、個性が出るんですね。

全ての工程を自分でして着物をつくる・・・。いいですね、こんな趣味があったら。

自分で布を織ってみようとは思いませんが、織るところを見学してみたいとは思います。そう念じていればいつか実現するでしょう。


 


なぜ左右非対称になったのか

2013-11-24 | A あれこれ



 参拝券を見ると法隆寺西院伽藍の様子がよく分かる。

回廊の中で五重塔が西側、金堂が東側の横並び配置になっている。法隆寺式伽藍配置と呼ばれる配置だ。ちなみに右側後方の新しい建物は平成10年に完成した大宝蔵院。ここに教科書にかならず載っている玉虫厨子と百済観音が安置されている。

手元にある資料を見ると、山田寺では中門、塔、金堂が一直線上に配置されていて、左右対称になっている。飛鳥寺は塔を囲むように金堂が3棟(西金堂、東金堂、中金堂)配置され、それらを回廊が囲む構成になっていて、やはり左右対称だ。

先日(16日)法隆寺を訪ねたが、その時は中門に立ってしばらく横並びの五重塔と金堂を眺めていた。手前から五重塔、金堂、講堂と直線状に配置されていたら味気ないだろうなと思った。五重塔と金堂、左右の絶妙なバランスを味わうことができないのだから。

なぜ左右対称の形式で伝わった伽藍配置が左右非対称になったのか。

大陸から伝わった左右対称の伽藍配置は日本人の感性には合わなかったのだろう。日本人の美的感性に合った、周辺の自然環境に同調するような配置を求めた結果だろう(などといつか書いたことを繰り返す・・・)。

でも左右非対称の理由、これがホント!?


 


繰り返しの美学な光景 in 京都

2013-11-23 | B 繰り返しの美学





JR二条駅  どうらや編み笠門をモチーフにしたようだ。外観は編み笠門そのもの。ユニークなデザインの駅だ。集成材のトラスによる架構。15日、この駅で地下鉄東西線からJR嵯峨野線へ乗り換えて嵯峨野へ移動したのだった。




16日の朝、JR京都駅で奈良行の電車を待つ。



原 広司設計の京都駅ビルの南壁面 単純な繰り返しにはしないという原美学。


 


東寺の伽藍配置は何を意味しているのか

2013-11-23 | A あれこれ

 『東寺の謎 巨大伽藍に秘められた空海の意図』三浦俊良/祥伝社黄金文庫を読んだ。


□配置図



□講堂内諸尊配置図

興味深い内容の本だが、この伽藍配置についても空海は曼荼羅を手本にしていると説く。**空海は国によって計画された伽藍配置をほぼ踏襲しながら、東寺の伽藍配置を使って、その上に密教の教えを映し出す巨大な空間を描いていった。**(38頁)

伽藍のほぼ中央に講堂があって、さらに講堂の真ん中に真言密教の主尊である大日如来を安置してる。このことは上の配置図と下の講堂内諸尊配置図(ともに東寺のリーフレットから転載した)から確認できる。

また著者は五重塔について次のように指摘する。**東寺には釈迦と大日如来、神々と仏、敵と味方、異国とわが国の共存がある。釈迦と大日如来の共存は五重塔で見ることができる。五重塔は釈尊の遺骨を安置するという役割を担うとともに、空海はこれを大日如来の身体とその働きと見なした。**(41頁)

また五重塔については次のように分かりやすく説明している。**五重塔はインドのストゥーパが起源である。ストゥーパとは、釈迦の遺骨を安置する舎利塔で、当初は土饅頭の形をした墳墓であった。仏教とともに中国に渡り、中国で楼閣建築と結びついて何層にもおよぶ塔になった。そして、わが国に伝えられ、いまのようなスタイルに変化していった。**(108頁)

五重塔内部の様子については次のように説明している。**四天柱のなかに須弥壇をもうけ、中心の心柱を背にして金色の四如来を安置した。東に阿閦(あしゅく)、南に宝生、西に阿弥陀、北に不空成就を配し、その如来の脇侍に八大菩薩像をおいた。**(108頁) この配置は講堂内と同じだから上の図で確認できる。

では肝心の大日如来は?

空海は心柱を大日如来と見做したのだという。これが一般的な解釈かどうか分からないが、なるほど!な説明だ。

遷都当初、平安京では官寺である東寺と西寺しか建立が許可されなかったそうだ。歴史に疎いし、いままで東寺について調べたこともなかったから、東寺が大火災に遭って存亡の危機にさらされたこともあったということはこの本を読むまで知らなかった・・・。現に西寺は今は無い。

旅行前にこの本を読んでいたら、「秋 古都の旅」で見学の優先順位が違っていただろう。次回はこの本がすすめる櫛笥小路から北大門に至るコースで東寺にアプローチしてみたい。


 過去ログ 『マンダラの謎を解く』


「印象派を超えて 点描の画家たち」

2013-11-23 | A あれこれ



■ 20日の午後、東京都内で開催されたあるセミナーに参加した。早朝松本を発って国立新美術館で現在開催中のこの展覧会を観る時間を確保した。

点描の画家と聞いて真っ先に浮かぶのがスーラだ。スーラの描法はゴッホやモンドリアンに多大な影響を与えたとリーフレットにある。チケットに採用されているゴッホの「種まく人」も点描画だと言えなくもないだろう。



国立新美術館の空間構成は実に分かりやすく、この大きなホールに入ると、展覧会場が一目で分かる。会場が分からないなどということはない。



会場は以下の5つのセクションで構成され、約100点の作品が展示されている。

Ⅰ 印象派の筆触
Ⅱ スーラとニャック 分割主義の誕生と展開
Ⅲ ゴッホと分割主義
Ⅳ ベルギーとオランダの分割主義
Ⅴ モンドリアン 究極の帰結

いいなと思う作品は出品作品リストに簡単なメモを記しながら観ていった(許可されている筆記具は鉛筆だけで、受付で借りることができる。このことはどの展覧会でも同じだろう)。



 私がいいなと思った作品のほとんどが絵はがきになっていた。ということは独自の鑑賞眼を持っていないということだろうか・・・。一番印象に残ったのはゴッホのこの「麦束のある月の出の風景」という作品。

シンプルな構成の風景画。大胆にそして力強く月明かりの風景を描いているが、不思議なことに静寂な空気を感じる。



 これはポール・シニャックという画家の「マルセイユ港の入口」という作品。この絵を前に「スーラに倣った描法、あたたかみのある夕景、朝にも見える明るさ」とメモした。



 これはゴッホの「ルピーヌ・デュ・ロワ運河の洗濯場」という絵。スケッチをこういう線で描いてもいいかもしれないな、と思った。常に同じ描き方をする必要などない。



 これは私が好きなモンドリアンの作品。「色彩のコンポジションB」という名前が付けられている。「第一次世界大戦の勃発によりオランダに留まることを余議なくされたモンドリアン 1917年 転換期を迎える 自然のモチーフから抽象へ」 これは作品に添えられている紹介文のメモ。垂直と水平の黒の太い線と色面によるシンプルな構成。モンドリアンの絵はやがてもっと単純化されていく。

モンドリアンの風景画も展示されていた。「突堤の見えるドムブルフの浜辺」は単純な浜辺の光景を描いている。いや、単純化して描いているのかもしれない・・・。モンドリアンの抽象志向が分かるような絵だ。


目にした瞬間、いい絵だな、好きな絵だなと思った作品だけをじっくり鑑賞するという方法を採ればあまり時間をかけずに済む。時間がないときはこの方法に限る。


東寺

2013-11-20 | A あれこれ

秋 古都の旅19

 秋篠寺で伎芸天に会うことができた。これで今回の古都の旅で予定していた寺院を全て訪ねたことになる。すこし欲張ってあちこち見て歩いたので疲れたが充実していた。


秋篠寺 南門

法隆寺から秋篠寺へと移動したことで奈良のスケール感をつかむことができた。再び奈良を訪れる際には有効だろう。


バッテリー切れとなって・・・、これが最後の1枚。

近鉄線の平城駅まで歩く。京都駅のひとつ手前の東寺駅で下車して、東寺へ向かう。東寺の五重塔は総高 約55メートル、現存する五重塔で最大で京都のランドマークとなっている。テレビドラマでもまずこの塔が映し出されて「京都」と表示される。

この塔は過去4回も焼失しているという。現在の塔は江戸時代の初期(1644年)に徳川家光の寄進によって建てられた、ということがリーフレットに紹介されている。

法隆寺の五重塔に比べてデザインが洗練されている。いや、加工精度・施工精度が上がったことによりそのように感じるのかもしれない。法隆寺の五重塔は素朴な印象で、手づくり感があった。

時間的に余裕がなく、東寺では講堂の仏像だけ拝観することにした。堂内壇上には大日如来座像を中心に、21尊もの仏像が安置されている。曼荼羅世界を表現したものだという。

秋篠寺でひたすら美しい姿を求めたとしか思えない天女・伎芸天を観た後なので、いかにも古の仏といった雰囲気が漂う、観る者を力で圧倒するような姿には馴染めなかった。ただ、帝釈天の整った顔立ちは理知的で美しいと感じた。



暮れなずむ京都・・・、歩いて京都駅に向かう。駅の書店で『東寺のなぞ 巨大伽藍に秘められた空海の意図』三浦俊良/祥伝社黄金文庫を買い求めた。 

新幹線のぞみ、中央線しなのと乗り継いで 予定通りの帰宅で秋 古都の旅を終えた。


 今回訪ねた古都の寺院はどこも個性的で魅力的でした。

再訪する機会があるよう願って、「秋 古都の旅」の稿を終わりにします。


秋篠寺の伎芸天 その2

2013-11-18 | A あれこれ

秋 古都の旅18

 奈良時代に創建された秋篠寺には金堂、講堂、東西両塔などがあったそうだ。平安時代に講堂を残して焼失、江戸時代以降、いまの佇まいになったという。

本堂に向かって左側面の出入口からほの暗い堂内に入った。壇上の一番手前に伎芸天が安置されていた。

伎芸天にやっと会えた・・・。

顔を少し左に向け、わずかに傾けている。そのもの憂げな表情は僕の好み。天衣をまとう腰を少し右に寄せて立つたおやかな姿はあのミロのビーナスに比して劣らないだろう。堀辰雄はこの天女を東洋のミューズと評したという。

リーフレットにこの天女について**頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像。**と簡潔に記す一文がある。天平時代につくられたが、災禍のために破損した胴体を鎌倉時代に仏師が木彫で補った仏像。そう、伎芸天は天平と鎌倉の仏師の合作なのだ。仏師の美的感性に拍手!!

遠近、左右 いろんな位置に立って美女(と敢えて書く)を見つめた。視線を返されたような気がした。僅かに開いた口からどんな声でどんなことばを発するのだろう・・・。

諸々のみ佛の中の伎芸天
何のえにしぞわれを見たまふ            川田 順




 


秋篠寺の伎芸天 その1

2013-11-18 | A あれこれ

秋 古都の旅17

 秋 古都の旅は1から17まであります。

伎芸天に会いたいとブログに書いたのは2009年5月のことだった。あれから4年半、ようやく念願がかなった。

法隆寺を後にしてJR線で奈良駅まで戻った。旧奈良駅舎については詳しくないので調べてみると、1908年(明治41年)の竣工だと分かった。瓦葺きの方形の屋根で、頂部に相輪があり、その上には水煙もある。高架化工事に伴って、 2004年(平成16年)5月に曳家により約18メートル移動したそうだ。今も観光案内所として現役。



旧奈良駅

案内マップを見ると奈良駅から秋篠寺まではだいぶ距離がありそうだ。近鉄奈良線で大和西大寺駅まで行くことにして新大宮駅まで歩いた(16日の歩数は約21,000歩、2日間の合計が約44,700歩。仮に歩幅を0.5メートルとすると、距離は22キロメートルにもなる)。

大和西大寺からはタクシーで秋篠寺へ。



タクシーを降りてこの東門から境内へ。



それ程広くはない境内だが、美しい庭園を鑑賞しながら本堂へ導くように動線が工夫されている。







本堂(旧講堂)

シンプルでバランスのよい本堂。奈良時代の創建で、焼失後鎌倉時代に大修理を受けたと寺のリーフレットにある。

ようやく伎芸天に会える・・・。

続く・・・


 


445 法隆寺参道脇の火の見櫓

2013-11-18 | A 火の見櫓っておもしろい

秋 古都の旅16

 
445





 法隆寺の参道脇に立つこの塔に気がつき、帰路、立ち寄ってみた。蔵をモチーフにしたデザインの斑鳩町法隆寺消防センター・斑鳩町消防団第二分団詰所に合わせて、屋根は瓦葺きだ。

半鐘は無かったが(今では珍しいことではなくなった)、消火ホースの乾燥塔として使われていることやサイレン、スピーカーが設置されていることから、火の見櫓の後継と見た。

瓦葺きの屋根の火の見櫓だってもちろんあり得るわけだが、実際に見たのは初めて。


 


444 あっ 火の見櫓!

2013-11-18 | A 火の見櫓っておもしろい

秋 古都の旅15

 
444 斑鳩町(JR法隆寺駅の近く)撮影日131116











 京都駅からJR線で法隆寺まで出かけた。駅から法隆寺までは1.5kmくらいだと思う。このくらいの距離なら歩くところだが、少しお疲れモードで駅前から法隆寺行きのバスに乗った。

しばらくして火の見櫓が目に入ってきた。想定外な出来事に途中下車しようかとも思ったが、帰りに立ち寄ろうと思い直した。 ラッキーだった。バスのコースは少し遠回りしているから、徒歩では見つけることができなかったと思う。

法隆寺からの帰路は歩き。まわり道をしたが火の見櫓に到着することができた。火の見櫓の隣の分団詰所に「斑鳩町消防団第三分団車庫」という看板が掲げてあった。そうだった、ここは斑鳩町だった。

「所変わればデザイン変わる」 普段目にしている火の見櫓とはだいぶ姿形が違う・・・。背の低い簡易な送電鉄塔のような雰囲気ではないか。屋根がないし、ブレースはごつい。でも、詰所に寄り添う微笑ましい姿はこの辺りの火の見櫓と変わらない。


 


法隆寺2

2013-11-18 | A あれこれ

秋 古都の旅14






裳階の大和葺き屋根 上面を山形にしている。なるほどな形。

卍崩し組子と人字形割束



雲斗雲肘木(くもとくもひじき)。 先端のつっかい棒は江戸時代に設置されたとか。はじめは柱だけだったが後年それじゃ寂しいと龍を巻き付けたのだそうだ。

ここにつっかえ棒がなくてもバランスしていたとは感覚的にはピンと来ない。江戸時代まで問題なかったのだろうか・・・。




東回廊 繰り返しの美学!



回廊の軽やかな格子越しに見る紅葉 この格子についても和辻哲郎が『古寺巡礼』に書いていた。




経蔵



大講堂正面



綱封蔵(こうふうぞう)



高床の大きな蔵。中間の3間が吹き放しという構成。デザインがモダン、惹かれる・・・。



東大門





夢殿


特別展だったのだろうか、大宝蔵院で国宝の百済観音とやはり国宝、あの玉虫厨子を見ることができた。

仏像というと、どちらかというとずんぐりタイプが多いという印象だが、百済観音は実にスレンダー。こちらの気持ちに同調してもらえるような慈悲深い雰囲気が漂っていた。


法隆寺1

2013-11-18 | A あれこれ

秋 古都の旅13

16日(土) 朝7時過ぎの電車で奈良に向かう。JR法隆寺駅からバスで法隆寺へ。



南大門



南大門からの眺め 中門と五重塔 離散的な人の配置がおもしろいと思って撮った。なるほど確かに中門の真ん中に柱があるとひとり納得。



中門から正面の大講堂を望む。



この方向から見るのが一番美しい。

『古寺巡礼』岩波文庫に和辻哲郎は五重塔をいろんな位置から鑑賞していることを書いている。左側手前に金堂、五重塔の東面を見る。この塔の逓減率を知りたいが手元にあるはずの資料が出てこない・・・。

追記:『五重塔入門』藤森照信、前橋重二/新潮社にこの塔について**ぜんたいとしてシンプル、かつ力強く、大きな逓減率(五重の総柱間は初重の50%)がかもしだす安定感とあいまって、盤石の構えといった印象**(29頁)という記述があった。



金堂越しに見る五重塔 金堂と五重塔のデザインに共通する要素が多いので、姿は違うけれど統一感というか、一体感がある。



裳階の板屋根を受ける挿肘木の先に三斗をのせて出桁を受けている。軽やかなような、先端が重すぎるような・・・、印象が定まらない。繰り返しの美学な構成。





相輪 九輪と水煙、てっぺんの宝珠。 先端のデザインに注目。