透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

日本大正村へ

2010-10-31 | A あれこれ
■ 昨年の11月に郡上八幡(←過去ログ)を訪ねましたが、その時と同じメンバーで今日(31日)、岐阜県恵那市明智町の日本大正村を訪ねました。明智町はかつて蚕糸で栄えたところです。

心配していた天気でしたが、メンバーの日頃のおこないがいいのか、大正村では小雨がときどきぱらつく程度で傘をさすことなく歩くことができました。

大正時代の雰囲気を色濃く残す街並み観察。明治39年に建てられたという町役場庁舎(登録有形文化財)、木造4階建ての繭蔵、逓信資料館。嬉しいことに火の見櫓もありました!

写真をアップしたいところですが、Y君の車にカメラを置き忘れてしまいました。明日、紹介したいと思います。

Y君、Mさん、お疲れ様でした。

木造校舎

2010-10-31 | A あれこれ


鎌倉市立御成小学校の旧講堂 昭和8年建設 060624

 木造平屋の旧講堂、その屋根に載るふたつの櫓。これは換気用ではないかと思う。過去に取り壊しも検討されたようだが、長い年月ここに学ぶ子どもたちを見てきた講堂を残したのは賢明だった。


『懐かしの木造校舎』作品社

連綿と受け継がれてきた歴史と文化を断ち切ってしまった事例のなんと多いことか・・・。


107 糸魚川の「火の見櫓」

2010-10-30 | A 火の見櫓っておもしろい


107

 コンクリート製の一本柱に梯子、てっぺんに見張り台。これを火の見櫓とするかどうか判断に困る。半鐘が吊るされていないから火災の発生を地域住民に知らせる機能はない。

水平に渡された腕木に滑車とワイヤー。これは消火ホースを干すための火の見櫓もどき。いままで「もどき」も取り上げてきた。火の見櫓のタイポロジーをするつもりは(今のところ)ないが、もどきを含めより多くのタイプを集めていきたい。

これは新潟県糸魚川市内の「火の見櫓」。写真を撮ってきてくれたTさんに感謝。




 


「美術館をめぐる対話」西沢立衛

2010-10-29 | A 読書日記



 『美術館をめぐる対話』西沢立衛/集英社新書を読んだ。帯の5人との対話が収録されている。以下備忘録。

建築家・青木淳との対話:ホワイトキューブ(白い壁で囲まれたニュートラルな矩形の空間)とコンバージョン(用途転用)について

小説家・平野啓一郎との対話:**フランク・ロイド・ライトという建築家がいて、晩年にこんなことを言っています。若い頃の自分は、建築をつくることは物事を整理して、どんどん削っていく、物事をシンプルにすることだと思っていた。(後略、西沢)**

十和田市現代美術館運営委員・南條史生との対話:十和田市現代美術館について**全体の配置を見ると、この美術館というのは箱がたくさん建っているから、その外側に透明な壁をつくれば金沢21世紀美術館になるというところがあるじゃないですか。(南條)**


 十和田市現代美術館


 金沢21世紀美術館

芸術家・オラファー・エリアソンとの対話:**私は、美術館とは幾何学でいう「軌道」だと考えています。過去と現在を有しながら、今まさに動いているもの、ちょうど芸術作品と同じです。来館者にとって美術館とは、建築的な環境、芸術作品、そして鑑賞者、美術館の館長やキュレーター、技術的なチーム、そして教育者といった人たちの複合体です。(エリアソン)**

妹島和世との対話:**日本人がイメージする建物の重量と、向こうの人が初めからイメージする重量ではぜんぜん違うと思うんです。同じ白い壁でもたぶん、重さが違うんですね。(妹島)**


『千羽鶴』 川端康成/新潮文庫に戻ろう。
 


「桜田門外ノ変」

2010-10-28 | A 読書日記


『桜田門外ノ変』吉村昭/新潮文庫 平成7年発行 

水戸・薩摩の脱藩士18人が降りしきる雪の中、桜田門外で大老・井伊直弼を乗せた駕籠を襲撃した。

桜田門外ノ変。

**「森が先供に斬りかかれば、元悪(井伊大老)の駕籠の両側をかためていた者の何人かは、その騒ぎで先供へ走るはずだ。駕籠のまわりは手薄になる。そこで、両側から駕籠を急襲する。」**(下巻 88頁) 大老襲撃の指揮をとる関鉄之介が稲葉屋の奥座敷で同志たちに襲撃の手段を話す。

この小説が原作の映画「桜田門外ノ変」を観た。

襲撃は成功する。だが、大老暗殺に呼応して薩摩藩が京都に三千の兵を挙げ、朝廷を守護するという計画は頓挫。襲撃者は次々に捕えられ斬首される。潜行・逃亡していた鉄之介は追いつめられてゆく・・・。やがて身を隠していた湯治場の小さな宿屋で鉄之介も捕えられる。

日米通商条約締結前後の不安定な政情。将軍継嗣問題などをめぐる対立。そして安政の大獄。

井伊直弼一人の命の代償となった多くの命・・・。国を憂え、命を賭して苦難の道に進んだ水戸の藩士たち。

登場人物の美しい立ち居振る舞いが印象的だった。

映画のラスト、現在の桜田門をとらえていたカメラがパンして国会議事堂の正面を大写しにする。「国会議事堂」、この映画のメッセージは今の政治家たちに向けられているのかもしれない。

メモ)
関鉄之介 大沢たかお
水戸藩主 徳川斉昭 北大路欣也
井伊直弼 伊武雅刀


106 火の見櫓のある風景

2010-10-27 | A 火の見櫓っておもしろい


106 東筑摩郡朝日村古見にて 101025

火の見櫓は火災の発生を半鐘を叩いて知らせる施設。
集落の様子が見渡せる場所に立っている。

ということは集落のどこからでもよく見えるということになる。
でも、普段あまり意識されることはない。

それでも火の見櫓は少しだけおしゃれをしている。
屋根のてっぺんの飾り、見張り台のカールした手すり子。

数日前、緑豊かな集落の辻に立つ火の見櫓を見かけた。

火の見櫓は季節のうつろいを、人々の日々の暮らしを静かに見守り続けている。
まもなくこの山里にも白い冬がやってくる。






「山の音」川端康成

2010-10-26 | A 読書日記



■ 川端康成の『山の音』 旺文社文庫 を昨晩(25日)読み終えた。

息子の嫁に初恋の女性を重ね、淡い恋心を抱く主人公(信吾)の寂しい晩年の日々。などと書くとなんとも俗っぽいが、まあ俗な私の読後感はこんなところ。

**息子の嫁に菊子が来て、信吾の思い出に稲妻のような明りがさすのも、そう病的なことではなかった。**(21頁)

**ほっそりと色白の菊子から、信吾は保子の姉を思い出したりした。**(21頁)

**もし信吾が保子の姉と結婚していたら、房子のような娘は生まれなかっただろうし、里子のような孫も生まれなかっただろう。
思いがけないことで、信吾はまた昔の人が、すがりつきたいように恋しいのだった。**(187頁)

信吾を悩ませる家族の問題がある。

息子の修一は**菊子と結婚して二年にならないのに、もう女をこしらえている。**(22頁)し、娘 房子の方は夫が心中の片割れとなって生死不明、そして行方も不明。房子はふたりの小さな子どもを連れて実家に帰っている。

信吾の晩年は、季節のうつろいとともに流れていく・・・。その季節の描写が美しい。通俗的なテーマを傑作と評されている文学作品にまで昇華させているのはさすが。

秋も深まってようやく小説モードになってきた。で、次は『千羽鶴』川端康成/新潮文庫。およそ40年ぶりの再読。





― あった!

2010-10-25 | A 火の見櫓っておもしろい



 生坂村の火の見櫓の半鐘の下に取り付けられたこの板の用途はなんだろう・・・と、しばらく前から気になっていた。



今日(25日)、所用で出かけた東筑摩郡朝日村で偶々見かけた同様の板。ある地区の集会所の玄関脇に吊り下げられていた。この集会所の前を車で通りかかった時、思わず「あった!」と声をあげた。設置場所からこの板は集会の合図のためにたたくとみて間違いないだろう。

とすれば、生坂村の火の見櫓に吊るされた板もやはり同じ用途とみていいのではないか。



この火の見櫓(安曇野市三郷?松本市梓川? 所在地がどちらか確認しなくては)にも同様の板が取り付けられているが、これは「板木(ばんぎ)」といい、何年か前までやはり集会の合図としてたたかれていたとのことだ。


包む

2010-10-24 | A あれこれ

 「包む」というカテゴリーを設けた。「包む」については以前から関心があった。


ものと人間の文化史20 包み』額田巌/法政大学出版局 19770627購入

*****

「建築とは何か」 この問いにはいろいろな答え方ができるだろう。「建築は空間を秩序づける装置」だと私は答える。ハードな意味での建築だが。この定義では傘も建築ということになる。傘は雨や雪、日傘は日射を遮り、傘の中の空間を秩序づける。

同様の考え方に基づき、伊東豊雄氏はまんまくを興味ある建築として挙げている。まんまくは傘のように雨や雪、日射は遮ることができないが、視線を遮り、内外の人の出入りを制御する。内部では人の動きをほとんど拘束しない。まんまくは空間をゆるやかに秩序づける装置で、伊東氏の目指す建築が具現化されたものの一例だ。

「建築は人を包む装置」と答えることもできるだろう。この「包む」を視点にすることで、例えば洋服(*1)も風呂敷も餃子も同じ土俵に上げることができる。

『鞄心理学』で中山和彦氏は**家族が住む家は、まさに物理的な家族用カバンです。**と書き、家をカバンと捉えている。子宮もからだもカバン。いろいろなものの入れ物をトータルにカバンと捉える。

鞄という漢字のつくりも「包」だ。これからは包むについても取り上げていこう。

メモ)*1 過去ログ


 


川端康成の「山の音」を読む

2010-10-23 | A 読書日記


 先日読んだ内田樹氏の『街場のメディア論』のなかで、氏は「電子書籍」と違い「本」は書棚に並べることができ、それが自己啓発的な空間を形成すると指摘していた。 

本に囲まれた空間に身を置いていることが本を読もうという動機付けになる、と理解しても著者の主意からそう外れてはいないだろう。

そのような効果かどうか、先日自室の書棚のこの本に目が行き、つい手に取った。川端康成の『山の音』。昭和42年10月初版、45年重版と奥付にあるから、40年前の文庫本ということになる。もうすっかり内容を忘れてしまっているから初読と同じだ。

日々の暮らしの中に人生の機微をみるというような、静かな作品ではないだろう。少し大きな振幅のある家族小説(などというジャンルはないとは思うが)ではないかと予測している。

初老の主人公と年上の妻、息子夫婦、夫とうまくいっていない娘らが主な登場人物。秋の夜長、少しゆっくり読み進めようと思う。


「鞄心理学」を読んだ

2010-10-23 | A 読書日記

 『鞄心理学』中山和彦/先端医学社 読了。

本書でははじめにいくつかの実例が紹介される。小脇に抱える小さなバッグ、トートバッグ、銀色に輝くアタッシュケース、スリーウェイ・バッグ(時には肩掛け、時にはノーマルバッグ、そしてリュックにもなるカバン)、紙袋、ブリーフケース型バッグなど、カバンには持ち主の心理状態などが投影されているという。

確かに小脇に抱える小さなバッグを使っている人とトートバッグを使っている人とでは明らかにタイプが違う。服装や手荷物などには性格が反映している、ということを「経験的」に感じている。

**カバンの大きさ、素材、硬さ、形態などは、精神的健康状態や社会適応性、不安、緊張感などと一定の関連があるように思います。**というのが臨床経験30年を越えたという著者の見解。

「鞄心理学」は多くの経験に基づく直感によるものであって、科学的に実証されたものではない。もしこの本を読んで物足りなさを感じるとすれば、このことに因るのだろう。好きな色や動物などによって性格を占う、雑誌ネタとどこが違うのかと。

**その人の「こころ」の状態が恒常性をもって、ある程度折り合いがついてくると、それまで何の変てつもないカバン、と思っていたカバンを、急に、利便性に富んだ理想のカバンに感じることがあります。
この状態になると、「はみだした自我」ではなく、その人の「自我ケース」として、カバンに心理状態が投影されてくるのです。
世の中のカバンを持っている人々は、このような状態に達していることが多いので、彼らが持っているカバンによってある程度心理状態を分析することができるのです。** 

カバンは「こころ」(このカッコつきのこころとは自我のこと)の折り合いをつけるものだという著者の見方になるほど! 興味深かった。

読了後は人の持っているカバンに注目するようになった・・・。

メモ) 女性の場合、流行やファッションなどのバイアスがかかることが多く、カバンに心理状態が投影しにくい。


切手に描かれたサイロ

2010-10-22 | D 切手



 手紙を出すことも受け取ることもほとんどなくなり、切手を目にする機会が極端に減った。先日受け取った手紙に貼ってあった切手は、原田泰治が描いた北海道の風景をデザインしたものだった。ネット検索して「ふるさと心の風景」シリーズの第7集だと分かった。

サイロが描かれている。サイロの構造については何も知らない。

筒状の部分の構造は? 組積造? 側圧に耐えることができるかな。赤い屋根の構造は? 木造? 木造なら放射状に広がる美しい架構の可能性がある。でも屋根には出入口があるから、放射状の架構はその部分でイレギュラーしてしまい、構造的に閉じた系をなさない。そこが弱点になるかもしれない。それをどのように処理すれば合理的で美しい架構になるか・・・。

実際にはどうなっているのだろう・・・。


「鞄心理学」

2010-10-21 | A 読書日記



 NHKラジオ第1に「ラジオあさいちばん」という早朝番組があります。この番組の「健康ライフ」という、5時半過ぎから10分位のコーナーでは健康に関する話題をゲストのドクターが数回にわたって話します。

今年の5月、このコーナーで精神科医の中山和彦氏の鞄には持ち主の「こころ」が投影されているという興味深い話を聞きました。

ネットで検索してみて中山氏に『鞄心理学』という本があることを知り、先日注文しました。今日、本が届いたので早速読み始めました。

『官僚たちの夏』を読み終えた後、川端康成の『山の音』を(旺文社文庫、初版が昭和42年という古い文庫本で、なんと箱入りです。ちなみに定価は200円)読み始めたのですが、一時中断です。

どちらの本についても読み終えたら改めて書きたいと思います。


105 生坂村の火の見櫓

2010-10-20 | A 火の見櫓っておもしろい


105

 東筑摩郡生坂村の火の見櫓をしばらく前に取り上げた。これも生坂村の火の見櫓。ある集落の中に立っている。村外者がふらっと出かけていってもなかなか見つけることができないような立地。この写真は同僚の提供(Tさん、ありがとう)。

この簡素な火の見櫓で注目は半鐘の下に吊るされている「板」。安曇野市三郷(松本市梓川か?)でもこれと同様の板が吊るされている火の見櫓を見かけているが、そちらは板木(ばんぎ)という名前だと分かっている。生坂村のこの板の名前は分からない。

先の大戦で半鐘の供出を求められて、半鐘の代わりに板を吊るしたケースもあったと聞くが、集落の会合(集会)を知らせるために板を叩いたこともあったとも聞く。

この火の見櫓の板はどのような使われ方をしていた(いる?)のだろう・・・。板の名前と使われ方を教えてもらわなくては。


書棚に並ぶ本の力

2010-10-20 | A あれこれ

 先日読んだ『街場のメディア論』で著者の内田樹氏は「第六講 読者はどこにいるのか」の中で電子書籍と本についても論じている。

**電子書籍の、紙媒体に対する最大の弱点は、電子書籍は「書棚を空間的にかたちつくることができない」ということです。**という内田氏の指摘。なるほどと思う。書棚に本が並ぶ、そのような空間は「自己啓発的な機能」を持つと氏は指摘する。

もし、図書館の本がすべて電子書籍になったら・・・。書棚が無く、パソコンだけが並ぶ閲覧室に身を置いても本を読もうという気持ちにはなりにくい。はやり「知の総体が視覚的に把握できること」が図書館の条件だと思う。「自己啓発的な機能」を発揮させるために、壁を埋め尽くす本の圧倒的な力が閲覧者にはたらきかけるような空間の設えが優先されなければならない。

写真は秋田にある国際教養大学の図書館(設計:仙田 満)だが、具体的にはこのような空間が好ましい。



空間を分節してしまうのは先の点においては疑問、ということだ。小さな空間に分節されていると、自分好みの落ち着くスペースを見つけ出すことはできるだろう。人は本来、小さな空間が好きだから。でもそれは二義的な問題だ(もちろん読書専用の部屋のことではない)。本を借り出してカフェあたりで落ち着いて読むほうが好ましいと私は思う。