透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

訂正

2006-07-31 | A あれこれ
                ○秋野不矩美術館(051112) 

ときどきテレビのニュース番組などで「お詫びして訂正いたします」と司会者やアナウンサーがコメントすることがある。テロップの氏名の漢字が違っていたりした場合に。ところが民放と違ってNHKの場合、同じコメントをして訂正はしてもm(_ _)m するところを私は見たことがない。民放では頭を下げるところを見ることはあるが。

昨日書いたブログで訂正を要する箇所を見つけた。書いているときは気づかないものだ。まず、訂正。『9坪ハウス狂想曲』は『9坪ハウス狂騒曲』の誤り。もう一つ、今回写真を載せたが、藤森さんの作品が載った「新建築」は5月号ではなくて、6月号だった。 ここでお詫び。 m(_ _)m  そっと訂正しておこうかと思ったが、「ネタ」にすることにした。

「新建築」は話題の作品を表紙に載せている。この写真は藤森さんの樹上の茶室。満開の桜が美しい。新建築の表紙で夕景の写真はめずらしいと思う、記憶にない。 右の写真、同じく藤森さんの作品、秋野不矩美術館。(051112)は撮影日。この日に友人と見学に出かけた。所在地の静岡まで車で片道4時間だった。

日本画家の秋野さんが藤森さんの最初の作品「神長官守矢史料館」をみて設計を依頼したという。藤森さんは『家をつくることは快楽である』王国社 に、この美術館の設計の経緯を書いている。読むと秋野さんの作品に相応しい展示空間についていかに研究したが分かる。 

脱靴して入館する美術館。天井と壁は漆喰塗り、白大理石の床、秋野さんの作品をいちばんよく見せる展示空間の仕上げとして決めた材料。他にも自邸のこと、赤瀬川邸のことなどについても出てくる。藤森さんの建築観を知ることが出来る良書だと思う。本のタイトルが内容を必ずしもうまく表現していないのが残念だ。 

「ニラの花はなぜ屋根の上で咲くことになったのか」 ニラハウス、赤瀬川邸の設計について書いたこの文章に例の「芝棟」のことが出てくる。世界の草葺民家で、芝棟の技法が伝わるのは日本とフランスのノルマンディ東部だけだ、と藤森さんは指摘している。五千年続いて二十世紀とともに滅びるべく運命づけられた芝棟、とも書いている。

そうか、私がむかし撮った写真は今となっては随分貴重はないか。   

仕事の家を持ち帰る?

2006-07-30 | A あれこれ

 増沢洵さんという建築家が建坪がたった9坪の自邸を設計しました。1階が3間×3間の正方形、2階は6坪 合計15坪の住宅です。1952年に出来たこの住宅、建築界では有名で「最小限住居」と呼ばれています。

ある展覧会(1999年)でその家の骨組みが再現されました。会場は新宿パークタワーにあるリビングデザインセンターOZONE。萩原修さんはこの展覧会の担当者、この骨組みの美しさにすっかり魅せられて、この骨組みを使って自分の家を造ろう!と決心します。



『9坪の家』は萩原さんが自邸が完成するまでの出来事を記録した本です。なんと奥さんも『9坪ハウス狂曲』というタイトルでやはりこの家の完成までの出来事を書いているのです。延べ床面積がたったの15坪の最小限住宅で、ふたりの小さな娘さんと共に4人で生活することの戸惑い、新しい発見。

 本当に必要な物しか室内に置かない(置けない)シンプルな生活空間。今回の設計を担当した小泉誠さんによって随分モダンにリ・デザインされています。 ふたりの同じ出来事の捕らえ方の違いがよく分かって興味深かったです。

やはり記録しておくことは大切ですね、こうして本になるんですから。尤もプロフィールを読むとふたりとも書籍の編集などを手がけておられるようですが。

「仕事を家に持ち帰る」ってことは、あるでしょうが、「仕事の家を持ち帰る」ってことは、ないでしょうね。



  
 


芝棟って何?

2006-07-30 | A あれこれ

○民家 昔の記録(7910)

このブログによく出てくる藤森さん、最近肩書きの建築史家に建築家が加わった。自然素材をうまく使ってなかなか味のある建築を設計している。今年の5月号だったか藤森さんの作品がとうとう建築専門雑誌「新建築」の表紙を飾った。

藤森さんの住宅作品、屋根に植物を植えることがある。国分寺の自邸の壁や屋根にはタンポポが植えてある(『タンポポ・ハウスのできるまで』朝日新聞社に詳しい)。

藤森さんの友人だという赤瀬川原平さんの自宅の屋根にはニラを植えてしまった。そのときの経緯を赤瀬川さんは『我輩は施主である』(こちらは読売新聞社)にユーモアたっぷりに書いている。他にも屋根のてっぺんに松を植えて一本松の家などとネーミングしてみたり、建築を楽しんでいる。

藤森さんはときどきテレビにも登場するが実に楽しそうに建築を語る。その藤森さんの植物建築のネタはむかしの民家にある(どこかにそう書いておられたから確かだ)。 この写真、むかし群馬県の武尊山に登ったとき、麓の村で撮った。利根川の上流の村だ。

棟に注目、写真が鮮明でないが草が生えている、木も写っていることが分かる。芝棟。草棟ともいう。そう、藤森さんのネタ民家。棟に偶然生えたわけではなく植えたもの。屋根の棟はふたつの屋根面が交叉するところで、雨仕舞い上弱点になりやすい。収まりに工夫を要する。また意匠上も開口部と共に外部の重要な部位だ。 草や木の根に棟の雨仕舞いの効果を期待したものと考えてよさそうだ。 

むかしの人たちは身近なものを使っていろいろ工夫していたことが分かる。 この頃はこのような民家を見かけることはほとんどなくなってしまった。郊外などで偶然見かけるとついつい近づいて観察してしまう。

「民家は先達が残したアイデアの宝庫」だから。

民家 昔の記録 まだつづく(予定)。

木の文化について学ぶ

2006-07-30 | A あれこれ

 
木のタペストリー 060722

ひき出しにいろんな種類の木が使われている。テクスチャーがそれぞれ異なるので綺麗。 



現在国営アルプスあづみの公園で開催中の「森のめぐみと木の文化」という企画展を先日観にいった(8月20日まで開催)。

こんなタイトルの展示だと、どうしても観たくなる。会場には約60種類の木について写真のような展示がされていた。 昔の人はそれぞれの木の特徴を生かして生活に必要な道具に実にうまく使っている。「適材適具」 適材適所に倣ってこう表現しておく。

馴染みの木も、そうでない木もあったが興味深かった。 ホオノキで子どものころ風ぐるまを作って遊んだな、展示を見ていて幼い日の記憶が浮かんできた。木曽地方で春につくられるほおば巻き、このところ食べてないな。和名の朴は包むの「ほう」に由来すると説明にあった。ほう、なるほど。

♪「北国の春」で馴染みのこぶし。茶室の床柱などに使われることがある。以前私もその用途で使ったことがある。 案内してくれた友人に聞くと一年がかりで準備したという。古い民具などを集めるのは大変だっただろうな、と思う。

今はプラスチックなどで作られるようになってしまった道具、昔はみんな木で出来ていたということを気づかされる。 割り箸までプラスチックになってしまったら、悲しい。材料の大半は輸入品だと聞くけれど。


 


ワークショップ

2006-07-29 | A あれこれ
 
「ドームの家をつくろう!」(060723)

 この頃ワークショップという言葉をよく耳にするようになった。ネットで「専門家の助言を受けながら、参加者が共同で研究や創作を行う場」という説明をさがした。

建築の設計にもこの方法が採られることがある。しばらく前に書いたが小谷小学校はこのワークショップによって設計がすすめられたと聞いている。 先日、新宿で「ドームの家をつくろう!」というワークショップが開かれた。プラスチックの大きなトレイを使ってドームを組み立てたり(写真)、塩ビ管でフレームを組んでビニールのシートで覆ったり、はがきに穴をあけてビスで留めて繋いで立体にしたり・・・。 参加者はそれ程多くはなかったが子ども達は楽しそうに取り組んでいた。

ものを創ることは楽しい。小さな子ども達が絵を描いたり積み木を積んだりするのは、原初的な楽しさが伴うからかもしれない。

数年前から実施されている新しい学習指導要領には「自ら学び、自ら考える力の育成」が挙げられているようだ。従来の「知識伝達型」から「問題解決型」へのシフト。確かに私が子供のころ受けた教育は知識伝達型だったと実感する。例えば理科の実験は知識として事実を教えられてから、そのことを「確認する」ために行なった。試行錯誤などはそこに伴わなかった。

「この液体に○○試薬を加えると赤変することを確かめてみよう」教科書の記述もこんなふうではなかったか。 昔のTV番組でケペル先生は「何でも考え~何でも知って~何でもかんでもやってみよぉう~!」と登場したが、現実はこのような教育からは遠かったようだ。

今回も長くなってしまった。「問題解決型」のプログラムとして「ワークショップ」が有効だろうと思う。まず、ドームづくりにチャレンジしてみる。解らないことがいろいろ出てくるはずだ。このことがまず大事ではないか。その疑問を自分で解決しようとあれこれ試したり調べてみること。

缶ビール片手にこんなこと書き出すんじゃなかったな、うまくまとまらない。「子ども達にはワークショップなどを通して、自ら体験し自ら考えて欲しい」特に小学校ではこのような活動が積極的に行なわれるように望む。ということで、先生たちには例えば総合学習の内容や方法などに今まで以上の創意工夫を求めたい。

学校の先生に希望することを勝ってに書いて今回は終わりにする。

転がる石に苔つかず

2006-07-27 | A あれこれ

豊島公会堂で日曜日に開催された公開講座について先日書いた。
今回は「薬師寺大伽藍の再建と西岡棟梁の仕事」の講演から。

講師の石川博光さんは中堅ゼネコンの社員。
薬師寺の再建一筋36年とのことだが、自ら希望してこの仕事に就いたわけではないらしい。ビルの建設を担当していた時に白羽の矢が立ったとのことだった。(今朝の新聞に白羽の矢が当たった、と誤用する人が多いと文化庁の調査結果が載っていた。)

あの西岡棟梁と共に薬師寺の金堂や西塔、中門などの再建にずっと携わってこられた体験の色んなエピソードを語っていただいた。

「知識としてでなく体験として知っていることが大切」 おそらく石川さんの実感だろう。この仕事に就いたばかりのころは全く何も分からなかったとのことだ。「ぼちぼち やりなはれ」と棟梁に声をかけてもらったそうだ。
その西岡棟梁はずっと先のことを気にしていて「千年後に東塔が残っていて西塔がなかったらえらいこっちゃ」と言っていたという(東塔は昔のままで西塔が再建された)。

現在石川さんは薬師寺のすぐ近くに住んでおられて、台風のときなどは夜中でも薬師寺に見回りに出かけるそうだ。24時間薬師寺のことばかり考えて生活してきたそうで、家庭を顧みることもしてこなかったと語っておられた。
***
「転がる石に苔つかず」
日本では、だから転がるな。アメリカでは、だから転がれ。
職業観が日米ではこのように異なる。石川さんはこの旧来の日本人の職業観に当て嵌まる半生を送ってこられた方だろう。

最近の日本の若者は、就職後数年でかなりの割合で職を変えるらしい。
但し「転がる石に苔はつかない、だから転がらなくては」というアメリカ的な考え方に因るのかは分からないが・・・。

 


名前それとも苗字?

2006-07-26 | A あれこれ



2001年の秋、NHK教育テレビで放送された「人間講座」のテキスト。
作家の半藤一利さんが文藝春秋社で編集者として活躍していた時に担当した昭和を代表する二人の人気作家、松本清張と司馬遼太郎の作品論、作家論。
このテキストは現在文春文庫に納められている。

今回はその内容ではなくて名前の呼び方について。
講座のタイトルが写真に写っているが、松本清張は名前、司馬遼太郎は苗字となっている。テキストをみると第一回目でそのことに少し触れている。
呼びやすいほうを選んでいた、ということだ。
このタイトルに倣うと夏目漱石と太宰治は「漱石と太宰」となるだろう。「夏目と治」とは決してならない。何故?

私自身、名前で呼ばれたり苗字で呼ばれたりするが、更に「くん」をつけられたり「さん」をつけられたりする。
中学までの同級生の女性(おばちゃんなんて書いたら文句のメールがくるかもしれないから)達からは名前にくんをつけて呼ばれている。当時の男友達からは名前を呼び捨てにされることが多い。

高校時代の同級生の女性からは苗字にくんをつけて呼ばれる。同級ではなかった人たちからは苗字にさんをつけて呼ばれる。これは何故? 因みに当時の知人、友人の男性からは苗字を呼び捨てにされることが多い。

子どもはより具体的な名前から覚えていくものらしい。
「すずめ」や「からす」など具体的な鳥の名前をいくつか覚えてからそれらを総称する「鳥」という抽象的な名前を理解して覚えるらしい。「鳥」より「鳩」のほうが漢字は複雑だけれど子ども達は「鳩」の方が認識しやすく漢字も実は覚えやすいのだ、と昔聞いたことがある。漢字を教える順番がそれとは逆なのは問題という趣旨だったと記憶している。

もしかしたら、幼少のころ友達を名前で呼ぶのも、このことと関係があるのかもしれない。苗字より名前の方が具体的で分かりやすいのではないか、鳥の名前と同様に。
ところで「さん」をつけるか「くん」をつけるかは、お互いの距離感(上手く説明できないが親しさとは違う、お互いの関係の社会的な位置付け)の反映のようにも思える。

だが、先の作家の呼び方の違いにはまた別の理由がありそうだ。
何故、漱石と呼び、夏目とは呼ばないのか、太宰治の場合には何故苗字なのか・・・。 単なる習慣、と片付けられない理由がありそうだが、考えてもよく分からない。

「ネー」
そうか、こういう呼び方もされるな。

 


技術の継承

2006-07-24 | A あれこれ

 
唐招提寺金堂の小屋組み 講演資料から(060723)

 昨日、豊島公会堂(池袋)で開催された公開講座に参加した。


「日本の木造建築の魅力と匠たちの技」
薬師寺大伽藍の再建と西岡棟梁の仕事  講演・石川博光さん
唐招提寺平成の大修理と匠たちの仕事  講演・玉木妙子さん
どちらもおよそ1時間半の講演だった。今回は玉木さんの講演から。

平成10年に始まった唐招提寺金堂の解体修理は平成15年に解体が終わり昨年組立作業が開始され、今年は上棟式が予定されている。

玉木さんはこの平成の大修理を取材しているライターの方。
自ら撮影したスライドを使って工事の様子などを中心に講演された。
上の写真は講演の資料に掲載されていた金堂の断面図。上図は江戸時代・元禄の改修の小屋組みを、下図は明治31~32年に行なわれた改修の小屋組みを示している。明治時代の改修工事では小屋組みの頂部にトラスが使われていることが分かる(トラスは幕末から明治初期に日本に伝わった西洋の架構で△の組み合わせで構成される)。

日本に押し寄せた西洋文明の波は大きかったようだ、こんなところにまで及んでいる。一体なぜ日本の伝統的な小屋組みを継承しなかったのだろう・・・。
外観からは分からないがこれらの技術も含めて建築文化だと考えると、なんとも残念でならない。尤も、当時知り得た最良の方法で改修したのならそれでよいではないかという見解もあるかも知れないが。

現在行なわれている改修工事では小屋組みに金物が多用されている。玉木さんは建築の専門家ではないが、金物を使う今回の改修方法を疑問視していた。今日、木構造では部材の接合部に金物を使うことが当然のこととして受け止められていて、法的な規定もある。しかしそれはどのくらいの期間を想定したものだろう。その一方で貫を使った伝統的な軸組構法がすぐれていることも再認識されつつある。このような状況下、金物を多用する改修方法を採用したことはなんとも残念といわざるを得ない。

金堂の小屋組みがこれらの金物を異物と認識して、やがて拒絶反応を起こし始めるのではあるまいか・・・。帰りの電車のなかでそう考えた。杞憂ならいいが、何十年も先のことだから確認できない。


 


四季彩 樹(いつき)

2006-07-22 | A あれこれ

    
                ○ 樹にて(060721)  

昨晩は酔族会だった。よく飲んだ。
会場はいつもの「樹(いつき)」。
店主のOさんが会員のN君と高校の同級生ということで毎回よくしていただいている。
食材がいいと思うし、器もいい(高級なものかどうかは鑑賞眼がないので分からないが料理に相応しいものが使われていると思う)。そして何より空間がいい。
コンクリート打ち放しの外壁、奥まった入り口へのアプローチとなるモダンな路地状の空間。赤いのれんが鮮やかだ。
料理や器がいいのに空間がどうも・・・というところが少なくない。

右の写真は上下逆ではない、部屋の隅の床に照明が埋め込まれているのだ。
部屋の明るさもやや暗めで落ち着く。
どうせ飲むならいい空間で、と思う。屋台のような雰囲気も好きだけれど。
料金が手ごろなのもうれしい。Oさん、これからもよろしく。

欠席者へ連絡:次回は9月2日(土)です。


マンゴーな建築って?

2006-07-22 | A あれこれ


  ○3時のおやつ(060720) 

高校の同期生のある方のブログには毎回すばらしい料理の写真が載ります。
こう書くとすばらしいのが料理なのか、写真なのか判然としませんね。
もちろん、両方。料理もその写真もすばらしい、と書けばいいのか。

このブログはアルコールな夜以外は建築と本がテーマ。でも食べ物の写真も載せてみたいな、と思っていました。
先日、午後の休憩時間にマンゴーが出ました。きれいな色! 写真を撮りました。用意してくれた女性社員に「ブログにこのマンゴーのこと書いてよ」と頼まれました。

マンゴーをネタに建築について書かなくては・・・。
                  
最近の住宅は屋外との関係を断ち切った、閉じた計画が多いですね。雑誌などを見るたびにそう思います。都市の狭小な敷地では外に向かって開いた計画はやはり難しい。住まい手もそれを望まない傾向が強いのかもしれません。
藤森照信さんは、その始まりが安藤忠雄さんの「住吉の長屋」だと指摘しています。ちょうど30年前、1976年の作品です。

唐突ですが、マンゴーだってその外観からは中の様子を窺い知ることができません。マンゴーに限らず多くの果実はそうですね。アケビは例外、中身が見えますね。他にもあるかも知れませんが思い浮かびません。

安藤さんの建築もマンゴーも「自己完結型」。
では、違いは。やはり色でしょう。赤い外観とは全く異なる果肉の黄色。安藤さんの建築の外観はコンクリート打ち放しのグレーが基本。美しい色は望めません。内部にもあまり色が出てきません。ストイックな空間が安藤さんの特徴。でも安藤さんが色を積極的に使ったらどんな建築になるんだろう・・・。
マンゴーのように外からは想像もつかないような艶やかな内部空間、いいと思うけどな~。

台湾産のマンゴー

請低音5℃冷蔵
新鮮水果 請趁早食用  


                              


青春の想い出

2006-07-20 | A あれこれ
夕方「我が愛しのキャンディーズ」という番組の再放送をみた。この番組については以前書いているが(2006年7月20日)、手を加えて再掲する。

キャンディーズが「あなたに夢中」でレコードデビューしたのは1973(昭和48)年のことだった。彼女たちの活動期間は意外に短くて4年半、ちょうどボクの学生時代と重なっている。あの頃はメンバーの誰が好みかということが友達の間でよく話題になった。3人の個性が全く違ったので好みも分かれた。当時、ボクがいいな~と思っていたのは、ランちゃんではなくて、スーちゃんでもなくて、ミキちゃんだった。

デビュー当時、衣裳が最も似合っていたのはランちゃんだった。ランちゃんに似合うようにデザインされていたのかもしれない。似合っていないと思ったのが、ミキちゃんだった。

「年下の男の子」や「ハートのエースが出てこない」などが大ヒット。人気絶頂の中、彼女たちは日比谷野外音楽堂のコンサートで突然引退宣言をする。昭和52年の7月17日のことだった。引退宣言をすることはスタッフも知らなかったようだ。

彼女たちが所属していた事務所の社長は作詞家の喜多条忠に依頼する、彼女たちをあと1年、3曲で大人の女にして欲しいと。キャンディーズ大人化作戦の始まりだ。

解散宣言後の最初の曲は「アン・ドゥ・トロワ」。曲の雰囲気が変わった。 ♪人は誰でも一度だけ全てを燃やす夜が来る。それまでの曲の歌詞にはなかった大人のフレーズだ。衣裳も大人っぽくなって、ミキちゃんが俄然輝きだした。彼女はこの曲の黒い衣裳がよく似合っていた。そう、彼女は一番大人だったのだ。

番組は1978(昭和53)年4月4日に後楽園球場で開催されたラストコンサートで終った、「私たちは幸せでした」というファンへのメッセージと共に。

70年代の半ば、日本中の若い男たちをとりこにしたキャンデーズ。解散後の彼女たちにはあまり関心を寄せていなかったので、スーちゃんが20年近くも闘病していたことは知らなかった。だから、彼女の訃報には驚いた。青春の想い出のひとつが消えてしまったような気がして寂しかった。あのころからもう30年以上も経つのか、青春は遥か彼方に遠ざかってしまった・・・。


 

2006-07-18 | A あれこれ

○路上観察 松本にて(0607)


NHKのテレビ番組「歌謡コンサート」を見ていた。前川清が「窓」という曲を歌った。窓、しばらく前に撮った写真があるな、そのとき思った。

波トタンの外壁を折り曲げた庇と水切り、窓の素形。このプリミティブな窓をながめていると、「窓って壁に穴をあけたもの」というきわめて単純明快なメッセージがストレートに伝ってくる。

窓は建築の設計上、重要なデザイン要素。

しばらく前の講演で、設計を部下に任せていても窓まわりだけは自分でする建築家を窓際族というと、聞いた。なるほど!と思った。講演の肝心な中身を忘れてしまってもこういう話は忘れないものだ。

 


日本沈没 第二部

2006-07-17 | A 読書日記


33年の時を経て刊行された
小松左京の『SF魂』新潮新書が書店に平積みにされていた。帯には**私が日本を沈没させました。**とある。勿論、現在公開中の映画「日本沈没」を意識したコピーだろう。早速、一読。日本沈没の第二部についてこんな記述があった。

**結局それからどんどん忙しくなっていって、第二部はそのままになってしまった。(中略)全部自分でやる必要もないかなと思い始めたところだ。(中略)チームとして第二部の構想を練り上げ、執筆も任せる、というプロジェクト方式で完成させようと思い始めた。(後略)**

小松氏のこの柔軟な考え方によって「第二部」が完成、先日刊行されたという。
小松氏が「日本沈没」で書きたかったことは「国土なき後の日本人」のことだ。国土を失って日本人というアイデンティティはどうなるのか・・・。

そもそも国家とはなにか、民族とはなにか、日本人とはなにか。
日本を沈めてしまうという卓越した着想の小説。
第一部は前段で終っている。

『日本沈没 第二部』読みたいと思う。 


記録写真

2006-07-17 | A ブックレビュー

          ○ブックレビュー(0607)          


以前読書記録をつける代わりに読了本を書棚に並べて写真に撮っておくことをしばらくやっていたことがありました。
まだデジカメではありませんでしたから、プリントしてダイアリーの余白に貼り付けていました。それを復活しました。
ブログに記した本をパソコンの脇に積み上げておいて20冊になったら、写真を撮って載せておきます。いつまで続くか分かりませんが・・・。


から傘の家 白の家 

2006-07-17 | A あれこれ

建築家の篠原一男さんが亡くなった。享年81歳。

篠原さんといえば私はふたつの住宅作品を思い出す。
「から傘の家」と「白の家」。どちらも1960年代初期の作品、雑誌で写真と図面を見ただけだが美しい作品だった。
 
から傘の家
『新建築詳細図集―住宅編―』 新建築社によると 7,440×7,440(7.4m角)の正方形のプラン、方形の屋根。 「から傘」のように垂木が屋根の頂部から四方の軒桁に放射状に架けられている。全体で立体的な合掌梁の効果を発揮しているのであろう。普通なら垂木を支える母屋を渡し、小屋束を立てるところだがこの構造にはそれらが無い。シンプルで美しい構成だ。

白の家
10,000×10,000(10m角)と、から傘の家より一回り大きい正方形。
広間とコンパクトな水まわり、あとは上下に重なる寝室だけのシンプルなプラン。広間の天井は約3,700と高い。 床はフローリング、壁と天井は白く塗られている。平面の中心に棟まで丸太柱が立てられていて、シンプルな空間を引き締めている。

共に日本の伝統的な民家のような雰囲気を保ちつつ、モダンな空間に仕上げている。篠原さんは住宅を芸術の対象と見ていたようだ。美しい空間を創出するために心血を注いだ方だった、と思う。
松本・島立の「日本浮世絵博物館」も篠原さんの作品。

ご冥福をお祈りします。