透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

馬頭観音

2012-01-31 | B 石神・石仏


長野県東筑摩郡朝日村西洗馬中村 



 道祖神や二十三夜塔、庚申塔に関する知識を少し得てからは、このように石塔が並んでいると、つい車を停めて観察するようになりました。一番右が二十三夜塔で、次がこの馬頭観音塔です。石面の中央に馬頭観音、右に明和二乙酉年、左に七月十八日という刻字があります(乙酉:きのととり)。この年は西暦で1765年、随分古いです。朝日村のカフェ シュトラッセのすぐ近くに祀られていて気になっていました。

調べると観世音菩薩、または観自在菩薩(親しみをこめて観音さまと呼ばれる)は阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)で、煩悩や悪心を断つという功徳があるとのことで、平安末期から鎌倉初期には既に広く信仰されていたということです。

ところで観世音の世音とは世の中の音声(おんじょう)、救いを求める人びとの声のことで、観とは音声を仏の智慧をもってよく観察するという意味だそうです。六観音(聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音、如意輪観音)、十五観音、三十三観音と数が多いのは、姿を変えて救いを求める人にふさわしい姿で現れるからだそうです。

馬頭観音は、その名前から次第に馬の神さまとして崇められるようになり、馬が死ぬと供養のために建てられるようになっていったということです。本来の性格から離れて民間信仰に生きる石仏に変わったわけです。

安曇野の馬頭観音塔は半数以上が文字塔だと手元の資料にあります。


参考資料
雑誌「一個人 仏像入門」 2009年6月号
「安曇野 道祖の神と石神様たち」西川久寿男/穂高神社


東京文化会館の切手

2012-01-31 | D 切手

   
                       撮影 20080606

 東京文化会館の開館は1961年。東京オリンピックの開催が1964年だから、その3年前。昨年が開館50周年だった。それを記念して切手が発行されていた。昨日届いた案内状に貼られていた切手はそのうちの1枚だった。全部で6種類のデザインがある。



大ホールと小ホールをデザインした上の2枚は分かる。でもそれ以外の4枚の楽器やテゥシューズやオペラグラスは別に東京文化会館だけに関係するわけではない。デザインの意図が分からない。デザインに全て建築を採用して欲しかった。この建築以降、全国に数多くの音楽ホールができたが、建築デザインや音響の良さで未だこのホールを越えるものはないのではないか・・・。ここの大ホールは楽器そのものだ。


 

 


― 塩尻市洗馬の火の見櫓

2012-01-29 | A 火の見櫓っておもしろい

 
JA洗馬本所向かいの火の見櫓(2回目の登場) 右側は消防団詰所、後方は地図によると図書館分館。



 背の高い火の見櫓だ。末広がりのフォルムは好ましいが、もう少しスレンダーな方がよい。3ヶ所ある踊り場の内、2ヶ所に半鐘が吊り下げてある。小屋根付き、これはよい。

脚をブレースでがっちりかためているが、やはり(写真)のようなデザインの方が脚らしくてよい。機能をストレートに表現すること、それができるかどうかだ。脚を脚として表現できるかどうか、ということだが、これは案外難しいのかもしれないとも思う。脚とは何か、それを規定する形ってあるのか・・・

最初の踊り場までは梯子ではなく、踏み面がある階段を設置してある。櫓の下部には丸鋼とリング式ターンバックルのブレース、上部には山形鋼と平鋼を交叉させたブレース(写真)を採用している。洗馬地区では他にもこのタイプを見ている。スピーカーに占拠された見張り台。鋼材の接合部はボルトとリベットの併用。



鋼製の火の見櫓が盛んに建てられたのは昭和30年代、このことは既に書いた。やはり当時は図面らしい図面はなかったようだ。このことは昔火の見櫓をつくっていたという鉄工所の社長から聞いた。簡単な姿図(立面図)と平面図くらいのものだったらしい(その図面は一体誰が描いたんだろう・・・)。あとは鉄工所の職人の構造センス、つまりこんな風につくれば充分「もつ」という経験的・直感的判断と美的センスに頼っていたといったところか。では高さなどの基本的なことはどうやって決めていたんだろう・・・。火の見櫓の立地やカバーエリア、予算などを考慮してみんなで相談して決めたのかもしれない。


山形村中大池の火の見櫓 脚部と踊り場のデザインが実にいい。


 


「コンニャク屋漂流記」

2012-01-28 | A 読書日記

『黄いろい船』
『どくとるマンボウ青春記』
『どくとるマンボウ途中下車』 
『どくとるマンボウ追想記』
『どくとるマンボウ昆虫記』
『どくとるマンボウ航海記』
『夜と霧の隅で』
『白きたおやかな峰』 
『楡家の人びと』

北杜夫の以上の作品の再読を終えた。

今回再読予定で残りの作品は写真の通り。この中で『どくとるマンボウ医局記』は中央公論社の編集者だった宮田毬栄さんが20代の時に担当した作品だそうで、「どくとるマンボウシリーズ」後期の傑作だと、昨年10月に亡くなった北杜夫の追悼文の中で書いている(信濃毎日新聞2011年10月28日付朝刊)。


同追悼文で宮田さんは長編の『楡家の人びと』『白きたおやかな峰』『輝ける碧き空の下で』については物語を構築していく北杜夫の怜悧な意思を、評伝の茂吉四部作については透徹した客観性を評価している。



『さびしい王様』は十歳から百歳までのこどものための童話。高校生のとき、厳しい指導で有名だった英語のK先生から借りて読んだ想い出の作品。『幽霊』とその続編『木精(こだま)』は何回も読んだ作品で、既にブログにも書いた。過去ログ 

これらの作品は読み急がず、桜が咲くころまでに、いやもっと先までに・・・、読了すればいいことにしておく。

で、次は年末年始に買い求めた本で未読の2冊のうち、『コンニャク屋漂流記』 星野博美/文藝春秋を読むことにする。これは雑誌や新聞などの書評欄でも取り上げられた話題のノンフィクション。著者の先祖は江戸時代に紀州から房総半島へ越してきた漁師、それなのに屋号は「コンニャク屋」。 なぜ? 著者の疑問解決の旅は東京の五反田から房総半島、そして和歌山へ・・・。




 宮田毬栄さんは松本清張も担当した。


「風景学入門」

2012-01-27 | A 読書日記



■ 『風景学入門』 中村良夫/中公新書  1982年初版の本書はサントリー学芸賞を受賞している。 この年末年始に松本駅近くの丸善に数回通って何冊かの本を買い求めた。この本もその内の1冊。

**思うに、場所に対する寡黙な帰依によって初めて与えられる存在の証しよりも、自己完結的な造形を多とするにつれて、都市風景は乱れてきた。作品の自己を空じて、そこの場所のささやきに耳をかたむけ、辺りの風景の意趣にならうところに、建設者本来の覚悟があり、また風景という思想の根本がある。**(201頁) 馴染みのない文章表現は読みにくいが、例えばこの指摘は現代建築の問題の本質を突いて、鋭い。

古今東西の様々な対象に対する文系理系両面からのアプローチ、縦横無尽な論考。「風景学」の学問的基礎の確立、学問体系の構築という壮大な試み。


 


248 みんなちがって みんないい

2012-01-25 | A 火の見櫓っておもしろい


 
248 北安曇郡池田町



 屋根は開きかけの傘のようです。屋根って勾配によって印象が随分変わるということが分かります。半鐘もスピーカーもサイレンも照明も無し、見張り台の手すりも横桟1本のみ、すっきりしています。

見張り台の直下のフレームにはブレースが入っていません。普通きちんと全てのフレームにブレースを入れてますが・・・。梯子は櫓の外側に設置してあります。細身の櫓ですから、内側に設置するのは無理なのでしょう。



細身の火の見櫓、その脚部。

鋼材の接合部はボルト止め。リベットは今から40年くらい前まで使われていたようですが(むかし火の見櫓をつくったことがあるという、鉄工所の工場長に聞きました)、この火の見櫓には使われていません。リベットはボルトより安価だったようですが、強度(せん断耐力)は軸が太いボルトの方があります。併用する場合にはこのことを考慮して使い分けしていたんでしょう。



今回も所在地を地図上にプロットしましたが、表示範囲が狭いので分かりにくいですね。反省。


 


きょうよう きょういく

2012-01-25 | A あれこれ

 心理学者の多湖輝(たご あきら)さんと言えばかつて大ベストセラーになった「頭の体操」というクイズ本のシリーズの著者として有名です。

数日前、多湖さんがNHKのラジオ深夜便という番組の「明日へのことば」という早朝4時過ぎからのコーナーに出演していました。85歳という高齢ながら実にお元気、多弁でした。

多湖さんは歳をとってから大事なことは「きょうよう」と「きょういく」だと語っておられました。「教養」と「教育」かと思いきや、さにあらず。「今日用」と「今日行く」なんだそうです。今日、用事があるかどうか、今日、行くところがあるかどうか、が大事だとのこと。なるほどな~、な指摘でした。

私は歳をとっても「今日、用がないな~」 これはないと思います。他に用事がなければ本を読みます。「今日、行くところがないな~」 これはあるかもしれません。 あるいは寝たきりになってしまって行きたくても行くことができないということになってしまうかもしれません。そうなったらやはり本を読んで過ごそうと思います。

読みたい本ならいくらでもあります・・・。


 


松本城太鼓門

2012-01-24 | D 切手



 松本城太鼓門の記念切手です。

この切手について調べてみて、平成11年(1989年)の発行だと分かりました。この年に太鼓門が復元されていますから、それを記念して発行されたのでしょう。

天守閣の後方に残雪の常念岳と横通岳、手前に桜を配しています。実際にはこのような構図に見えることはありませんが、切手のデザインとしてはありかなと思います。

太鼓門は松本城の東側(市役所側)にあります。観光で松本城を訪れても、この方向から太鼓門を見ることはあまりないのでは。



246 塩尻市片丘の火の見櫓

2012-01-23 | A 火の見櫓っておもしろい

 
246

■ 塩尻市片丘中挟の背の低い火の見櫓。ゴミステーションの壁に屋根と半鐘の影が落ちている。



屋根と見張り台はあっさりデザイン。半鐘の横に木槌が吊るしてある。



背は低いが屋根も見張り台もあって、火の見櫓の構成要素は全て揃っている。

火の見櫓の世界には出口がない。入り込んだらいつまで経っても抜け出すことができない・・・。



ビジュアルに示された秩序

2012-01-23 | B 繰り返しの美学


片持ち梁の規則的な繰り返し @郵便事業㈱松本南支店


 『「脳」整理法』 茂木健一郎/ちくま新書に次のような記述がある。 **規則性や秩序によって呼び起こされる感情には、独特のものがあります。(中略)規則性に歓びを感じるという人間の嗜好が確かにあるわけです。**(67、68頁)

建築を構成する要素の規則的な繰り返し、ビジュアルに示された秩序。脳にはこのような状態を美しいと思う「癖」があるらしい。



 


「脳の風景」

2012-01-22 | A 読書日記



 『脳の風景 「かたち」を読む脳科学』藤田一郎/筑摩選書 を読んだ。脳の内部の様子をいろんな方法で可視化して、その形や模様、つまり「脳の風景」を観察することで脳の機能を解明するという「脳科学」を紹介した本。

脳は複雑だ。だが、決して無秩序な構造ではない。

本書には初めに、ネズミの個々の洞毛(センサーのはたらきをしているほおひげ)に対応するバレル皮質が大脳皮質領野にあることが紹介されている。興味深いのは個々の洞毛とバレル皮質とがトポロジカルな関係を保持しているということだ。体表のひげの配置が脳の中のバレルの配置にそのまま(と書けば誤解されるかもしれないが)再現されているのだ。この「体部位再現」はヒトの大脳皮質でもされているという。

本の帯に「まるで現代アート!?」とあるが、マウスのバレル皮質を染めて出現した模様やヒトの側頭葉の錐体細胞、虹のように彩られたマウスの海馬などのカラー写真が載っている。

可視化されたはるか彼方の宇宙の様子も美しいが、これら口絵の写真も神秘的で美しい。造物主はマクロからミクロな世界まで、その造形には美に対するこだわりがあったのだろう・・・。


 


庚申塔

2012-01-22 | B 石神・石仏

 道祖神の隣に二十三夜塔や庚申塔が建てられていることがよくあります。二十三夜塔については既に数回書きました。今回は庚申塔についてです。

「おこうしんさま」 

最近はあまり耳にすることがなくなりましたが、昔は時々このことばを耳にしました。集落内の隣近所何軒かで(5から10軒くらいでしょうか)、互助組織をつくって冠婚葬祭を扶助しあい、そして庚申信仰に関る行事も行っていたんですね。

手元の資料(*1)によると、庚申信仰というのは中国の「道教」の教えから起こったものだそうで、60日ごとにめぐってくる庚申の夜(かのえさる 十干十二支のひとつですから10と12の最小公倍数で60日ごとになるわけです。庚申の年は60年ごとにめぐってきます。)になると、体の中に宿っている「三尸(さんし)の虫」が本人が眠っている間に体からぬけだして天に昇り、天帝にその人の罪やあやまちを報告するといわれていて、そのために生命を奪われてしまうから一晩中眠らずに善行をしなければならない、ということなんだそうです。(資料136頁による)

道教の教えは奈良時代には既に日本に伝わっていて、平安時代には貴族の間で「守庚申(しゅこうしん)」が行われていたそうで、詩歌管弦の宴を開いたり、語り明かしたりしていたそうですが、これが次第に民間にも広まったということで、江戸時代以降いっそう広まったと資料にあります。

庚申の夜には当屋の座敷の床の間に庚申画像を掛け、供物をあげ、庚申塔にお参りをし、その後料理を囲んで一晩語り明かす、ということがあちこちで行われていたんですね。これは宗教的な意味合いは薄く、変化に乏しい田舎の暮らしに楽しみをつくったということではないのかなと思います。隣近所助け合って仲良く暮らしましょう、ということだったのでしょう。

 
長野県東筑摩郡朝日村西洗馬の庚申塔(庚申碑)とその案内板

ところで庚申塔は庚申の年に建てられることが多かったそうです。例えばこの庚申塔は万延元年(1860年)に建てられたことが案内板に記されていますし、石碑の裏面をみても確認できますが、この年は調べてみると確かに庚申の年です。

庚申塔の他にも大黒天や馬頭観音などが祀られているのを見かけます。それらについても取り上げようと思います。 


*1 『安曇野 道祖の神と石神様たち』西川久寿男/穂高神社


245 松本市寿の火の見櫓

2012-01-20 | A 火の見櫓っておもしろい


245 松本市寿小赤 撮影2012.01.14

簡素な造りの火の見櫓。まあ、機能的にはこれで十分。脚元に文字書き道祖神が祀られている。



櫓は簡素だが、半鐘は立派。寺の梵鐘と同様の意匠が施されている。

これらには名前があるはずで、梵鐘と同じなら、龍頭、上帯、中帯、下帯、縦帯、乳、乳ノ間、池ノ間、草ノ間、つきざ。右側の縦帯に文字が書かれているようだ。残念ながらこの写真では読みとることができない。

半鐘に梵鐘と同様の意匠を施したのにはきっと理由があるはずだ。