透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「終りし道の標べに」を読む

2024-04-27 | A 読書日記


 安部公房の処女作『終りし道の標べに』(新潮文庫1975年)をようやく読み終えた。読み終えたとは言え、難解で内容を理解したとは言い難い。

奥付を見ると、1975年8月25日に発行されたことが分かる。ぼくがこの作品を読んだのはこの年の9月だった。文庫が書店に並んだ直後に買い求めて読んでいる。ちなみに定価180円。およそ49年ぶりの再読。本は好い。手元に有りさえすれば、いつでも読み直すことができるのだから。

ここで安部公房の『けものたちは故郷をめざす』を読み終えて書いたブログの記事(2024.04.10)から次の一文を引用する。

**「喪失」あるいは本人の意思による「消去」は安部公房の作品を読み解くキーワードだ。このことは次のように例示できる。『夢の逃亡』は名前の喪失、『他人の顔』は顔の喪失、『砂の女』『箱男』は存在・帰属の消去。異論もあろう。言うまでもなく、これは私見。** 

この様に書いたが、この指摘は『終りし道の標べに』にも当て嵌まる。では、この作品で主人公が喪失したもの、あるいは自ら捨てたものは何か・・・。それは故郷だ。自己の存在を根拠づける故郷。

**人間は生まれ故郷を去ることは出来る。しかし無関係になることはできない。存在の故郷についても同じことだ。だからこそ私は、逃げ水のように、無限に去りつづけようとしたのである。**(15頁)

名前、顔、帰属社会、そして故郷。属性を次々捨ててしまった人間の存在を根拠づけるのもは何か、人間は何を以って存在していると言うことができるのか・・・。人間の存在の条件とは? 安部公房はこの哲学的で根源的な問いについて思索し続けた作家だった。

戦中から敗戦直後にかけての満州。私は徴兵を逃れて、故郷日本を離れ、満州を歩き続ける。『終りし道の標べに』に描かれたストーリーそのものはシンプルだが、そこに書かれている内容は難しい・・・。

**ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なのだ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。(中略)いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。**(167頁、最終頁)

『終りし道の標べに』新潮文庫は現在絶版。この作品を難しいと思っている人が少なからずいて、あまり売れなかったのかな。**著者の作家としての出発をなす記念碑的な長編小説。**と、本のカバー裏面の紹介文にある。ならば、復刊してほしい。文学史上重要な作品を出版し続ける責務が出版社にはある、とぼくは思う。

『終りし道の標べに』を読み終えた時、スタンリー・キューブリックが映画化した『2001年  宇宙の旅』のラストシーン、宇宙空間に浮かぶスターチャイルドが浮かんだ。このことについて、うまく文章化できないけれど、ぼく自身は納得している。うん、このイメージ、分かる、と。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫22冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

今年中に読み終える、という計画でスタートした安部公房作品再読。4月26日現在7冊読了。残りは15冊。今年3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして16冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月で読了できる。 


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


さて、次はどの作品を読もう。悩まず、このリストの順序に読んでいこうかな。


「カワセミ都市トーキョー」を読む

2024-04-18 | A 読書日記


朝カフェ読書@スタバ 2024.04.15

『カワセミ都市トーキョー』柳瀬博一(平凡社新書2024年)を読んだ。

「カワセミを知れば、東京の地理と歴史が見える」は本書の第3章の副題。東京に暮らすカワセミたちの観察から見えてくる東京という都市の姿。そう、本書は東京の姿を論じた都市論。

著者の柳瀬さんは**人間、意識していないものは、目に前にいてもまったく見えない。**(94頁)と書いているが、私も同じことを拙著の「はじめに」で次のように書いた。**知識がないとものは見えないのです。火の見櫓に興味を持ち始めて知識を得るようになって、風景の中に立っている火の見櫓に気がつくようになりました。**

柳瀬さんは**観察を続けるうちに、見え方が変わる。つまり「他人事」じゃなくなる。観察対象が三人称ではなく、二人称になる。「お前」や「君」になる。**(295頁)と書いている。

なるほど。柳瀬さんは個体識別したカワセミ夫婦、親子の観察記を例えば次のように書いている。

**「ほら、まだ躊躇がある! だから狩りに失敗するんだ!」
「はいっ」
「じゃ、もう一度」
「だめだめ、フォームがなってない。もっと、こう流線形に」
「はいっ」
「じゃ、もう一度」
指導に飽きたのか、父さんはさらに上流に飛び去った。
残された2羽は素直に練習を繰り返す。**(155頁)

こんな風にカワセミたちの言葉を解するように観察すれば、いろんなことが分かってくるだろうな。

本書の副題は「「幻」の鳥はなぜ高級住宅街で暮らすのか」。

答えは東京に数多く存在する、湧水がつくり出した小流域源流の谷地形が人もカワセミも好きだから。なんだか、「チコちゃんに叱られる!」の答えのようにあっさりしているが、番組と同様に、本書には詳細な解説が書かれている。本稿ではその内容の紹介は省略するが、簡潔に記された箇所だけ引用する。**小流域は、生き物としての人間がサバイバルするために必要不可欠なものがまとめてパッケージされている地形だからである。**(234頁)人間に限らず、動物、もちろん鳥とっても。

そして**東京の地形は、小さな流域 = 小流域がフラクタルに並んだ流域地形の集合体である。**(25頁)と柳瀬さんは指摘する。このことを示す、国土地理院のウェブサイトから引用したカラーの図が掲載されている。

都内各地(例えば皇居、赤坂御所、白金自然教育園)にカワセミがもともと生息していた、あまり人の手の入っていない「古い野生」が残っている。「古い野生」と「新しい野生」である都市河川とが接続して、カワセミたちが次第に「新しい野生」に適応して生息するようになっていった、という流れ。

河川の汚染でいったん奥多摩辺りまで生息域を後退させていたカワセミが河川の浄化が進んだ都内に戻ってきて、東京の「新しい野生」にも適応した。そこでのカワセミの餌は外来生物と汽水魚、巣は河川のコンクリート護岸の水抜き穴。


本書で環世界という言葉、概念を知った。意味内容を本書から引く。**あらゆる生物に客観的世界は存在しない。それぞれの生物固有のセンサー  =  感覚器がとらえる空間と時間のみが、それぞれの生物の主観的な世界である。ユクスキュルはそう定義した(*1)。そんな個々の生物の主観的な世界を「環世界」と名づけた。**(263頁)

私たちも、個々人が後天的に獲得した言語と知識と経験と好みがつくりだす文化的な環世界にいる。同じ時間に同じ空間にいても見えているものはそれぞれ違う。別の世界にいる、ということを私も経験的に知っている。他者とは違う自分だけの環世界

柳瀬さんはコロナ禍で行動が制限されていた期間に偶々近所の川でカワセミに出会ったとのこと。それからカワセミの観察を続けて本書の出版につなげた。すばらしい。 漫然とカワセミを観察していたのであれば、カワセミは柳瀬さんの環世界には入り込まず、その生態は明らかにはならなかっただろう。

やはり何事にも一所懸命取り組まなくては・・・。


*1 『生物から見た世界』ユクスキュル/クリサート(岩波文庫)を読んでみたい。



「カーブの向う・ユープケッチャ」を読む

2024-04-14 | A 読書日記

360
 安部公房の『カーブの向う・ユープケッチャ』(新潮文庫1988年12月5日発行、1993年2月15日4刷)を読んだ。

収録作品の『カーブの向う』は『燃えつきた地図』の原型、『ユープケッチャ』は『方舟さくら丸』の原型、『チチンデラ  ヤパナ』は『砂の女』の原型となった短編。このように収録されている9編中3編が安部公房の代表作の原型作品であるのにもかかわらず、この文庫は現在絶版。なんとも残念。

『砂の女』の原型となった短編のタイトルのチチンデラ  ヤパナって一体何? ネットで調べるとニワハンミョウという昆虫のことで、体長10~13mm。河川敷や海岸、畑地などの砂地に生息しているということが分かった。なるほど砂地か・・・。

『砂の女』には火の見櫓が出てくる。『チチンデラ  ヤパナ』にも出てくるかもしれないな、と思いながら読み始めた。**とつぜん視界が開いて、小さな集落があらわれた。高い火の見櫓を中心に、小石でおさえた板ぶきの屋根が不規則にかたまった、貧しいありふれた村落である。**(126頁)やはり出てきた。

『手段』は駅の改札口の近くに設置されている「簡易交通障害保険自動販売機」にまつわる物語。主人公の男がこの自販機が扱う保険に詳しいという老人に声をかけられる。で、男は娘の修学旅行の費用が必要だと、老人に話すことに。保険の約款には怪我の部位、程度によって支払われる保険金が異なること、そして、それぞれの保険金額が示されている。

駅のホームに電車が進入してきて、男は・・・。星 新一も扱いそうなテーマだけど、だいぶテイストが違う。

『完全映画』この作品が「SFマガジン」に発表載されたのは1960年(昭和35年)のこと。予見的な作品。

『子供部屋』 **壁のコンクリートに這わせてあった水道管から、水もれがしはじめたんですよ。しだいに地下室が水びたしになりはじめる。やむなく、子供たちを隅の箱にかくして、水道屋を呼ばざるを得ませんでした。ところが子供たちが、箱の隙間から、工事人夫が作業をしている所を見てしまったんですね。**(212頁)

なんだか、『箱男』を思わせるこの描写。この作品が「新潮」に発表されたのは1968年(昭和43年)のことだった。で、『箱男』の発表が1973年(昭和48年)。この頃から『箱男』をイメージしていたのかもしれない・・・。

密度の高い作品集。繰り返す、絶版は残念。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

年内に読み終える、という計画でスタートした安部公房作品再読。4月14日現在6冊読了。残りは16冊。3月に出た『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫)を加えたとして17冊。5月から12月まで、8カ月。2冊/月でほぼ読了できる。少しペースダウンして他の作家の作品も読もう。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


 


「けものたちは故郷をめざす」を読む

2024-04-10 | A 読書日記



■ 安部公房の『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫1970年5月25日発行、2021年5月10日26刷)を読んだ。3月から始めた安部公房作品再読の5作品目。

ドナルド・キーンは、安部公房の代表作『砂の女』(新潮文庫)の解説文の書き出しで前衛作家、安部公房という紹介をしている。そう、安部公房は前衛的な作風で知られている、シュールレアリスムの作家。それで、「え、これ安部公房?」、『けものたちは故郷をめざす』を読み始めると、まずこんな感想を抱く。リアルな描写で読みやすい。

主人公の少年・久木久三の父親は久三が生まれた直後に死に、母親は戦争の犠牲になった。先の大戦、敗戦前夜、天涯孤独の身となった彼は極寒の中国大陸を南進する、帰国を目指して。同行の男は正体不明、国籍さえ定かではない。

極寒の荒野を飢えと疲労の身を引きずるように彷徨うふたり。心理描写と身体感覚の描写は読む者を一緒に彷徨うような気持ちにする。私は暗い気持ちで読み進んだ。

この小説を読んでいてやはり日本への引き揚げの様子を描いた藤原ていの『流れる星は生きている』(過去ログ)を思い出した。

中国国内の地名が出てくるとネット上の地図でその場所を確認してもみた。まだ、こんな所か。生きて故郷日本にたどり着くことができるのだろうか・・・。

先が気になって、昨日(9日)はおよそ300頁の本作の後半、半分を一気に読んだ。『砂の女』もそんな読み方をしたことがあったかと思うが、安部公房の作品では珍しいことだ。

この長編小説の最後、久三は日本船の中の狭い間隙に監禁されてしまうという絶望的な状況に陥る。なんという悲劇。

最終場面の描写を引用する。**・・・・・ちくしょう、まるで同じところを、ぐるぐるまわっているみたいだな・・・・・いくら行っても、一歩も荒野から抜け出せない・・・・・もしかすると、日本なんて、どこにもないのかもしれないな・・・・・(後略)**(302頁)

そして最後の一文。**だが突然、彼はこぶしを振りかざし、そのベンガラ色の鉄肌を打ちはじめる・・・・・けものになって、吠えながら、手の皮がむけて血がにじむのもかまわずに、根かぎり打ちすえる。**(303頁)

この一文をどう解するか。絶望的な状況の更なる強調か。絶望的な状況を打破しようという久三の強い意志の表現か・・・。私は後者だと解したい。

*****

「喪失」あるいは本人の意思による「消去」は安部公房の作品を読み解くキーワードだ。このことは次のように例示できる。『夢の逃亡』は名前の喪失、『他人の顔』は顔の喪失、『砂の女』『箱男』は存在・帰属の消去。異論もあろう。言うまでもなく、これは私見。

そして『けものたちは故郷をめざす』は故郷の喪失。故郷とは何か、そしてその喪失とは・・・。安部公房は自身の戦争体験をベースに書いたと言われるこの作品で、読者に何を訴えたのか。

根なし草の寂しさか。否、久三の最後の窮地を日本の敗戦直後の状況の暗喩的な表現だと捉えて、上掲した最後の場面もやはり暗喩的な表現と捉えれば、その答えを知ることができるだろう。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない 2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月

次にどの作品を読もうかな、と迷ったが『カーブの向う・ユープケッチャ』を読むことにした。


 


「源氏愛憎」を読む

2024-04-09 | A 読書日記

360
『源氏愛憎 源氏物語論アンソロジー』編・解説 田村 隆(角川ソフィア文庫2023年)を読んだ。

古典や近現代作家他の源氏評の一部を抜粋して集めた評論集。しばらく前、松本駅近くの丸善で偶々この本を目にして迷うことなく買い求めた。『源氏物語』関連本は出来るだけ読もうと思っているので、やぐらセンサー、もとい源氏センサーが作動したのかもしれない。1000年も前、平安時代に書かれた『源氏物語』は名作という評価ばかりではない。様々な評価があることも名作の証なのかもしれない。

本書はⅠの古典篇とⅡの近代篇から成り、古典篇には現代語訳はないものの、解説文があるので分かりやすい。

平安末期に編まれたという「宝物(ほうぶつ)集」は仏教説話集。本書に次のようなことが掲載されている。
**ちかくは、紫式部が虚言(そらごと)をもつて源氏物語をつくりたる罪によりて、地獄におちて苦患(くげん)しのびがたきよし、人の夢にみえたりけりとて(後略)**(35頁) 紫式部が地獄に落ちた、なんて! ひえ~、びっくり。

『源氏物語』を三度現代語訳した谷崎潤一郎は次のように光源氏を評している。
**源氏物語の作者は光源氏をこの上もなく贔屓にして、理想的の男性に仕立て上げているつもりらしいが、どうも源氏という男にはこういう変に如才のないところのあるのが私には気に喰わない。**(143頁)

まあ、一部を切り取るだけではいけないので、他の人の評論の部分的な引用は控えよう。

近現代篇には15人の源氏評が収録されている。その中では円地文子の「源氏物語の構造」と題した評がもっとも教科書的というか、読んで納得できるものだった。

*****

「源氏物語」は通俗的でドロドロな恋愛小説ではないか、などという評がもしあるとすれば、それはこの物語の表面的な部分しか、読んでいない、とぼくは分かったような指摘をしておきたい。そんな小説であれば1000年も読み継がれるはずがない。

円地文子は「宇治十帖」を**たいへんよくできた中篇小説で、構成としては正篇よりもまとまっているだろうと思います。**(171頁)と評している。しかしその直後に**正篇がなかったならば、宇治十帖の光彩というものは、極端に薄れるでしょう。**(172頁)と指摘している。

NHKの100分de名著「源氏物語」4回分の再放送(4月7日午前0時40分~)を録画で見た。国文学者で平安文学、中でも「源氏物語」と「枕草子」が専門だという三田村雅子さんが解説していた。三田村さんは物語最後のヒロイン浮舟が好きだと言っていた。浮舟には紫式部が投影されているとも。

『源氏物語』(もちろん現代語訳)をもう一度読む気力は無い。だが、「宇治十帖」は再読してもいいかなと思い始めている。


 


「13歳からの地政学」を読む

2024-04-04 | A 読書日記


朝カフェ読書@スタバ 2024.04.01

『13歳からの地政学』田中孝幸(東洋経済新報社2022年3月10日第1刷発行、2023年2月8日第11刷発行)を読んだ。

この本は3月23日付 朝日新聞の読書面に「売れている本」として紹介されていた。紹介文の最後は**文字通り13歳から社会人まですべての人に読んでもらいたい一冊である。**と結ばれていた。ならば、自分も読んでみようと、いきつけの書店で買い求めていた。数日前に読み始め、昨日(3日)読み終えた。

高校生の兄と中学生の妹が夏休みの間、カイゾクというあだ名のおじいさんから受ける7日間の講義。自分が経営するアンティークショップで、おじいさんが地球儀を使って兄妹に説くのは「世界の政治、経済、社会のなぜ」。なぜ中国は南シナ海を欲しがるのか、なぜアフリカは貧しいのか・・・。

なるほど、こういうことなのか。

難しいことを難しく語るよりも、難しいことを易しく語る方が難しい。この本は後者だ。中高生の兄妹に上記のような難題を易しく説いている。小説仕立てにして読みやすくしたのはなかなかのアイデア。7日間の講義が7章に対応付けられ、それぞれの章末にポイントが箇条書きにされているのもありがたい。

カイゾクは最終日に出す問題に答えられたら地球儀をプレゼントするとふたりと約束する。講義で使ったのはディプロマットという地球儀で、ホワイトハウスで歴代の大統領が使っていたものと同じモデル。それはショップのウィンドウに飾られていた年代物の地球儀で値札には時価と表示されていた。

7日間の講義が終わり、カイゾクがふたりに出した問題は、自分にとっての世界の中心はどこか、というものだった。

ぼくは、どこだろう・・・。そう言えば『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説があったなぁ、などと思いつつ、ふたりはどんな答えをしたんだろうと、先を読んだ。

ふたりの答えはここには書かない。様々な答えがあるだろうが、ふたりの答えはそれらの代表的なもの、だと思う。

一読をお薦めしたい。


 


「豆腐の文化史」を読む

2024-04-01 | A 読書日記


 『豆腐の文化史』原田信男(岩波新書2023年)を読んだ。感想は「すごい!」のひと言。

私の大学時代の恩師は**故事成語に「一を聞いて十を知る」があるが、それとは逆に、一のことを説明するためには十くらいの知識が欲しい。**と説いた(『マナベの「標語」100』彰国社 213頁)。『豆腐の文化史』は、まさにそのように、十を知って一を記述しているのだろう、と思わせるような内容だ。

巻末に掲載されている参考文献・典拠リストは19頁にも及ぶ。数えると1頁に18編くらい掲載されている。だから、総数はおよそ340編ということになる。これら数多くの文献を読み解いて展開する豆腐の発生地、発生時期に関する論考、さらに全国各地を訪ね歩き、その地に伝わる豆腐の製法、調理法などを調査した成果が新書1冊にまとめられている。

本書には豆腐という馴染み深い食品はいつ頃どこで出来て、それがいつ頃日本に伝わり、どのように広まっていったのか、それから現在、日本には豆腐を用いたどのような料理があるのか、詳述されている。**食文化史研究の第一人者による決定版。**と本書カバーの折り返しに記されているが、確かに決定版だと思わせる詳細、緻密な論考だ。

豆腐の起源について、著者の原田さんは文字史料の不在が、その存在を否定するものではない、と指摘。豆腐を酥(そ)と称していたか、あるいは酪(らく)の語をあてていた可能性もあるとしている。なるほど、全く別の呼び方がなされていた可能性も大いにあり得るということは頷ける。

**また随・唐の詩文類にみえないのも、その段階では文人たちの口に入りにくかったという事情があったからとも考えられる。さらには豆腐自体が、漢代から唐代にかけては、かなり地域性の高い特殊な食品だった可能性も考えられる**(35、36頁)と、実に注意深く考察している。

このようなことを受けて、**現在の段階では、豆腐の発生地が淮南付近だったとしても、その時期について断定することは難しい。**(36頁)としている。なお、発生地が淮南(わいなん 黄河と長江の中間域に位置する)付近ということに関しては別のところで論じている。

以上の内容については第2章 豆腐の登場で論じられており、続く第3章 日本への伝来と普及 は章題が示す通りの内容で、平安末期に豆腐が史料上に登場しているものの、**空海(弘法大師、774~835)が唐から、豆腐の技術を伝えたとするのも弘法伝説の一種に過ぎない。**(52頁)としている。私も空海が伝えたという説を信じていたが・・・。

その後の普及のについても多くの史料を示しながら論じている。そして江戸期の豆腐の調理法等の記述は詳しい。本書の内容紹介はこの辺で終りにするが、最後に次のことを記しておきたい。

豆腐を固めるのに使うニガリが軍用機のためのジュラルミンをつくるのに回されたということを知り、驚いた。このことについて、次のように記述されている。**ニガリの主成分である塩化マグネシウムが電気分解によって金属マグネシウムに変化することから、軽量で耐久性も強い航空機用のジュラルミンの原料として注目された。**(161頁)

知らなかった、豆腐がこんな風に戦争と関係していたなんて・・・。豆腐の世界は広くそして深い。


 


安部公房の「夢の逃亡」を読む

2024-03-31 | A 読書日記

360
『夢の逃亡』安部公房(新潮文庫1977年)を読んだ。奥付を見ると、この本の発行日は昭和52年(1977年)10月30日。この本を読み始めたのが同年11月2日と記録されている。発行された直後に早速読み始めたことが分かる。この初読の後に再読した記録も記憶もないので、今回46年ぶりに再読したことになる。

この『夢の逃亡』には初期の短編が7編収められている。初読の時に引いた傍線が数か所ある。

**そういった存在の窪みである頁の間からようしゃない実体としてこぼれ出たこの本だけを、真に〈名前〉に耐え得るものであったと書かねばなるまい。**(76頁) この引用箇所に傍線を引いてある。前後の文脈を考慮しても意味がよく分からない。

7編ともよく理解できず、字面を追っただけだった。従って読み終えたとは言えないが、読んだということにしておく。46年前はどうだったのか、理解できたのかどうか。傍線を引いたり、▽印を付けたりしてあることから、それなりに読み解いていたのだろう・・・。

今回再読して付箋を貼った箇所から引く。

**一体、性格なんていうものがあるのでしょうか。仮にあるとしても、それが人間の本質とどう関係してくるのでしょう。**(「牧草」20頁)
**第一、人間を掴むといったって、実際問題として、一体どうやったら良いでしょう。一体人間とは何者でしょう。**(「牧草」21頁)

人間とはなにか、人間が存在するとはどういうことなのか、安部公房がずっと問い続けることになるテーマがこの文庫に収録されている最も初期の作品にも出ている。

私の脳は加齢とともに確実に劣化していて、読解力も記憶力も低下していることを実感する。先日、図書館の職員とも話したけれど、本は若い時にたくさん読んでおくべきだ。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない 2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印は絶版と思われる作品)

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


 


カフェトーク@cafe&sweets 彩香

2024-03-29 | A 読書日記


唐突ですが問題です。これ、いくらでしょう。クロワッサンサンド、ヨーグルト(左)、ポテトサラダ(右)、コーヒー。
① 600円未満
② 600円
③ 600年より高い

答えは記事の最後に。昼近くだったのでカフェトークでこれを注文、昼食にしました。


 昨日(28日)久しぶりに松本駅近くの丸善へ出かけた。3月2日付 朝日新聞の書評欄に**来歴不詳  身近で謎多き食べ物**という見出しの書評が掲載されていた。『豆腐の文化史』原田信夫(岩波新書2023年)の書評(評・編集委員 長沢美津子)。この書評を読んでおもしろそうだなと思った。それで買い求めて読もうと思って出かけた次第。

丸善の地階の文庫と新書のコーナーを見て歩いていて『源氏愛憎 源氏物語論アンソロジー』編・解説  田村 隆(角川ソフィア文庫2023年)が目に入り、手にした。内村鑑三、与謝野晶子、田山花袋、芥川龍之介、正宗白鳥、和辻哲郎、折口信夫、谷崎潤一郎、湯川秀樹、円地文子、小林秀雄、太宰 治。目次のⅠ古典篇に知っている人は少ない。Ⅱ近現代篇に並ぶこれらの人たちが「源氏物語」についてどのようなことを書いているのだろう。読んでみようと思った。やはり本は書店で買わないと。ネット注文でこういうことはないだろう。



この2冊を手に、エスカレーターで1階のレジカウンターへ行こうとしていたところで、声をかけられた。帽子にマスク、それにメガネ。誰だか分からなかった。彼は帽子を取り、メガネを外した。高校の同期生のN君だった。 

丸善の中にあるcafe&sweets彩香でカフェトーク。高校時代に安部公房の小説をよく読んだというN君と小説談議。あの頃は大江健三郎や安部公房が人気で、ぼくも読んでいたので話が弾む。

ぼくはこのふたりの作家の他に、北 杜夫の小説をよく読んでいた。ある時、図書館で『さびしい王様』を借りようとしたが貸出中だった。偶々その場に居合わせたK先生(英語の厳し~い先生)に「持ってるから貸してやるよ。職員室に来なさい」と言われ、借りて読んだことなど、想い出を話した。

在学中に演劇部が安部公房の戯曲「友達」を公演したが、そのことを話すとN君も覚えていた。

共通の想い出をもつ友人とのカフェトークは楽しい。これって、老いた証拠なのかな。


 
借りた本は返しました、もちろん。その後、買い求めた本は今も書棚にあります。


cafe&sweets 彩香は2024年3月31日をもちまして閉店させていただきます。SNSに残念なお知らせが載っていました。

① 450円でした。(モーニングサービス)


 


原田マハのポスト印象派物語「芸術新潮」4月号(改稿)

2024-03-27 | A 読書日記


 「住宅建築」を長年定期購読していた。また、若かりし頃には「文藝春秋」や「山と渓谷」などの雑誌も購読していた時期もあった。だが、ここ何年かは雑誌を購読する、ということはあまりしていなかった。

「芸術新潮」の4月号に「ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ ―― 原田マハのポスト印象派物語」という特集が組まれていることを知り、行きつけの書店で買い求めた。原田マハさんの小説の大半を読んできたから(*1)、この雑誌も読みたいと思って。ただし、安部公房の作品を特集した3月号とは異なり、4月号は原田さんの作品の特集ではない。

本号はおよそ140頁。その過半を特集記事が占め、内容が充実している。「ポスト印象派」を理解するために(文:三浦 篤)という記事もある。

特集記事の最初に、ゴッホの作品「オーヴェールの教会」(1890年)が左の頁、その教会の前に立つ原田さんの写真が右のにドーンと見開きで大きく掲載されている。またゴッホが亡くなる直前に滞在していたラヴェー亭(*2)の3階の部屋の写真も1頁割いて掲載されている。他にもカラー写真が何カットも。

特集のポスト印象派の作品を巡る旅を原田ハマさんは小説仕立てにしている。小説を読んでいて感じることだが、原田さんの構想力はすごい。

《パリのカフェでばったり出会う》というタイトルが付けられたプロローグ。私(原田マハさん)はポスト印象派の画家、エミール・ベルナール(1868~1941)とパリのカフェでばったり出会う。それから私はエミールとふたりで5人の画家に次々と会いにいくことになる。

1人目はフィンセント・ファン・ゴッホ。

**驚くべきことに、私は地下鉄(メトロ)に乗っていた。
いや別に、メトロに乗っていること自体に驚いているわけじゃない。私のとなりの席に座っている人物が、どうやらほんとうにポスト印象派を代表する画家、エミール・ベルナールであること、そのエミールと一緒に二十一世紀のいま、パリのメトロ七号線に乗っている ―― という信じがたい事実に驚いているのである。**(22頁) 

エミールが私をドアの向こうから現れたフィンセントに紹介する。ところが、フィンセントは私の姿が全く見えていない。彼の眼が見えないというわけではない。私は相手には見えないという設定。部屋に招き入れられたエミール(私も背後霊のように一緒に)はフィンセントと、あれこれタブロー(絵画作品)談議をする。

それから次にポール・ゴーギャン(私が運転するレンタカーにエミールを乗せて)、3人目にポール・セリュジエ(ふたりで下宿屋に向かってゆるやかな坂道をゆっくり上って)、4人目にオディロン・ルドン、5人目にポール・セザンヌと、次々訪ねて行ってタブロー談議をする、という趣向。偶然にも3人がポールという同じ名前。

60頁にエミールが実際に1904年に撮影したセザンヌの写真が載っている。制作途中の《大水浴図》の前の椅子に座るセザンヌ。まさにこの時にエミールと一緒に出かけていた私は撮影の様子を見ている(という設定)。

**「最新型のカメラを持ってきたんです。写真を一枚、撮らせていただいてもいいでしょうか?」
「ああ、いいとも」セザンヌが応えた。
「この絵の前でいいかな? 描きかけなんだが・・・」(中略)
小気味よいシャッター音が響いた。
エミールの最新型のカメラとは、なんとスマホだった。**(60頁)

ひえ~っ、原田さん遊んでるな(楽しんでるな、と同義)。

この「小説」単行本で出版して欲しいなぁ。

雑誌を購入するのは久しぶりだが、好かった。


*1 原田マハさんの既読作品リスト
『モダン』
『異邦人』
『楽園のカンヴァス』
『美しき愚かものたちのタブロー』
『黒幕のゲルニカ』
『本日はお日柄もよく』
『たゆたえども沈まず』
『カフーを待ちわびて』
『デトロイト美術館の奇跡』
『リーチ先生』
『リボルバー』
『フーテンのマハ』
『ジヴェルニーの食卓』
『常設展示室』
『アノニム』
『風神雷神』

*2 外観はSVで見ることができる。


 


北 杜夫が現代語訳した「竹取物語」を読んで

2024-03-26 | A 読書日記

 私の村では4か月児にファーストブック(絵本)を、小学1年生にセカンドブックをプレゼントする事業を既に実施している。令和6年度から小学6年生にサードブックをプレゼントする事業を実施する予定とのことで、図書館協議会委員を務めている関係で私もサードブックに相応しい本の推薦を依頼され、3冊推薦した(過去ログ)。その中の1冊に「21世紀版 少年少女古典文学館」(講談社)の第1巻、橋本 治が現代語訳した「古事記」を選んだ。


私が推薦したサードブックの3冊

先日、図書館へ推薦本を持参し、担当者に3冊の本の推薦理由を説明した。その際、図書館に「21世紀版 少年少女古典文学館」全25巻が揃っていると聞いた。このシリーズの第2巻に北 杜夫の「竹取物語」と俵 万智の「伊勢物語」が収録されている。北 杜夫の「竹取物語」も読んでみたい、と前から思っていたので、第2巻を借りてきた。

本の見返しに「寄贈本」というスタンプが押してある。どなたかが全巻寄贈されたのだろう。すばらしい。


スタバで朝カフェ読書。昨日(25日)第2巻の『竹取物語』(図書館本)を読んだ。私は小学生の時に「かぐや姫」という書名の『竹取物語』を読んでいると思う。多くの人が私と同様に小学生の時に読んでいるだろう。

『竹取物語』は平安前期に成立した物語で、『源氏物語』に出てくる。第17帖「絵合」に**まず、最初につくられた、物語の元祖というべき「竹取物語」と「宇津保物語」を取り上げて勝負を競う。**とある。(角田光代 現代語訳『源氏物語』上巻 河出書房新社 518頁)

『竹取物語』はこのように日本最古とも言われる物語。改めてこの物語を読んで、これはSFだと思った。そう、日本最古の『竹取物語』はSF。物語の最後に、「え、そうなのか」と思った箇所があったので、記しておきたい。

**調石笠(つきのいわかさ)はそのおことばをうけたまわって、兵士たちをおおぜい引きつれて、山にのぼったが、そのときから、その山を「富士の山」、つまり「士(つわもの)に富んだ山」と名づけたのである。**(112頁)

私は、二つとない山という意味で不二の山、その表記が富士の山となったという説明を記憶しているが・・・。富士山という名前の由来が『竹取物語』にあったとは。

調石笠は帝の使者で、本の注釈に**調氏(つきし)は古く応神朝に帰化した百済系の氏族。もちろん、月と同音なので選ばれた登場人物。石笠(いわかさ)の名も、山の岩と月の暈(かさ)を響かせてあるのかもしれない。**(112頁)とある。少年少女向けとはいえ、解説は詳しい。「古事記」もそうだった。

このシリーズには朝ドラ「らんまん」の寿恵子がこよなく愛した『南総里見八犬伝』も収録されている。第21巻の「里見八犬伝」だ。現代語訳したのは栗本 薫。これ、読んでみよう。

他にも、「うつほ物語」津島佑子、「西鶴名作集」藤本義一、「東海道中膝栗毛」村松友視など、読みたい物語がこのシリーズに収録されている。安部公房も年内に手元の新潮文庫22冊を読みたいし、他にも読みたい本は次々出てくる。忙しいなぁ。でもうれしい。


 


「石の眼」を読む

2024-03-21 | A 読書日記

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 安部公房の作品を高校生の時に読み始め、よく読んだのは大学生の時、その後も読み続けていた。今年は1924年(大正13年)生まれの安部公房の生誕100年の年。雑誌「芸術新潮」が3月号で特集を組んでいることからも分かるが、ノーベル賞に最も近い作家と評されていた安部公房は過去の作家ではない。

今月(3月)刊行された遺作『飛ぶ男』(新潮文庫)は、よく売れているようだ。紀伊国屋書店新宿本店の文庫のランキング(3月4日~10日)で1位になっていた(全国紙の書評欄)。新潮社のHPによると『飛ぶ男』は読者全体の3分の1を50~70代が占めているそうだ。若かりし頃、安部公房の作品を読んでいた読者が約30年ぶりの新刊を手に取っているとのことだが、私もそのひとり。

安部公房の『石の眼』(新潮文庫1975年1月30日発行)の初読は記録によると発行直後の同年2月、再読は1993年2月。それから31年後、またこの小説を読んだ。

安部公房の作品には観念的な内容が硬い文体で綴られている、というイメージがあるが、この作品はそのようなイメージからは遠く、読みやすい。

内容についてカバー裏面の作品紹介文から一部を引く。**完成近いダム建設地、しかしそのダムは業者と政治家の闇取引による手抜き工事で、満水になれば必至であった。不正の露見を恐れ、対策に狂騒する工事関係者たちへの審判の日が来た――。**

私が好む推理小説仕立ての小説で、よくできたストーリーだとは思うが、なんとなく物足りなさを感じてしまうのは、私が安部公房の作品に求めているのは既に読み終えた『人間そっくり』や『他人の顔』、今後読むことになる『箱男』、『砂の女』などの「人の存在」そのものを問う観念的で濃密な作品を求めているからではないか、と思う。

ところで、松本清張に『眼の壁』という推理小説がある。『石の眼』を間違えて『眼の壁』だとある人に伝えてしまった。シマッタ! 安部公房には『壁』という芥川賞受賞作があるので間違えた?

尚、『石の眼』は現在絶版になっている。


さて、次は『夢の逃亡』(新潮文庫1977年)。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない 2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する)
月に2、3冊のペースで読んでいけば年内に一通り読むことができる。

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月


 


「流人道中記」を読む

2024-03-13 | A 読書日記

『流人道中記』上下巻 浅田次郎(中央公論新社2020年 図書館本)を読み終えた。上下巻合わせて660頁という長編。姦通の罪を犯し蝦夷松前藩への流罪となった旗本・青山玄蕃と押送人の見習与力・石川乙次郎。津軽の三厩を目指す奥州街道ふたり旅の後半。


浅田さんは物語の途中に江戸で待つ妻・きぬに宛てた乙次郎の手紙を挟む。それは物語を先に進めるのではなく、それまでの簡単なまとめをするという浅田さんの意図か。柔らかな文体で綴られている手紙を読むとそれは浅田さんの息抜きのようにも感じる。その手紙に乙次郎は次のように書く。

**僕は今、現実と御法の狭間で思い悩んでいます。
(中略)
今の世の中は、御法にさえ触れなければ悪行ではないとする風潮がありますね。でも、それは真理ではない。人間の堕落によって廃れた「礼」を、補うためにやむなく求められた規範が「法」であるなら、今日でも「礼」は「法」の優位にあらねばならないはずです。(後略)**(210,211頁 *1)

また別のところでは浅田さんは**僕は見習与力になったとたん、ひとつの疑念に取り憑かれた。それは、はたして人が、天にかわって人を裁く権利を持っているのかという疑問だった。**(13頁)と書いている。

押し込み強盗の手引きをしたとして丁稚・亀吉に引廻しのうえ磔(はりつけ)の申し渡しがあった。が、真実は違っていた。亀吉は騙されて手引きをさせられていたのだ。また、当時の法では十五歳以下であれば死罪は免れたが、亀吉は十六歳。だが親が亀吉の歳を偽って奉公に出していた・・・。本当に十六歳としても**「正月四日の晩ではないか。これが四日前の大晦日の出来事ならば、算(かぞ)え十五の子供ゆえ遠島か親元預けで済んだはずだ」**(28頁)

浅田さんはこの小説で裁きが依拠する「法」とは何か、を問う。

**敵討ちをやめさせようとしたのではない。御法が滅す命ならば、せめてその死に様によって他者の命を救い、善行のみやげを持たせて往生させようと考えたのだ。**(96頁)

具体的には書かないが、磔にされた亀吉がある敵討ちをやめさせることになる。下巻のはじめに出てくるこの騒動の設定は凄い。読んでいて、何と表現しよう・・・、そう、心が震えた。

その後、旅の途中のふたりが遭遇するのが「宿村送り」。それは**病を得た旅人が故郷に帰りたいと願ったなら、沿道の宿駅はその懸命の意思を叶えてやらねばならなかった。**(109頁)というもの。四十過ぎと思しき女が路銀尽き、仮病を使って「宿村送り」を利用する。玄蕃と乙次郎を巻き込んだこの騒動はちょっとユーモラスでもある。

下巻の後半は玄蕃のひとり語りの様相に。玄蕃は姦通が冤罪であることが明らかにし、それを敢えて受け入れた自身の考えも述べる。私はなるほど、とはいかず・・・。

やがてふたり旅も終わりに。

乙次郎は**叶うことなら空や海のきわまるところまで、この人とともに歩きたかった。**(286,7頁)と思うまでになっている。ふたり旅、そして物語の最後の最後に乙次郎は初めて名を呼ぶ。「玄蕃様――」 **「科人の名を口にしないのは奉行所の習いだ。他意はない」**(266頁)このことについて科人の人格を認めない、情をかけないなどの理由が挙げられているのに。流人と押送人という関係は師弟関係へと変容していた。

なかなか感動的なラストだった。ふたりのその後も気になる。

浅田次郎の作品は2022年に読んだ『おもかげ』以来。『一路 上下』など他の作品も読んでみたい。


*1 本稿すべて下巻の頁


「流人道中記」浅田次郎

2024-03-11 | A 読書日記

360
朝カフェ読書@スタバ 2024.03.11

 今朝(11日)スタバ入りする前にTSUTAYAへ。安部公房の遺作『飛ぶ男』が新潮文庫になっていたので買い求めた。これで手元の新潮文庫の安部公房作品は22冊になった。

*****

安部公房の作品を3編続けて読むのはしんどい。それで『流人道中記 上下』浅田次郎(中央公論新社2020年)を図書館から借りてきた。

上巻を読み終えた。浅田次郎は上手い。

**「実はの、それがしには切腹のご沙汰が下ったのだが――」
「おい、やめろ」と石川なる若い与力がたしなめた。
「半端で巳(や)まる話しかえ。ま、早い話が切腹なんぞ痛くていやだと言うたら、蝦夷地に流される運びとなった。気の毒に、この石川さんは押送人だ」**(291頁)

姦通の罪で切腹。それを拒み、蝦夷松前藩への流罪となった旗本・青山玄蕃と押送人の見習与力・石川乙次郎。玄蕃には10歳ばかりの惣領息子がいるから30代半ばくらいか(歳が記されているなら読み落としている)、婿入りした乙次郎は19歳。

ふたりの江戸出立から津軽三厩(みんまや)までの道中記。そこで乙次郎は玄蕃を松前藩の迎えに引き渡すことになっている。ふたりは旅を続けるうちに流人と押送人という関係から、師匠と弟子のような関係に、とはちょっと言いすぎかもしれないが・・・。

旅の途中、芳野宿での騒動。玄蕃と乙次郎が泊まる旅籠に稲妻小僧と呼ばれる悪人の勝蔵と勝蔵を追う賞金稼ぎの野老山権十郎が偶然にも同宿する。そして宿の飯盛女のお栄は勝蔵の幼なじみだった・・・。

浅田さん考えたねぇ、この設定。

玄蕃が実に見事にこの一件を落とし込む。これ以上ないというところへ。それにしてもなぜ玄蕃は姦通の罪を犯したんだろう。旅の途中での思慮からは信じ難い。

津軽三厩への旅はその先がまだまだ長い・・・。ふたり旅の結末が気になる。続けて下巻を読み始める。


 


「人間そっくり」を読む

2024-03-09 | A 読書日記


朝カフェ読書@スタバ 2024.03.07

安部公房の『人間そっくり』(新潮文庫1976年4月30日発行、1993年2月15日28刷)を読んだ。1924年(大正13年)生まれの 安部公房、今年は生誕100年。安部公房の作品を何編か再読しようと思う。

『他人の顔』は他者との関係において、自己を自己たらしめる「顔」を失ってしまうとどういうことになるのか、という思考実験的な小説だ。思弁的で、一般的な(よく読むような)小説とはだいぶ様子が違っていたが、安部公房らしい作品と言えるのかもしれない。

『人間そっくり』を読み始めて間もなく(4頁目)**たとえば、あなただって ―― もし、本物の《人間》であるかどうかの、物的証拠を求められたとしたら・・・・・おそらく、腹を立てるか、一笑に付してしまうにちがいあるまい。そもそも、人間が人間であるということは、平行線の公理と同様、証明以前の約束事なのだ。公理というやつは、定理とちがって、もともと証明不可能だからこそ公理なのである。**(9頁)という文章がでてくる。

主人公はラジオ番組の脚本家で某ラジオ局の帯番組《こんにちは火星人》の脚本構成を担当している。ある日、主人公の自宅に一人の男が訪ねてくる。その男は言う**「じつを言うと、ぼく、普通の人間じゃないんです。火星人なんですよ。」**(31頁) 主人公は次第に男の弁舌に翻弄されていく・・・。

この小説は「私は人間である」という証明不可能なことにどのように対処していくのか、という問題に取り組んだ作品。ほぼ主人公と火星人だと自称する男の会話だけで構成されている。

**「君は人間?・・・・・それとも、火星人?」**(160頁)

ラストが印象的。


手元にある安部公房の作品リスト(新潮文庫22冊 文庫発行順 戯曲作品は手元にない 2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する)
月に2、3冊のペースで読んでいけば年内に一通り読むことができる。

『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月

※既に絶版になっている作品もあるようだ。
昨日(7日)買い求めた『燃えつきた地図』(2022年9月、38刷)のカバー折り返しの作品リストには上記リストに*を付けた作品が載っていない。