透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

カフェ・シュトラッセで読書

2009-06-07 | A 読書日記

 カフェ・シュトラッセで午後のひと時を過ごす。クラシックが静かに流れる店内、美味しいコーヒーをいただきながら本を読む、至福の時。こんな田園風景の中のカフェって、日本広しと言えども、そうはないだろう。このような場所であるのにもかかわらず、訪れる人が多い。いやこのような場所だからこそ、わざわざ遠くから訪れる人がいるのかも知れない。

もちろん一番の魅力がコーヒーの美味さにあることは指摘するまでもない。

焙煎機の煙突、木柱の外灯


今日ここで『日本の仏像 飛鳥・白鳳・天平の祈りと美』長岡龍作/中公新書を読了。

仏教の教え、施主の願いをビジュアルに表現したものが仏像だと思うが、その姿は一体何を表現しているのか、史料などを基に読み解こうという試み。内容は専門的で難しい。仏教の世界はやはり奥が深い。

仏像鑑賞には仏教の基礎的な知識が役に立つとは思う。が、ここまでのことを知らなくてもいいのではないか、と自分に言い聞かせてきちんと内容を理解することを諦めた。

『仏像の本』で著者の仏像ガール(廣瀬郁実)さんは、**まずはいっぱい感じて、ちょっと知ってみる。興味を持ったらもっと知ってみる。そんなふうに仏像を楽しんでみると、ステキな仏像との出会いがきっとあるはずです。**と書いている。そうだ、まずは仏像との対面だ。それから仏像通史をザックリと押えればいい。


石山さん、藤森さんを評す

2009-06-07 | A あれこれ


 日曜日の朝刊には読書欄があって、書評が何編も載る。今日の朝刊(信濃毎日新聞)で藤森照信さんの『ツバキ城築城記』日経PB社を建築家の石山修武さんが書評していた。

藤森さんはデビュー作から一貫して自然素材を使いつづけている。どこか懐かしい雰囲気の漂う作品を、嫌いと言う人は少ないのではないだろうか。それは自然素材の持つ力、魅力によるものだ、と思う。

本書のツバキ城は伊豆大島にもう何年も前に「築城された」酒屋だ。確かなまこ壁の目地が芝だった。表紙のように方形の屋根も芝、てっぺんにはツバキが1本植えられている。随分青々としていて赤い花が数輪咲いている。

藤森さんは自邸の屋根にタンポポを植えたし、作家で「老人力」という言葉をつくった赤瀬川さん家(ち)の屋根にはニラを植えた。屋根に植物を植えるという発想は民家に見られた「芝棟」という棟納めから来ているらしい。


芝棟「民家 昔の記録」再載

さて、石山さんの書評。

**本当は藤森の考えは、普遍化モデルに収束していく近代的思考、つまりグローバリぜーションにとっては異物である。しかし排除の力は働こうとしない。なぜか。それは藤森の思考が、建築の祝祭性への民衆の願望を代弁しているからだ。** このくだり、石山さんは真面目にそして的確に藤森さんの建築観、建築作品を評している。

**「カッカッカ、ザマミロ、イシヤマ」とまで書かれた私だって黙っていないぞ。今年、出現する私の建築を見て、その論を読んだら、オマエ泣くぞ。悲嘆にくれる姿が目に見えるようだ。** ふたりは盟友。この書評の結びがいかにも石山さんらしくて、いい。早速、この本を注文しよう。

どじょうは何匹でも

2009-06-07 | A あれこれ



 阿修羅、阿修羅、阿修羅。3冊とも買ってしまいました。

阿修羅を表紙に阿修羅えば、もとい、あしらえば雑誌は売れます。出版社の皆さんは「神様 仏様 阿修羅様」と感謝しているでしょう。

表紙の写真を比べてみると、アングルや照明によって、表情が全く違って見えることが分かります。仏師もそこが狙いだったのかもしれません。

ところで「サライ」には明治41年に刊行された写真集「日本精華」に掲載されたという、腕が欠落した阿修羅が紹介されています。痛々しい姿です。

阿修羅は顔が3つ、腕が6本もあるのに全く違和感を感じませんが、そのポイントは腕にあるような気がします。試みに合掌している腕以外の腕を隠してみると、3つの顔が急に不自然に見えますし、全身が妙に細長く感じます。やはり腕の太さと配置が絶妙なんでしょう。

「一個人」には京都妙法院三十三間堂の阿修羅像が載っています。ずんぐりした体、太い腕、顔は阿修羅本来の怒りの表情・・・。

やはり興福寺の阿修羅は特別なんですね。どこか寂しげで憂いを帯びた表情に惹かれます。

大勢の人たちを魅了した阿修羅、東京国立博物館の「阿修羅展」は今日(7日)閉幕ですね。


興福寺五重塔望遠 昔の記録

今秋、奈良に出かけて阿修羅と再会したいものです。