竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 百五三 なまよみの甲斐国 山梨から富士を讃える

2016年01月16日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百五三 なまよみの甲斐国 山梨から富士を讃える

 万葉集巻三に高橋虫麻呂歌集に載る歌として富士山を詠う集歌319の長歌があります。多くの富士山を詠う歌は太平洋上やその岸辺から眺めた姿を詠いますが、この集歌319の長歌は少しその歌い方が違います。貞観大噴火以前に存在した石花海や富士川を読み込むなど甲斐国側、北側から富士山を眺めたものとなっています。ただ、富士山と云う山自体の所属は駿河国であって、甲斐国ではなかったようです。
 こうしたとき、長歌の詠い出し「奈麻余美乃 甲斐乃國(なまよみの甲斐の国)」と云う言葉が古くから話題になっています。この「なまよみ」とは、どのような意味を持つ言葉なのかという議論では、今日では「生+黄泉」と云う考えが有力ですが、今回はもう一度この言葉を探っていきたいと思います。

詠不盡山謌一首并短謌
標訓 不尽山を詠める歌一首并びに短歌
集歌319 奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出之有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
訓読 なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国しみ中ゆ 出(い)ずしあり 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも 座(いま)す神か 石花(せ)し海と 名付けてあるも その山し つつめる海ぞ 不尽河(ふぢかわ)と 人の渡るも その山し 水の激(たぎ)ちぞ 日し本し 大和し国の 鎮(しづめ)とも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも
私訳 半黄泉(なまよみ)、この世とあの世との界(かい=区切り)、その言葉の響きのような、甲斐の国と、浪打ち寄せる駿河の国と、あちこちの国の真ん中にそびえたつ富士の高峰は、天雲も流れ行くのをはばかり、空飛ぶ鳥も山を飛び越えることもせず、山頂に燃える火を雪で消し、また、降る雪を燃える火で溶かし消し、どう表現したらよいのか、名の付け方も知らず、貴くいらっしゃる神のようです。石花の海と名付けているのも、その山を取り巻く海だよ。富士川として人が渡る川も、その山の水の激しい流れだよ。日の本の大和の国の鎮めといらっしゃる神とも、国の宝ともなる山でしょうか。駿河にある富士の高嶺は見ても見飽きることはないでしょう。

反謌
集歌320 不盡嶺尓 零置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利
訓読 不尽(ふぢ)し嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)し十五日(もち)に消(き)ぬればその夜(よ)降りけり
私訳 富士の嶺に降り積もる雪は、夏の終わりの六月の十五日に消えるのだが、その夜には新しい年の雪が降ってくる。


 インターネット調べからしますと、都留文系大学の鈴木武晴教授の「なまよみの甲斐考」に多くの有力説が解説してあり、西宮一臣氏が唱え、現在では最有力となっている「生+黄泉」説もそこに紹介されています。
 歴史の中では「生吉の貝」、「生善肉の貝」、「生弓の甲斐」などの案が提案されてきたようですが、語例と語法から非常な無理筋であると否定的な扱いになっています。有力なのは「生黄泉の交ひ」案です。これは東海道と東山道とを連絡する古道があり、また、山・坂の地でこの世とあの世(黄泉国)との連絡となる場所(生+黄泉=黄泉の国として完成されていない、未熟である場所=入り口となる場所)と云う意味合いから提案された案です。
 一方、鈴木武晴教授は古くから土地誉めと云う風習がある大和で、その良字や良名にならない「生+黄泉」説に異議を唱え、「行(なま=並ま)+吉み」説を唱えられています。つまり、山並みの姿が宜しい国と云う考えからです。そうしますと、歌の初句「奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与」は「(山の姿が)なまよみの」甲斐の国と「(波が)うち寄する」駿河の国と云う対比が現れるとします。実に卓見の指摘です。
 こうした時、いくつものものが連なる様を意味する「並み」や「並め」と云う言葉が「なま」と云う言葉と等価であるということが重要になります。一方、「なまよみ」の「よみ」については万葉集中に「好見」(集歌765)、「吉美」(集歌1483)、「吉三」(集歌2131)、「好美」(集歌2349)、「好三」(集歌2618)などの表現があり、「余美」と云う表現はこれらのものと比較して「美しいところが余りある、すばらしいところ」のような表現を意味するとしても違和感がないと考えます。
 すると、「奈麻余美」の「奈麻」が「並ま」であるのかどうかに、問題点は集約されます。都留文系大学の鈴木武晴教授は「天雲(あまくも)」などの用例を上げて「天」の「あめ」が「あま」と転化したのと同様な事例であるとします。ほぼ、この説明で「奈麻」は「並ま」であり「なま」と訓じて良いのではないでしょうか。従いまして、集歌319の長歌の訓じと解釈は次のように変更致します。

訓読 並(な)まよ美の 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国しみ中ゆ 出(い)ずしあり 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消(け)ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず 霊(くす)しくも 座(いま)す神か 石花(せ)し海と 名付けてあるも その山し つつめる海ぞ 不尽河(ふぢかわ)と 人の渡るも その山し 水の激(たぎ)ちぞ 日し本し 大和し国の 鎮(しづめ)とも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

私訳 山々が連なり山並みが美しい甲斐の国と、浪打ち寄せる駿河の国と、あちこちの国々の真ん中にそびえたつ富士の高峰は、天雲も流れ行くのをはばかり、空飛ぶ鳥も山を飛び越えることもせず、山頂に燃える火を雪で消し、また、降る雪を燃える火で溶かし消し、どう表現したらよいのか、名の付け方も知らず、貴くいらっしゃる神のようです。石花(せ=背=頼もしい夫)の海と名付けているのも、その山を取り巻き包む海だからです。富士川として人が渡る川も、その山の水の激しい流れです。日の本の大和の国の鎮めといらっしゃる神とも、国の宝ともなる山でしょうか。駿河にある富士の高嶺は見ても見飽きることはないでしょう。


 さて、歌自体に目を転じてみたいと思います。この高橋連蟲麻呂に関係して高橋連蟲麻呂謌集は「登筑波嶺為嬥謌會日作歌」、「登筑波山謌」、「詠上総末珠名娘子一首」などの作品を収めた歌集とされ、それらの作品は高橋蟲麻呂自身の作品であろうと推定されています。つまり、高橋蟲麻呂は東国、それも現在の関東地方を訪れていることは確実です。
 こうした時、「四年壬申、藤原宇合卿遣西海道節度使之時、高橋連蟲麻呂作謌一首」と云う歌(集歌971)があり、藤原宇合と高橋蟲麻呂との上司・配下の関係が推定されています。さらに藤原宇合は養老三年の按察使設置時に常陸守として安房、上総及び下総三国の按察使に任命されていますので、このごろ、高橋蟲麻呂は関東地方にやって来たのではないかと推定されています。「検税使大伴卿登筑波山時謌一首」(集歌1753)が高橋連蟲麻呂謌集に載るものですと、高橋蟲麻呂と大伴旅人との関係も考慮する必要が現れて来ます。
 歌での「検税使大伴卿」と示される「検税使」は、東山道、東海道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七街道と畿内とにそれぞれ配置された臨時の税務に関する役職です。そうした時、大伴旅人や藤原宇合が活躍した時代、古代史の建前では、東山道は近江・美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道となっていますが、歴史においては美濃国と信濃国とを結ぶ吉蘇路(木曽路)が完成したのは和銅六年(713)です。つまり、それ以前としては建前としては美濃国と信濃国とは公道として連絡していません。従いまして、それ以前には東山道は寸断されており駿河・甲斐・武蔵・上野・下野・陸奥と云う順路が想像されますし、大伴旅人や藤原宇合が活躍した時代は吉蘇路(木曽路)が開墾・開通したばかりで切株がまだまだ目立つような険しい道のりであったようです。例えば、次の歌は柿本人麻呂歌集の載る歌ですが、時代としては急速に官道が整備されつつある時代です。

集歌2855 新治 今作路 清 聞鴨 妹於事牟
訓読 新墾(にひはり)し今作る路(みち)さやかにも聞きてけるかも妹し上(へ)しことを
私訳 新しく切り開いた今作った道が清らかであるように、さやに(=はっきりと)聞きました。貴女が新しく路を作るように、時を迎え女性になったという身の上の出来事を。

 すると、「奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与」と云う句から考えますと、高橋蟲麻呂は甲斐国から駿河国へと街道を抜けた可能性があります。これは推定される当時としての東山道検税使のルートであり、按察使における常陸守として安房、上総及び下総三国の按察する場合との交通ルートが違います。一方、藤原宇合の赴任地である常陸国へのルートからしますと道中の安房や下総へは浦賀から東京湾を渡海するルートが標準ですので、伊豆国御島(静岡県三島)から伊豆半島の足柄峠を経由して相模に下り、さらに浦賀・安房が順当です。この場合、高橋蟲麻呂は北側から富士山を詠いますから、その視線での甲斐国は藤原宇合の赴任地へのルート上には乗ってきません。
 この推定下では東国の歌関係では武蔵国が古い時代には東山道に含まれているとしますと高橋蟲麻呂は検税使である大伴旅人との関係が深く、反って按察使兼常陸守である藤原宇合とは関係が薄かったと思われます。万葉集の解説としては意外でしょうが、高橋蟲麻呂の「詠不盡山謌一首」を鑑賞しますと、このように推測せざるを得ないことになります。なお、ご指摘があるでしょう常陸国の筑波山と上総国の末珠名娘子の件は勤務の途中の物見遊山としても大きくルートからは外れないと考えています。これについては、実に独善で恣意的な判断ですが、駿河国から甲斐国へ富士山見学の目的だけには行かないという判断が背景ですので、ご了解ください。

 大伴旅人や高橋蟲麻呂が見たであろう富士山は北西側で大噴火した貞観噴火以前の富士山の姿であり、今日の姿ではありません。そのとき、青木が原樹海の基盤となった溶岩台地はありませんし、富士山北西麓一帯は巨大な石花湖がありました。それに山頂からは煙噴く姿です。
 付け加えまして、甲斐国から富士山を眺め、褒め称えた歌はあまりないのではないでしょうか。山梨県が収集する資料にも「甲斐国から富士山を眺め、褒め称えた歌」と云う紹介はないのではないでしょうか。そこが、少し、残念です。ご来場の方で、甲斐から見た富士山を詠う平安時代以前の歌をご存知で、ご教授頂けたら、大変にありがたいことです。

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