竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 五十六 万葉仮名に見る万葉集と新撰万葉集

2013年12月07日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 五十六 万葉仮名に見る万葉集と新撰万葉集

 今まで『万葉集』の歴史や書記システムについて、数回に渡り与太話をして来ました。その与太話の中で『新撰万葉集』について触れましたが、今回は『万葉集』と『新撰万葉集』とで、その和歌表記を比較して、時代と表記方法の変化について考えて見たいと思います。

 現在、漢語と万葉仮名を使い楷書表記された詩歌集としては『万葉集』と『新撰万葉集』が有名です。『万葉集』は国語表記の黎明期から創成期のもので、『新撰万葉集』は国語表記の定着期の作品と考えています。
 御存知のように『新撰万葉集』は和歌と漢詩が対になった詩歌集で、その和歌はおおむね「寛平御時后宮歌合」で詠われた和歌を採用しています。その「寛平御時后宮歌合」の和歌は万葉仮名の草書体表記で記録されていただろうと想像していて、書道と云う観点からしても、まだ、変体仮名の連綿体表記にはやや早いと思います。草体書記では貞観九年(867)の「讃岐国戸籍帳端書(藤原有年申文)」が有名ですが、時代として変体仮名草書連綿(現代人には「ひらがな連綿」と視認される書体)が一般的な和歌書記スタイルとはなっていなかったと考えます。「寛平御時后宮歌合」が詠われた寛平元年(889)から『新撰万葉集』が成った平五年(894)の時代では和歌の表記は、まだ、漢字のイメージが強い草書体のものと考えています。つまり、時代として和歌と書道とはまだその芸術性において少し距離がある関係と考えています。
 ここで、『万葉集』に目を向けますと、『新撰万葉集』の序文とその後の平安時代の書籍から『新撰万葉集』の成立時点で、平城天皇による数十巻本の「古万葉集=平城古万葉集」とそれの抄本と思われる嵯峨天皇の四巻本の「古万葉集=嵯峨古万葉集」の存在が推定されます。つまり、『新撰万葉集』を編纂した時代には現在の「廿巻本万葉集」とは違いますが、その母体となった「古万葉集」は人々の中にあったと考えられます。
 以上の概況を踏まえて、『万葉集』と『新撰万葉集』とに載る和歌の書記表現を比較すると、『古今和歌集』が編纂される時代直前の平安貴族たちの『万葉集』への鑑賞態度が想像できるのではないでしょうか。要約しますと、『古今和歌集』を編纂した紀貫之たちは『万葉集』が読めたか、どうかと云うことです。
 なお、現在に伝わる『新撰万葉集』は「序」と「下巻序」や本文構成とが相違しています。『万葉集』も元明天皇の「原初万葉集」、孝謙天皇の「原万葉集」、平城天皇の「古万葉集」の変遷を経て現在の「廿巻本万葉集」が成立したように、『新撰万葉集』もまた二度以上の変遷を経て現在に伝わっています。そのため、平五年と延喜十三年では、「寛平御時后宮歌合」の和歌を万葉集調書記スタイルへの転換が微妙に違うと感じられます。(ここのところは、直観の感想で、精査をしたものではありません) 直観での仕分けではありますが、四季の歌について「廿巻本万葉集」の古歌と今歌、それと「平五年版新撰万葉集」との比較を紹介しようと思います。また、最後に、これも直観からの仕分けですが、平五年と延喜十三年との相違も紹介いたします。
 追加情報として、本来の『万葉集』や『新撰万葉集』の表記は句読点や句の区切りが無いものです。ここでのものは個人の解釈による区切りが入ったものであることを御承知願います。

春の歌
万葉集 古歌 巻十
集歌1812 人麻呂歌集
和歌 久方之 天芳山 此夕 霞霏微 春立下
読下 ひさかたの あまのかくやま このゆふへ かすみたなひく はるはたつらし

万葉集 今歌 巻十
集歌1933 読み人知れず
和歌 吾妹子尓 戀乍居者 春雨之 彼毛知如 不止零乍
読下 わぎもこに こひつつをれは はるさめの それもしること やますふりつつ

新撰万葉集 平五年
歌番13 藤原興風
和歌 春霞 色之千種丹 見鶴者 棚曳山之 花之景鴨
読下 はるかすみ いろのちくさに みえつるは たなひくやまの はなのかけかも

<夏の歌>
万葉集 古歌 巻十
集歌1939 読み人知れず
和歌 霍公鳥 汝始音者 於吾欲得 五月之珠尓 交而将貫
読下 ほとときす なのはつこゑは われもほり さつきのたまに かへてぬきなむ

万葉集 今歌 巻十
集歌1969 読み人知れず
和歌 吾屋前之 花橘者 落尓家里 悔時尓 相在君鴨
読下 わかやとの はなたちはなは ちりにけり くやしきときに あへるきみかも

新撰万葉集 平五年
歌番36 紀有岑
和歌 夏山丹 戀敷人哉 入丹兼 音振立手 鳴郭公鳥
読下 なつやまに こひしきひとや いりにけむ こゑふりたてて なくほとときす

<秋の歌>
万葉集 古歌 巻十
集歌2095 人麻呂歌集
和歌 夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
読下 ゆふされは のへのあきはき うらわかみ つゆにそかるる あきまちかてに

万葉集 今歌 巻十
集歌2100 読み人知れず
和歌 秋田苅 借廬之宿 尓穂經及 咲有秋芽子 雖見不飽香聞
訓読 あきたかる かりほのやとり にほふまて さけるあきはき みれとあかぬかも

新撰万葉集 平五年
歌番49 佚名
和歌 白露之 織足須芽之 下黄葉 衣丹遷 秋者来藝里
読下 しらつゆの おりたすはきの したもみち ころもにうつる あきはきにけり

<冬の歌>
万葉集 古歌 巻十
集歌2334 人麻呂歌集
和歌 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
読下 あはゆきは ちりにふりしけ こひしこし けなかきわれは みつつしのはむ

万葉集 今歌 巻十
集歌2340 読み人知れず
和歌 一眼見之 人尓戀良久 天霧之 零来雪之 可消所念
読下 ひとめみし ひとにこふらく あまきらし ふりくるゆきの けぬへくそもゆ

新撰万葉集 平五年
歌番90 壬生忠岑
和歌 白雪之 降手積禮留 山里者 住人佐倍也 思銷濫
読下 しらゆきの ふりてつもれる やまさとは すむひとさへや おもひきゆらむ


『新撰万葉集』 想像での平五年と延喜十三年との相違
<秋の歌>
平五年
歌番71 壬生忠岑
和歌 甘南備之 御室之山緒 秋往者 錦裁服 許許知許曾為禮
読下 かみなひの みむろのやまを あきゆけは にしきたちきる ここちこそすれ

延喜十三年
歌番187 文屋康秀
和歌 打吹丹 秋之草木之 芝折禮者 郁子山風緒 荒芝成濫
読下 うちふくに あきのくさきの しをるれは うへやまかせを あらしなるらむ

<戀の歌>
平五年
歌番107 佚名
和歌 人緒念 心之熾者 身緒曾燒 煙立砥者 不見沼物幹
読下 ひとをおもふ こころのおきは みをそやく けふりたつとは みえぬものから

延喜十三年
歌番236 佚名
和歌 侘沼禮者 誣手將忘砥 思鞆 夢砥云物曾 人恃目那留
読下 わひぬれは しひてうすれむと おもへとも ゆめといふものそ ひとたのめなる


 以上、紹介しましたものから『万葉集』と『新撰万葉集』の平五年と表したものとを比べて下さい。特に使われている漢字に注目して頂くと、それぞれの使う文字は歌の世界との違和感の無い漢字を選択して使っていることが見えてくるのではないでしょうか。そして、最初にも説明しましたが、本来の詩歌集での和歌表記では次のようなものです。本来の表記を示されると、なおさら、それぞれで特徴ある相違を確認できないのではないでしょうか。

春の歌での比較紹介
和歌 久方之天芳山此夕霞霏微春立下 万葉集 古歌
和歌 吾妹子尓戀乍居者春雨之彼毛知如不止零乍 万葉集 今歌
和歌 春霞色之千種丹見鶴者棚曳山之花之景鴨 新撰万葉集

 ここで、再度、確認しますが、上記の作業では『万葉集』は「漢語と万葉仮名だけで表記された原文和歌」を個人の作業で「ひらがな和歌」に読み下しています。次に、『新撰万葉集』のものは「ひらがなに変換された一字一音の万葉仮名歌」を読下原文とし、それを「漢語と万葉仮名だけで表記した和歌」に平安貴族が表記変換したものの紹介です。それぞれの作業手順を比べると、その作業手順の方向は逆です。
 こうした時、『万葉集』と『新撰万葉集』との比較で、その和歌表記には違和感がないと云うことが、(これは個人の感覚だけかもしれませんが)、確認が出来ると思います。これを逆に見れば『新撰万葉集』を編纂した人物は『万葉集』を確実に読解し、楽しんでいたと推定されます。これが重要なことではないでしょうか。
 一般には『新撰万葉集』の「序」に「漸尋筆墨之跡、文句錯亂、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟」と云う文章があり、ここから『新撰万葉集』を編纂した時代には『万葉集』は読めない詩歌集になっていたと説明します。ところが、ここで紹介しましたように『万葉集』と『新撰万葉集』との和歌表記を比較すると同質なものであることからすると、「『新撰万葉集』を編纂した時代には『万葉集』は読めない詩歌集であった」と云う説明は、『新撰万葉集』自体を知らない人たちによる説明ではないかと云う疑惑を持たざるを得ません。例歌紹介が示すように「ひらがな和歌」を「漢語と万葉仮名だけで表記した和歌」に表記変換する人物が、その逆のことを出来ないと断定することは、難しいのではないでしょうか。
 およそ、『万葉集』を読解・理解しているからこそ、類型での表記が可能ではないでしょうか。従いまして、紹介しました歌表記の比較から『新撰万葉集』を編纂した時代と同時代人となる『古今和歌集』を編集した紀貫之たちは『万葉集』を十分に理解し、鑑賞していたものと考えます。

 次に、『新撰万葉集』原文を弊ブログに「万葉雑記 新撰萬葉集」として載せましたが、『新撰万葉集』は上巻が春歌廿一首、夏歌廿一首、秋歌卅六首、冬歌廿一首、戀歌廿首を載せ、下巻には春歌廿一首、夏歌廿二首、秋歌卅七首、冬歌廿二首、戀歌卅一首を載せています。異伝本ではさらに下巻に女郎花歌廿五首を載せた構成となっています。載せる歌数は上巻が一一九首、下巻が一三三首(女郎花歌を含めると一五八首)です。およそ、この構成や歌数は「序」に示す「仍左右上下両軸、惣二百有首」や「四時之歌に戀思之二詠を加えたもの」と云う姿とは違います。推測ですが、平五年に成った「新撰万葉集」と延喜十三年に再編纂された「新撰万葉集」は違うものと思われます。平五年のものは六部立構成で左右上下両軸、併せて二百有首ですから、それぞれの部は四季の歌がそれぞれ廿首、戀歌と述思歌が共に十五首前後ではなかったでしょうか。その後、菅原道真の失脚などの政変を経て、延喜十三年に述思歌を削り、女郎花歌を載せ、さらに各部に延喜十三年までの歌を若干追加したと考えます。そのため、現在、部立が変わり、上下巻で歌数のバランスが崩れ、総歌数も二五二首(女郎花歌を含めると二七七首)となったのであろうと想像します。
 この想像からの解説を踏まえて紹介した平五年のものと延喜十三年のものとを比べて見て下さい。延喜十三年のものと想像した和歌の漢字表記で、その使われる漢字と云う文字自体がその歌が詠う世界を表していないことに気が付きませんか。この使う漢字と云う文字に景色を持たせないと云う用法は『古今和歌集』の表現と類似のものです。当然、『新撰万葉集』の編纂の趣旨から和歌表記は万葉集風の表現を行ったため、漢語となる表現も使われています。
 この「『古今和歌集』の表現と類似のもの」と云う言葉について、下記に紹介するように使われる仮名文字の母字となる漢字は復元されています。ただ、『万葉集』とは違い、『古今和歌集』が示すように、使われる変体仮名の母字となる漢字には表語文字となる力を求めていません。いえ、極力、表語文字となる力を消したと思われます。それが同音異義語の言葉遊びを楽しんだ『古今和歌集』の世界です。その『古今和歌集』は延喜5年以降、延喜12年頃以前に成った詩歌集ですから、「延喜十三年版新撰万葉集」とは同時代の作品です。場合によっては、続万葉集の名を持った「第一次古今和歌集」の方が、「延喜十三年版新撰万葉集」より古いとなります。そうしますと、その時、既に遣唐使は廃止されていますから、当初の目論見である大唐の人に日本の文化を紹介すると云う目的はなくなっています。『新撰万葉集』の読者は大唐の人から平安貴族へと変わらざるを得ないことになります。ここに、『古今和歌集』が持つ和歌を表現する変体仮名から極力、表語文字となる力を消すと云う主張を「延喜十三年版新撰万葉集」が取り入れている可能性があるかもしれません。そのため、『新撰万葉集』の中に二つの和歌表現方法が見える理由かもしれません。

古今和歌集 歌番2
和歌 曽天悲知弖 武春比之美川乃 己保礼留遠 波留可太遣不乃 可世也止久良武
読下 そてひちて むすひしみつの こほれるを はるかたけふの かせやとくらむ

古今和歌集 歌番220
和歌 安幾破起乃 之多者以都久 以末餘理処 悲東理安留悲東乃 以祢可転仁數流
読下 あきはきの したはいつく いまよりそ ひとりあるひとの いねかてにする

 ここのところ、『万葉集』の読解方法や編纂の歴史を取り上げていて、その一貫で『新撰万葉集』を取り上げました。如何にも素人と云うことが明らかになりますが、その中での調べ物で判明したことは、『新撰万葉集』は専門家でもあまり取り上げていない作品で、その原文をネット上で入手することは非常に難しいと云うことです。専門図書として臨川書店から『京都大学蔵 新撰万葉集』や『新撰万葉集 校本篇』がありますが、近々のものはないのではないでしょうか。なお、このブログに資料としてネットから得られたものを再編集して「資料編 新撰万葉集」の名で載せました。もし、今回の『万葉集』と『新撰万葉集』との表記比較に興味を持たれましたら、より詳しく調べて頂ければと希望します。
 さらに、専門とされるお方が来場されていましたら、個人の直観で「平五年版新撰万葉集」と「延喜十三年版新撰万葉集」との相違があるとしましたが、ここのところのご指摘をいただければと考えます。もし、それが正しいものとしますと、場合により平安中期以降の貴族が『万葉集』を原文から読解することが出来なくなった理由が仮定できるかもしれません。感覚ですが「平五年版」と「延喜十三年版」とでは和歌表記に選択した漢字文字が大きく違います。従いまして「延喜十三年版」の延長線では『万葉集』を楽しむことは難しいと想像します。

 もう少し、
 『新撰万葉集』の和歌は万葉調に「寛平御時后宮歌合」の和歌を変換して記述したためか、日本語での助詞に当たる「の」には「之」、「し」には「芝」の仮名文字を当てています。一方、二十年前後の相違はありますが、『土左日記』では「の」には「乃」や「野」、「し」には「之」の変体仮名文字を当てています。国語の進化では、ほぼ、同時代の作品と目される『新撰万葉集』と『土左日記』の和歌表記では、その用字選択に特徴的に相違が現れています。およそ、平安時代の貴族たちは『万葉集』の漢詩体歌や非漢詩体歌をある種の漢詩の部類と考えていたかもしれません。そのためか、同じ和歌ですが、『土左日記』では助詞に万葉仮名の発音に従い、『新撰万葉集』では助詞に漢文訓読での助字を当てたと想像します。ただし、これは平安貴族たちの『新撰万葉集』の和歌表記の約束事でしょうから、それで『万葉集』全体での読みを規定するものではないと考えます。つまり、未だ、「之」を助字として「の」や「が」などと読んでいいのかと云う問題は残ります。

『新撰万葉集』より
歌番1 伊勢
和歌 水之上丹 文織紊 春之雨哉 山之緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ

歌番242 佚名
和歌 髣髴丹見芝 人丹思緒 屬染手 心幹許曾 下丹焦禮
読下 ほのにみし ひとにおもひを つけそめて こころからこそ したにこかるれ

『土左日記』より
和歌 美也己部止 思不毛乃ゝ 加奈之幾者 加部良奴人乃 安礼者奈利个利
読下 みやこへと 思ふものゝ かなしきは かへらぬ人の あれはなりけり

和歌 美那曽己乃 月乃宇部与利 己久舟乃 左於爾左者留者 加川良奈留良之
読下 みなそこの 月のうへより こく舟の さおにさはるは かつらなるらし


 最後に、今回、紹介しました『万葉集』の読み下しは平安貴族が楽しんだであろう姿を想像して「之」や「而」などの文字は漢詩訓読みでの助字と扱っています。本来の万葉仮名としての読み方をしていません。そのため、このブログで紹介しているものとは違っています。およそ、『新撰万葉集』は中国大唐の人を読者として編まれた作品と考えていますので、平安貴族は和歌表記では国語の万葉仮名文字ではなく、中国語での漢詩体助字としなければいけないと考えたものと想像しています。この想像での読み下しです。万葉仮名であるならば、『土左日記』と同様な扱いが必要と考えます。
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