万葉雑記 色眼鏡 百五八 安積皇子と大伴家持
大伴家持は親を大伴旅人としますと、家持が二十一歳以前に旅人が従二位大納言と云う身分を有していたこと、万葉集に載る妾への挽歌に付けられた年月などから推定して蔭位制度を踏まえますと、標準的な想定とは違い、家持は嫡子ではなく庶子の立場で和銅七年(714)頃の誕生と考えられます。
その家持は天平十七年(745)正月に家持が正六位上から従五位下へと昇位していますから、天平十七年には三十一歳となります。ここで、標準的な養老二年(718)の生誕説を採用しても二十七歳です。
ここを前提条件とします。
さて、万葉集巻六に載る集歌1040の歌から天平十五年の秋頃、大伴家持は二十九歳の年齢で正六位上と云う高い官位を持つのですが、まだ、内舎人と云う身分でした。家持は蔭位制度から二十一歳での内舎人での出仕ですから、すでに二回の考課を経ています。そうした時、正六位上と云う高い官位持つ内舎人は、どのような職務をしていたかが、重大な関心事項となります。規定での内舎人の職務は次のようなものであり、正六位上と云う高い官位持つ官人が就く職務ではありません。
<職務解説>
内舎人; 宮中の警備、雑役及び行幸の際の警護役
<内舎人を示す万葉集歌:天平15年秋秋ごろの歌>
安積親王、宴左少辨藤原八束朝臣家之日、内舎人大伴宿祢家持作謌一首
標訓 安積親王(あさかのみこ)の、左少辨藤原八束朝臣の家に宴(うたげ)せし日に、内舎人大伴宿祢家持の作れる謌一首
集歌1040 久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而将去
訓読 ひさかたの雨は降りしけ念(おも)ふ子し屋戸(やど)に今夜(こよひ)は明かしに行かむ
私訳 遥か彼方から雨は降りしきる。私がお慕いする貴方は、この家に今夜は明日の朝まで夜を明かしていくでしょうから。
他方、大伴家持は安積皇子に関係する歌を、挽歌を含め数首を残していますから、大伴家持は安積皇子と何らかの関係があったと推定するのが妥当と考えます。一般的な推定では家持は安積皇子の内舎人であったとします。しかし、安積皇子は天平十六年閏正月に十七歳で亡くなられた親王格の皇子でありますから、建前として官位を持たず、独立した家計をも持たない未成年皇族で生涯を終えられています。つまり、安積皇子は公式の規定である家令職員令に従った朝廷から付けられるべき職員を与えられない立場です。しかしながら、実務上、「薨」と云う続日本紀に載る死亡記事での扱いは三位以上の身分ですから、日常生活において家来を持たないで親王格の皇子の生活は保たれません。およそ、令外の家政職員として臨時職員が配置された可能性は考えられます。
また、令外の家政職員は朝廷からの支給と考えられますが、他方、皇子の親の私財から雇用した一族や私人での使用人は存在したと思われます。残念ながら皇子や皇女の家政職員については家令職員令や禄令食封条に従った家政組織の研究や推定はありますが、未成年で官位を持たない皇族皇親に対する令外への研究は見かけません。当時の風習からしますと、男子はおよそ十五歳で成人式を行い、妾や夜伽を置くようになりますから、何らかの家政組織は存在したはずですし、財政基盤もあったはずです。また、その問題の解決の糸口となる安積皇子の壬生を誰が行ったかと云う問題もあります。そうした時、生母の県犬養広刀自は従三位の官位を持ちますから、食封(100戸)・位田(34町)・資人(60人)と云う資財有することになります。これは未成年の安積皇子を養うに足るのではないでしょうか。
それらを考えますと、正六位上と云う高い官位持つ家持と無官位の安積皇子との関係が見えて来るのではないでしょうか。
朝廷からではなく私人と云う関係を想定しますと、例として、中衛大将から中務卿へとなった藤原房前と従五位上の官位を持つ山田史三方との関係があります。山田史三方は贈収賄事件への国司として監督不十分と云うことで罪を得ますが、学問での功績により特赦されています。その後は、従五位上のままで散位の立場になったと推定されますが、同時に藤原房前のお側集のような立場だったようですので、官人ですが私人のような立場です。
大伴家持は安積皇子に対して官人ですが私人のような立場の令外の家政職員であったかもしれません。安積皇子が無事に成長し、二十一歳の時に皇親として叙位・登用を迎えていたら、家持は安積皇子の正式の家政職員として任命されたかもしれません。それを窺わせるように、安積皇子が天平十六年閏正月に十七歳で亡くなられたあと、家持は翌天平十七年に従五位下に昇位し、天平十八年には兵部少輔に任命され、武官を中心とした官僚の道を歩みます。
参考として、安積皇子が亡くなられた時に家持が詠った歌六首を紹介します。
十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首
標訓 十六年甲申の春二月に、安積皇子の薨(かむあが)りましし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持の作れる謌六首
集歌475 桂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久邇乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思
訓読 桂(か)けまくも あやに恐(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 吾(あ)が王(おほきみ) 御子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 食(め)し賜はまし 大(おほ)日本(やまと) 久迩(くに)の京(みやこ)は うち靡く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬には 鮎子(あゆこ)さ走り いや日に異(け)に 栄ゆる時に 逆言(およづれ)し 狂言(たはごと)とかも 白栲に 舎人(とねり)装(よそ)ひて 和豆香(わづか)山(やま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし
私訳 高貴で気品高くいられるも、真に恐れ多く、言葉に示すことも、神聖で畏れ多い、私の王である御子の命が、万代に御治めるはずであった大日本の久邇の京は、草木が打ち靡く春がやって来ると山の辺には花が咲き枝を撓め、川の瀬には鮎の子が走りまわり、ますます日々に栄える時に、逆言でしょうか、狂言なのでしょうか、白い栲の衣に舎人は装って、和豆香山に皇子の御輿を運ばれて、遥か彼方の天の世界を統治なされた。悲しみに地に伏し転がり回り、衣を濡れそぼって泣くが、もうどうしようもない。
反謌
集歌476 吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山
訓読 吾(あ)が王(きみ)し天知らさむと思はねば凡(おほ)にぞ見ける和豆香(わづか)杣山(そまやま)
私訳 私の王が天の世界を統治されるとは思ってもいなければ、気にもせずに見ていた。和豆香にある木を切り出す杣山よ。
集歌477 足桧木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞
訓読 あしひきの山さへ光(てら)し咲く花の散りぬるごとき吾(われ)し王(きみ)かも
私訳 葦や檜の生える山さえ照らし輝かし、咲く花が散り行くようにこの世から散っていかれたような私の王です。
右三首、二月三日作謌
注訓 右の三首は、二月三日に作れる謌
集歌478 桂巻毛 文尓恐之 吾王 皇子之命 物乃負能 八十伴男乎 召集聚 率比賜比 朝猟尓 鹿猪踐越 暮猟尓 鶉雉履立 大御馬之 口抑駐 御心乎 見為明米之 活道山 木立之繁尓 咲花毛 移尓家里 世間者 如此耳奈良之 大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靭取負而 天地与 弥遠長尓 万代尓 如此毛欲得跡 憑有之 皇子乃御門乃 五月蝿成 驟驂舎人者 白栲尓 取著而 常有之 咲比振麻比 弥日異 更經見 悲召可聞
訓読 かけまくも あやに恐(かしこ)し 吾(われ)し王(きみ) 皇子し命(みこと)し 物部(もののふ) 八十(やそ)伴(とも)の男(を)を 召(め)し集(つど)へ 率(あとも)ひ賜ひ 朝(あさ)狩(かり)に 鹿猪(しし)踏み越し 暮狩(ゆふかり)に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)し 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心を 見(め)し明(あか)らめし 活道山(いくぢやま) 木立の繁(しげ)に 咲く花も 移(うつ)ろひにけり 世間(よのなか)は 如(かく)のみならし 大夫(ますらを)し 心振り起し 剣刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 梓(あずさ)弓(ゆみ) 靫(ゆぎ)取り負(お)ひて 天地と いや遠長に 万代(よろづよ)に 如(かく)しもがもと 憑(たの)めりし 皇子の御門(みかど)の 五月蝿(さばへ)なす 騒(さわ)く舎人(とねり)は 白栲に 取りて著(つけ)てし 常ありし 笑(ゑま)ひ振舞(ふるま)ひ いや日(ひ)に異(け)に また經て見れば 悲しめすかも
私訳 高貴で気品高くいられるも、真に恐れ多い私の王である皇子の命に従う立派な男達の沢山の供を召し集められて率いなされて、朝の狩りに鹿や猪を野を踏み野から起こし、夕辺の狩りで鶉や雉を野を踏み追い立て、皇子の乗る大御馬の口を引いて抑え留め、風景を御覧になって御心を晴れやかにさせた活道山は、木々の立ち木に中に沢山に咲いていた花も時が移り散ってしまった。この世はこのようなのでしょう。立派な男の気持ちを振起し、剣や太刀を腰に取り佩いて、梓弓や靭を取り背負って、天と地とともにますます永遠に、万代までにこのようにあってほしいと頼りにしていた皇子の御門のうるさいほどに集い騒ぐ舎人は、白き栲の衣に取り身に著けて、常に見られた笑顔や振る舞いが日々に変わり、時が過ぎて思い出すと、私だけでなく大夫たる立派な男も悲しく思われるでしょう。
注意 原文の「鹿猪踐越」の「越」は「起」、「取著而」は「服著而」、「更經見」は「更經見者」、「悲召可聞」の「召」は「呂」が正しいとしますが、ここは原文のままとします。
反謌
集歌479 波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鷄里
訓読 愛(は)しきかも皇子し命(みこと)のあり通(かよ)ひ見(め)しし活道(いくぢ)の路は荒れにけり
私訳 なんともいとしいことよ。皇子の命がつねに通われ眺められた活道の路は荒れてしまった。
集歌480 大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心 何所可将寄
訓読 大伴し名(な)負(お)ふ靫(ゆぎ)帯びて万代(よろづよ)に憑(たの)みし心何処(いづく)か寄せむ
私訳 大伴の名に相応しく靭を帯びて、万代にまで皇子の命を頼りにしていたこの気持ちを、どこに寄せたら良いのでしょう。
右三首、三月廿四日作謌
注訓 右の三首は、三月廿四日に作れる謌なり。
歌に示される安積皇子の埋葬地となる和豆香山は京都府相楽郡和束町付近にある和束山と推定され、皇子の陵墓が太鼓山古墳と称されて整備されています。場所は恭仁京があった京都府木津川市加茂地区からは北東の山中です。また、狩りに何度も訪れたという活道山もまた和豆香山の周辺となる京都府相楽郡和束町付近ではないかと推定されていますが詳細は不詳です。
挽歌の詠いようから大伴家持は活道山で行われた狩りに従っていたと思われます。また、集歌480の歌に「大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心」とありますから、やはり、家持は特別に付けられた安積皇子の家政職員ではないでしょうか。そのため、正六位上と云う高い身分ですが内舎人と云うアンバランスな肩書と思われます。また、集歌1040の歌の標題から推測するに、正六位上と云う高い身分を持つ家持を安積皇子の身辺に内舎人として配置したのは藤原八束であり、さらには元正太上天皇の意向があったかもしれません。
歴史の不思議ですが、大伴家持の父親大伴旅人も藤原氏の都合のよいタイミングで病没し、主として仕えた安積皇子もまた藤原氏の都合のよいタイミングで病没します。家持は実に不運な人です。
最後に妄想的な参考情報として、
安積皇子の「安積」を「阿佐加=あさか」と訓じるのは会津地方を治めた「阿尺」国造に由来するようで関東の言葉ですが、畿内ではなじみのない特別な訓じです。
訓じは違いますが、古来、安曇は安積であり、阿積に通じるとされています。その安曇氏は難波小郡とも呼ばれた摂津国西成郡安曇江を畿内の本拠とします。この地は同時に大伴の御津と称された難波津でもありますから、大伴家持にもゆかりのある場所となります。およそ、「安積」と云う表記の名をもつ安積皇子の壬生に安曇氏が関与し、また、大伴氏が関係する可能性はあります。
安積皇子は県犬養広刀自を生母とし、その県犬養一族は河内国河内郡桜井郷付近を本拠とした氏族と考えられていますから、安曇氏と県犬養氏とは本拠地が接していることになります。天平時代ですと、生駒を越えて牧岡に出る暗越奈良街道は奈良と難波を結ぶ最短ルートですし、県犬養氏の河内郡桜井郷と難波大郡とも呼ばれた東成郡、安曇氏の西成郡とは近接します。
さて、その安積皇子は天平十六年の難波行幸への同行の途中、河内郡桜井郷に置かれた桜井頓宮において急な脚気により恭仁京に戻り、その二日後に死亡しています。死亡原因とされる脚気の症状は「全身倦怠感など様々な異常が引き起き、 主な症状は全身倦怠感の他に食欲不振が発生し、やがて足がしびれることやむくみが目立つようになる。その他、動機、息切れも起きる」と紹介されます。
ここで、意図した誘導情報をさらに提供します。
急性腎不全と云う病気があり、その症状は「むくみ、吐き気、疲労、かゆみ、呼吸困難」と云うものです。表面的な症状的では、この急性腎不全と脚気とは病例が類似していますし、脚気心から腎不全を発病する病例は有り得ることのようです。
古代において脚気に類似する急性腎不全を人為的・計画的に引き起こすのには塩化第二水銀の水溶液を使用するのが容易な方法です。その製法は少なくとも平安時代末期までには軽粉と云う化粧品として宋よりもたらされたと推定されています。また、藤原京から平城京時代には水銀を使う鍍金、塗料や化粧用品として使う丹(硫化水銀)は広く使用されていますし、水銀と硫黄とを反応させて製造する人工丹は八世紀には製法が確立していたとされます。安積皇子の時代に水銀を扱う技術や製法は存在していましたし、正倉院宝物などがその技術の存在を裏付けます。
その塩化第二水銀(昇汞)は「水に溶けやすい。水で薄めた昇汞水の致死量でも0.2~0.4gほどで、誤って一滴でも飲んでしまうだけでも生命にかかわる」と紹介されるように、急性腎不全などを引き起こす水銀中毒症状を発症させるには最適な物質です。
超劇物である塩化第二水銀の古代における製法は、次のように紹介されます。
塩化第一水銀は時に軽粉と呼ばれる化粧品の一種、白粉として使用します。その軽粉の製造法は、水銀に赤土・食塩などを水でこねたものを蓋付きの容器に入れ、約600度で四時間程熱して、「ほっつき」という容器の蓋の内側についた白い粉を払い落して軽粉を得ます。この軽粉である塩化第一水銀は日光により塩化第二水銀と水銀とに分解され、黒色に変化します。塩化第二水銀は常温では水1kgに約60gが溶け、やや水溶性を示しますが、塩化第一水銀(0.2mg/100mL)は水に溶けにくく、水銀には極微小な水溶性しかありません。
つまり、軽粉と呼ばれる塩化第一水銀を十分に日光に曝し、黒色になったものをお湯に溶かし込むことで塩化第二水銀の水溶液(昇汞水)が得られます。精製され試薬品に使う塩化第二水銀は匂いがないとされますので、先の塩化第二水銀の水溶液の上澄みを慎重に水分蒸発させて濃縮すると無臭の致死有効な昇汞水が得られることになります。先の世界大戦では昇汞は有効な自決用の薬剤でしたし、戦前には昇汞水は有名な自殺用の薬品です。歴史においては、藤原鎌足は水銀を長寿の薬として皇族に処方し、彼自身も服用したと伝わるように、水銀は藤原氏にはなじみ有る物質です。
一方、歴史に残る記録では、安積皇子がビタミンB1不足に由来する慢性病であるはずの「脚気」と云う病を急発させたのは、一族の里である河内郡桜井郷に置かれた桜井頓宮です。ほぼ、この桜井頓宮は県犬養一族の氏長の屋敷であったと思われますから、安積皇子は実家で発病したことになります。参考としビタミンB1は獣肉からも摂取でき、万葉集の歌に詠うように安積皇子はある年齢になってからは狩りにたびたび参加したようですので、十分に獣肉・鳥肉や新鮮な川魚類を摂取する機会はあったと思われます。つまり、極度のビタミンB1不足と云うことは難しいのではないでしょうか。
およそ、内舎人と云う近習であった家持の安積皇子の実家で提供された食事への油断です。
以上、誘導的な情報を提供しました。
大伴家持は親を大伴旅人としますと、家持が二十一歳以前に旅人が従二位大納言と云う身分を有していたこと、万葉集に載る妾への挽歌に付けられた年月などから推定して蔭位制度を踏まえますと、標準的な想定とは違い、家持は嫡子ではなく庶子の立場で和銅七年(714)頃の誕生と考えられます。
その家持は天平十七年(745)正月に家持が正六位上から従五位下へと昇位していますから、天平十七年には三十一歳となります。ここで、標準的な養老二年(718)の生誕説を採用しても二十七歳です。
ここを前提条件とします。
さて、万葉集巻六に載る集歌1040の歌から天平十五年の秋頃、大伴家持は二十九歳の年齢で正六位上と云う高い官位を持つのですが、まだ、内舎人と云う身分でした。家持は蔭位制度から二十一歳での内舎人での出仕ですから、すでに二回の考課を経ています。そうした時、正六位上と云う高い官位持つ内舎人は、どのような職務をしていたかが、重大な関心事項となります。規定での内舎人の職務は次のようなものであり、正六位上と云う高い官位持つ官人が就く職務ではありません。
<職務解説>
内舎人; 宮中の警備、雑役及び行幸の際の警護役
<内舎人を示す万葉集歌:天平15年秋秋ごろの歌>
安積親王、宴左少辨藤原八束朝臣家之日、内舎人大伴宿祢家持作謌一首
標訓 安積親王(あさかのみこ)の、左少辨藤原八束朝臣の家に宴(うたげ)せし日に、内舎人大伴宿祢家持の作れる謌一首
集歌1040 久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而将去
訓読 ひさかたの雨は降りしけ念(おも)ふ子し屋戸(やど)に今夜(こよひ)は明かしに行かむ
私訳 遥か彼方から雨は降りしきる。私がお慕いする貴方は、この家に今夜は明日の朝まで夜を明かしていくでしょうから。
他方、大伴家持は安積皇子に関係する歌を、挽歌を含め数首を残していますから、大伴家持は安積皇子と何らかの関係があったと推定するのが妥当と考えます。一般的な推定では家持は安積皇子の内舎人であったとします。しかし、安積皇子は天平十六年閏正月に十七歳で亡くなられた親王格の皇子でありますから、建前として官位を持たず、独立した家計をも持たない未成年皇族で生涯を終えられています。つまり、安積皇子は公式の規定である家令職員令に従った朝廷から付けられるべき職員を与えられない立場です。しかしながら、実務上、「薨」と云う続日本紀に載る死亡記事での扱いは三位以上の身分ですから、日常生活において家来を持たないで親王格の皇子の生活は保たれません。およそ、令外の家政職員として臨時職員が配置された可能性は考えられます。
また、令外の家政職員は朝廷からの支給と考えられますが、他方、皇子の親の私財から雇用した一族や私人での使用人は存在したと思われます。残念ながら皇子や皇女の家政職員については家令職員令や禄令食封条に従った家政組織の研究や推定はありますが、未成年で官位を持たない皇族皇親に対する令外への研究は見かけません。当時の風習からしますと、男子はおよそ十五歳で成人式を行い、妾や夜伽を置くようになりますから、何らかの家政組織は存在したはずですし、財政基盤もあったはずです。また、その問題の解決の糸口となる安積皇子の壬生を誰が行ったかと云う問題もあります。そうした時、生母の県犬養広刀自は従三位の官位を持ちますから、食封(100戸)・位田(34町)・資人(60人)と云う資財有することになります。これは未成年の安積皇子を養うに足るのではないでしょうか。
それらを考えますと、正六位上と云う高い官位持つ家持と無官位の安積皇子との関係が見えて来るのではないでしょうか。
朝廷からではなく私人と云う関係を想定しますと、例として、中衛大将から中務卿へとなった藤原房前と従五位上の官位を持つ山田史三方との関係があります。山田史三方は贈収賄事件への国司として監督不十分と云うことで罪を得ますが、学問での功績により特赦されています。その後は、従五位上のままで散位の立場になったと推定されますが、同時に藤原房前のお側集のような立場だったようですので、官人ですが私人のような立場です。
大伴家持は安積皇子に対して官人ですが私人のような立場の令外の家政職員であったかもしれません。安積皇子が無事に成長し、二十一歳の時に皇親として叙位・登用を迎えていたら、家持は安積皇子の正式の家政職員として任命されたかもしれません。それを窺わせるように、安積皇子が天平十六年閏正月に十七歳で亡くなられたあと、家持は翌天平十七年に従五位下に昇位し、天平十八年には兵部少輔に任命され、武官を中心とした官僚の道を歩みます。
参考として、安積皇子が亡くなられた時に家持が詠った歌六首を紹介します。
十六年甲申春二月、安積皇子薨之時、内舎人大伴宿祢家持作謌六首
標訓 十六年甲申の春二月に、安積皇子の薨(かむあが)りましし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持の作れる謌六首
集歌475 桂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久邇乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思
訓読 桂(か)けまくも あやに恐(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 吾(あ)が王(おほきみ) 御子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 食(め)し賜はまし 大(おほ)日本(やまと) 久迩(くに)の京(みやこ)は うち靡く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬には 鮎子(あゆこ)さ走り いや日に異(け)に 栄ゆる時に 逆言(およづれ)し 狂言(たはごと)とかも 白栲に 舎人(とねり)装(よそ)ひて 和豆香(わづか)山(やま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし
私訳 高貴で気品高くいられるも、真に恐れ多く、言葉に示すことも、神聖で畏れ多い、私の王である御子の命が、万代に御治めるはずであった大日本の久邇の京は、草木が打ち靡く春がやって来ると山の辺には花が咲き枝を撓め、川の瀬には鮎の子が走りまわり、ますます日々に栄える時に、逆言でしょうか、狂言なのでしょうか、白い栲の衣に舎人は装って、和豆香山に皇子の御輿を運ばれて、遥か彼方の天の世界を統治なされた。悲しみに地に伏し転がり回り、衣を濡れそぼって泣くが、もうどうしようもない。
反謌
集歌476 吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山
訓読 吾(あ)が王(きみ)し天知らさむと思はねば凡(おほ)にぞ見ける和豆香(わづか)杣山(そまやま)
私訳 私の王が天の世界を統治されるとは思ってもいなければ、気にもせずに見ていた。和豆香にある木を切り出す杣山よ。
集歌477 足桧木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞
訓読 あしひきの山さへ光(てら)し咲く花の散りぬるごとき吾(われ)し王(きみ)かも
私訳 葦や檜の生える山さえ照らし輝かし、咲く花が散り行くようにこの世から散っていかれたような私の王です。
右三首、二月三日作謌
注訓 右の三首は、二月三日に作れる謌
集歌478 桂巻毛 文尓恐之 吾王 皇子之命 物乃負能 八十伴男乎 召集聚 率比賜比 朝猟尓 鹿猪踐越 暮猟尓 鶉雉履立 大御馬之 口抑駐 御心乎 見為明米之 活道山 木立之繁尓 咲花毛 移尓家里 世間者 如此耳奈良之 大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靭取負而 天地与 弥遠長尓 万代尓 如此毛欲得跡 憑有之 皇子乃御門乃 五月蝿成 驟驂舎人者 白栲尓 取著而 常有之 咲比振麻比 弥日異 更經見 悲召可聞
訓読 かけまくも あやに恐(かしこ)し 吾(われ)し王(きみ) 皇子し命(みこと)し 物部(もののふ) 八十(やそ)伴(とも)の男(を)を 召(め)し集(つど)へ 率(あとも)ひ賜ひ 朝(あさ)狩(かり)に 鹿猪(しし)踏み越し 暮狩(ゆふかり)に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)し 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心を 見(め)し明(あか)らめし 活道山(いくぢやま) 木立の繁(しげ)に 咲く花も 移(うつ)ろひにけり 世間(よのなか)は 如(かく)のみならし 大夫(ますらを)し 心振り起し 剣刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 梓(あずさ)弓(ゆみ) 靫(ゆぎ)取り負(お)ひて 天地と いや遠長に 万代(よろづよ)に 如(かく)しもがもと 憑(たの)めりし 皇子の御門(みかど)の 五月蝿(さばへ)なす 騒(さわ)く舎人(とねり)は 白栲に 取りて著(つけ)てし 常ありし 笑(ゑま)ひ振舞(ふるま)ひ いや日(ひ)に異(け)に また經て見れば 悲しめすかも
私訳 高貴で気品高くいられるも、真に恐れ多い私の王である皇子の命に従う立派な男達の沢山の供を召し集められて率いなされて、朝の狩りに鹿や猪を野を踏み野から起こし、夕辺の狩りで鶉や雉を野を踏み追い立て、皇子の乗る大御馬の口を引いて抑え留め、風景を御覧になって御心を晴れやかにさせた活道山は、木々の立ち木に中に沢山に咲いていた花も時が移り散ってしまった。この世はこのようなのでしょう。立派な男の気持ちを振起し、剣や太刀を腰に取り佩いて、梓弓や靭を取り背負って、天と地とともにますます永遠に、万代までにこのようにあってほしいと頼りにしていた皇子の御門のうるさいほどに集い騒ぐ舎人は、白き栲の衣に取り身に著けて、常に見られた笑顔や振る舞いが日々に変わり、時が過ぎて思い出すと、私だけでなく大夫たる立派な男も悲しく思われるでしょう。
注意 原文の「鹿猪踐越」の「越」は「起」、「取著而」は「服著而」、「更經見」は「更經見者」、「悲召可聞」の「召」は「呂」が正しいとしますが、ここは原文のままとします。
反謌
集歌479 波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鷄里
訓読 愛(は)しきかも皇子し命(みこと)のあり通(かよ)ひ見(め)しし活道(いくぢ)の路は荒れにけり
私訳 なんともいとしいことよ。皇子の命がつねに通われ眺められた活道の路は荒れてしまった。
集歌480 大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心 何所可将寄
訓読 大伴し名(な)負(お)ふ靫(ゆぎ)帯びて万代(よろづよ)に憑(たの)みし心何処(いづく)か寄せむ
私訳 大伴の名に相応しく靭を帯びて、万代にまで皇子の命を頼りにしていたこの気持ちを、どこに寄せたら良いのでしょう。
右三首、三月廿四日作謌
注訓 右の三首は、三月廿四日に作れる謌なり。
歌に示される安積皇子の埋葬地となる和豆香山は京都府相楽郡和束町付近にある和束山と推定され、皇子の陵墓が太鼓山古墳と称されて整備されています。場所は恭仁京があった京都府木津川市加茂地区からは北東の山中です。また、狩りに何度も訪れたという活道山もまた和豆香山の周辺となる京都府相楽郡和束町付近ではないかと推定されていますが詳細は不詳です。
挽歌の詠いようから大伴家持は活道山で行われた狩りに従っていたと思われます。また、集歌480の歌に「大伴之 名負靭帶而 萬代尓 憑之心」とありますから、やはり、家持は特別に付けられた安積皇子の家政職員ではないでしょうか。そのため、正六位上と云う高い身分ですが内舎人と云うアンバランスな肩書と思われます。また、集歌1040の歌の標題から推測するに、正六位上と云う高い身分を持つ家持を安積皇子の身辺に内舎人として配置したのは藤原八束であり、さらには元正太上天皇の意向があったかもしれません。
歴史の不思議ですが、大伴家持の父親大伴旅人も藤原氏の都合のよいタイミングで病没し、主として仕えた安積皇子もまた藤原氏の都合のよいタイミングで病没します。家持は実に不運な人です。
最後に妄想的な参考情報として、
安積皇子の「安積」を「阿佐加=あさか」と訓じるのは会津地方を治めた「阿尺」国造に由来するようで関東の言葉ですが、畿内ではなじみのない特別な訓じです。
訓じは違いますが、古来、安曇は安積であり、阿積に通じるとされています。その安曇氏は難波小郡とも呼ばれた摂津国西成郡安曇江を畿内の本拠とします。この地は同時に大伴の御津と称された難波津でもありますから、大伴家持にもゆかりのある場所となります。およそ、「安積」と云う表記の名をもつ安積皇子の壬生に安曇氏が関与し、また、大伴氏が関係する可能性はあります。
安積皇子は県犬養広刀自を生母とし、その県犬養一族は河内国河内郡桜井郷付近を本拠とした氏族と考えられていますから、安曇氏と県犬養氏とは本拠地が接していることになります。天平時代ですと、生駒を越えて牧岡に出る暗越奈良街道は奈良と難波を結ぶ最短ルートですし、県犬養氏の河内郡桜井郷と難波大郡とも呼ばれた東成郡、安曇氏の西成郡とは近接します。
さて、その安積皇子は天平十六年の難波行幸への同行の途中、河内郡桜井郷に置かれた桜井頓宮において急な脚気により恭仁京に戻り、その二日後に死亡しています。死亡原因とされる脚気の症状は「全身倦怠感など様々な異常が引き起き、 主な症状は全身倦怠感の他に食欲不振が発生し、やがて足がしびれることやむくみが目立つようになる。その他、動機、息切れも起きる」と紹介されます。
ここで、意図した誘導情報をさらに提供します。
急性腎不全と云う病気があり、その症状は「むくみ、吐き気、疲労、かゆみ、呼吸困難」と云うものです。表面的な症状的では、この急性腎不全と脚気とは病例が類似していますし、脚気心から腎不全を発病する病例は有り得ることのようです。
古代において脚気に類似する急性腎不全を人為的・計画的に引き起こすのには塩化第二水銀の水溶液を使用するのが容易な方法です。その製法は少なくとも平安時代末期までには軽粉と云う化粧品として宋よりもたらされたと推定されています。また、藤原京から平城京時代には水銀を使う鍍金、塗料や化粧用品として使う丹(硫化水銀)は広く使用されていますし、水銀と硫黄とを反応させて製造する人工丹は八世紀には製法が確立していたとされます。安積皇子の時代に水銀を扱う技術や製法は存在していましたし、正倉院宝物などがその技術の存在を裏付けます。
その塩化第二水銀(昇汞)は「水に溶けやすい。水で薄めた昇汞水の致死量でも0.2~0.4gほどで、誤って一滴でも飲んでしまうだけでも生命にかかわる」と紹介されるように、急性腎不全などを引き起こす水銀中毒症状を発症させるには最適な物質です。
超劇物である塩化第二水銀の古代における製法は、次のように紹介されます。
塩化第一水銀は時に軽粉と呼ばれる化粧品の一種、白粉として使用します。その軽粉の製造法は、水銀に赤土・食塩などを水でこねたものを蓋付きの容器に入れ、約600度で四時間程熱して、「ほっつき」という容器の蓋の内側についた白い粉を払い落して軽粉を得ます。この軽粉である塩化第一水銀は日光により塩化第二水銀と水銀とに分解され、黒色に変化します。塩化第二水銀は常温では水1kgに約60gが溶け、やや水溶性を示しますが、塩化第一水銀(0.2mg/100mL)は水に溶けにくく、水銀には極微小な水溶性しかありません。
つまり、軽粉と呼ばれる塩化第一水銀を十分に日光に曝し、黒色になったものをお湯に溶かし込むことで塩化第二水銀の水溶液(昇汞水)が得られます。精製され試薬品に使う塩化第二水銀は匂いがないとされますので、先の塩化第二水銀の水溶液の上澄みを慎重に水分蒸発させて濃縮すると無臭の致死有効な昇汞水が得られることになります。先の世界大戦では昇汞は有効な自決用の薬剤でしたし、戦前には昇汞水は有名な自殺用の薬品です。歴史においては、藤原鎌足は水銀を長寿の薬として皇族に処方し、彼自身も服用したと伝わるように、水銀は藤原氏にはなじみ有る物質です。
一方、歴史に残る記録では、安積皇子がビタミンB1不足に由来する慢性病であるはずの「脚気」と云う病を急発させたのは、一族の里である河内郡桜井郷に置かれた桜井頓宮です。ほぼ、この桜井頓宮は県犬養一族の氏長の屋敷であったと思われますから、安積皇子は実家で発病したことになります。参考としビタミンB1は獣肉からも摂取でき、万葉集の歌に詠うように安積皇子はある年齢になってからは狩りにたびたび参加したようですので、十分に獣肉・鳥肉や新鮮な川魚類を摂取する機会はあったと思われます。つまり、極度のビタミンB1不足と云うことは難しいのではないでしょうか。
およそ、内舎人と云う近習であった家持の安積皇子の実家で提供された食事への油断です。
以上、誘導的な情報を提供しました。
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