竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二四三 今週のみそひと歌を振り返る その六三

2017年12月02日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二四三 今週のみそひと歌を振り返る その六三

 今回は巻八の中から次の歌で遊びます。

他田廣津娘子梅謌一首
標訓 他田(をさたの)廣津娘子(ひろつのをとめ)の梅の謌一首
集歌1652 梅花 折毛不折毛 見都礼杼母 今夜能花尓 尚不如家利
訓読 梅の花折(を)りも折らずも見つれども今夜(こよひ)の花になほ如(し)かずけり
私訳 梅の花の手折ったものや手折らないそのままの花の姿を眺めたとしても、今夜、貴方が訪ねる床に咲く花には、到底、及びませんよ。

縣犬養娘子依梅發思謌一首
標訓 縣犬養(あがたのいぬかひの)娘子(をとめ)の梅に依せて思ひを發(おこ)せる謌一首
集歌1653 如今 心乎常尓 念有者 先咲花乃 地尓将落八方
訓読 今し如(ごと)心を常に念(おも)へらばまづ咲く花の地(つち)に落(ふ)らめやも
私訳 今のように気持ちを平静に保っていたのなら、人を慕う時に真っ先に咲く恋の花(乙女の体)、その恋の花を地に散らしたでしょうか。

 さて、この二首をどのように鑑賞しましょうか。一般には伝統と和歌道からしますと和歌は長歌に付けられた反歌であっても一首単独に抜き出し鑑賞します。同様に、伝統からしますとそれぞれに標題を持つこの二首は万葉集の掲載順では連続しますが、単独に鑑賞するのが基本となります。
 他方、弊ブログはそのような伝統や和歌道での読解ルールを知らない土素人が鑑賞するものですから自由奔放です。その背景から二首を宮中での宴での和歌合わせの歌と推定しています。つまり、歌二首は関連性を持つと考えています。そして、この歌二首は巻八の冬の雑歌に部立されたもので、相聞歌に部立されたものではありません。分類区分からしますと、歴史を持つもの、行事で詠われたものなどの歌と云うことになります。つまり、恋歌としてそれぞれがそれぞれの特定の男性に向けての歌ではないことになります。
 当然、伝統からの一首単独に抜き出して鑑賞としますと、ネット上で次のような鑑賞を得る事が出来ます。

HP「たのしい万葉集」から
原歌 梅花 折毛不折毛 見都礼杼母 今夜能花尓 尚不如家利
訓読 梅の花、折りも折らずも、見つれども、今夜(こよひ)の花に、なほしかずけり
解釈 梅の花を折ったり、(また)折らずにそのままで見ましたが、今夜の梅の花には、やはりかないませんわ

原歌 如今 心乎常尓 念有者 先咲花乃 地尓将落八方
訓読 今のごと、心を常に、思へらば、まづ咲く花の、地に落ちめやも
解釈 今のように、変わらない心でいたならば、春に真っ先に咲く花のように、(むなしく)地に落ちてしまうようなことはないでしょう。
補注 変わらずあなたのことを思っています、という歌ですね。

 集歌1652の歌は他田廣津娘子が色々な場所で、木に咲く梅の花や枝を手折って取り寄せた飾られた梅の花枝を見たが、今宵の宴で紹介された梅の花が一番ですねと、宴を準備した亭主を誉めたと鑑賞するようです。ついで集歌1653の歌は縣犬養娘子が恋する相手に歌を贈ったと鑑賞するようです。なお、現代人の「落」と云う漢字への感覚では椿や山茶花の花がぽとりと落ちるような状況を想像しますが、万葉人の「落」と云う漢字への感覚には「花びらが散る」と云う状況も含まれていたようです。従いまして、集歌1653の歌には「初花を散らす」と云う感覚があると考えられます。
 そうしたとき、万葉集には初花ではありませんが、始花を詠う歌があります。それが次の集歌2273の歌です。歌は秋の相聞歌の部立に含まれ、花に寄せて詠ったものと分類されるものです。ある種、一首単独に万葉集に載りますが、部立からしますと特定の相手の存在が歌にあることになっています。

集歌2273 何為等加 君乎将厭 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
訓読 何すとか君を厭(い)とはむ秋萩のその初花(はつはな)し歓(うれ)しきものを
私訳 どうして貴女を嫌いだと思うでしょうか。出会うことを待ち焦がれる、秋萩のその初花のように、出会いがあればうれしいものですから。

 従来の解釈の延長線では、集歌2273の歌は、ちょうど、集歌2284の歌に対する返答歌のような感覚で、歌の解説では男からの誘いに女が答えた歌とされてします。そして、女は自身の状況を男に抱かれ女として開花する意味合いを込めて「始花(花の始め)」と詠っています。それで、待ちに待った萩の花が咲く意味合いを込めて「秋芽子乃」を枕詞として使っていると解説します。

集歌2284 率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二将有 妹之光儀乎
訓読 ゆくりなに今も見が欲(ほ)し秋萩ししなひにあるらむ妹し姿を
私訳 突然ですが、今も眺めて見たい。秋萩のようなあでやかでしなやかな体をしているでしょう、その貴女の姿を。
注意 この歌を比喩歌と取ると、芽子と四搓の言葉から強い男の欲望の歌になります。

 ここで、「芽子」の言葉の遊びの視線で集歌2273の歌を漢詩のように表記してみますと、次のようになります。

集歌2273
何為等加   何すとか
君乎将厭   君を厭(い)とはむ
秋芽子乃   秋芽子の
其始花之   その花の始めの
歡寸物乎   歓(かん)の寸(すく)なきを

 このように漢詩調で歌を表記してみますと、この集歌2273の歌は「音で聴く訓読み和歌」とは違い、男女の経験豊かな男性からまだ男女経験の少ない若い女性に送った歌のように変身します。この歌の表記は、見ていただければ判るように漢字十六文字表記で四字ずつに区切りを取れます。この表記において、なんらかの意図があったと私は思っています。可能性として、宴会で歌を漢語・漢字で木簡に墨書して客の間を廻して楽しんだような世界です。その時、漢字表記では非常なるバレ歌となります。
 当時の宴では、かようなバレ歌が詠われており、宴に集う女流歌人もそのような歌を楽しんでいたと推定されます。女系家族が基本形で妻問婚が一般的としますと大人の男女関係は流動的になります。そのような社会関係を元に集歌1652の歌に戻りますと、歌で詠う「梅花」と「今夜能花」とにおいて、今夜の花は梅の花なのか、どうかが重要になります。「見都礼杼」に注目して、今夜の花は梅の花ではないとしますと、男女関係の仲で夜咲く花は「貴方の私」と云う花と云うことになります。ただし、雑歌に部立されますから、歌は宴でのバレ歌のようなものです。間違えても恋愛歌ではありません。
 同様に集歌1653の歌が宴で詠われたバレ歌としますと、「貴方は、こうして私に関心がないような振る舞いをしていますが、どうして、私と云う初花を貴方は閨で散らしたのですか」と云うような意味合いの歌となります。奈良時代、女性は十五歳から宮中に出仕することが出来ましたから、十五・六歳位の乙女が宴で相対して座る男たちに意味ありげにこのような歌を詠いますと、相当に盛り上がるのではないでしょうか。直接ではありませんが、身分低い采女のような女から高貴な殿上人に対して「若い花=初々しい私」を抱きませんかと云う誘いの歌になります。

 弊ブログではこのような方向から歌を鑑賞しているため、一般的な鑑賞とは大きく違います。およそ、淫を好む劣情溢れる痴れ者の鑑賞です。それに、その痴れ者には学問的背景がはありませんから、安直なバレ話として御笑納下さい。


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