旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

視力回復! … 注射で回復する力が未だ残っていた?

2014-05-10 11:07:39 | 時局雑感


 3月27日に、怖い怖い目の注射を断行して40日が過ぎた。注射後12日目の4月9日に事後経過を検査したところ、0.4から0.5だった視力が0.7に回復していた。何か明るくなったなあ、新聞が少しは読みやすくなったなあ、などと思っていたが明らかに回復していたのだ。
 そして、さらに1か月後の5月7日検査したところ、視力は1.0ということだった。それにしても出来過ぎではないのか? 最後の方はやや感も含めて答えたので、1.0が完全に見えた実感はなく、「先生本当ですか?」と問い直したのであるが、「あなたがウソを言ってない限り見えていました」との答え。
 もちろん、「ウソなんて言いませんよ、見えたとおりに言いましたよ」と答えたが、1.0は見え過ぎではないかと思っている。
 
 しかし、注射などの治療で未だ回復力を持っているとすればうれしい限りだ。薬を飲んでも効かなくなっては事の終わりだ。先生は「視力が落ちたらまた注射しましょう」と張り切っている。これもまた困ったものだが…。
 今日は柴本先生(かかりつけ内科)に血液検査をやられた。こちらで怖いのは肝機能の低下だ。このところ酒量が増していたので心配だ。ただ、検査に対応して一昨夜は1合にとどめ、昨夜は一滴も飲まなかったので、それによる「肝臓の回復力」に期待している。
 二日の酒量抑制で回復する体力があれば、もう少しは生きて行けるだろう。


琵琶湖の旅⑦ … 長浜の街歩き

2014-05-08 10:08:22 | 


 この旅の終わりは長浜の街歩き。
 小谷城周辺を回った車は昼前に長浜に帰り着いた。さっそく腹ごしらえと街の中心部「黒壁スクェア」にくり出す。ウィークデーというのに結構混雑している。修学旅行生らしい女生徒たちが、団子屋や煎餅屋の前に群れてる。
 昼飯を何にするか意見が分かれたが、結局長浜名物の「焼き鯖そーめん」にする(前回ご参照)。何と言っても“土地のもの”にはかなわない。

 腹がいっぱいになると、この街の歴史に触れながらいい空気を吸いたいと長浜城に向かう。
 長浜は秀吉が最初に城持ち大名になったところである。信長が浅井・朝倉に勝利した姉川合戦と小谷攻めで功績のあった秀吉は、その褒美として浅井の土地の大半を与えられる。最初小谷城に入った秀吉は、直ちに琵琶湖畔の今浜に築城する。「秀吉が湖岸に城を移した理由は、琵琶湖の舟運を重視した領国経営にあったと考えられる」と『長浜城』リーフレットに書いてある。
 現在の長浜城は1983年に再興され、今は「長浜城歴史博物館」とよばれている。周囲は「豊公園」という公園になっており、天守閣から眺めると公園の緑を越えて琵琶湖が広がり、左手の伊吹山を含め絶景であった。

  
            
      柔らかい緑が美しい豊公園と長浜城

 長浜は秀吉の街である。どこに行っても秀吉だ。しかしわが一行の大方は、秀吉よりも最初に訪れた近江八幡の秀次に同情的だった。「男の子が生まれたからと言って秀次に切腹を命じるとはけしからん」というわけだ。
 とはいえ長浜の街には満足した。「曳山博物館」など様々な歴史に触れつつ、何よりも最後の買い物に精出した。旅の魅力の一つは買い物だ。特に女性群にあっては、疲れ果てた体も買い物となれば一気に回復するようだ。黒壁スクェアを駆け回って買い込み、先ずはメデタシ、メデタシ…

        
        黒壁スクェアの一角


減り続ける子供人口 … 日本は先細りか?

2014-05-05 14:24:32 | 時局雑感


 琵琶湖の旅のことばかり書いて来たが、季節も移ろいを早めていた。五月は特に目まぐるしい。1日がメーデー、2日が八十八夜、3日が憲法記念日、4日がみどりの日、そして今日は子供の日。
 昨夜風呂に入ると菖蒲の束が浮いていたし、今朝の食卓にはかしわ餅がのっていた。世の子供たちは、菖蒲湯に浸かりかしわ餅を食って元気に育っているのだろうか?
 各紙の報ずるところによれば、日本の子供人口は1633万人、総人口に占める比率は12.8%で、この比率は先進国ではもちろん、人口4千万人以上の国でも最低だという。統計を始めた1950年は総人口の35.4%いた子供は減り続けて、この間約1600万人も減ったとある。
 そういえば昔は、公園や道端に子供があふれていたように思うが、今は家の周囲を散歩しても子供を見かけることは少ない。特に、やんちゃ坊主たちが大小男女入り混じって揉みあっている姿など見ない。

 国の力は単に人口数だけではないだろうが、子供が少ないのでは将来の勢いは望めないだろう。日本は先細りか?
 戦後フランスが人口減に悩んでいるニュースを聞いて、不思議な国だなあと思った記憶がある。しかしフランスは見事にそれを克服して子供比率も20%近い。日本も恐らく克服していくのだろうが、軽視はできないだろう。

 今日は立夏…、いよいよ万物が成長する時節だ。今月は行事も多く、中旬以降は一日おきに何かある。年寄りも負けないつもりでいるが、子供は大丈夫か?


琵琶湖の旅⑥ … 食と酒

2014-05-04 10:28:45 | 

 

 私たちは、ただ武将たちの夢の後を追って、お城に登ったり歩き回ったりしただけではない。旅の喜びはその地の食と酒にある。二泊した宿にもそれなりの味を求めた。
 初日は琵琶湖を味わうために開放的な『休暇村』とし、近江の最初の味として「近江牛会席」とした。酒は地元愛知郡愛荘町の『旭日』純米吟醸(藤井本家)、それに近江八幡の市内で買い求めた『湖東富貴(ことぶき)』純米吟醸(西勝酒造)を持ち込んだ。銘柄はそれぞれ「和気藹々(わきあいあい)」と「さかやもん」。
 「近江牛会席」は料理コースとしてはも一つだったが、近江牛のすき焼きと鉄板焼きは美味しかった。さすがに地元の酒、特に旭日「和気藹々」はぴったり合って美味しかった。

  
      


 二日目は長浜市街中の老舗旅館を求めたが、料理旅館『千茂登』の「琵琶湖の味覚 部屋食プラン」は、その狙いにぴったりだった。旅館というより本業は料理屋だけあって、「八寸」(さざえ、虹鱒甘露など)に始まり「水物」(フルーツ)まで次々と運ばれる9品の料理は素晴らしかった。中でも「鍋物」の近江牛すき焼き、「酢物」の河豚白子、「焼物」の鮎塩焼きと鰻かば焼き、「油物」の琵琶湖小鮎などは美味しかった。私たちはそれに地元名産「鮒寿し」を一皿特注してシェアーした。
 酒はこれも地元木之本の『七本槍』純米吟醸、それに彦根の街歩きで購入した『金亀』特別純米(岡村本家)を持ち込んだ。さすがに店の定番『七本槍』はきりりとしたいい酒だった

  
 

 三日間の昼飯もおいしかった。初日近江八幡は日牟禮八幡前のご存じ『たねや』の「うどん」。関西風の軽い味と思ったが豪快な野菜のかき揚げが付き充実感あり、加えて食前にも食後にも和菓子が出た(一口だけど)。
 二日目彦根駅前の『ちゃんぽん亭』もなかなか。三日目長浜では『翼果楼(よかろう)』で長浜名物「焼き鯖そーめん」と「鯖寿し」。これも良かった。「焼き鯖そーめん」を「焼きそばそーめん」と何度も言い違って笑われたが…。

          
    
『たねや』の「うどん」と『翼果楼』の「焼き鯖そーめん」、「鯖寿し」


琵琶湖の旅⑤ … 浅井一族の小谷城周辺

2014-05-03 11:22:41 | 政治経済


 三日目は長浜周辺。まず午前中は9人乗り大型タクシーで小谷城周辺を回った。前夜の宿『千茂登』旅館を出発した車はやがて琵琶湖畔に出る。車窓を流れる琵琶湖の景観は、春霞に包まれて美しかった。何時間でも走り続けてくれ、と言いたいほどであった。

  
           

 先ず向かったのが、渡岸寺観音堂「向願寺」、国宝「十一面観世音」を拝顔するためだ。「長浜に行くのなら何はさておいても観よ」と何人かに言われただけあって、この観音像は見ごたえがあった。聖武天皇の天平8年(約1250年前)、都に大流行した疱瘡(ほうそう)の除災を祈って、僧泰澄が彫った(木彫)という。

       
 (奥びわ湖観光協会リーフレットより)

 その他、観音像がたくさん並ぶお寺をいくつか見て小谷城址の中腹まで登る。残念ながら頂上の本丸跡までは車はいけない。また歩く時間もない。しかし、緑に包まれた中腹から琵琶湖を遠望、下って小谷城戦国歴史資料館や姉川古戦場跡などを回り、浅井長政、お市の方、浅井三姉妹の悲話を偲ぶには十分であった。

 姉川古戦場跡には特に何もないが、織田(2万3千)・徳川(6千)勢と浅井(8千)・朝倉(1万)勢が姉川をはさんで対立する配置図などがあり、戦いの激しさを思わせる。
 そのそばに地元俳人木導(もくどう、芭蕉の弟子)の

  春風や麦の中行く水の音

という句碑が建っていたが、戦いさえなければ正に平穏な生活がそこにあったのであろう。

     
  小谷山中腹(車止め)より琵琶湖を遠望


琵琶湖の旅④ … 彦根城、井伊直弼、美しい街並み

2014-05-01 14:42:58 | 

 


 安土城跡をあとに彦根に向かう。能登川から彦根まで快速でわずか9分、駅前の『ちゃんぽん亭』で名物のそばを食べて、先ずは彦根城に登る。
 再び石段である。安土城でうんざりするほど登った石段に「またかよ~」というつぶやきが起こるが、こちらは平城、すぐに天守に到着。むしろ天守閣の急こう配の階段の方がきついぐらいだ。

  
          
    
    広場ではゆるきゃらの元祖「ひこにゃん」が…


 彦根と言えば井伊直弼。11代彦根藩主直中の14男として生まれた直弼は、17歳で父を失い以降32歳まで、藩のおきてに従い3百俵の捨扶持で城内の公館で暮らす。この間、あらゆる学問、武術から茶華道まで身に着け将来の礎を築く。
 彼が「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けたその公館が、静寂な佇まいで今も残る。彼はここに住んだ時代が一番幸せだったのではないか? やがて彦根35万石の藩主となり、江戸瀑布末期の大老に上りつめる。
 日米修好通商条約に調印して日本の開国近代化に力を尽くすも、反対勢力を強権で粛清した「安政の大獄」も行い、その反動を受けて「桜田門外の変」で水戸藩士に暗殺される。
 埋木舎の静寂は、幕末の動乱とは似つかわしくなかった。

    埋木舎

 
          
        美しい彦根の街並み     


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