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旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

美味しいお店

2013-04-10 17:55:26 | 時局雑感

 

 齢のせいで、多くは食べられないが美味しいものを食べたくなる。中華やイタリアン系は昔から好きであるが、店によっては量が多く辟易することが多い。だから、どうしても和食系の店に行くことが多くなる。

 中華料理の、しゃれた、美味しいお店を見つけた。新宿御苑前にある『礼華(らいか)』という店だ。前回書いた「英伸三写真展」を見て、ワイフと娘と行った店だ。新宿1丁目、御苑に沿った通りにに面した静かな店だ。
 一般に中華料理と言えば、大きなお皿に山盛り盛ってくるという感じだが、この店は適量を上品に盛り付けた感じで、懐石料理的とまでは言わないが、垢抜けした感じの料理であった。味ももちろん立派であった。店の雰囲気も落ち着きがあっていい。残念ながら日本酒の品ぞろえがもう一つであるが、ハウスワインがなかなかおいしく、料理に合った。

 これまで、わが家で「美味しい中華料理」といえば、初台のオペラハウス最上階にある『東天紅』と決めていたが、もう一つこの店を追加しておかねばなるまい。
 「美味しいお店」という場合、単に味だけでなく、店の雰囲気、料理の見栄え、それにこの齢になると盛りつけの量までが影響してくる。何と言っても味ではあるが…。


ダイナミックな昭和を写しだした白黒桜写真の迫力

2013-04-08 17:39:24 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨日は、38年前の中島みゆきの歌「時代」の生命力について書いた。これまたちょうど40年前の写真を並べた写真展が新宿御苑前で行われている。写真家英伸三氏の『桜狩り昭和篇』という個展である。しかも全て白黒写真である。
 氏は、1972、73年に、九州から北海道まで桜前線を追った。そのとき撮りためたもので、もちろんカラー写真も撮ったが40年を経てカラーの力をなくしているので、白黒写真だけを展示したという。

 1970年代と言えば高度成長の真っ只中。高度成長と言えば聞こえはいいが、反面から見れば使い捨て経済で、次から次に物をつくり次々と捨てて行った。高層ビルが建ち並ぶだけ古いビルや町は廃墟と化して行った。人が集まり宴が催されるが、そのあとには人気のない静寂が続く。
 そして、そのいずれの場にも桜は咲いていた。案内状にも、「人の暮らしのあるところ必ず桜があった」と書いてあった。人混みの中の桜、廃墟の中の桜…、いずれの桜も同じように咲いている。
 それが白黒写真であることが、むしろ高度成長時代の、というより昭和のダイナミックさを表現していた。桜は何と言ってもカラーだと思っていたが、昭和の桜は白黒かもしれない。
 昭和に比べて平成は穏やかだ。別言すれば無個性だ。バブル崩壊後の失われた20年などダイナミックさに欠ける。そのような平成の桜はカラーでいいが、昭和の桜は白黒の方が似合うようだ。
 昭和も遠くなりつつあると思いながら、写真展を見た。

   
   
桜は散ったが、庭のハナミズキが白黒写真のような満開を迎えた


中島みゆきの「時代」が歌い継ぐもの

2013-04-07 13:07:38 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜の1チャンネルSONGSは、中島みゆきの「時代」を採り上げた。
 この歌は1975年に発表された歌であるので、すでに38年を経過する。それが、東日本大震災を契機に各地で歌われているという。昨夜も東北のある高校合唱団が、手話を交えながら美しく歌っていた。

   今はこんなに悲しくて
   なみだも枯れはてて もう二度と笑顔には
   なれそうもないけど

   そんな時代もあったねと
   いつか話せる日が来るわ
   あんな時代もあったねと
   きっと笑って話せるわ
   だから今日は くよくよしないで
   今日の風に吹かれましょう
   まわるまわる時代はまわる
   喜び悲しみくり返し
   今日は別れた恋人たちも
   生まれかわってめぐりあうよ


 40年近い年月を経て、なぜこの歌は歌いつがれるのか? いやむしろ、あの東日本大震災のような未曾有の天災の後だからこそ、打ちひしがれた人々を勇気づけるために、この歌は生命力を発揮しているのであろう。
 この歌には希望があり、未来があり、愛が満ちている。「だから今日は、くよくよしないで今日の風に吹かれましょう」というのは、単に投げやりな気持ちではない。「時代はまわりまわって、今日別れた恋人たちは生まれかわってめぐりあうよ」と告げている。
 二番の、「旅をつづける人々も、たとえ今夜は倒れても、いつか故郷に出会う日を、きっと信じてドアを出る」。そして、「別れと出会いをくり返し、今日は別れた旅人たちも、生まれかわって歩き出すよ」と結んでいる。
 「生まれかわって…」という言葉に未来があり、「めぐりあう」、「歩き出す」という言葉に希望がある。人間にとって普遍的なものを体した歌は、年を経ていつまでも生き続ける。


無所属の時間について(2)

2013-04-05 15:01:26 | 時局雑感

 

 城山三郎の『無所属の時間で生きる』には、示唆されるものが多かった。
 ところで私は、現在週に二日だけ勤務している。弟の会社に、その相談相手のような役で勤めているが、脳梗塞の前科、目は見えない、体力は低下…という状況で、極力日常業務から離れようとしている。
 だから私には無所属の時間の方が多い。空白の一日などいつでも作れる。むしろ週のうち5日は空白のようなものだ。しかし、家にいる時間が全く自由というわけにはいかない。妻との口論、息子や娘に対するイライラなどが絶えず付きまとう。これらから解放されるには、旅に出るとか映画や演劇、絵画の観賞など、非日常なものを求めねばならない。

 もちろん、家にいて朝から晩まで妻と口論し息子や娘にイライラしているわけではない。そんな時間より、自分の書斎に閉じこもっている時間の方がはるかに長い。ではその書斎の中の自分は自由か?
 狭い6畳の書斎に三つの本箱が並んでおり、捨てきれない書籍や飾り物が私を圧迫する。再び役に立つことがあるか不明な書類が、これも捨てきれず、書棚や段ボールに詰められて部屋を圧迫している。いつか捨ててやろう、と思うだけにそれらの存在は心に重い。
 書斎の中の自分は決して解放されてはいない。今年こそは三つの本棚の一つを処分するくらい不要な本を捨てよう、と計画するが、実現した年はない。書類また然り。

 これらの圧迫から逃れるためには、無所属の時間を求めて旅に出るか、映画館や絵画館に逃れるかしかないのだろうか? それとも真剣に不要物を捨て去ることに取り組む時間こそ無所属の時間なのだろうか?


「無所属の時間」(城山三郎)について

2013-04-04 14:23:13 | 時局雑感

 

 城山三郎に『無所属の時間で生きる』という著書がある。読んで心地よいエッセイ集である。
 その中に、経団連会長などを務め戦後最大の財界人と言われた石坂泰三の、時間の使い方が紹介されている。石坂は、出張などの際に空白の一日を日程に組み込んでいたという。そしてその空白の一日を、「石坂は二百とか三百とかの肩書をふるい落し、どこにも関係のない、どこにも属さない一人の人間として過ごした」と書いている。
 日本一多忙な男は、その空白の一日の中で自分を取り戻していたのであろう。

 また、「不幸なことだが入院生活にもそれに似た部分がある」として、大蔵省から国鉄総裁になった高木文雄、異色の次官となった谷村裕、大物政治家となった池田隼人、前尾繁三郎などの例を挙げている。「大病すれば即脱落」といわれる大蔵省にあって、彼らは思わぬ大病で役所を離れ入院するが、そこで「ただ一人の病人となってみて、世の中や人間が身近なものに見えてきた」(高木)とその有益性を説いている。
 城山はこれら空白の時間を次のようにまとめている。

 「そこには、真新しい時間、いつもとちがうみずみずしい時間があり、子供に戻ったような軽い興奮さえ湧く。おそらくは、それが人間をよみがえらせるきっかけの時間になるからであろう」
 「無所属の時間とは、人間を人間としてよみがえらせ、より大きく育て上げる時間ということではないだろうか」

 城山は、それらの事例を知りながら、自分の犯した失敗例も掲げている。講演を頼まれ京都に出張した時のこと。講演を終えるや、一日二本しかない小田原停車の「ひかり」に飛び乗り帰ったが、講演前の余裕時間であった一時間だけ、東山を流れる霧を眺め、軽い旅情に浸る。そしてなぜこの時間を一日か、せめて半日でも取らなかったかと後悔する。
 飛び乗った「ひかり」で弁当を食べながら酒を飲むが、「窓の向こうの夜景は目に入らず、霧の流れた東山の眺めを
未練がましく思い浮かべるばかり…」。そして最後を次の文章で結んでいる。

 「車窓には、家の灯、街の灯が流れ星のように見えはじめ、あと一本のみたいというところで、「ひかり」は小田原駅へと滑り込んで行った。「こだま」なら、あと一本、悠々とのむことができたのに。惜しい楽しみまで失ってしまった」

 因みにこのエッセイの題は「日帰りの悔い」というもの。


郷里(臼杵)からハッサクが届く

2013-04-02 14:29:48 | 時局雑感

 

 郷里から待望のハッサク(八朔)が届いた。ワイフの好物で、数日前から「今年はミカンの出来はどうなのだろう…、そろそろハッサクの季節だが」と言われていたので、先日、臼杵の弟に電話を掛けたところ、「そう思っているだろうと察して昨日発送した」と告げられていたのだ。弟は教員退職後ミカン畑を経営しており、毎年そのおこぼれに預かっているのだ。

 苦みと酸味の調和が何とも言えず、毎日セッセ、セッセと食べている。wikipediaによれば、原産地は広島県の因島で、現在の最大産地は和歌山県、その他四国の各県が続くということだ。いわゆる瀬戸内各県で、そこを根城にした村上水軍が、遠征先の東南アジアから持ち帰ったと考えられるとも書いてある。
 わが臼杵は瀬戸内の西のはずれ、子供のころから食べていたので、大分県も相応の量が採れるのであろう。

 ところでハッサクの八朔という字が気になる。八朔は文字通り「8月1日」(旧暦)のことで、「この頃から食べられたからと伝えられている」とWikipediaも書いているが、旧暦8月1日と言えば新暦では8月の終わりから9月の上旬、つまり秋であるが、近時ハッサクを一番おいしく食べるのは今の次期、つまり春である。
 われわれがミカンを楽しむ順序は、春のハッサク、夏のナツミカン(あまなつ)、秋のウンシュウミカンの順だ。昔のハッサクは秋が旬だったのだろうか? それとも、今のハッサクと昔の八朔は違っていたのだろうか?
 あまり難しいことを考えるより、美味しく味わえばいいのだが…。


           春の装いをこらしてきた庭の木々

   ハナミズキ
            

    
                     白ツバキ

 


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