スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

桜花賞・海老澤清杯&筆跡鑑定

2024-04-08 19:13:18 | 競輪
 昨日の川崎記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,郡司‐佐々木の神奈川,古性‐山田の近畿,嘉永‐松岡の熊本で,松本は単騎。
 山田がスタートを取って古性の前受け。3番手に郡司,5番手に嘉永,7番手に新山,最後尾に松本で周回。残り2周のホームに入るところで新山が動こうとすると,嘉永が先んじて上昇し,古性を叩きました。すると郡司も動いてバックでは嘉永を叩いて先頭に。新山はその後に本格的に発進。打鐘から郡司と先行争いのような形になりましたが,ホームの入口では叩いて先行。郡司は3番手を取りにいったのですが,新山ラインに続いていた松本に阻まれて4番手に。バックに入ると佐々木の後ろから嘉永が発進。佐藤が懸命にブロックしたものの何とか乗り越え,新山を捲って優勝。後方からの捲り追い込みになった古性が外から伸び,マークの山田が差して4分の3車身差で2着。古性が4分の1車輪差で3着。
 優勝した熊本の嘉永泰斗選手は2月の久留米のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年5月の函館記念以来の3勝目。川崎記念は初優勝。このレースはラインの厚みでは北日本のふたり,個々の脚力では郡司と古性が双璧でした。郡司は中途半端に先行争いをした上に3番手を取りにいき,古性は前受けしたものの何もせずに後方に置かれると,脚力上位のふたりはレース運びに失敗。新山も先行するまでに力を使ってしまい,佐藤がブロックで嘉永を止めるまでには至りませんでした。決勝までのレースをみると嘉永は調子では随一だったように思います。

 2010年に発見された『エチカ』の手稿を書写した事物がピーター・ファン・ヘントであると特定されたのは,筆跡鑑定によるものです。ヘントがホイヘンスChristiaan Huygensに宛てた手紙が残されていて,その手紙の筆跡と,手稿の筆跡が同一人物によるものであると鑑定され,ヘントが書写した手稿であると特定されるに至ったのです。ホイヘンスはスピノザの友人のひとりですから,ヘントも含めたひとつのネットワークがあったのだと推測されます。
                                        
 手稿が作成されたのは1674年末か1675年初めと推察されています。これは推察ですから,筆跡鑑定によるものとされるような論拠があるわけではなく,その前後の事情からそうではないかと思われているということです。
 この手稿があるということは,古くから知られていたと國分はいっています。というのは,ヘントに『エチカ』の書写を依頼したのはチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausで,チルンハウスは確かに手稿を入手しているということが,たとえば書簡五十九などから知られているからです。チルンハウスは手稿を持ってオランダを離れ,イギリスを経由してからパリに入りました。チルンハウスがパリに滞在しているときにスピノザは死んでしまいましたから,チルンハウスはオランダを離れて以降は『エチカ』の手稿を入手するチャンスがなかったと考えるべきです。つまりオランダを離れる前に手稿を入手していたとみるのが妥当で,チルンハウスがオランダを離れる直前にその手稿を入手したとするなら,手稿が書写されたのは推察されていた時期になるということです。チルンハウスがヘントに書写を依頼したということがなぜ歴史的事実として確定しているのかということは僕は分かりませんし,國分も説明していませんが,それが確かに歴史的事実であったとすれば,手稿が書写された時期の推察は正しいということになるでしょう。僕はこれまで,チルンハウスがスピノザと面会し,スピノザの許可を得た上で自身の手で書写したと考えていたのですが,事実はそうではなかったということになります。ただ,スピノザがヘントに書写を許可したのは,それをチルンハウスが入手するという前提の下でのことだったと思います。

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