スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援ヤンググランプリ&祖母の死

2012-01-02 18:18:03 | 競輪
 次代の競輪界を担う若手の登竜門,ヤンググランプリは12月28日に平塚競輪場で争われました。並びは相川-上原の関東,松岡-西村ー坂口の中部,才迫-小川の瀬戸内で,村上と柴田が単騎。
 前受けとなったのは松岡。柴田が4番手で5番手に相川,7番手で才迫,村上が最後尾という周回に。早めの動きはなく,上昇した才迫が松岡に並び掛けたのがようやく打鐘のあたり。これでは松岡も引けず,先行争いとなり,松岡の突っ張り先行となって才迫は後退。小川が外から番手戦を挑み,村上は坂口の後ろに。バックから村上が捲るもこれを坂口が牽制。このまま両者が並走して,坂口が自力で抜け出そうとしたところ,村上の後ろからインに切れ込んだ柴田が直線でよく伸びて優勝。柴田マークのような形から相川が2着に入り,坂口は3着まで。
 優勝した静岡の柴田竜史選手はこれがグレードレース初制覇。ここは核となる選手が不在で,いってみればだれにでもチャンスがあると思えるメンバー構成だったのですが,その中で単騎でうまく立ち回りました。すぐにトップクラスで戦うというだけの力があるようには思いませんが,まだ成長が見込める選手で,さしあたっての目標は記念競輪の優勝ということになるでしょう。

 特別養護老人ホームに到着した母から連絡があったのは9時半頃でしたので,到着して間もなくのことだったろうと思います。祖母は危篤ということでした。後に聞いた話によりますと,この日は特別養護老人ホームを担当している本牧病院の医師が回診のために来ていて,その医師の診察によれば,もう数時間ほどであろうと言われたそうです。僕がその時点で知っていたのは危篤ということだけ。また,この日は日曜日ですから作業所が休みの妹も家にいまして,まだ眠っていました。なので僕は特別養護老人ホームの方には駆けつけず,そのまま家で待っていました。
 このとき母から連絡があったのは,実際には祖母が危篤であるということを僕に知らせるためではありませんでした。この時点で,まだロサンゼルスの伯母と連絡が取れていなかったので,その旨をメールしてほしいという依頼であったのです。時差から考えますと,この時間に寝ていたということは考えにくいでしょうから,おそらく何らかの用事で家を留守にしていて,電話をしても繋がらなかったのではないかと思います。もしもこのときにスムーズに連絡ができていたなら,僕は祖母が危篤であるということを知ることもなかっただろうと思います。
 伯母はアメリカでは携帯電話を使っていたのかどうか知りません。僕が把握していたのはパソコンのメールアドレス。そしてそれは僕のパソコンメールのアドレス帳に保存してありました。よって母からの電話を終えるとすぐに自室に向い,パソコンを起動した上でメールを送信しました。結果的に伯母から電話での連絡があったのは,こちらの時間でこの日の午後1時過ぎでした。
 それとは時間的に前後してしまいますが,この次に母から連絡があったのは午前11時半過ぎで,祖母の死を伝えるものでした。回診に来ていた本牧病院の医師がこの時点ではまだ特別養護老人ホームに残っていまして,その医師が死亡の診断を下してくれたとのこと。もっとも,こうした話も後から聞いたものであって,この時点では単に死んだということだけが伝えられただけ。死亡して間もなくの連絡であったわけですから,当然ながら今後の予定なども,この時点では何も決まっていませんでした。

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