ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月26日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう  第4回

1) 教育委員会という組織 (その1) 

 教育委員会の現状を総括してゆこう。子供に対する教師の正当性はどこにあるかという哲学的な問題はさておき、家庭内で行われる私的教育ではなく、政府(中央、地方)が責任を持つ「公教育」には、公民としての教育を重視し民主主義の普遍的な価値を育てる機能が期待される。従って主権者たる市民が教育内容や活動の仕組みを決め、それを適時チェックすることが重視されなければならない。教育という活動は専門的知識と技術が必要なことはどんな職業でも当然のことであるが、特に基礎教育では教師は専門家の顔よりは全人的な存在で子供に接することが求められるだろう。教育委員会制度は市民のコントロールと教師の専門性を確保するための行政制度であるといえる。教育委員会は複数の委員の協議と合意で教育方針を決める最高の意思決定機関である。従って相対的に首長から独立した行政委員会に作られている。こうした行政委員会制度により「教育の政治的中立性」を担保する機関である。教育委員会は事務局を持つことができる。都道府県の教育委員会事務局は教育庁と言われ教育長をトップとする。市町村の教育委員会の事務局のトップは教育長である。教育長を筆頭とする事務局のスタッフも教職の経験者・教育行政の専門家によって構成される。教育の方向や教育行政の運営に関する原案を作成し、委員会が市民の立場から協議し決定する。地方教育行政法は教育委員会の「職務権限」を定めている。学校を始めとした教育関係施設の整備と管理、教職員の任免、研修、学校の組織編成、教育課程、学習指導、生徒指導、職業指導、教科書など教材、学校給食など学校教育に関して11項目、公民館など社会生涯教育、スポーツ振興、ユネスコ活動など8項目、合計19項目である。地方教育行政法において教育委員会の職務権限は「・・・に関すること」という行政組織法であるので、組織の中身については広い裁量を認めている。この裁量が文部科学省の「指導」によって枠づけられるのである。教職員人事については先にも書いたが、市町村の小中学校に勤務する教職員の身分は市町村に属するが、教職員の任免や移動の人事権は都道府県教育委員会と政令都市教育委員会にある。また教職員の人件費は国が1/3、都道府県が2/3で負担している。これを「県費負担教員」という。2000年の第1次地方分権改革まで、地方教育行政法は国は都道府県教育委員会を、都道府県教育委員会は市町村教育委員会を「指導・助言・援助を行うものとする」とされていたが、現在の法では「行うことができる」とやわらげた言い方になっている。しかし実態は学区の自由化が文部省の指導の下で全国一斉に実施されるように、はたして市町村の教育委員会に自主的な決定権があったとは考えられない。したがって都道府県教育委員会は実態として、市町村教育委員会の上位機関となっている。つぎに教育委員の任命は知事又は市町村長が委員候補を議会に提出し同意を求めて任命することになっている。原則定数5名の委員は非常勤の公務員で、うち一人は児童の保護者をふくむ、。任期は4年である。委員会は政治的中立性を保つため、同一の政党に所属する委員の数は半数未満とするなどの制限が設けられている。また住民は教育委員を解職を請求でき、住民投票で1/2以上の賛成があれば解職が成立する。首長が教育委員候補を選任する過程はブラックボックスであるが、教育委員会の事務局があらかじめ候補リストを首長に提示して決めているようだ。都道府県の教育委員の顔ぶれは、大学教授、企業経営者、県職員か教育次長であり、特に保護者かどうか判然としない。政令指定都市5市の教育委員の顔ぶれは、市職員、大学教授、教員その他である。教育委員長は互選で選ばれ任期は1年であるが、2年程度で持ち回る慣行があるところもある。教育委員としての活動は、毎月1回の定例会議と必要に応じて臨時会があり、これに追加して教育委員協議会という準定例会議もある。教育委員会の会議議題は毎年同じで、教育委員会規則の制定改廃、教育長・学校長の人事、職員の懲戒・分限処分、その他である。会議は公開を原則とするが、教育委員協議会は非公開で委員会の準備会に相当し、教育委員会がスムーズに形式的に流れるように図っているようだ。この協議会はいかにも官僚的根回し会である。

(つづく)

読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月25日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう  第3回

序(3)

 知事、市町村長は議会の同意を得て教育委員を任命しているが、教育委員会に意見を言うことはできない。教育委員会は首長に対して「半ば独立した」行政員会である。ここに文部省がタテの行政指導と支配を企むことができた秘密がある。本来教育は地方自治体の任務である。これは消防・警察などと同じく地方に任された行政組織である。2000年の第1次地方分権改革は、戦後の地方自治の宿題であった「機関委任事務制度」を全廃した。地方は国の下請け機関ではなくなり、対等の関係となったといわれる。ところが地方自治体が教育行政に責任を持つなら、教育委員会といった全国一律の組織は地方の自由裁量に任されるはずであるが、「必置規制」という教育委員会が設置を義務づけられている。地方の時代、自己決定の時代と言われながら、教育委員会廃止論(元島根県市長西尾理弘氏)もある昨今に、全国一律教育を標榜した中央集権的な制度が残っているのである。2005年10月、文部省の諮問機関「中央教育審議会」の答申は、「文化、スポーツ、生涯学習に関する事務は地方自治体の判断により首長が担当することが適当である」と述べ、教育委員会の担当職務を一部地方自治体に移管する趣旨を発表した。2005年12月、第27次地方制度調査会は教育員会改革に関する答申を発表し、教育委員会の設置を自治体の選択制とすべきと述べ、翌2006年6月首相に提出した。2006年7月小泉政権は「骨太の方針」で教育員会制度の改革を示した。これを受けて規制改革・民間開放推進会議は教育委員会の必置規制を撤廃し、首長の責任の下で教育行政を行うことを自治体の選択に任せるべきとした。しかし全国都道府県教育長協議会は文部省の指導の下に、これらの方針に「反対」論を展開した。2006年第1次安倍内閣は「教育再生会議」で愛国教育をめざし歴史の針を逆戻りさせ教育への中央統制を強める政策を打ち出し、文部相は地方教育員会に必要な措置を是正勧告できるという中央強化策に改正した。2009年に代った民主党内閣は何ら具体的に動かなかった。2013年1月第2次安倍内閣は教育再生実行会議をスタートさせ、議題の中には教育委員会制度の廃止が含まれている。2009年大阪市長に当選した日本維新の会の橋下徹市長は「大阪市教育基本条例案」を提出し、首長主導の教育行政の実現を目指して教育委員会への強権的な攻撃を始めた。ところが橋下市長の教育行政策には教育委員会の廃止は考えていない。従来型の教育行政は文部省ー都道府県教育委員会教育長―市町村教育委員会教育長―学校長という下降型教育システムに対して、橋下市長の構想は「統治」を首長に取り戻す(権力奪取)というヒステリックな叫びにすぎず、そこには教育を受ける子供への視線は感じられない。現代日本の小中学校基礎教育に問われているのは、教育を子供=市民のてに取り戻すシステムを築くことであろう。独善的な教育にどちらが主導権を取るかという国・教育員会対首長という対立軸の設定であってはならない。子供を主人公とした地域の教育システムを築くことが求められている。

(つづく)

読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月24日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう 第2回

序(その2)

教育委員会とは市民には見えにくい存在である。いじめ問題などの報道で表に出てくるのは学校の校長である。教育委員会には都道府県教育委員会と市町村教育員会の2段階の組織があって、当然上級組織は都道府県教育委員会である。都道府県教育委員会と政令指定都市教育委員会は教員採用と人事権を持っているので、市町村の学校という組織の上に立っていることは確かである。教育委員会が教育行政の責任者であるにもかかわらず、市民のほうでも教育委員会は何をしているのだろうかと興味を持つ人は少なく、2001年の地方教育行政法で教育委員会会議は原則公開となっているのに、長野県内43市町村の教育員会会議への傍聴に行く人はゼロであったと信濃毎日新聞(2013年2月13日)は伝えている。こうしたなかで、2011年10月に大津市の中学校2年生がいじめを苦にした自殺事件が起きた。生徒の両親が学校側に調査を求めたが埒があかず、大津地裁に加害者とされる同級生と保護者を相手取って損害賠償請求訴訟を起こした。大津市の事件は市教育委員会や学校が、事件の重大性への認識を全く欠いていたことを浮き彫りにした。おそらく学校側はいじめがったことを認識していたといえば、対処しなかった無作為の罪に問われるので終始一貫いじめがあったとは知らなかったとしらを切り続けるという構図である。このような中で市長は教育委員会と学校の対応を批判して、真相解明のための第3者委員会を発足させた。第3者委員会は生徒の自殺がいじめによるものと結論付けた。このような無責任で無能な教育委員会と学校からなる教育行政組織はどうして生まれたのかを考察し、学校を生徒の側に取り戻すための改革案を提案することが本書の動機である。教育員は5名からなる非常勤職(ただし給料は支給される)であって、月に1度、2時間ほど開かれる形骸化した組織であるが、それを取り仕切るのが教育委員会の事務局(県では教育庁)と教育長である。教育委員長は教育委員から互選される持ち回り職に過ぎない。教育委員会の事務局にはエリート教員と目される専門職の人が大半を占めている。教員のエリートコースとは、教員採用から、主任をへて教頭クラスから学校を去り、教育委員会の事務局に入る。それから学校の校長になって、再び教育委員会の幹部要職に戻り、最後に教育長になるというコースで定年後は教育関連の外部団体に出る(ユネスコなど)。学校がおかしくなり始めたのは、2001年の第1次地方分権改革を受けて小中学校の学区編成が大幅に自由化されたころに始まる。2003年には学校選択制の導入を示した局長通知が学校教員を自由競争にさらした。小中学校運営に第1義的な責任は市町村教育員会なるのは当然であるが、都道府県教育員会は県内の教員の人事権(教員の県内採用と移動を支配)をもっているので、教員の身分は市町村にあるが、「県費負担教職員」というように給料は都道府県からもらっている。と言っても教員の給与は国が1/3、県が2/3を負担している。だから都道府県教育委員会の姿は市民にはほとんど見えないが、市町村教育委員会や学校に隠然たる影響力をもつのである。人材活用法によって教員の給与は行政職員よりは高く設定されているが、時間外手当は支給されない。「ゆとり教育」のアンチテーゼとして「詰め込み教育」と「学力低下」が教員の肩に重くのしかかった。そして「指導力不足教員」なる言葉で、2002年より「指導力不足教員」の判定マニュアルや授業評価といった「管理教育」が教員を対象として開始された。文部省には教育委員会への行政上の指導権はないが、全国都道府県教育長協議会を通じて指導・助言・援助、是正・指示が都道府県教育委員会に対してなされるので、文部省の上意が都道府県教育委員会→市町村教育委員会→学校長というルートで下達される閉鎖的なタテの行政系列がもたらされた。教育委員(定員5名、任期5年)は非常勤職で、地方の名士、大学教授や経営者、教員経験者が首長の指名と議会の承認をえて任命されるので、官僚主導と同じように事務局主導となっている。こうした事務局主導支配を許している教育委員会が、いつも文部省のご意向を見ているため教育現場との乖離、学校の実情とかけ離れた教育行政をもたらしている。文教の閉鎖的はタテ社会の行政の仕組みが病根である。

(つづく)

読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月23日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう 第1回

序(その1)

著者新藤宗幸氏の著した岩波新書を読んだことがある。新藤宗幸著 「技術官僚」(岩波新書 2002年3月)、新藤宗幸著 「司法官僚」(岩波新書 2009年8月)の2冊である。新藤氏は1946年生まれ、中央大学法学部卒業後、東京市政調査会研究員、専修大学、立教大学を経て千葉大学法経学部教授となる。現在は後藤・安田記念東京都市研究所研究担当理事である。専攻は行政学である。新藤氏は日本の官僚機構の病根を冷静に描いて定評がある。アップデート、センセーショナルな問題を感情的に暴くようなジャーナリストではなく、問題の歴史から始めて構造的な本質的な問題点を解きほぐして解説するので全体像を掴みやすい。教育委員会とは文部省の統制下にある地方行政委員会であるが、「文部官僚論」に入る前に、「技術官僚論」、「司法官僚論」をまとめて官僚機構の宿根を見てゆこう。
「技術官僚論」では、日本の官僚制を歴史的に振り返ってみる。明治政府の行政機構整備は1885年の内閣制度の発足に始まり、1887年には文官試験制度が定められ官吏登用の道が決まった。1889年には明治欽定憲法が制定され、1890年には地方団体法が定められ地方行政機関が位置つけらられた。1886年帝国大学令によって文官採用システムは裏つけられた。官僚機構の初期は法整備が最大の課題であったため、技官は冷遇されていたようだ。1917年大正期には「技術者水平運動」が展開され、工政会、林政会、農政会などに結集した技術官僚は事務官と技官の区別の廃止を訴えたが認められなかった。1931年満州国の建設に治水や電気事業の技術官が動員され、戦時体制のもとで事務官と技官は協力して総動員体制を官僚が指導した。戦後1947年に国家公務員法が制定され、官僚は天皇の臣から「公僕」という位置づけがなされ、建設省でははじめて技術官僚から事務次官が生まれた。以降建設省では人事慣行として事務次官には事務官と技官が交代することになった。河川局や道路局長は技官の独占となった。こうして高度経済成長と科学技術の著しい進展は、技術官僚の指導できることではなくなり、技術官僚は技術の衣をまとった行政官に過ぎなくなった。事業と業務の制度つくりと慣行の維持をおこなう官僚である。技術官僚の強い結束と排他的性格は事業と計画の固定化をもたらし、行政責任の欠如を露にした、まさに日本の官僚機構の閉塞状態を生んだといわなければならない。 国土建設省、農水省、厚生労働省を例にとって、「技術官僚王国論」ということばあるが、技術職といっても彼らは高度の科学技術的専門性をそなえたプロフェッショナルではなく、殆どの業務は外部委託をする技術の衣をかぶった行政官にすぎない。だからこそ彼らは事務官が口を挟むことを排除しつつの既存の事業の継続に固執し、業界行政に走っているのである。事務官達も技術官僚との共生関係を維持することで膨大な予算の執行とファミリー企業の繁栄によって自らのキャリアパスを安定させるとともに、省益の確保を追及しているのである。そういう意味からして日本の行政を改革するには技術官僚をどうこうというよりも、官僚制度そのものの病理現象の改革を行う必要がある。
「司法官僚論」では、裁判所は「法の番人」というが、裁量の匙加減で権力の護り神になっているというような気がする。しかし立法、司法、行政の三権分立とはいうが、日本の司法にも、立法・行政の激しいやり取りや葛藤関係と同じような民主主義政治体制を支えるという認識はあるのだろうか。行政訴訟において原告の「訴えの利益」がないとして「門前払い」をし、憲法問題では「立法政策上の問題」では内閣や国会に責任を転嫁して判断しない。また裁判官の「自立」に関する疑問が起きている。アメリカでは異なる州で違った判決が出るが、日本では判決が「ステロタイプ」化して、裁判官の独自性が見えない。これは下級審裁判官は上級審で判決が破られることを畏れているからであろうか。上の意向を見ながら判決を書いているのではないかと思われる。判例主義という過去の判決に矛盾しないようにとすればどうしても「消極性」になってしまう。地裁で画期的な判決が出ることもあるが、必ず高裁で逆転する場合が多い。いったい裁判官は何を守ろうとしているのか。それは憲法・法で定められた国民の権利であるはずだ。国民は憲法で自立を保障された司法に問題を提起し、司法の判断を通じて政策や行政の転換を求めている。最高裁判所事務総局の司法官僚の統制と司法の消極性が最大の問題である。 (つづく)

読書ノート 津田敏秀著 「医学的根拠とは何か」 (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月22日 | 書評
人間を忘れた医学ー医学的根拠とは疫学的エビデンスのこと 第8回 最終回

4) 医療専門家の落とし穴

 世界の中で日本の臨床研究と基礎研究論文数の位置づけは、辰巳氏の論文によると2008年ー2011年の集計で、臨床研究が25位、基礎研究が4位である。つまり基礎研究論文数は世界レベルであるが(ただし被引用数は低いが)、臨床研究論文数は世界に後れを取っているようである。日本の臨床医学研究はもっぱら大学ではなくがんセンターが中心である。当然がんの臨床研究以外は進まない。薬学分野でも新薬認可の人間への検証である治験が進まない。副作用調査は企業任せになり、健康危機管理や公衆衛生学的対策の遅れにつながる。文部省や厚生労働省は「全国治験活性化3か年計画」を2003年に始めたが、のびのびとなり2012年にまた5か年計画を実施している様である。国立大学の医学博士論文数は臨床研究は1%に満たず圧倒的に基礎研究関連が多い。2012年に問題となった京都府立医科大学の高血圧治療薬の臨床研究論文ねつ造と撤回問題においても、製薬会社の社員が論文に名を連ねデーターの統計解析を担当したという。大学側の問題点検証において「研究室に統計解析の人材がおらず、製薬会社任せになった」ということである。どうして日本の医学部で臨床研究が進まないのか、それは医学部の組織に問題があるという、1919年に制定された大学令における医局講座制と関係がある。明治以来陸軍はドイツから、海軍はイギリスから医学を輸入した。ドイツの合理的演繹法とイギリスの経験的帰納法と呼ばれる思考法に因を求めることができそうである。たとえば医局に「感染症学教室」というのは経験主義からきているが、「細菌学教室」、「ウイルス学教室」と呼ぶのは演繹法からきている。医師はウイルスを直接経験しているわけではない。症状から入る経験論では「感染症」とない、原因物質別に病気を整理すると「細菌学」となるのである。この経験論からくる帰納法的考えがないとデータを収集して考えることはしない。戦後アメリカのGHQが厚生省医務局の官僚に問題となるデータの提出を求めたところデータがない。GHQから「データがなくてよく医療行政ができますね」と言われたという。証拠となるデータに基づいて医療方針や衛生行政を行うという体制が戦前の日本には存在しなかった。日本の医学部はメカニズムの延長である基礎研究には強いが臨床には弱いという体質が形成された。20世紀後半には遺伝子研究や分子生物の研究が盛んになり、近年はテクニカルな生殖医療や再生医療が盛んである。病態生理学を飛び越えた基礎的なミクロ研究が高度な研究と思い込んで、医学が本来人間への応用科学であることを忘れているかのようだ。人間(患者)との直接的関係が薄くなっている。人間を対象として病気や治療に因果関係を数量的に把握する臨床研究は軽視され医者のすることではない(社会学者の手法に過ぎない)と思い込んでいる。イギリスで産業革命後に発達した公衆衛生学は、現場のデーター、特に人のデータを基に決定する経験主義の智恵にあふれた知的分野である。戦後アメリカの衛生学が占領軍とともにやってきたが、それも日本に根付かなかった。1960年代末に東大医学部紛争に始まった大学紛争は全共闘に振り回されて、本来の医学の改革には何一つ手がつかなかった。医局講座制を廃止し、教授をボスとする閉鎖的人事を打ち破らない限り、流動的な研究体制、新しい分野への進出は不可能であった。 1980年代からは総医療費抑制時代に入り、医学部定員を削減した時代となって日本医学部はもう新しい医学を導入する余裕はなくなった。人間への応用科学である医学研究が基礎医学研究と称して動物実験や試験管内の分子生物学・遺伝子研究に打ち込んで本末転倒な姿になっている。人間や社会に関心のある研究者は医学部からいなくなった。実験室から診察室へ出る医学研究者が少ない。まして社会に出る研究者は皆無である。中には医学出身者で厚生労働省の官僚になる人もいる。しかし現場を知らない厚生官僚は次第に無誤謬性神話に侵され、公衆衛生データを集め解析し政策に生かす立場にあるはずだが、大学と同じ秘密主義でエイズ研究や熱処理血液製剤問題、c型肝炎問題のデーターを隠ぺいし国民を裏切ってきた。ここで本書をまとめると以下となる。

「日本の医学界において、医学的根拠とは何かという整理が行われず、医学本来の人間を対象とした研究がほとんど行われなかった。水俣病や薬害事件などの保健医療分野の数々の大惨事は、数量化の知識を全く欠いた大学医学部の教授たちが専門家として、非科学的な誤った判断を下した結果である。誤った政策判断がひとたび行われるとそれは無謬官僚の手によって惨事は上塗りされていった。官僚は優秀だと信じている人もいるようだが、ほとんどは科学的訓練を全く受けていない集団のことである。疫学という知的分野は単純な2×2表という形式論理学に従って数量的に判定するだけの常識に属する手法で臨床研究を推進してきた。ところが医学研究の主流は要素還元主義に基づいてミクロの遺伝子・分子の世界を研究したとしても、医学の本質的な問題に肉薄することはできていない。がんを切り取る手先の器用さを磨いても、ガンはなぜ起きるかということさえ何もわかっていないではないか。日本の大学医学部が戦後、人間を対象とした疫学の導入と定着に失敗した結果、環境省や厚生省は医学データを読めない官僚によって占められ、彼らは統計数量化の研究者を感情的に嫌い、審議会から排除して、数々の過ちを繰り返した。2012年5月以来報道された印刷業従業員の胆管がんの問題では、IARCに招聘された日本の研究者を研究班に入れず、権威主義からメカニズム派の教授に研究費を払い続けた。1999年ブタペストで行われた世界科学会議では、持続可能開発のための科学、平和のための科学、社会のための科学を目指すことが提唱されたという。」
(完)