ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 津田敏秀著 「医学的根拠とは何か」 (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月21日 | 書評
人間を忘れた医学ー医学的根拠とは疫学的エビデンスのこと 第7回

3) データを読めない医者と官僚

 日本の医学界は直感派とメカニズム派だけが横行し、数量派が無視されているために起きた被害や混乱の事例として、放射線影響健康被害の100ミリシーベルト問題、O157による大規模食中毒事件、水俣病事件、乳幼児突然死症候群SIDSとうつ伏せ寝問題を取り上げる。
① 放射線影響健康被害の100ミリシーベルト問題
福島原発事故に端を発する放射線被ばくの問題では、被ばく量100ミリシーベルト以下では放射線によるがん発生がないかのように誤って伝えられた。その際に学界などの報告には広島と長崎に被爆者のデータによるとされている。広島・長崎の原爆被爆では100ミリシーベルト以下の被爆者6万8470人を対象としたもので、今回の福島原発事故では1ミリシーベルト以下の被爆者は(2013年8月福島県発表)14万8685人で、かつ放出された放射性物質も広島原爆の168倍と推定されている。広島長崎のデーターでは「有意差がない」という結論も福島原発事故では塗り替えられる可能性がある。100ミリシーベルト以下では「有意差がない」ことと、「影響がない」ということは基本的に異なる。診断X線(10ミリシーベルトの被ばく)の影響による白血病などのがんの発生が研究され、CTスキャンでは19歳までの50-60ミリグレイの被曝は脳や骨のがんを2-3倍増加させる。大人でも心筋梗塞後の心臓撮影で10ミリシーベルト被ばくが増えると5年で0.3%がんのリスクが増えるとされる。オーストラリアでは19歳までのCTスキャン検査(5-50ミリシーベルト被ばく)をした68万人の調査では、白血病、脳腫瘍、甲状腺ガンなどの総計の増加が確認された。米軍管理下で行われた当時の曖昧でずさんだった長崎・広島原爆被爆データーを持ち出すことで、100ミリシーベルト以下の被ばく影響を切り捨てることは今日の研究成果を見ても許されない。世界は閾値なしの影響説を採用しており、日本だけが100ミリシーベルトを閾値とすることは世界から批判されている。100ミリシーベルト問題は、数量化統計を欠く日本の医学部の構造的欠陥から生じたリスクコミュニケーションの失敗といわれる
② O157による大規模食中毒事件
1996年7月大阪府堺市で学校給食を原因施設として、腸管出血性大腸菌0-157による大規模な集団食中毒事件が発生した。1993年アメリカCDCが行った0157調査のマニュアルを参考にせず、CDC調査メンバーが来日した時にはその調査を妨害し、食品衛生法に定めた食材と発症の関係を調べるデータ収集分析もせず、学校全体の悉皆調査(非暴露群を含めて)を行わなかった。事件に対応したのはメカニズム派の細菌学者だけであった。残された食材(1000品目)からO157遺伝子型の検出を延々と続けたため時間を浪費した。1か月後厚生労働省はきわめて曖昧なまま原因を「カイワレ大根」だったと発表するなど、後味の悪い幕引きを行った。そのため風評被害によってカイワレ大根生産農家は壊滅した。病原菌を特定できないと食品衛生法に基づいた原因施設や原因食品に対する対策を打てないと考えるのは緊急時には極めて危険である。未知の病因物質であったり、細菌がすでに死滅している場合はお宮入りになる。メカニズム派の考え方では、医師が患者に対する説明ができないというリスクコミュニケ―ションの失敗につながる。「EBM宣言」では確率で定量的に説明すべきだとしている。たとえばがん再発のしやすさを、個人の体質や生活習慣のせいにして説明するのではなく、発生確率や再発確立で説明すれが患者の心は傷つかない。人間を対象とした研究をしていない医師は大学教授という肩書があると、人間のことを言いたい放題にいうことがある。勉強不足とデータを読めないため誤った見解を平気で放言するのである。
③ 水俣病事件

1956年に「公式に発見された」水俣病事件は1968年までチッソ水俣工場の水銀排水規制も汚染された魚の摂取規制もなされなかった。水俣病患者の発見と水銀中毒症の臨床研究に奮闘した熊本大学の医師原田氏による原田正純著 「水俣病」(岩波新書 1972 年11 月)に詳しいので、ここでは水俣病はまず食中毒事件として扱われるべきであったとする著者津田敏秀の見解に沿って、水俣病の対応を振り返ってみよう。水俣病の拡大と患者認定問題の発生は食品衛生法第27条に義務付けられた調査が実行されなかったためということができる。食中毒事件は医療機関が保健所へ届け出ることで発生する。発覚した直後から疫学調査が開始され原因究明や食中毒の拡大防止策、規模の把握などの処置がとられる。しかし水俣病事件においてはこのような通常の中毒症の診断がなされなかった。水俣病の特徴は感覚障害であり、複数の症状をともなう水俣病患者の認定は袋小路に入り、神経内科や病理診断医の迷走によって患者は苦しんだ。専門医という人々がこれほど無能であった例はない。それに拍車をかけたのが政府官僚の補償問題に絡むハードルを高くしたいという配慮から、医師側の患者判定判断条件に働きかけたことも明らかである。そして高度経済成長における重化学企業保護育成政策も絡んで、今から考えるとこれほど簡単な食中毒事件はなかったはずだったが、非常に複雑な力関係によって問題の解決が非常に遅れた。原発事故に至った東電と政府そして住民被ばく者の関係もこれに相当することを心配する。それにしても「医学知識は非常に高度」という誤解は法曹界だけにしてほしい。医者の判断力はいかにもお粗末なのである。しかも偉そうにしていて責任はとらないからなおたちが悪い。
④ 乳幼児突然死症候群SIDSとうつ伏せ寝問題
「メカニズムでは治療効果ありだったのに、臨床研究では逆効果だった例」として示したSIDS症候群とうつ伏せ寝問題は医者の無責任な見解が引き起こした症例である。SIDSは1980年ごろから欧米で増加し始め、1994年にピークを迎えた。SIDSとの関連で問題になったのがうつぶせ寝である。うつぶせ寝のSIDSへの影響の疫学が研究され、オッズ比は4.5倍(95%信頼区間)であった。1956年ごろの医師が赤ちゃんが嘔吐物でのどに詰まらせる可能性からうつぶせ寝が奨励したという。1992年までアメリカではうつぶせ寝が主流であったという。アジアでは側臥寝・仰向け寝が主流であったのが、アメリカをまねし始めた。日本では1975年と1981年に大掛かりなSIDS研究が行われた。しかし公衆衛生学の関与がなく小児科医だけの調査になったため研究は迷路に入った。日本では1980年代からSIDSが急増した。1994年にSIDS学会までできた。1986年ごろからオランダや欧州ではうつぶせ寝への警告が出され、アメリカでは1992年には警告が出された。1994年を境にして突然死は減少し始め、それ以降突然死は急速に減少し、年間死亡者数は最高時の1/5以下となった。偶然に下がったのではなく「介入」によって発生頻度が下がったことが重要である。それまで日本のSIDS研究班は疫学調査もせず、警告を発することもなかったという。日本が警告を発したのは1998年のことである。それでも「その学問的因果関係は明確ではない」とうそぶいているお粗末さであった。学問的因果関係などもともとなく、うつぶせ寝という機械的所作が引き起こした事故に過ぎない。交通事故に学問的因果関係があるというのだろうか。学者がこれほど愚かだったとは知らなかった。もちろんSIDSの原因には体質などの要因もあることは自明で、完全にSIDSが亡くなったわけではないからだ。そしてまたSIDS研究班の総括報告書に「寝かせ方には様々な文化的社会的要素が関与することから、欧米のデーターをそのまま適応することはできない」と言い訳をしている医者の姿も哀れをさそう。名古屋市立大学医学部小児科戸苅創教授は警告を発することに反対をしたという。疫学データーを読めない専門医の医者がいることに驚くと同時に、研究班メンバーに最初から疫学派医師を排除した厚生労働省の人選の誤りであった。その原因と考えられる事象を取り除いた時、結果の頻度が明らかに低下したなら、それが原因であると判断するという日常の智恵さえ専門医が持ち合わせていないために、必要な対策を遅らせたことになる。言い訳のように学問的因果関係とか合理的理由が不明とか言い出すのは、メカニズム派医師の不明としか言いようがない。
(つづく)