ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 津田敏秀著 「医学的根拠とは何か」 (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月16日 | 書評
人間を忘れた医学ー医学的根拠とは疫学的エビデンスのこと  第2回

序(その2)

 最近問われた医学的根拠の話題に、2011年3月の福島第1原発事故による放射線被ばくと発癌の危険性、2013年4月の水俣病最高裁判決、大気汚染問題とPM2.5の3つの問題がある。日本小児科学会は2011年5月「放射線被ばくによる小児の健康への影響について」という指針を発表した。その中で「がんの危険度は放射線の量に比例すると考えられていますが、統計学的には約150ミリシーベルト以下の被ばくではがんの頻度増加は確認されていません」という奇妙な医学的根拠に関するコメント出した。この指針は広島大学原爆被爆放射線医学研究所田代総教授が指導したという。2013年4月の小児科学会において小児科医のあるグループはこの指針を撤回するように求めた。放射線医学総合研究所及び文部省の見解では「100ミリシーベルト以下では放射線による発がんの確立上昇は認められません」と述べている。また福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの高村昇長崎大学教授も2016年6月に「100ミリシーベルト以下の被ばくでは発がんリスクの上昇は証明されていない」としている。これらの見解が次第に変化し「100ミリシーベルト以下ではがんは増加しない」といういう見解が流布することになった。さらに国連特別報告書に対する日本政府の修正提案では「広島・長崎のデーターに基づき、100ミリシーベルト以下の放射線被ばくによる健康影響は存在しないと信じられている」と記された。この見解は100ミリシーベルトを「閾値」(それ以下では影響はない)とすることを意味する。これらの見解に医学的根拠はあるのだろうか。1949年国際X線及びラジウム防護委員会(国際放射線防護委員会ICRPの前身)は「放射線被ばくによるがんの発生に閾値はない、かつ累積被ばく量で評価すべき」という。この無閾値見解は世界中で変えられたことはない。2013年2月に発表された世界保健機構WHOの健康リスクアセスメントも、100ミリシーベルト以下でもがんが発生するという前提を取っている。2007年のICRP勧告に「疫学的方法は、100ミリシーベルト以下では発がんリスクを直接明らかにする力を持たない」ということから「統計学的に有意差がない」ということを「影響がない(がん発生はない)」と意図的に読み間違えたことに混乱の原因がある。
水俣病の認定を巡る最高裁判決が2013年4月16日に出され、被告熊本県の上告を棄却した。そして原告患者の勝訴(一つの症状で水俣病と認定できる)となった。これには1977年の国による水俣病患者認定判断条件が、「手足の感覚障害に加え運動失調や視野狭窄など複数の症状の組み合わせを重視する」ということからきている。判決は症状の組み合わせを水俣病の認定条件とすることに医学的根拠がないと言っているのである。1998年9月日本精神神経学会の委員会は学界の要望により調査した結果、「医学的根拠となる具体的データーは存在しなかった」といい、「組み合わせにもとずく診断は科学的に誤りである」と発表している。
1988年改正公害健康被害補償法が施行され、第1種地域指定が解除された。これにより大気汚染による健康被害の患者は出なくなったとされる。地域指定を廃止して、健康影響に関する科学的知見を得るための調査研究を行い対策はその結果で検討することになった。しかしその後健康影響調査報告は出されず、いつの間にか忘れられた。1990年代から世界の大気汚染物質研究の変革が進行し、10μmや2.5μmの微粒子が肺深部に侵入して健康被害をもたらすことに注目していたにもかかわらず、日本の大気汚染対策は完了したと考え、日本の大気汚染研究は旧態依然の状態にとどまっていた。このPM2.5の問題も、人体影響に関する医学的根拠が定まらなかった。これには環境庁及び医学の研究が空白であったからである。
これら3つの問題でいずれも医学的根拠が問題となっている。医学的根拠に関して欧米では19世紀前半から論争が繰り返され、歴史的には医学的根拠には次の3つが存在する。経験派(直感派、職人技)、メカニズム派(分子生物学因果関係、動物実験)、数量派(臨床研究、疫学、医療統計学)である。本書は、医学においては数量化の方法が医師の個人的経験や実験室の研究結果に優先させるべき科学的根拠になるという考えに基づいている

(つづく)