ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月28日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう 第6回

2) 教育委員会の歴史 (その1)

 戦前の国家主義的な教育(臣民教育)が破綻した戦後の、GHQ教育使節団の教育制度改革から話を始めよう。天皇制国家を支えた国家主義的教育とその行政機構の民主改革がターゲットとなった。日本の占領政策がドイツのような直接統治ではなく、日本政府を介した間接統治であったことが、その後の日本の民主改革を不徹底なものとした。軍隊は陸海空軍ともすぐに解体されたが、中枢行政機構は存続したままGHQはその民主化を指示した。官僚機構はGHQの支持を受容しつつも、面従腹背よろしく協議の過程でGHQの趣旨を骨抜きをして自己利益の温存を図ったのである。日本の旧支配機構の崩壊で財界、政界や軍人はゼロから再スタートしたが、官僚機構だけは温存されたことが戦後の官僚主導(官僚内閣制)という統治機構の伝統となった。1946年米国の教育使節団が来日し、内務省と文部省の断絶を中心に行政機構の改革を行い、人事権に対する文部省権限の廃止、視学官制度の廃止、公立小中学校教育行政の都道府県・市町村への移管、公選で選ばれた政治的に独立した教育委員会を都道府県と市町村に設けるなどの改革報告書ををまとめた。教育委員会の設立がアメリカ使節団報告に由来することは明らかである。GHQが日本の行政改革の最大のターゲットとしたのは内務省であり、「国家の中の国家」といわれた内務省は天皇制国家の中枢機構だったので、1947年12月に解体された。その過程で、文部省は内務省からの独立をめざして、「教育行政の一般行政からの分離独立」というテーゼで組織の生き残りをはかった。1948年7月「教育員会法」が公布施行された。都道府県教育委員は7名、市町村委員会は5名とし、委員会の構成は1名が議会から、6名は直接公選とした。教員の人事権はそれぞれの教育委員会がもち、委員会の事務は委員会が任命した教育長によって担われた。そしてここが一番重要なのであるが文部省は教育委員会の活動に対して一般的指揮監督権限を持たないとされた。学校の設置・管理、教員人事権、教科内容の決定といった地方教育行政の根幹を直接公選の教育委員からなる教育委員会の任せるならば、文部省の存続理由は無くなり、1947年12月政府は中央教育行政組織と学芸省に分割する案が構想された。ところがGHQは文部省の存続を認め、1948年国家行政組織法が制定されて、地方教育委員会などに対する技術的・専門的な助言・指導を任務とするとされた。こうして文部省は新たなスタートを切ったわけであるが、1949年文部省設置法では「専門的・技術的な指導と助言を与える」と文言を訂正した。つまり技術的・専門的に順序と助言・指導の順序をひっくり返したうえ「勧告を与える」を付け加えた。つまり教育という専門的指導と勧告ができる文部省という位置づけに書き直したわけであり、これを根拠にして文部省は上意下達の縦行政を復活させた。文部省は「サービス・ビューロー」という衣替えをして、実質的に地方教育行政に影響力を持ちつづけ、中央と地方の分離型から融合型へ変身を計った。占領期から1952年の独立をへて、1956年地方行政法の制定により教育委員会法の廃止にいたった。朝鮮戦争終了から冷戦の始まりは日本を自由陣営の柱に育てるアメリカの方針転換が進み、55体制の保守政治家によって教育行政が大きく翻弄された。

(つづく)