ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 津田敏秀著 「医学的根拠とは何か」 (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月22日 | 書評
人間を忘れた医学ー医学的根拠とは疫学的エビデンスのこと 第8回 最終回

4) 医療専門家の落とし穴

 世界の中で日本の臨床研究と基礎研究論文数の位置づけは、辰巳氏の論文によると2008年ー2011年の集計で、臨床研究が25位、基礎研究が4位である。つまり基礎研究論文数は世界レベルであるが(ただし被引用数は低いが)、臨床研究論文数は世界に後れを取っているようである。日本の臨床医学研究はもっぱら大学ではなくがんセンターが中心である。当然がんの臨床研究以外は進まない。薬学分野でも新薬認可の人間への検証である治験が進まない。副作用調査は企業任せになり、健康危機管理や公衆衛生学的対策の遅れにつながる。文部省や厚生労働省は「全国治験活性化3か年計画」を2003年に始めたが、のびのびとなり2012年にまた5か年計画を実施している様である。国立大学の医学博士論文数は臨床研究は1%に満たず圧倒的に基礎研究関連が多い。2012年に問題となった京都府立医科大学の高血圧治療薬の臨床研究論文ねつ造と撤回問題においても、製薬会社の社員が論文に名を連ねデーターの統計解析を担当したという。大学側の問題点検証において「研究室に統計解析の人材がおらず、製薬会社任せになった」ということである。どうして日本の医学部で臨床研究が進まないのか、それは医学部の組織に問題があるという、1919年に制定された大学令における医局講座制と関係がある。明治以来陸軍はドイツから、海軍はイギリスから医学を輸入した。ドイツの合理的演繹法とイギリスの経験的帰納法と呼ばれる思考法に因を求めることができそうである。たとえば医局に「感染症学教室」というのは経験主義からきているが、「細菌学教室」、「ウイルス学教室」と呼ぶのは演繹法からきている。医師はウイルスを直接経験しているわけではない。症状から入る経験論では「感染症」とない、原因物質別に病気を整理すると「細菌学」となるのである。この経験論からくる帰納法的考えがないとデータを収集して考えることはしない。戦後アメリカのGHQが厚生省医務局の官僚に問題となるデータの提出を求めたところデータがない。GHQから「データがなくてよく医療行政ができますね」と言われたという。証拠となるデータに基づいて医療方針や衛生行政を行うという体制が戦前の日本には存在しなかった。日本の医学部はメカニズムの延長である基礎研究には強いが臨床には弱いという体質が形成された。20世紀後半には遺伝子研究や分子生物の研究が盛んになり、近年はテクニカルな生殖医療や再生医療が盛んである。病態生理学を飛び越えた基礎的なミクロ研究が高度な研究と思い込んで、医学が本来人間への応用科学であることを忘れているかのようだ。人間(患者)との直接的関係が薄くなっている。人間を対象として病気や治療に因果関係を数量的に把握する臨床研究は軽視され医者のすることではない(社会学者の手法に過ぎない)と思い込んでいる。イギリスで産業革命後に発達した公衆衛生学は、現場のデーター、特に人のデータを基に決定する経験主義の智恵にあふれた知的分野である。戦後アメリカの衛生学が占領軍とともにやってきたが、それも日本に根付かなかった。1960年代末に東大医学部紛争に始まった大学紛争は全共闘に振り回されて、本来の医学の改革には何一つ手がつかなかった。医局講座制を廃止し、教授をボスとする閉鎖的人事を打ち破らない限り、流動的な研究体制、新しい分野への進出は不可能であった。 1980年代からは総医療費抑制時代に入り、医学部定員を削減した時代となって日本医学部はもう新しい医学を導入する余裕はなくなった。人間への応用科学である医学研究が基礎医学研究と称して動物実験や試験管内の分子生物学・遺伝子研究に打ち込んで本末転倒な姿になっている。人間や社会に関心のある研究者は医学部からいなくなった。実験室から診察室へ出る医学研究者が少ない。まして社会に出る研究者は皆無である。中には医学出身者で厚生労働省の官僚になる人もいる。しかし現場を知らない厚生官僚は次第に無誤謬性神話に侵され、公衆衛生データを集め解析し政策に生かす立場にあるはずだが、大学と同じ秘密主義でエイズ研究や熱処理血液製剤問題、c型肝炎問題のデーターを隠ぺいし国民を裏切ってきた。ここで本書をまとめると以下となる。

「日本の医学界において、医学的根拠とは何かという整理が行われず、医学本来の人間を対象とした研究がほとんど行われなかった。水俣病や薬害事件などの保健医療分野の数々の大惨事は、数量化の知識を全く欠いた大学医学部の教授たちが専門家として、非科学的な誤った判断を下した結果である。誤った政策判断がひとたび行われるとそれは無謬官僚の手によって惨事は上塗りされていった。官僚は優秀だと信じている人もいるようだが、ほとんどは科学的訓練を全く受けていない集団のことである。疫学という知的分野は単純な2×2表という形式論理学に従って数量的に判定するだけの常識に属する手法で臨床研究を推進してきた。ところが医学研究の主流は要素還元主義に基づいてミクロの遺伝子・分子の世界を研究したとしても、医学の本質的な問題に肉薄することはできていない。がんを切り取る手先の器用さを磨いても、ガンはなぜ起きるかということさえ何もわかっていないではないか。日本の大学医学部が戦後、人間を対象とした疫学の導入と定着に失敗した結果、環境省や厚生省は医学データを読めない官僚によって占められ、彼らは統計数量化の研究者を感情的に嫌い、審議会から排除して、数々の過ちを繰り返した。2012年5月以来報道された印刷業従業員の胆管がんの問題では、IARCに招聘された日本の研究者を研究班に入れず、権威主義からメカニズム派の教授に研究費を払い続けた。1999年ブタペストで行われた世界科学会議では、持続可能開発のための科学、平和のための科学、社会のための科学を目指すことが提唱されたという。」
(完)