ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 新藤宗幸著 「教育委員会」  (岩波新書 2013年11月 )

2014年10月23日 | 書評
文部省・教育委員会の中央集権的タテ支配を廃止し、教育を子供と市民の手に取り戻そう 第1回

序(その1)

著者新藤宗幸氏の著した岩波新書を読んだことがある。新藤宗幸著 「技術官僚」(岩波新書 2002年3月)、新藤宗幸著 「司法官僚」(岩波新書 2009年8月)の2冊である。新藤氏は1946年生まれ、中央大学法学部卒業後、東京市政調査会研究員、専修大学、立教大学を経て千葉大学法経学部教授となる。現在は後藤・安田記念東京都市研究所研究担当理事である。専攻は行政学である。新藤氏は日本の官僚機構の病根を冷静に描いて定評がある。アップデート、センセーショナルな問題を感情的に暴くようなジャーナリストではなく、問題の歴史から始めて構造的な本質的な問題点を解きほぐして解説するので全体像を掴みやすい。教育委員会とは文部省の統制下にある地方行政委員会であるが、「文部官僚論」に入る前に、「技術官僚論」、「司法官僚論」をまとめて官僚機構の宿根を見てゆこう。
「技術官僚論」では、日本の官僚制を歴史的に振り返ってみる。明治政府の行政機構整備は1885年の内閣制度の発足に始まり、1887年には文官試験制度が定められ官吏登用の道が決まった。1889年には明治欽定憲法が制定され、1890年には地方団体法が定められ地方行政機関が位置つけらられた。1886年帝国大学令によって文官採用システムは裏つけられた。官僚機構の初期は法整備が最大の課題であったため、技官は冷遇されていたようだ。1917年大正期には「技術者水平運動」が展開され、工政会、林政会、農政会などに結集した技術官僚は事務官と技官の区別の廃止を訴えたが認められなかった。1931年満州国の建設に治水や電気事業の技術官が動員され、戦時体制のもとで事務官と技官は協力して総動員体制を官僚が指導した。戦後1947年に国家公務員法が制定され、官僚は天皇の臣から「公僕」という位置づけがなされ、建設省でははじめて技術官僚から事務次官が生まれた。以降建設省では人事慣行として事務次官には事務官と技官が交代することになった。河川局や道路局長は技官の独占となった。こうして高度経済成長と科学技術の著しい進展は、技術官僚の指導できることではなくなり、技術官僚は技術の衣をまとった行政官に過ぎなくなった。事業と業務の制度つくりと慣行の維持をおこなう官僚である。技術官僚の強い結束と排他的性格は事業と計画の固定化をもたらし、行政責任の欠如を露にした、まさに日本の官僚機構の閉塞状態を生んだといわなければならない。 国土建設省、農水省、厚生労働省を例にとって、「技術官僚王国論」ということばあるが、技術職といっても彼らは高度の科学技術的専門性をそなえたプロフェッショナルではなく、殆どの業務は外部委託をする技術の衣をかぶった行政官にすぎない。だからこそ彼らは事務官が口を挟むことを排除しつつの既存の事業の継続に固執し、業界行政に走っているのである。事務官達も技術官僚との共生関係を維持することで膨大な予算の執行とファミリー企業の繁栄によって自らのキャリアパスを安定させるとともに、省益の確保を追及しているのである。そういう意味からして日本の行政を改革するには技術官僚をどうこうというよりも、官僚制度そのものの病理現象の改革を行う必要がある。
「司法官僚論」では、裁判所は「法の番人」というが、裁量の匙加減で権力の護り神になっているというような気がする。しかし立法、司法、行政の三権分立とはいうが、日本の司法にも、立法・行政の激しいやり取りや葛藤関係と同じような民主主義政治体制を支えるという認識はあるのだろうか。行政訴訟において原告の「訴えの利益」がないとして「門前払い」をし、憲法問題では「立法政策上の問題」では内閣や国会に責任を転嫁して判断しない。また裁判官の「自立」に関する疑問が起きている。アメリカでは異なる州で違った判決が出るが、日本では判決が「ステロタイプ」化して、裁判官の独自性が見えない。これは下級審裁判官は上級審で判決が破られることを畏れているからであろうか。上の意向を見ながら判決を書いているのではないかと思われる。判例主義という過去の判決に矛盾しないようにとすればどうしても「消極性」になってしまう。地裁で画期的な判決が出ることもあるが、必ず高裁で逆転する場合が多い。いったい裁判官は何を守ろうとしているのか。それは憲法・法で定められた国民の権利であるはずだ。国民は憲法で自立を保障された司法に問題を提起し、司法の判断を通じて政策や行政の転換を求めている。最高裁判所事務総局の司法官僚の統制と司法の消極性が最大の問題である。 (つづく)