ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 湯本雅士著 「金融政策入門」  (岩波新書 2013年 )

2014年10月08日 | 書評
デフレ脱出の処方箋において、量的緩和政策は有効か 第4回

2) 金融政策の軌跡 (その1)

 戦後から1990年代末の金融自由化までの日銀の金融政策はいわゆる「護送船団方式」という徹底した規制の下で、金融システム全体の安定化を図り、高度経済成長に必要な資金の供給に齟齬をきたさないことが目的でした。終戦直後のインフレの防止と貿易経常収支の均衡回復が喫緊の課題でした。金利が政策的に低く抑えられているため、企業の投資活動が刺激され、経済規模が急テンポで拡大する原動力となった。対外的には厳しい為替管理が敷かれ、1ドル=360円の固定相場制時代でしたが、1971年金交換を停止したニクソンショックで、円はかなり安く設定され油種産業は潤い経済が拡大する要因となった。こうした規制の下で政策金利はコ-ルレートとして操作され、銀行準備金の供給はもっぱら銀行に対する日銀貸付という形で行われた。公定歩合は規制金利体制下で各種の金利へ波及するきっかけとして日銀当局は慎重にかつ秘密裏に操作した。これはいわば「ケインズ・アプローチ」に沿ったものといえます。主要中央銀行でマネ―サプライ・ターゲットを設定しなかったのは日銀と米国のFRBでした。銀行の企業に対する貸付も四半期ごとに日銀に貸付計画を提出する形で、実質的には日銀が決定するに等しく、これを「窓口指導」と呼んでいました。当時の日銀総裁は陰で「法王」と呼ばれ銀行に対して絶大な権限を持っていました。経済が高度成長期から成熟期に入った1980年代から、急速な国際化と大量の国債発行が続き、自然の自由な債券市場取引が発達したので、自由金利が進展しすべての金融商品に及びました。変動相場制と経済の国際化によって為替管理が廃止され、取引の自由化が進んで金利自由化を進めました。1985年プラザ合意、1987年ルーブル合意は、為替相場の変動が国内景気や金融に大きな影響を与えるため、主要国が足並みをそろえて為替相場に協調介入すれば相当程度コントロールできることを示した。そして1991年には銀行貸出について窓口指導は廃止され、1995年政策金利による操作に移行しました。1996年に短期金融市場における金融調節手段は証券の操作に代り、日銀貸出は補助的手段とされました。1990年初め株価や不動産の上昇はバブルとなり破裂し、以降はスパイラル的に下降しました。このバブルは急速な円高によって財政支出や金利引き下げをたびたび繰り返したため、全般的な資産価値のバブルの発生に至ったものと解釈されている。この間消費者物価が比較的落ち着いていたので、急速な金融引き締めは躊躇された。証券の大幅な評価損、銀行の企業貸付の回収不能(不良債権)によって、銀行の財政内容が悪化した。政府は2000年初めに銀行の資本を強化するため公的資金の注入措置を講じた。1999年2月から2000年8月でいわゆる「ゼロ金利政策」の時代となった。なおこれは量的緩和とは異なります。結局日銀は「最後の貸し手」となって、損失のリスクを負うことで国は財政赤字の拡大要因となった。こうしてかろうじて金融システムの危機は回避できたものの、経済の大幅な縮小と国際競争の激化によって、日本経済は3つの過剰(過剰設備、過剰債務、過剰人員)を抱えたデフレ状況に陥れました。世では「失われた10年、または20年」と呼びます。金融政策に長期的なデフレ政策と緊急対応的な措置が混在すると、副作用が激しくコントロールの難しい状況が続きました。デフレとは何かという定義には
①恐慌:物価と経済成長率が同時に下落、
②物価と経済成長率の鈍化が長期化する、
③物価上昇率が長期にわたってゼロ前後にとどまる、
がありますが政府はデフレ状態を認めたくなかったので③の解釈を取り続けました。ミクロ的には物価上昇率の長期低下を安定と言っていいとするかよくないとするか見解が分かれますが、長期的な物価の低下は、いつも投資の減退・経済成長率の低下・賃金の低下・失業の増加となってマクロ的にはよくないことである。特に債務超過部門である企業と政府は、企業活動の低下と財務状況の悪化を招く。また日本で物価上昇率が低く、海外で物価上昇率が高いと「購買力平価説」が予測する通り円高に導かれます。逆にインフレの時は円安となります。 (つづく)