ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 東京電力福島原発事故調査委員会著 「国会事故調 報告書」 徳間書店

2013年07月28日 | 書評
憲政史上初めての国会事故調査委員会による東電福島第1原発事故報告書 第6回

要旨から(2)
2) 事故は防げなかったのか?
 2011年3月11日時点で、東電福島第1原発が地震に耐えられる保証は何もなかったこと、又シビアアクシデントに対応できる準備は何もなされていなかったこと、その理由として東電あるいは規制当局が何度もリスクを認識する機会があったにもかかわらず、既設炉の稼働と訴訟問題を恐れて対応を拒み続けてきたことが事故の根源的な原因であった。2006年中越地震による刈羽原発事故を受けて、原子炉の耐震設計審査基準が大幅に改定された。基準振動を600Galとした既設原子炉のバックチェックの実施が求められたが、東電は2009年に最終報告を求められていたが、限定された設備のみを対象とした中間報告を提出でお茶を濁し、それ以降全体的な耐震バックチェックを怠り、最終報告提出をかってに2016年まで延期し、かつ1-3号機の耐震補強工事は全く実施していなかった。保安院は東電の対応の遅れを黙認してきた。したがって古い設計基準で作られた1―3号機が地振動による損傷がなかったかどうか保証の限りでは無い。2006年の段階で、土木学界手法による予測を上回る津波が来たとき、海水ポンプが損傷し炉心損傷に繋がる危険は、保安院と東電は認識していた。そして何も手を打たなかった理由の背景には、保安院の審査や指示が伝統的に非公開で行なわれ状況が外部には分からなかったこと、また土木学界手法による津波高さ予測が正しかったかどうか疑問が残ることである。電力業界は多大の研究費を土木学界に援助し津波評価に深く関与した。そして津波確率を恣意的に「ありえないほど低い確率」とみて対応を実施しなかったことである。これは長時間の全電源喪失を「あり得ないほど低い確率」として考慮しなくていていいとした原子力安全委員会の指針と同根のリスクマネジメントであり、原子力安全神話で自分を騙し続けた自己撞着の結果である。日本のシビアアクシデントSA対策は実効性に乏しかった。それは運転と設計上の内部事象のみしか想定しなかったことによる。1991年原子力安全委員会は、「SA対策は技術的、知識ベースによるもので、安全規制はそぐわない」として自主対応でよいとしてきた。それでも2010年より海外の動向を受けた保安院のSA規制化の流れに対して、東電は電事連を通じて執拗な働きかけを行い、バックフィット(遡及的対応)が既設路炉の稼働率の低下や原発訴訟の口実にならないように、「バックチェック」という言葉に変えて見直しの骨抜きをおこなった。まさに東電の官僚的手法といえようか。こうして確率は低いが破滅的な事象を引き起こす事故シナリオに頬かむりをしてきたことが事故の根源的原因である。

3) 事故の進展と未解明問題の検証
 東電の耐震工事は進んでおらず津波による溢水対策もなされてこなかった状況は事前の過酷事故SA対策を怠ってきたため、そもそも事故の進展に対して有効な運転手段は限定されていたといえる。電源系統の多重性・多様性・独立性はすべて破壊された。そして問題は電源系統の重要機器が浸水を受けやすい1階の同じ場所に設置され、非常用ディーゼル発電機は建屋地下にあった(これはGEの設計による)。3系統の外部送電ルートが全て地震で破壊されたことも決定的であった。非常用復水器ICを含めてマニュアルも訓練もなく、かつベントの操作も図面が不十分で、運転作業員は未経験の手探りの対応を迫られた。1号機、2号機、4号機建屋で水素爆発が起り、2号機では炉心溶融から格納容器破損まで進行したと思われる。他方5,6号機では炉心損傷は回避されたのは非常用ディーゼル発電機1台が生き残ったという僥倖によるもので5号機ではいま少しの暗転で過酷事故に進展したかもしれないし、4号機の使用済み核燃料プールの冷却が失敗したなら被害はさらに拡大したかもしれない。アメリカは特にこの使用済み核燃料プールの損傷を心配した。今なお事故は収束していないので、炉心・格納容器内を検証することはこの先何年も不可能である。それをいいことにしてIAEAへの政府報告書や東電の事故報告書は「地震によって損傷を受けた機器は認められない」といっている。損傷を受けていないかのような表現であるが、損傷を受けていたかどうか当面確認のしようがないだけの事である。特に冷却材喪失事故LOCAでは、津波直後まで炉心の水位と圧力は正常であったが、配管の微少な損傷では数十トンの冷却水が喪失するまで10時間ほどかかるのである。それをもって配管が損傷を受けていない証明にはならない。非常用交流電源の喪失は津波による浸水が原因とする見解が政府事故調や保安院の「技術的知見」によってなされているが、津波が襲った時刻と非常用交流電源喪失の時刻の微妙な差は少なくとも1号機A系列の非常用電源喪失は津波によるものではないという見解が本書で述べられている。1号機の緊急時冷却装置ICは14時52分に自動起動したが11分後作業員が手動で停止した。作業員の証言では原子炉圧力の降下が早いのでIC配管から冷却材が漏れていないかどうか確認するためであったという。1号機の逃がし弁SRが地震後作動した形跡がない。地震ですでに開閉不能になっていたのではないか。ようするに本事故調は津波の浸水前にすでに地震による小規模機器配管の損傷LOCAが起きていた可能性を主張する。東電や政府事故調はすべて想定外の津波を原因とし、地震による原子炉と機器配管の損傷はなかったことにしたいのである。既設炉や他の原発の耐震設計の見直しに関係するから、今後の再稼働条件を津波対策(堤防嵩上げ)だけで済ませたいという意図のもとに事故報告書が書かれているのである。事故原因を闇の中へ葬ってはいけない。LOCAの可能性は未解明問題として今後の検証を待つ見解を堅持してゆきたいという。

(つづく)

文芸散歩 谷川徹三編 宮沢賢治童話集 「銀河鉄道の夜」 「風の又三郎」 岩波文庫

2013年07月28日 | 書評
イーハートーヴォの心象スケッチ 宮沢賢治童話傑作集 34話 第9回

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宮沢賢治作 「風の又三郎」 他18篇 (1)
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16) 風の又三郎
 前書「銀河鉄道の夜」 他14篇に比べると、本書「風の又三郎」 他18篇には際立って異なる特徴が2つあります。一つは擬音表現が多いことで独特のリズムを持っていることである。2つは岩手弁の極端に訛った表現が多く、ちょっと標準語に慣れた私たちでも辞書がないと理解できないこともあるという点である。この2つの特徴はまさに宮沢賢治の童話の神髄をなすといっても過言ではないだろうか。まさにイーハートーヴォの世界である。風の又三郎の話の出だしは「どっどど どどうど どどうど どどう」で始まる。北風がぼうぼうと吹く有様をいう。谷川の小学校の9月1日、二百十日の日のことです。6年生が1人、5年生が7人、4年生が6人、3年生はなし、2年生が8人、1年生は4人の全校生26人の小学校です。秋の新学期が始まる日、風の強い朝、嘉助、佐太郎、耕助、最年長に一郎らが学校に着くと、教室に見知らぬ生徒が一人座っていました。嘉助は思わず「あいつは風の又三郎だ」と叫びました。先生の紹介で北海道ら転校してきた鉱山技師の息子である高田三郎だとわかりました。口をきりっと結んで意志の強そうな利発な男の子に見えました。父は北海道の会社から東北の山にモリブデンの試掘に来たのです。三郎は5年生に編入され、高学年の一郎、嘉助、佐太郎、耕助、悦治らと仲良くなりますが、どうも耕助は三郎に意地悪く当たります。さっそく三郎は遊び友達を見つけて、野原で馬の世話をして難儀したり、葡萄取りに出かけ耕助と言い合いになりますが三郎はうまく仲直りをします。川に泳ぎに出かけ発破で小魚を取ったり、佐太郎は魚の毒(麻酔薬)で失敗したりしました。川の中で鬼ごっこをしたりしましたが、三郎は何をやってもうまく溶け込んで遊びも上手でした。しばらくして風と雨が強く降った翌朝一郎は何か胸騒ぎがして学校に駆け付けますが、三郎は来ていません。三郎のお父さんは鉱山に見切りをつけて北海道に戻ったので、三郎は今日から転校しましたという先生の説明を聞きました。三郎は風と共にやってきて、風と共に去って行きました。

17) セロひきのゴーシュ
 ゴーシュは町の活動写真館でセロ(チェロ)を弾く新米の楽士でした。ところが一番下手でしたのでいつも(金星音楽団の)楽長から叱られてばかりです。10日後の第6交響曲の演奏を控えて楽団は必死の練習をしていますが、ゴーシュばかりが皆の足を引っ張っていました。ゴーシュの家は町はずれの水車小屋にありました。楽団の練習後ゴーシュは小屋で眠るのも忘れて練習していました。するととんとんと小屋の戸を叩くものがいます。三毛猫はゴーシュのセロを聞くためにやってきてシューマン作トロイメライを注文しました。ゴーシュは腹を立てて「インドの虎狩り」をものすごい勢いで弾きだすと三毛猫はびっくり仰天して逃げ出しました。次の夜にかっこうが飛び込んできて「かっこう」(ドレミファソラシドという意味です)とセロで弾けと注文しました。ゴーシュが何度曳いても満足しません。ようやくゴーシュにはかっこうのドレミファソラシドが分かったような気がしましたが、夜明け前にゴーシュは怒ってかっこうを追い出しました。次の夜には狸の子がやってきて「愉快な馬車屋」というジャズを注文しました。狸の子は棒をもってセロの胴を叩いてリズムを取りました。狸が満足するまで練習して明け方に狸は急いで帰りました。次の夜は野ねずみの母親が子ネズミを連れてやってきて、この子の病気をセロで治療してくれと注文しました。野ねずみの母親が言うにはこの辺の動物はみんなゴーシュのセロで癒されているのだといいます。そこでゴーシュは子ネズミをセロの胴体の中へ入れて目を回すまで演奏しました。そしてああよくなったといって帰りました。こうして金星楽団の演奏会は大成功裏に終わり、ゴーシュは楽長さんや楽友から賞賛されるほどの演奏をしたということです。毎夜動物たちと血のにじむ練習をしてゴーシュは上達できたのです。

(つづく)