ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 町田徹著 「日本郵政ー解き放たれた巨人」 日経新聞社

2013年07月06日 | 書評
私的独占企業体「郵政」を生んだ小泉首相・竹中大臣の功罪 第7回

2) 小泉郵政大臣と郵政改革の原点
 自民党の集票マシーンといわれた特定郵便局長会のいきさつをみておこう。1872年逓信省の前島密は郵便制度の全国展開を成し遂げるに当たって、国が建設したのは大都市のわずか六ヵ所だけで、全国1200箇所は名主など有力者の無償提供による「郵便取扱所」であった。これが1941年に「特定郵便局」になるのである。特定郵便局長の世襲も、公務員扱いも、わずかばかりのお手当ても、場所と建物の無償提供の見返りであった。地方では郵便局長は信用のある名士であり、かつ地方のボス的存在であった。横須賀の小泉家は3代にわたってこの特定郵便局の集票マシーンを引き継いでいた政治家一族である。ところが1969年父が死んで学生であった小泉純一郎氏は突如立候補を宣言する。後援会や派閥のボスであった福田赳夫は寝耳に水で全く了解したわけでなかった。純一郎氏はライバル田川誠一に敗れた。これを地元の特定郵便局長会の謀反と逆恨みをして、長くこれを根にもったと本書はいうのである。ここから小泉純一郎に郵便局への攻撃が始まるとまことしやかにいうのだが、わたしには本当かどうか分かるわけもないので、小泉純一郎氏の個人的なことは触れないでおく。そして1992年宮沢喜一首相は内閣改造で小泉氏を郵政大臣に任命した。就任記者会見で大臣は普通は省のご進講のままに話すものだが、小泉氏はいきなり「高齢者マル優の限度額引き上げには反対だと郵政省官僚の意向とは違う発言をした。利子所得の非課税限度枠は、銀行預金、国債、郵便貯金のそれぞれ300万円、合計900万円までが非課税となっていた。限度額について銀行・大蔵省と郵政省のつばぜり合いから、自民党の税制調査会は郵貯枠を50万円に圧縮する事を決定し政府もこれを認めた。この「小泉ショック」を受けた郵政省は事務次官が辞任し、官僚側は大臣に対する執拗ないじめを始めたらしい。大臣就任後小泉大臣は官僚トップの二人の辞任を求めたが、官僚側は官邸に根回しして小泉氏の意向を打ち砕いた。この郵政大臣としての経験が小泉氏の「アンチ郵政省」、「郵政改革」の私憤となっていったようであると本書はいう。小泉氏が政治生命をかけて戦ったという「郵政改革」を語るには、大蔵省と郵政省の100年戦争と「全特」そして小泉氏の私憤を抜きには語れないようだ。

 郵便貯金と銀行金融機関の百年戦争を振り返ろう。郵便貯金が始まったのは1875年のことである。1941年に定額郵便貯金が導入され、1947年に郵便貯金法が制定された。第1条は「全国一律、国民の誰もが利用できる」というユニバーサルサービスを述べている。第2条は郵貯は国が行う事業であって逓信大臣が管理する。第3条は「郵貯の元金・利子ともに国が保証する」。第7条は郵貯の種類を述べている。郵貯、定額郵貯、積み立て郵貯に加えて定期郵貯、住宅積立貯金、教育積立貯金が追加された。第10条は預け入れ限度額(元金保証)は1000万円とする。第12条は金利を政令で変更できることにした。郵貯の肥大化は戦後間もなく始まった。郵貯の中心は定額貯金で全体の87%を占める。この膨大化した郵貯のどこが問題なのだろうか。第1は郵貯が簡保や年金と並んで財政投融資(特別会計)の資金源となったことである。財投に占める公的セクターの割り合いが大きくなりすぎたことが問題だった。第2に金利政策上、日銀は銀行預金だけにしか影響力がないことで、いわゆる金利二元体制が問題である。第3は郵貯と民間金融機関との市場シェアーの問題である。1980年「郵便年金」問題を郵政族の伊藤宗一郎氏が押したことについて、大蔵族であった小泉氏は自民党財政部会から反対した。宮沢首相は妥協策として、郵貯年金を認める代わりに「郵貯懇」諮問期間を設け、金利の一元化、官業への資金集中問題を検討する事を打ち出した。ここから正式に郵政改革が始まるのであった。郵政省官僚側はこの「郵貯懇」委員をコントロールしようと画策したが小泉氏は人事を守った。「郵貯懇」は1981年8月大蔵省よりの報告書をまとめ、郵貯金利を民間預金金利に直ちに追随すること、資金は国債に限り、株式投資や自主運用を否定した。郵政族は自民党通信部会によって、官僚は省の「郵政事業懇話会」によって猛反対した。大蔵族は「自由経済懇話会」に竹下登を担いだが、「三大臣合意」によって大蔵側の意見は葬られた。
(つづう)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年07月06日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第57回

119) 金の宝
太鼓打ちのお父さんとお母さんのあいだに、ペーターという赤毛の男の子がいました。お母さんはペーターを大事にして「金の宝」と呼んでいました。この子は声がよかったのでお母さんは少年聖歌隊になることを期待していました。ペータは町の楽士さんに目をかけられ、ヴァイオリンを習いました。少年ペーターは兵隊さんになりたくて、戦争が起きるとペータは志願して戦争に行き、少年鼓手になりました。戦争は最初負けていましたが、ペーターの進軍太鼓のせいで奇跡の勝利をおさめ凱旋しました。ペーターもひょっこり家に帰っていました。おっかさんは大喜びです。ペーターはピアノが上手な市長さんの娘さんに恋をしましたが、恋に破れてからヴァイオリン奏者として猛奮発し今では皇帝や国王の前で演奏するようになりました。騎士十字章もいただきました。

120) 嵐が看板を移す話
おじいさんがまだ子供だった頃のお話です。赤い上着とズボンをはいて晴れ着に着飾って町のイベントに出かけました。靴屋の組合集会場の看板の引越しはそれは賑やかなお祭り騒ぎです。音楽隊の先頭に道化師が先導する催しものでした。おじいさんがこの町にやってきたとき、恐ろしい嵐が起こり、屋根瓦が飛び、看板が空を舞いました。ハリケーンのように番小屋は根こそぎになって道路を転がってゆき、町中の看板がほとんど全部場所を入れ替えました。翌朝町の人々は大騒ぎでした。

121) 茶びん
高慢な茶瓶がありました。この茶瓶は自分の容姿を自慢し、ふたにヒビが入っていることは隠していました。ほかの陶器からこの蓋のヒビのことを指摘されると、自分は欠点を上回る長所を持っていると自負するのでした。あるときお茶を入れようとして茶びんは床に落とされました。口も取っ手もかけて御用済みとなり、球根の入れ物として再利用されました。球根に花が咲いて成長しますと窮屈になりましたので、植木鉢に移すため茶びんは真っ二つに割られ陶器のかけらとなりました。でもこの美しい思い出だけが残りました。
(つづく)