ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 福島原発事故独立検証委員会著 「調査・検証報告書」 ディスカバー21

2013年07月15日 | 書評
民間シンクタンクによる独立検証委員会が見た福島原発事故の真相 第6回

検証結果(2)
第3章 官邸における原子力災害への対応
この章の内容はかなりの部分が福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」 (ちくま新書)に重複するが、菅首相のパーソナリティを好意的に見るか悪意を持ってみるかの違いはあるものの、それほど異なるものではない。法律と災害対応体制の詳細は省くが、福島第1原発事故対応に当たっては全く機能しなかったことは事実である。シビアアクシデントを想定外とするインサイト事故を対象とした官僚作文の無効を意味するものでしかない。歴史にタラレバは禁物であるが、もし事故当時に「政治家の無能と官僚任せ」を特徴とする自民党政権だったらもっと恐ろしい事態(官僚の無作為と東電の現場放棄と悪魔の連鎖)が起きたに違いない。民主党菅首相の「東電の撤退は許さない」の一言で政府・東電の統合対策本部が設置されたことが日本を救ったといえる。誰しも経験したことがない事態に敢然と官邸主導(悪意を持つ人はこれを「官邸介入」といい対応の邪魔をしたという)を貫いて、事故対応に政権が立ち向かったことは日本の政治に稀有のことであった。本プロジェクトの検証は①シビアアクシデント対応マニュアルの不在と官邸の認識不足、②東電及び原子力安全保安院に対する官邸の不信、③原子力災害の拡大に関する強い危機感、④菅首相のマネジメントスタイルの論点を設定した。事故対応を通じて官邸は、東電、原子力安全・保安院、原子力安全委員会(斑目委員長)、官僚機構、専門家に対して歯がゆい思いだけでなく次第に不信感を持つようになったとされている。現場状況と意志疎通を欠く東電経営者陣の応答、東電の追随機関にすぎない無力な原子力安全・保安院と技術を全く知らない安全・保安院長・副院長、水素爆発を予測できなかった斑目原子力安全委員長、情報を上げてこない危機管理センターの「無作為と自己保身、責任転嫁」を特徴とする官僚機構を見ていれば、彼らに任せていては日本は破滅すると恐怖した菅首相の心情・決断は間違っていなかったと私は考える。

第4章 リスクコミュニケーション
原子炉の状況や低線量被曝に関するパブリックコミュニケーションは政府にとって始めての経験であった。その試行錯誤の過程で国民の信頼を失ったことは否めない。また海外への情報発信はどうだったか、ソーシャルメディアでのリスクコミュニケーションなどが論点となった。先ず政府のリスクコミュニケーションの中心となったのは最初は首相であったが,次第に枝野官房長官のみとなった。通常の首相のぶら下がり記者会見対応には5人の秘書官(財務、外務、警察、経産、厚労の出向官僚)が担当したが、震災後は厚労と経産で取りまとめ起草し、広報官の下村審議官が第一原稿を書く流れで進んだ。震災後はぶら下がり取材はなくなった。3月12日広報担当であった原子力保安院の中村審議官が「炉心溶融」の可能性を発言したことで広報担当者は交代させられ、炉心溶融の表現はうやむやになった。しかし15日に東電がメルトダウンの解析結果を公表したことで、保安院の欺瞞的表現が曝露された形となった。枝野官房長官は3月11日から2週間で39会の記者会見で9回「直ちに人体、健康には影響は無い」と発言した。連続して摂取したとしても問題ないというその程度問題で、揚げ足取り的な消耗な議論が起きた。「安全安心」という信仰に似た境地が存在するため、まだ日本国では実質的なリスクコミュニケーションの文化は存在しないようだ。しかし10年から20年先の発ガン率の有意な上昇があるのかどうかは誰にも分からない。官邸は国際広報室を2010年10月に作り、英語では震災情報のブリーフを発信した。それでも海外のメディアには一部誇張された表現が存在し、発表内容が海外の要求レベルに合っていなかったのか、海外とのコミュニケーションは難しい問題を残した。ネット上のホームページやグログ通信は一方的で、双方向コミュニケーションにはなっていない。政府や東電のウエブ情報発信は国民への情報発信となったのだろうか。官邸は「官邸災害ツィッター」を3月21日に立ち上げたが調査によると信頼性は低いと見られていた。震災情報は新聞・テレビで知る人が圧倒的に多かった。特に被災地では通信や停電で情報が得られなかったが、避難情報をテレビで知る人も多かった。

(つづく)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年07月15日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第65回

144) ひいおじいさん
ヒイおじいさんの「昔はよい時代だった」という口癖にも、やはり電信(電報)の発明の恩恵は否定できないことをわかりやすく子供にきかせるお話です。アンデルセンは決して文明否定はしませんし、むしろ文明の便利さは無条件で肯定しています。便利になったが、しかし利口になったかどうかは分からないということは、いまでも東電福島第1原発事故を思えばうなずけます。

145) ろうそく
蜜蝋ろうそくと鯨油ろうそくの社会における位置づけを的確に示したお話です。しかしどちらもそれぞれよいというような無原則的な平等価値論ではなく、その時代における宿命を踏まえたうえで現実的な位置づけです。蜜蝋ろうそくは高級で金持ちの食卓や舞踏会を照らすもの、鯨油ろうそくは貧しい家で使われ、実用的で台所を照らすものである。蜜蝋ろうそくの燭台は銀製で、鯨油ろうそくの燭台は真鍮製である。綺麗に着飾って舞踏会で音楽やダンスを楽しむ幸せと、ジャガイモを食べられて飢えをしのげる幸せの違いはあります。

146) とても信じられないこと
童話にありがちな荒唐無稽なお話の一つです。「信じられないことをやってのける」というお姫様の願いをかなえた者と結婚できるお触れが出て、候補者がお城の集まって知恵比べをするという設定です。信じられないということの定義が不明確なままテストされる方も大変ですが、荒唐無稽なほど面白いことも事実です。実に精密な仕掛けのついた置時計を提出したものがいました。1時にモーゼがでて掟を説き、2時にアダムとイブが出会い、3時に3人の聖なる王が出て、4時に4季が現れ、5時に5感が出て、6時にサイコロの6の目が出て、7時に7つの罪悪が出て、8時にミサを唱え、9時に9人の芸術女神が出て、10時にモーゼの十戒が出て、11時にかわいい子供が出て、12時に夜警の歌が出ました。これを見て評議会はこの時計の製作者に決定しようとしたところ、その時大男がまさかりでこの時計をぶっ壊しました。とても信じられないことをやったとしてこの大男がお姫様と国を2部することになりました。婚礼の日、粉々になった時計の部品は再び集まって時計は蘇ったのです。乱暴なだけで破壊者の大男は退けられ、芸術の魂を持った男が選ばれました。乱暴な行動力は世の中の人をハッとさせますが、世の中をつくる力は暴力ではないことを教えるお話でしょうか。英雄待望論は百害あって一利なしということです。ヒトラーを生んではいけません。

(続く)