ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 福島原発事故独立検証委員会著 「調査・検証報告書」 ディスカバー21

2013年07月20日 | 書評
民間シンクタンクによる独立検証委員会が見た福島原発事故の真相 第11回

検証結果(8)


第8章 安全規制のガバナンス (2)

2001年の省庁再編に伴って科技庁の一部を取り込んで経産省資源エネルギー庁の外局として原子力安全・保安院が誕生した。原発 安全関係者は約330人で全国21箇所に事務所を持ち原子力防災専門官が常駐している。経産省の原発推進予算は1816億円、そのうち保安院予算は283億円であるが独法原子力安全地盤機構JNESへ201億円の運営交付金が含まれている。JOC事故で科技庁は潰されたようなものだから、保安院もしっかりしないと経産省も潰されるという危機感は当初存在していたようだが、結果的に保安院は安全規制機関としての役割を果たせなかった。そのわけを検証する。安全・保安院の検査官を増員し50名から100名となったが、キャリア事務官僚は経産省との間を2-3年で往来するのでスペシャリスト化は進まなかった。プロ集団には程遠く、今回の事故には危機対応の遅れを指摘された。斑目安全委員長は「保安院という組織が消えうせていた」と事故当時を振り返っている。保安院は2002年元GE子会社職員の内部告発による東電の「検査データ-改竄」トラブルでは、通知を受けてから2年も結論が出せず内部告発者の名前を東電の教えるなどという不祥事も引き起こしている。データ改竄事件については佐藤栄佐久著 「福島原発の真実」(平凡社新書 2011年)に詳しく描かれている。2011年九州電力の「やらせ投稿」事件ではエネ庁と保安院の職員が原発賛成の発言を依頼したことから、原子力安全・保安院という規制機関が電力会社や原発推進機関を一緒になって行動するなど、癒着や馴れ合いが続いていた。保安院はJNESという専門集団が出来て協力して規制の高度化が進むとき期待されたにもかかわらず、完全にお任せとなって意思疎通(技術会話も出来ない)が出来ない状態に陥っていた。JNESは2005年から「前兆事象評価」を実施し、2008年から確率論的安全評価手法の改良版に取り組み海岸線の原発は津波を受けるリスクが高く炉心損傷の可能性をしてきたのも係らず、保安院はこれを採用しようとしなかった。つまり新知見の意義も理解できなかったようだ。保安院は原子力安全委員会の指針をほとんど鵜呑みにして遵守するだけで、シビアアクシデント対策SAの手順書の見直しで事業者の指導は出来なかった。

規制官庁と電力事業者の間には圧倒的な能力差が存在し、東電を規制するどころか東電に利用されているだけであったという。お墨付きを付与する機関に過ぎなかった。原子力安全委員会は経産省や文科省からは中立の第8条委員会で5人の専門家委員で構成され原発などの安全性を調査審議する。内閣府に事務局がおかれた。に安全審査とその指針を出すが、直接事業者を監督指導することは出来ず、首相を通じて勧告権を持つに留まる。業者の保安、監視は安全保安院が行なう。安全委員会が策定する指針には強制力がなく、規制の実効性を欠いた機関である。原子力安全委員会には高度の専門性が必要なため、専門審査会として原子力安全と燃料安全審査会が2つ、専門部会が10、さらにその下に多くの小委員会から構成される。緊急事態においては「緊急技術助言組織」が招集できるが、今回の事故で3月11日に召集されたが、なすすべもなく顧みられることはなかったという。安全委員長は原子力災害対策本部の本部員ではなく、安全委員長は個人の資格で首相官邸に詰めていただけであった。原子力安全委員会による原発の安全検査が書類重視となり、形式的に機械的に基準がクリアできているかどうかで、安全性が確保されているとするパターンが確立した。

東京電力は1951年「発送電一体型」の地域独占会社としてスタートした。2010年度資本金9009億円、売上高は5兆3685億円、総資産額14兆7903億円、従業員3万8671人、電力生産量は2890億KWh(原発発電量は30%)で日本全体の1/3を占め、民間電力会社としては世界最大の規模である。経営の安定性の秘密は、「総括原価方式」で費用をすべて電気料金に上乗せできることであった。発送電地域独占なので顧客は他の電力会社を選択できない。東電が受け入れた中央官庁からの天下りは2011年で50人を超える。東電の技術力・企画力は規制官庁を遥かに凌駕し、周到なプランは官僚作文とは比較にならないほど提案力を持つという。実力において官庁による規制は極めて難しい。東電は業界リーダとして原発の旗振り役を務め、1997年の京都議定書の腹案は原発20基の増設に基づいている。電力会社として「プルサーマル計画」を進め、高速増殖炉の失敗をリカバーするプルトニウムの有効利用を進めた。福島第1原発第3号機に使用されているMOX燃料のため、今回の事故による放射能漏れに半減期がとてつもなく長いプルトニウムが検出されるのはそのためである。東電は福島第1原発に6基、福島第2原発に4基、刈羽原発に7基の計17基の原発を運転してきた。経営陣は政財界への人脈が豊富な総務部門が主流で水野ー平岩ー那須ー荒木氏らが社長を占め、1995年頃から始まった電力自由化への対応から経営の合理化を重視し企画部門出身の社長として1999年より南ー勝俣ー西澤氏を輩出した。(東電では技術系役員が社長に付くことは一度もなかった。) 南氏は経営の合理化によってコストを2割削減し電気料金の値下げを行なった。2002年8月GE子会社社員の「データ改竄」内部告発事件で南社長、荒木会長、那須・平岩顧問の四氏が退陣して責任を取ったが、「安全性に問題がなければ、多少のことは報告しなくていい」という誤った考え方が支配していた。それは採算重視で原発を止められないからである。しかし2003年にはすべての原発を停止するという経営危機に陥った。現場の原子炉を一番良く知っているのは日立や東芝のメーカであるが、東電とは主従関係にありメーカーが問題提起をすることはなかった。書類重視の安全審査では東電社員が現場を見る時間も少なくなり安全文化は次第に劣化していったという。原子炉をよく考えるという習慣もなくなっていった。形式的な安全点検とはいえ国が整備内容を了承しているのであるから国に責任がないとは言えない。しかし東電が「国の基準を守ってきたのだから、事故は我々の責任ではない」と考えるのは、事業者としての第一義的責任を放棄するモラルハザードである。

(つづく)

文芸散歩 谷川徹三編 宮沢賢治童話集 「銀河鉄道の夜」 「風の又三郎」 岩波文庫

2013年07月20日 | 書評
イーハートーヴォの心象スケッチ 宮沢賢治童話傑作集 34話 第1回

序(1)
 宮沢賢治(1896年8月- 1933年9月、日本の詩人、童話作家)とは、昔私が中学生の頃、国語の教科書で「道程」という題名の詩があった。「アメニモマケズ カゼニモマケヅ ・・・・ ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」ひたすら人のために努力する、暗愚ともいえる世間離れした殉教者のような人を描いた詩です。岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブを創造した。現在(2013年4月以降)NHK朝の連ドラに「海女ちゃん」という岩手県北三陸の過疎地自嘲(他嘲?)番組がある。また岩手県出身の政治家では小沢一郎があまりに有名である。共通項があるかどうか短絡的な決めつけはいけないが、都から切り離された独立精神旺盛な岩手県人という性格は本当かどうかは知らないが絵になる面白さがある。飛鳥・奈良時代から、九州・東北は熊襲・蝦夷といわれ朝廷に素直に靡かないところがあって、ヤマト王朝や朝廷の頭痛の種であった。平安時代、藤原3代が岩手県平泉にまさに独立王国を開いていた。義経を庇護し源頼朝に滅ぼされる12世紀末まで独自の文化を持っていた。以来特異な存在であったが、都から疎外され常に強兵と軍馬の供給地として、農民が飢餓線上を彷徨った。昭和初期クーデターによって日本が軍事政権となったのは、東北地方の飢饉が原因だったといわれる。九州や西国は海外貿易で独自の経済圏を持ち、都からは常に危険視されてきたが、軍事力を養い明治維新で一躍国家権力を奪った。同じ周辺国家として九州と東北は似ていて非なる道を歩んだ。賢治は1896年岩手県花巻に生まれ、1903年花巻川口尋常高等小学校に進学した。浄土真宗門徒である父祖伝来の濃密な仏教信仰の中で育ったといわれる。1909年旧制盛岡中学校に入学し、哲学書を愛読、在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。1915年盛岡高等農林学校に進学した。卒業後研究生として残り、1920年研究生を卒業し教授からの助教授推薦の話を辞退して、1921年に上京し宗教団体(法華経日蓮)国柱会に入信する。1921年と1922年に童話を意欲的に執筆する。童話制作は1926年頃まで続いた。1926年3月末で農学校を依願退職し花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊、羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。自ら農耕に従事しながら、農民の友として稲作指導や肥料指導に打ち込んだ。農業の傍ら詩を発表したが、1928年秋に急性肺炎を発症し以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。1931年病気がよくなったので、石灰肥料製造と壁材製造を始めたが、上京して病気が再発し療養生活に入る。手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。詩集・童話の制作を行ったが、1933年急性肺炎で死去する。生前は無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家とされていった。生前稿料の入った作品はただ一つであったという。一作も売れなかったゴッホみたいな作家です。

(続く)