ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 福島原発事故独立検証委員会著 「調査・検証報告書」 ディスカバー21

2013年07月12日 | 書評
民間シンクタンクによる独立検証委員会が見た福島原発事故の真相 第3回

総 括(1)

1) 複合災害と並行連鎖原発事故:
 福島第1原発事故は地震、津波、原発災害が相互に絡み合った複合災害であった。マグニチュード9の地震と10mを超える津波が、電気、通信、道路、輸送を破損し、中央と地方の行政機構が麻痺したことが、原発災害対応を困難とした。世界最頻地震多発国の原発立地場所の問題はさることながら、津波を想定外と言い切れるものであろうか。今回の事故はこれでもかというほどの複合災害の恐ろしさと原発の制御の難しさ(石油ガス火力発電なら電源喪失は発電停止に留止まる)をみせつけられた事故であった。これらへの備えがコストパフォーマンスから出来ないなら、民間企業は原発発電はやめるべきであることを迫るものであった。原発災害そのものも、第1号機、第2号機、第3号機の3つの原子炉と4つの使用済み燃料プールの危機に同時に対応しなければならない超人的な能力を要求する「平衡連鎖原発災害」の状況が生まれた。(福島第2原発2基、及び茨城県東海原発も一時危機的状況となったが、非常用ディーゼル発電機が動いたので救われた) 危機の最中に菅首相は近藤駿介原子力委員会委員長に「不測事態の最悪シナリオのスケッチ」を策定させたが、それによると福島第1原発、第2原発の全面崩壊により170kmの範囲の首都圏3000万人の移転という日本統治機構の解体につながる事故になりかねなかったという。するとアメリカ軍による統治管理という事態も想定された。空母が一時日本に接近したのもそういう読みが米国にあったからだ。

2) 事故は防げなかったのか:
 全電源を喪失し冷却機能が停止すると5時間から8時間後には炉心は溶融する(メルトダウンし核燃料は炉心を溶解し原子炉格納器に落ち、最悪事態として格納器もメルトダウンするといわゆる「チャイナシンドローム」となる)。タラレバになるかもしれないが、並行連鎖原発災害の引き金は1号機の非常用復水器(IC)の隔離弁が「閉」状態にあった事を知らなかったことである。現場ではICが作動していると思い込んで初動対応が出来なかったことである。炉心冷却機能が途絶えたことに早く気がついていたら第1号機への消防ポンプによる外部代替注水に踏み切ることで最悪の事態を招かなかったかもしれない。この原発運転技術者のヒューマンエラーは政府事故調が綿密に解析しているところである。

3) 人災-備えなき原発過酷事故:
 東電の「事故時運転操作手順書」には、全電源喪失対応は存在しなかった。過酷事故に対する備えは用意されていなかった。非常用復水器(IC)を実際に動かした経験は誰にもなかった。国際原子力機関IAEAの「基本安全原則」は「放射線リスクを生じる施設と活動に責任を負うもの」を定義しているが、今回の事故の第一義的責任は東電にある。想定外事故として無過失論をリークする東電は著しく責任を欠いているといわざるを得ない。しかし原子力安全委員会の「安全設計審査指針」には「長期にわたる全交流電源喪失は送電線の復旧または非常電源設備の復旧が期待できるので考慮する必要は無い」と設計上全交流電源喪失を想定しなくてもよいと記している。福島第1原発事故は長時間(8時間程度)の全電源喪失の結果として生じた事故であった。原子力安全委員会の責任は大きい。想定しなくていい「備えなき原発事故」となった。これを人災といわずして何と言えようか。1999年の東海JOC臨界事故の教訓から生まれた現地対策本部「オフサイトセンター」は今回の事故では全く機能しなかった。管理運営を担う原子力安全保安院の責任は重い。緊急時迅速放射線影響予測ネットワーク「SPEEDI」も住民避難の時には全く機能しなかった。30 年をかけて100 億円を使って開発した文部科学省自身が信頼性がないと公表を躊躇ったことは、この国の政府の無責任体制を赤裸々に見せ付けたものであった。さらに文部科学省はこのシステムを評価し使うのは原子力安全保安院つまり経産省にあると、長年の二元原子力行政の象徴のような責任の押し付け合いを見せ付けたのは醜悪としか言いようがなかった。日本の統治機構は所詮このような程度のもので、国民を守る意識も責任感も持ち合わせていない。統治者・官僚機構は東日本から避難する計画があっても、国民は日本を逃げることは出来ないのだ。戦争末期の空襲に逃げ惑う国民をよそに、松本に大本営を移す計画と同じである。 「日本は二度破れたり」、しかも「国破れて山河あり」ではなく「国破れて山河喪う」なのである。これは「浄土なき末世」であろうか。

(つづく)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年07月12日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第62回

136) 木の精ドリアーデ
 1867年パリ万国博覧会のお話です。命と引き換えにしてまで都会にあこがれる木の精ドリアーデの夢と破滅を描いていますが、ちょっと複雑な心境です。近代文明の都パリの栄光と賑わいに夢中になっていいのか、それとも田舎暮らしがいいのかよくわからないからです。田舎からマロニエの木がパリの公園に移植されました。マロニエの木には木の精ドリアーデが住んでいました。田舎にいるときは大きな樫の木のそばに立っていました。樫の木の下では年取った神父さんがこどもたちにいろいろなお話を聞かせていましたが、ドリアーデも隣で聞いていて人の話が分かりました。フランスの地理や歴史のお話を聞いて、ドリアーデはパリの近代都市文明にあこがれました。話を聞いていた女の子マリーもパリにあこがれましたが、神父さんは、「あんなとこへ行ってはいけない。お前の身を亡ぼすよ」といいました。そのころパリの練兵場敷地に、芸樹と工業の新しい世界の奇跡が咲き出でたのです。「パリ万国博覧会」に木の精ドリアーデと女の子マリーは夢中になりました。木の精にとって、パリの地に根を下ろすと、命は短くなるという宿命がありました。そこで欲望はもっと強くなり、木の精を飛び出して人間に交わると命はカゲロウのように一夜に縮まるのです。田舎にあったマロニエの木はパリに移植されることになりました。ドリアーデはパリの喧噪に酔い、人間の列に加わりたいと熱望するようになりました。自分の命と引き換えに、ほんの短い間でも女の姿をして生きたいと思ったのです。ドリアーデはパリの大聖堂や下水道、街明りとダンス、娯楽場の華やかさ、博覧会場の世界館などのパリの栄光と文明を満喫しますが、命は露のはじけるように亡くなりました。パリに行った女の子マリーも、いまでは派手ななりをしていますが、踊り子としてカンカン娘になっていました。人の命を飲み込むの、それが都会なのです。

137) にわとりばあさんグレーテの一家
 昔貴族のグルッペという騎士がいた館は今では領主の館と呼ばれ、そこに住むニワトリやアヒルの世話をするニワトリばあさんグレーテの一家のお話です。お話は昔にいた騎士グルッペの娘マリーのことから始まります。騎士グルッペの娘マリーはお父さんと一緒に小さい時から狩り遊びをし、女の子らしいしつけのない、傲慢な娘に育ちました。近くにいる百姓の息子セレンを家来と呼び、鳥の巣を荒らしたりして遊ぶというわがままな女の子でした。マリーが12歳のころグルッペ夫人が亡くなり、館の庭は荒れ放題になりました。マリーが17歳になった時、国王の腹違いの弟の領主フレデリック・ギュルレンレーヴがマレーに結婚を申し込みました。マリーはこの人を好きではなかったのですが、拒み切れずコペンハーゲンへ嫁入りいましたが、侍女と一緒にすぐ里に出戻ってきました。里帰りして1年経ったとき、父グルッペはいうことを何としても聞かない娘マリーを館から追い出し、娘と侍女を一族の昔の館に移しました。その昔の館というのが今のニワトリばあさんグレーテのいる館です。マリーは鉄砲を持っても森に狩りに出かけ、ネレベックの領主で大男のパルレ・ヂューレに出合って結婚しました。彼との生活にも嫌気がさしたマリーは、館を逃れ馬に乗ってドイツ国境までやってきました。指輪や宝石を売って飢えをしのいだのですが、次第に衰弱して気を失って倒れているところを、船乗りの荒くれ男に救助され、船に乗せられました。何年か過ぎ、学生がペストの流行を避けるためコペンハーゲンを逃れ、ファルスダー島の渡しにつきました。渡し守のセレン・メラーのおかみさんというのがマリーのなれの果てでした。気性の激しい亭主はふとしたことで人をあやめ、3年間造船場で強制労働をしています。この亭主は今でいうDVで、妻に暴力を振るいましたが、おかみさんは「いっそ小さいころに打たれたら効き目があったでしょうが、今は私の犯した罪のために打たれているのです」と、暴力に甘んじています。このマリー・グルッペは1716年に亡くなりました。全く身寄りがなかったわけではなく、マリーの孫がニワトリばあさんグレーテだったのです。運命の巡り会わせは不思議なものですね。そしてわがままに育てられた傲慢な性格はいつかは身を亡ぼすので、若い時に矯正しなければダメということです。

(つづく)