ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 福島原発事故独立検証委員会著 「調査・検証報告書」

2013年07月10日 | 書評
民間シンクタンクによる独立検証委員会が見た福島原発事故の真相 第1回


 2011年3月11日14時46分に起きた東日本大震災を機に発生した東京電力福島第1原発発電所の事故は、直ちに原子炉は自動停止したものの、第1号機から第6号機の外部電源をすべて喪失し、1時間後には津波により第1号機から第5号機までの非常用ディーゼル発電機も全喪失して、原子炉冷却不能の事態におちいった。第1号機から第3号機の炉心はメルトダウンし、4号機の使用済み燃料プールが破損した。福島第1原発事故は地震、津波、原発事故が絡み合った複合災害であり、いまなお11万人の福島県の住民が避難生活を余儀なくされている未曾有の大事故となった。ある意味で太平洋戦争の日本の敗戦と同じく日本の戦後の最大の危機であったし、いまなお危機の原因は取り除かれたわけではない。この原発事故の原因については、いろいろな分野から調査・検証が行なわれている。事故当事者から国民レベルまでの調査・検証報告書をならべてみると以下のような報告書がある。
1) 東京電力株式会社  「福島原子力事故調査報告書」 2012年6月20日
2) 内閣首相官邸原子力災害対策本部 「原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書」 2011年6月
3) 日本政府(野田内閣) 「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証 最終報告書」 2012年7月23日
4) 国会事故調査委員会 「国会事故調 報告書」 2012年9月30日
5) 独立検証委員会 「福島原発事故調査・検証報告書」 2012年3月11日
今のところ本となって市販されているのは4)国会事故調査委員会の報告書と5)独立検証委員会の調査・検証報告書」の2つであり、購入して読むことにした。1)、2)、3)の事故調査報告書はホームページでダウンロードが可能である。膨大なページ数なのでダウンロードとコピーには二の足を踏むがいずれ概要だけでも読むことにしよう。なお官邸の原発事故対応の最高責任者であった福山官房副長官による証言は、福山哲郎著 「原発危機ー官邸からの証言」 (ちくま新書 2012年8月 )にまとめられておりこれも重要な資料である、是非併せて見て欲しい。 

 福島原発事故の検証委員会を企画したのは、2011年3月11日の福島原発事故を契機に立ち上がったシンクタンク「日本再建イニシャティブ財団」の船橋洋一理事長である。船橋氏が「独立検証委員会」のプログラム・ディレクターを務めた。船橋氏の人脈で「福島原発事故独立検証委員会」の招聘委員のメンバーが選ばれた。委員会の構成は以下の6名である。委員会は2011年10月14日に初会合を開いた。委員会の役割はワーキンググループの作業(インタビューから資料整理そして1次原稿執筆)結果の議論・検討及び総括である。
委員長: 北澤 宏一 (前科学技術振興機構理事長)
 委員: 遠藤 哲也 (元国債原子力機構理事会議長)
 委員: 但木 敬一 (弁護士)
 委員: 野中 郁次郎 (一橋大学名誉教授)
 委員: 藤井 真理子 (東京大学先端科学技術研究センター教授)
 委員: 山地 賢治 (地球環境産業技術研究機構理事・研究所長)

 基礎作業を行ったワーキンググループは約30名よりなり、原子力工学、科学行政、社会学、政治学、地方自治、危機管理、国際政治、弁護士、研究者、ジャーナリストなどの専門家である。主なワーキンググループのメンバーには、秋山信将(一橋大学法学部教授)、井形彬(慶応大学法学部大学院学生)、砂金祐年(滋賀大学コミュニティ学部准教授)、大塚隆(日本再建イニシャティブ 元朝日新聞科学医療部長)、開沼博(東京大学学際情報学部大学院生 社会学)、勝田忠広(明治大学法学部准教授 原子力行政)、菊池弘美(フリージャーナリスト 元朝日新聞記者)、北澤桂(日本再建イニシャティブ スタッフディレクター)、佐々木一如(明治大学講師 行政学)、塩崎彰久(弁護士 日本再建イニシャティブ監事)、信田智人(国際大学教授 国際関係学)、菅原慎悦(東京大学工学部原子力国際大学院生)、鈴木一人(北海道大学教授 公共政策)、戸崎洋史(日本国際問題研究所主任研究員 核軍縮・安全保障)、友次晋介(名古屋短期大学助教授 国際関係論)、中林啓修(明治大学危機管理センター研究員 政策メディア論)、藤代裕之(ジャーナリスト)、藤吉雅春(フリージャーナリスト)、堀尾健太(東京大学工学部原子力国際大学院生 原子炉x材料)、山口孝太(弁護士)らである。なおワーキンググループの検証手続きは、まず情報提供チャンネルを開設してウエブ上に情報を集めた。ワーキンググループは2011年8月27日に準備会合をスタートさせ、合計10回の会合を実施した。会合は丸1日を費やして、主にヒアリングを通じた事実関係と時系列記録を行い、グループで分析するという手法である。ワーキンググループが呼んだ当時の政府要人のゲストは以下である。谷口富裕全IAEA事務局長、海江田経済産業相、深野原子力安全保安委員長、福山官房長官副長官、細野環境・原発担当相、広瀬内閣官房参与、枝野官房長官、斑目原子力安全委員会委員長、小佐古内閣官房参与、下村内閣審議官、森口文部科学審議官、大塚厚生労働副大臣、福島衆議院議員、酒井放射線医学総合研究所センター長、久木田原子力安全委員会委員長代理、田坂内閣官房参与らであり、インタビューには300人が応じたという。取りまとめ作業の総括は北澤桂スタッフディレクターと大塚隆エディターが当たった。
(つづく)


文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年07月10日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第61回

132) なずけ親の絵本
私のなずけ親のおじいさんはお話上手で、新聞などから切り抜いた絵をノートに張り付け絵本にして、お話のタネにするのでした。なかでも42話)「古い街灯」や、飛行郵便新聞の記事「3本足の地獄馬」などがとても面白かった。今回のお話は魚油ランプからガス灯に遷り変わろうとしているこの晩にコペンハーゲンの全歴史を物語ろうというものです。岩波文庫第6冊のなかで45頁をしめる長編です。年代に従って神話時代から19世紀にいたる23の話題を子供に教えることで、デンマークそしてコペンハーゲンの歴史を語るお話です。
①水と風 砂洲の時代: ノルウエーから転がり落ちきた岩が氷の上をエアソン海峡に入って、シュラン島沖の今のコペンハーゲンあたりまでやってきた。北風に押された氷の艦隊は砂州に乗り上げて動かなくりました。こうして砂州は標石によって次第に高くなってきました。
②緑の島 ヴァイキング時代: 高くなった砂州には草が生えて緑の島になりました。そこへヴァイキングたちが上陸して、ニシン漁を始めたわけだ。輸入業者や密猟者がこの泥棒島で取引を始め、それに伴って強盗や人殺しがやってきた。
③商人の港 アクセルの家 12世紀: ロスキラの町に教会ができ、アプサロン司教が住んでいました。アプサロン司教は北からくる海賊から町を守りました。そこにアクセルの家(獄門屋敷)ができました。町の外には商人の港が出来上がり、胡椒を扱う「胡椒の手代」も住むようになりました。
④司教の町 クリストファ1世: 獄門屋敷の城壁が海岸線を望むところに村や市場、商人街ができ、立派な教会も建ちました。こうして商人の町は司教の町になりロスキラ司教の支配のもとにおかれました。デンマーク王のクリストファ1世が敗れた時も司教の町に支援を求めましたが、門は開けられませんでした。
⑤エリク王の町 ペストとハンザ同盟の時代 14世紀: 貧乏と闘争とペストの荒れ狂った中世です。司教の町は今では王の町になりました。ハンザ同盟の連中がやってきて、王よりもこの町を支配しました。エリク王さえ町から逃げ出したくらいです。イギリスの王女でデンマーク王妃フィリッパだけがこの町にとどまって闘いました。
⑥クリスチャン1世 学問と印刷の時代 15世紀: クリスチャン1世がローマに行き、今のコペンハーゲン大学の元になった学問の館を建られた。デンマーク最初の印刷業者ゲーメンが本の出版を始めた。文化の春が到来しました。
⑦クリスチャン2世 16世紀: ハンス王は娘エリザベートをブランデンブルグ選帝侯に嫁入りさせた。クリスチェルン2世が後を継ぎました。
⑧動乱時代 クリスチェルン2世国外逃亡: クリスチェルン2世(残虐王)の時代は動乱の時代です。国内は貴族諸侯が農民支配を強め王の言うことを聞きません。そして王は国外へ亡命することになりました。
⑨フレデリック王 クリスチャン2世幽閉 旧教徒反乱: キールの城主フレデリック王がデンマークを支配しました。クリスチャン2世は捕えられセンナボア城に幽閉されました。この時代は宗教戦争と農民戦争、伯爵の乱が重なった重苦しい動乱の時代です。
⑩クリスチャン3世 ルター派合法化 農民戦争: クリスチャン2世王のルター派宗教が承認され合法化されました。ルター派が勝利したのですが、農民戦争ではルター派は農民を弾圧しました。貴族宰相ハンス・フリースが活躍しました。
⑪ティコ・ブラーエ追放: ティコ・ブラーエは人魚の乙女によって、新しい希望を歌いましたが、国外に追放されました。
⑫クリスチャン4世 ウルフェルト亡命 17世紀: クリスチャン4世の姫エレオノーレは貴族宰相ウルフェルトに嫁ぎました。兄が王位を継ぎ、王妃アマリーエを迎えると、ウルフェルトとエレオノーレ夫人は窮地に追い込まれスウェーデンに逃れました。
⑬ウルフェルト 幽閉: ウルフェルトは反逆者の汚名を着せられ、カイ・リュッゲの屋敷に幽閉されて亡くなりました。夫も青い塔に閉じ込められました。
⑭フレデリック3世  スウェーデンが侵攻: デンマークの内紛に乗じてスウェーデン軍が進攻してきました。フレデリック3世王が奮闘してこれを退けました。
⑮ナンセン デンマーク絶対主義導入: 市長ハンス・ナンセンと司教スワーネが結託して貴族の力を弱めるため、権力をクリスチャン5世一人に集中させました。これがデンマーク絶対王政の始まりです。
⑯クリスチャン5世 ドイツ貴族による絶対王政: クリスチャン5世はドイツから新しい貴族を呼び寄せ、ドイツ化を図りました。それに反対したのが司教キンゴです。グリッフェンフェルトは1665年「王の法典」を著し絶対王政の法制化を行いました。
⑰フレデリック4世 デンマーク艦隊 大火災とペストの時代 18世紀: フレデリック4世のときデンマーク艦隊が国の防衛に活躍し、ヴィルフェルトやトーデンスギョルの英雄が生まれました。この時代は半分が栄光の時代で、半分はペストの荒れ狂った時代です。
⑱劇作家ホルベーア 暗黒のキリスト教支配: 偉大な劇作家ルートヴィ・ホルベーテの劇が禁止され、陰気なキリスト教だけが支配する世の中でした。
⑲フレデリック5世 デンマークの春: フレデリック5世が王位につくと、陰鬱な時代から太陽の時代に替わりました。
⑳イギリスより王妃マチルデ 王宮火災: イギリスより哀れな王妃マチルデがやってきました。クリスチャン王の城が火事になりました。
21)フレデリック皇太子 自由記念碑: フレデリック皇太は農奴制を廃止し、自由農民法を制定しました。ウルフェルトの屈辱の碑が倒れて、自由記念碑は輝くでしょう。
22)イギリス艦隊の侵攻 19世紀: ナポレオンの圧力下に入ったデンマークはイギリスと対抗しました。そして4月2日首都沖の海戦が勃発しました。
23)コペンハーゲン沖海戦 デンマーク艦隊滅亡: 首都沖海戦でデンマーク艦隊は全滅しました。イギリス軍はコペンハーゲンに迫り、町は燃えています。この敗戦を乗り越えてデンマークは栄光に向かって立ち上がるでしょう。
(つづく)