私的独占企業体「郵政」を生んだ小泉首相・竹中大臣の功罪 第9回
4) 小泉首相の郵政改革(1)
2000年4月小渕首相が緊急入院し帰らぬ人となった。自民党実力者の「密室の話し合い」で森喜朗氏が後継に決まった。2001年森降ろしがさんとなり7月の総裁選では橋本龍太郎、小泉純一郎、亀井静香、麻生太朗が立候補したが、3度目の正直で小泉氏が総裁となった。小泉氏は2003年の郵政公社の発足を待たずに、民営化論議を始めた。それに噛み付いたのは野中広務で、「2003年の公社化で、郵便事業は民間参加を考慮するが、それ以上の見直しは行なわない」とする基本法を楯に小泉首相に対する対抗姿勢を鮮明にした。小泉首相は民営化をしないのは公社発足までであって、発足後には民営化に向けた検討を行なうことは法に反しないし今から準備活動を行なうことは必要であると切りぬけた。小泉首相の「抵抗勢力」に戦う姿勢はメディアの喝采を得て独裁権力者振りを発揮した。そして郵政族の抵抗は、2002年3月「日歯連1億円献金疑惑」に事寄せて、小泉が橋本・野中・青木の政治生命を絶った形となった。一方総務省は「郵便の民間開放」の積極的なポーズをとった。これは基本法で明確に書かれているのである。官僚はこれを出来るだけ骨抜きにし、きわめて限定的な「部分参加」にとどめようと目論んでいた。2002年5月小泉首相は私的「民営化懇談会」を内閣官房においた。総務省官僚は「公社化研究会」を8月に立ち上げ、民営化や民間解放の骨抜きだけでなく地域分割阻止までを防衛線とする対抗策を講じていた。そしてリーク戦略により合理化計画を流して世論の誘導につとめた。少しづつリークして世間の反応を見ることを「合理化たまねぎ戦法」という。小泉政権は2002年7月参議院選挙に勝利し、小泉改革の国民の支持は高まったと総裁再選に無投票で勝利した。「民営化懇談会」は公社の経営計画も見えない中で、公社化後の民営化計画を議論することには困難を憶えたようだ。
総務省の「公社化研究会」は小泉首相を無視したかのように、11月早々と中間報告を発表し、無条件的な前面開放は無いとした上で、段階的な開放が有力であるとした。「民間参入については、信書という郵便の基礎部分に浮いては、最初から参入者にグローバルサービス義務をかける」と主張し、新規参入のハードルを極めて高くした。NTTの電線を民間で1から架設しろというのと同じことで(NTTは民間業者の電線相乗りを許可した)、全国の数百万本のポストと郵便局(2万4000箇所)を設置しなければならないと企んだ。郵政公社は130年間の税金を使ったインフラを私物化し、民間には使わせないという排他的独占的な官僚根性を露にした。小泉首相がこのグローバルサービス義務を理解していなかったという落し話があった。いまでも郵便局のコスト構造は原発発電コストと同様に闇の中にある。「民営化懇談会」も「公社化研究会」もそして民間業者も、この総務省官僚のつくったグローバルサービス義務論議に飲み込まれてしまった感があった。この官僚の欺瞞を審議会の識者も突き崩せなかった。ここで小泉首相がとんでもない落しどころを暗示させる発言をしてしまった。小泉首相は総務官僚に向かって「ヤマトはやる気なんだからさ」といったという。国営とヤマトの2社独占カルテル構想を暗示させるかと勘違いした官僚は、ヤマトは30万の取り扱い拠点をもっているので、10万のポストの参入条件なら業界1位のヤマトだけなら応じられるだろうという高いハードルを設定しこの線で動いた。しかし4月26日信書便法案が閣議決定されると、ヤマト運輸は「民間を官業化するものだ」として参入を断念すると発表した。「民営化懇談会」の無残な失敗が決定的となった。
(つづく)
4) 小泉首相の郵政改革(1)
2000年4月小渕首相が緊急入院し帰らぬ人となった。自民党実力者の「密室の話し合い」で森喜朗氏が後継に決まった。2001年森降ろしがさんとなり7月の総裁選では橋本龍太郎、小泉純一郎、亀井静香、麻生太朗が立候補したが、3度目の正直で小泉氏が総裁となった。小泉氏は2003年の郵政公社の発足を待たずに、民営化論議を始めた。それに噛み付いたのは野中広務で、「2003年の公社化で、郵便事業は民間参加を考慮するが、それ以上の見直しは行なわない」とする基本法を楯に小泉首相に対する対抗姿勢を鮮明にした。小泉首相は民営化をしないのは公社発足までであって、発足後には民営化に向けた検討を行なうことは法に反しないし今から準備活動を行なうことは必要であると切りぬけた。小泉首相の「抵抗勢力」に戦う姿勢はメディアの喝采を得て独裁権力者振りを発揮した。そして郵政族の抵抗は、2002年3月「日歯連1億円献金疑惑」に事寄せて、小泉が橋本・野中・青木の政治生命を絶った形となった。一方総務省は「郵便の民間開放」の積極的なポーズをとった。これは基本法で明確に書かれているのである。官僚はこれを出来るだけ骨抜きにし、きわめて限定的な「部分参加」にとどめようと目論んでいた。2002年5月小泉首相は私的「民営化懇談会」を内閣官房においた。総務省官僚は「公社化研究会」を8月に立ち上げ、民営化や民間解放の骨抜きだけでなく地域分割阻止までを防衛線とする対抗策を講じていた。そしてリーク戦略により合理化計画を流して世論の誘導につとめた。少しづつリークして世間の反応を見ることを「合理化たまねぎ戦法」という。小泉政権は2002年7月参議院選挙に勝利し、小泉改革の国民の支持は高まったと総裁再選に無投票で勝利した。「民営化懇談会」は公社の経営計画も見えない中で、公社化後の民営化計画を議論することには困難を憶えたようだ。
総務省の「公社化研究会」は小泉首相を無視したかのように、11月早々と中間報告を発表し、無条件的な前面開放は無いとした上で、段階的な開放が有力であるとした。「民間参入については、信書という郵便の基礎部分に浮いては、最初から参入者にグローバルサービス義務をかける」と主張し、新規参入のハードルを極めて高くした。NTTの電線を民間で1から架設しろというのと同じことで(NTTは民間業者の電線相乗りを許可した)、全国の数百万本のポストと郵便局(2万4000箇所)を設置しなければならないと企んだ。郵政公社は130年間の税金を使ったインフラを私物化し、民間には使わせないという排他的独占的な官僚根性を露にした。小泉首相がこのグローバルサービス義務を理解していなかったという落し話があった。いまでも郵便局のコスト構造は原発発電コストと同様に闇の中にある。「民営化懇談会」も「公社化研究会」もそして民間業者も、この総務省官僚のつくったグローバルサービス義務論議に飲み込まれてしまった感があった。この官僚の欺瞞を審議会の識者も突き崩せなかった。ここで小泉首相がとんでもない落しどころを暗示させる発言をしてしまった。小泉首相は総務官僚に向かって「ヤマトはやる気なんだからさ」といったという。国営とヤマトの2社独占カルテル構想を暗示させるかと勘違いした官僚は、ヤマトは30万の取り扱い拠点をもっているので、10万のポストの参入条件なら業界1位のヤマトだけなら応じられるだろうという高いハードルを設定しこの線で動いた。しかし4月26日信書便法案が閣議決定されると、ヤマト運輸は「民間を官業化するものだ」として参入を断念すると発表した。「民営化懇談会」の無残な失敗が決定的となった。
(つづく)