ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 町田徹著 「日本郵政ー解き放たれた巨人」 日経新聞社

2013年07月08日 | 書評
私的独占企業体「郵政」を生んだ小泉首相・竹中大臣の功罪 第9回

4) 小泉首相の郵政改革(1)
 2000年4月小渕首相が緊急入院し帰らぬ人となった。自民党実力者の「密室の話し合い」で森喜朗氏が後継に決まった。2001年森降ろしがさんとなり7月の総裁選では橋本龍太郎、小泉純一郎、亀井静香、麻生太朗が立候補したが、3度目の正直で小泉氏が総裁となった。小泉氏は2003年の郵政公社の発足を待たずに、民営化論議を始めた。それに噛み付いたのは野中広務で、「2003年の公社化で、郵便事業は民間参加を考慮するが、それ以上の見直しは行なわない」とする基本法を楯に小泉首相に対する対抗姿勢を鮮明にした。小泉首相は民営化をしないのは公社発足までであって、発足後には民営化に向けた検討を行なうことは法に反しないし今から準備活動を行なうことは必要であると切りぬけた。小泉首相の「抵抗勢力」に戦う姿勢はメディアの喝采を得て独裁権力者振りを発揮した。そして郵政族の抵抗は、2002年3月「日歯連1億円献金疑惑」に事寄せて、小泉が橋本・野中・青木の政治生命を絶った形となった。一方総務省は「郵便の民間開放」の積極的なポーズをとった。これは基本法で明確に書かれているのである。官僚はこれを出来るだけ骨抜きにし、きわめて限定的な「部分参加」にとどめようと目論んでいた。2002年5月小泉首相は私的「民営化懇談会」を内閣官房においた。総務省官僚は「公社化研究会」を8月に立ち上げ、民営化や民間解放の骨抜きだけでなく地域分割阻止までを防衛線とする対抗策を講じていた。そしてリーク戦略により合理化計画を流して世論の誘導につとめた。少しづつリークして世間の反応を見ることを「合理化たまねぎ戦法」という。小泉政権は2002年7月参議院選挙に勝利し、小泉改革の国民の支持は高まったと総裁再選に無投票で勝利した。「民営化懇談会」は公社の経営計画も見えない中で、公社化後の民営化計画を議論することには困難を憶えたようだ。

 総務省の「公社化研究会」は小泉首相を無視したかのように、11月早々と中間報告を発表し、無条件的な前面開放は無いとした上で、段階的な開放が有力であるとした。「民間参入については、信書という郵便の基礎部分に浮いては、最初から参入者にグローバルサービス義務をかける」と主張し、新規参入のハードルを極めて高くした。NTTの電線を民間で1から架設しろというのと同じことで(NTTは民間業者の電線相乗りを許可した)、全国の数百万本のポストと郵便局(2万4000箇所)を設置しなければならないと企んだ。郵政公社は130年間の税金を使ったインフラを私物化し、民間には使わせないという排他的独占的な官僚根性を露にした。小泉首相がこのグローバルサービス義務を理解していなかったという落し話があった。いまでも郵便局のコスト構造は原発発電コストと同様に闇の中にある。「民営化懇談会」も「公社化研究会」もそして民間業者も、この総務省官僚のつくったグローバルサービス義務論議に飲み込まれてしまった感があった。この官僚の欺瞞を審議会の識者も突き崩せなかった。ここで小泉首相がとんでもない落しどころを暗示させる発言をしてしまった。小泉首相は総務官僚に向かって「ヤマトはやる気なんだからさ」といったという。国営とヤマトの2社独占カルテル構想を暗示させるかと勘違いした官僚は、ヤマトは30万の取り扱い拠点をもっているので、10万のポストの参入条件なら業界1位のヤマトだけなら応じられるだろうという高いハードルを設定しこの線で動いた。しかし4月26日信書便法案が閣議決定されると、ヤマト運輸は「民間を官業化するものだ」として参入を断念すると発表した。「民営化懇談会」の無残な失敗が決定的となった。
(つづく)

文芸散歩 大畑末吉訳 「アンデルセン童話集」 岩波文庫

2013年07月08日 | 書評
デンマークの童話の父が語る創作童話集 156話 第59回

125) バイターとペーターとぺーア
コウノトリは神様から送られた子供を家庭に運ぶ役割を持っています。年取った1羽のコウノトリのお話です。市の32人会の一員であったパイターセン家の3人の子供、パイター、ペーター、ペーアの3人兄弟について語りました。パイターは盗賊になりたいといい、ペーターはごみやになるといい、ペーアはお父さんになりたいといいました。パイターはタチアオイに似て美術家のセンスを持ち、ペーターはキンポウゲに似て音楽に秀でた子で、ベーアは雛菊に似て学問と自然観察の優れた子でした。三人三様です。それはコウノトリが住んでいた沼の様子からきています。

126) しまうことは忘れることではない
泥水の濠をめぐらした古い館にメッテ・モーンズ夫人が住んでいました。ある日強盗団が押し入り、召使を殺し夫人を犬小屋に鎖でつなぎ、酒盛りを始めました。そこへ強盗団の手下の若者がやってきて、夫人の鎖を解いて、「私の親父はかってこの屋敷で夫人に助けてもらいました」といい、二人は馬に乗って逃げ通報して、強盗団はみな縛り首になりました。「しまうことは忘れることではない」と若者は言いました。恩はいつまでも覚えているということです。ほかに2話ありますが、省略します。

127) 門番のむすこ
将軍の家の地下に門番一家が住んでいました。庭にアカシアの木があり乳母が将軍の娘エミーリエちゃんをあやしていました。門番の息子ゲオルゲも踊って赤ちゃんをあやしておりました。エミーリエ画少し大きくなったころ、ゲオルグが新聞と郵便物を将軍のところへ持ってゆくと、お嬢さんお部屋のカーテンが燃えていましたので急いで消し止めました。エミーリエちゃんがマッチで遊んでいてカーテンに火がついたのでした。ゲオルグは将軍からご褒美に金貨をいただきましたが、それで絵具を買って絵をかきました。数枚の絵をエミーリエちゃんに贈ると将軍は素晴らしいとほめました。将軍と奥様は身分の高い貴族の生まれで、将軍は戦争に行ったことはなく外交で功績がありました。ゲオルグは絵を習うため夜学の美術学校に通いました。お嬢様が病気の時もゲオルグはクレムリン宮殿などの建物の絵を描いて贈りました。この絵を見た老伯爵はゲオルグの建築関係の才能に注目し、美術学校の教授に声をかけてゲオルグをその方面に進ませました。こうして才能を伸ばしたゲオルグはたびたび賞を貰い、ローマに留学することができました。娘になったエミーリエ嬢は宮中舞踏会で社交界デビューをして、3人の王子様からお相手を申し込まれました。将軍の奥様はすっかり上機嫌で持病の頭痛の亡くなりました。ある日伯爵家から将軍に晩餐会の招待がありました。そこでエミーリエ嬢は伯爵家のお城を設計中の建築技師ゲオルゲと再会しました。しばらくして宮廷舞踏会でもゲオルグに会いました。ゲオルグは宮廷にも出下りできるほど評判を上げていたのです。そして二人は恋に落ちました。それから数日後ゲオルグは将軍を訪れ結婚の許しを得ようとしましたが、将軍と夫人は困惑するばかりです。しばらくして宮廷で仮面舞踏会が催されエミーリエはプシケのように羽を着飾って出かけました。黒いドミノの男がエミーリエとダンスをしました。それが教授となり枢密院顧問官となったゲオルグでした。二人の結婚に将軍はもう反対しませんでした。エミーリエは枢密院顧問官夫人となりました。
(つづく)